松平乗美

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松平乗美
時代 江戸時代後期
生誕 寛政3年(1791年
死没 弘化2年8月20日1845年9月21日
改名 幸之進・卓太郎(幼名)、乗美
戒名 寂通院天心成徳
墓所 東京都台東区上野春性院
官位 従五位下、河内守能登
幕府 江戸幕府
美濃国岩村藩
氏族 大給松平氏
父母 父:松平乗保、母:池田氏
正室:朽木倫綱の娘、側室:千葉氏
乗啓(長男)、乗喬乗敦(三男)、
牧野忠興(四男)

松平 乗美(まつだいら のりよし)は、美濃岩村藩の藩主。岩村藩大給松平家6代。

生涯[編集]

寛政3年(1791年)、先代藩主・松平乗保の次男として生まれる(生年は寛政4年(1792年)3月15日とも)。長兄の乗友が早世したために世子となり、文政9年(1826年)の父の死去により家督を継いだ。

この頃の岩村藩では藩財政が悪化していたため、乗美は父の代からの家老である丹羽瀬清左衛門を用いて知行借上、倹約、新田開発、荒地の開発、桐・桑・杉・茶・栗などの苗の育成と国産所の設置などの財政改革を中心とした藩政改革に着手した。この改革は効果が大きく、藩財政は再建されたが、天保4年(1833年)からの天保の大飢饉による被害や天保5年(1834年)の江戸藩邸の類焼、さらに改革で生産した木綿や絹織物が生産過多で逆に売りさばけなくなったり、改革を担っていた問屋や庄屋がそのために藩から出奔してしまうなどの事情もあって、改革は停滞した。

しかも、この改革は領民に対する負担も大きかったことから、遂に岩村藩内の52か村の代表らは天保8年(1837年)5月、改革の中心人物であった丹羽瀬を21か条にわたって弾劾する書状を岩村藩に突きつけ、乗美が自分たちの要求を受け入れなければ丹羽瀬の屋敷を襲って殺すとまで脅迫する有様だったとされている。このため、家老の大野五左衛門の仲介により、乗美は52か村の要求を受け入れて丹羽瀬を蟄居に追い込み、藩政改革も正式に中止した。以後、岩村藩の藩財政はさらに悪化していくことになる。

天保13年(1842年)11月16日、家督を次男の乗喬に譲って隠居する。弘化2年(1845年)8月20日に死去した。享年55。