星形要塞

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星形要塞(ほしがたようさい)は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。イタリア式築城術(イタリアしきちくじょうじゅつ)、稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)、ヴォーバン様式(ヴォーバンようしき)という名で分類されることもある。

1750年の状態に復元されたブルタング要塞 オランダ

概要[編集]

イタリア パルマノーヴァ市
角堡(かくほう)
掩郭(えんかく)

これらは最初、15世紀中ごろのイタリアで見られることとなった。中世に見られた垂直で高い城壁を持つ円形の城塞は、火砲の普及後、その脆弱性が露わになった。一方、星形要塞は多くの稜堡(三角形の突端部:bastion)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。

15世紀末から16世紀初めにかけてフランス軍イタリア半島へ侵攻した。フランス軍は新型の火砲を装備しており、伝統的な中世からの城壁は容易に破壊することができた。このため城壁の改良が必要となり、星形築城術はさらなる発展を遂げた。新型火砲の威力に対抗するため、城壁は低く、分厚くなり、砲弾によって砕け散らないように土と煉瓦を含む多くの材料で作られた。要塞の防御力強化のためには多数の方向からの援護射撃が重要だが、死角を無くすことが必要条件だった。このため数学的に計算された多面体を組み合わせた構造物が出来上がった。

16世紀、ミケランジェロフィレンツェの城壁の改良工事で星型要塞の理論を実践した。この様式は、その後3世紀に渡ってヨーロッパ中に広まり、イタリアの建築家たちは各地で新しい要塞の建設に携わった。

星形要塞は、ルネサンス期の都市設計理念に影響を与えた(「ルネサンス期の建築家たち(フィラレーテからスカモッツィまで)は、一世紀半、1つの理想都市の形に取りつかれていた。それは星型の都市である。」"The Renaissance was hypnotized by one city type which for a century and a half—from Filarete to Scamozzi—was impressed upon all utopian schemes: this is the star-shaped city.")[1]

17世紀後半、フランスのルイ14世の技術顧問であった建築家、ヴォーバンは星型要塞を論理的に究極の形にまで発展させた。(「要塞は……半月堡、角面堡、ボンネット、三日月堡、凹角堡、掩郭、王冠堡、角堡、カーベット、フォッセ・ブレイ、急斜面、城壁と胸壁の間に突き出たふち石、射撃用足場、外堀の内岸などが備わる。」"Fortresses... acquired ravelins and redoubts, bonnettes and Lunette, tenailles and tenaillons, counterguards and crownworks and hornworks and curvettes and fausse brayes and scarps and cordons and banquettes and ounterscarps...")[2]

その後、破壊力の大きな榴弾が開発されると、要塞の設計はさらに大きな変更を迫られることとなる。

構造[編集]

斜堤 Glacis
死角
1728年に出版された事典の、要塞の図表

星形要塞が現れる以前の要塞は、小高い丘の上に建てられた。敵が放つ矢より、さらに高い位置にある城壁の上から放たれた矢のほうが遠くまで飛ぶため、戦争では有利である。攻撃側は梯子をかけて城壁を越えるか、城壁の下にトンネルを掘るか、または城門を破壊するしかなかった。この「攻めにくく守りやすい要塞」は、長らく中世の防御戦術の基本であった。

15世紀になると移動式の要塞攻略用火砲が使われ始めた。これに対する軍事技術者たちの対応策は、城壁の前に堀をほり、土塁を堀の外側に盛るという改良であった。これは「斜堤」と呼ばれるもので敵の火砲が至近距離で城壁に向かって発砲するのを防ぐ。土塁の外側の傾斜は緩やかになっており要塞の火砲から死角ができないようになっていた。さらに城壁の頂上まで盛土し砲弾直撃の衝撃を吸収する対策をとることもあった。

古くから塔の設計として主流であった丸い形状は、「死角」つまり「安全地帯」を作り出した。防壁の他の場所からの射撃は、屈曲した壁面が障害物となり、直接には撃ち込めなかったからである。これを避けるべく、円形や角形をした塔は、攻撃してくる歩兵に遮蔽地帯を与えないよう、ダイヤモンド型に成型された稜堡に変わった。堀と城壁は攻撃側の歩兵を「殺戮地帯」へと導くように巧妙に作られていて、城壁を強襲しようと試みる歩兵部隊に防御砲火を浴びせることによって壊滅できた。歩兵には防御砲火からの遮蔽物が全くなかった。

さらなる変更点は、守備的な防御を攻撃的なものへと移行させたことだった。城壁は砲弾の直撃に備えて低く厚くせざるを得なくなったため、もし敵の火砲が斜堤の上まで前進すると歩兵が城壁を強襲し梯子を設置して乗り越える可能性があった。そこで要塞の設計は、城壁を攻略しようとする攻撃側に対して縦射または側面攻撃が最大限に行えるような形状となった。星形の凹んだ場所にある火砲が城壁を強襲する歩兵を側面攻撃することで、星の頂点にある火砲を援護射撃する役割を持たせた。

要塞は個々の火砲が連携して敵の侵攻に対して攻撃を浴びせることができる複雑な形状に発展した。前衛の火砲は、斜堤に接近する敵の歩兵に攻撃を加え、後衛は単に防壁の攻略を試みる歩兵の撃退を意図するだけでなく、要塞の脆い箇所の防壁を直射しようと接近する敵の火砲にも攻撃を加えた。火砲の攻撃範囲を重複させることにより効果的な守備体系が実現した。

要塞の防御の進化は、要塞を囲んでいる堀の外側へと移行した。ここに塹壕が設置されるようになった。これは塹壕が守りの兵隊の移動経路として重要視されるようになったからである。防御道、または遮蔽道として知られている。防御側は守られた塹壕の中を比較的安全に移動でき、人員配置に柔軟な対抗策をとって備えることができた。また塹壕には斜堤を防衛するるという役割もあったため、防御の土塁が築かれ火砲が設置された。敵が斜堤の下にトンネルを掘る掘削戦術の試みを防ぐために井戸を掘削することもあった。

中世の防御施設と比較し、要塞はより低くなり、面積は巨大化していった。防御力をもたせた堡塁を二重三重に配置して縦深的な防御網を構築した。攻撃側は、火砲を防御構造の内側に持ち込むために、これらを突破する事が必要となった。

火砲のある砲撃陣地は、外側からの砲撃に対しては十分に守られていたが、要塞の内部の方向には開かれており無防備であった。これは内部に侵入した敵兵を攻撃できるようにする措置である。また砲火によって生じる大量の砲煙を拡散させるために容認されていたとも言われている。攻撃側にとっては要塞攻略の作戦を練る際に考慮すべき点である。

この様式の防御施設は、攻撃側が鉄球直撃の破壊力に頼る旧式の大砲を装備している間は防御効果を保持していた。黒色火薬のような低威力の爆薬を充填した砲弾に対しても有効な防御施設であった。しかし高性能爆薬の開発、砲弾の破壊力の増大、さらにそれらを高い弾道で発射する臼砲の開発により星形要塞のような幾何学的に入り組んだ構造の防御施設は無用の長物となった。戦争はより機動性が重要になっていた。とはいえ、旧式の要塞戦術を脱却するには長い年月を要した。

建設[編集]

このような新しい防御施設を建設するには巨額の資金が必要なため、従来からの防御施設の改築で間に合わせることも多かった。中世のカーテンウォールを取り壊しこの手前に壕をつくり、掘削から生じた土を壁の背後に積んだ。正規の設計では砲弾の衝撃を吸収するために紐で結束したレンガを用いたが、予算内に抑えるためにこうした防御構造を諦めて、代替としてもっと多量の土を用いることも多かった。中世の円形の塔の高さを切りつめ、これの内部に土を充填することで構造を強化することもあった。正面からの攻撃と、トンネルを掘る戦略に対抗するために壁の外の堀を広く深くすることも必要となった。

1520年頃から、堀の前に大きく緩やかに傾斜した斜面をもった、土でできた斜堤と呼ばれるものが作られた。これは、城壁を狙った砲兵の水平射撃から完全に遮蔽し、また接近する歩兵に堡塁の小火器からの隠れ場をなくした。斜堤は底辺が長く傾斜が緩やかなほど防御力が高かった。

主な実例[編集]

イタリア ミケランジェロ要塞
ベトナム、タインホアの1909年の地図。

イタリア式築城術の最初の重要な実例は、イタリアのラツィオ州チヴィタヴェッキアに所在する教皇領の港湾に築かれたものである。原型の城壁は低められて分厚くされた。これは構造材の石が砲撃により砕ける傾向があったからである。

イタリア式築城術の本当の有効性が発揮された最初の大きな戦闘は、フィレンツェの兵とフランス陸軍からなる連合軍に対し、1500年に行われたピサの防衛であった。フランス軍の火砲により、元あった中世の防御施設が崩壊しはじめ、ピサ人は脅かされている部分の背後に土塁を構築した。そこでは、土の防壁のスロープが雲梯を防御できること、さらにカーテンウォール(薄く高い石の城壁)よりも砲撃に対する耐久性が高いことがわかった。

二例目の包囲戦は1509年にパドヴァで行われた。修道士にして技術者であったジョバンニ・ジョコンドは都市防衛の責任者として信頼されていた。彼は中世的な高い城壁を低くし、堀の幅を広くした。これは低い位置に設けられた銃眼からの側面射撃の方が敵の歩兵に命中する確率が高くなるという効果もあった。フィレンツェとフランスの連合軍の砲撃はこうした低い城壁に対してあまり効果を発揮できず、多くの犠牲者を出しながら攻撃を繰り返したが、成果を挙げられないまま撤退した。

1801年ベトナム阮朝阮福暎(嘉隆帝、ザーロン帝)はフエを制圧し、同地を阮朝の首都に定め、星型の城郭を持つ王城の建設を行った。ただしこれは完全な星型ではなく、四角型の城壁に星型の要素を取り入れたものである。ベトナムでは他にクアンチvi:Thành_cổ_Quảng_Trị)、ハティンvi:Hà Tĩnh (thành phố)#Thành Sen - Thành Cổ Hà Tĩnh)、タインホアvi:Hạc thành)など、北中部地方にいくつかの星形城塞が築かれている。

フォートマクヘンリーはアメリカのボルティモア港にある星型要塞である。米英戦争において、1814年のボルティモアの戦いの一部を構成するフォートマクヘンリーの砲撃戦では、アメリカの兵力は25時間の艦砲射撃に耐えてイギリス軍の上陸を阻止した。

影響[編集]

歴史学者ジェフリー・パーカーの書いた記事「The military revolution 1560-1660: a myth?」(1560年から1660年の軍事革命:一つの神話?)の中で、彼は「近代ヨーロッパ初期におけるイタリア式要塞の出現と、そういった防御施設の攻略の難しさが軍事戦略を大きく変化させた」「投入する軍隊の規模を増大させる結果となり、戦争は一連の長引く包囲戦となった」と指摘している。また「開けた場所での戦闘は、イタリア式要塞がある地域では無意味になった」と述べている。最後にパーカーは「軍事的な地勢、つまりイタリア式要塞の有無によって、近世の初期の軍事戦略は変更を余儀なくされた」と強調した。これは1955年に歴史家のマイケル・ロバーツがクイーンズ大学ベルファストに就任した時の講座で提唱した「軍事革命」という論文を真っ向から否定する内容である。

軍事要塞の役割を重要視するパーカーの理論は一部の研究者(一例ではジョン・A・リンとM・S・キングラ)からかなりの批判を招いた[3]

衰退[編集]

1841年のジュネーヴとその近郊の建築計画。巨大な要塞がヨーロッパでもっとも重要であったときのもので、10年後には覆された。

星形要塞は、多数の小銃で要塞を防御する際に、死角を無くすための形状であった。大砲は要塞を攻撃するための兵器としては有効であったが、要塞に攻め寄せる多数の兵士を迎撃する兵器としての有効性は低かったからである。ところが榴弾が開発されると、大砲によって多数の兵士を攻撃する事も可能となり、要塞防御兵器としての有効性が高まる事となる。

また、星形要塞は大仰角からの砲撃に対しては無力であった。そのため、掩体壕の中に大砲を配置するようになった。

掩体壕の中に大砲を配置するようになると、要塞の形状にも変化が見られる。複雑な凹凸がある星型から単純な多角形となり、掩体壕をその多角形の辺の中心部分に突出して配置する、多角形要塞が誕生した。そして機関銃の実用化により、それも掩体壕の中に配置された。

しかしながら、星形要塞から多角形要塞への移行が一気に進んだ訳ではない。多角形要塞への移行が進む過程において、要塞そのものの価値が低下していった。まず軍隊の機動性の増大は、要塞の存在を無視してそれらを迂回しての軍事行動を可能とした。また、大砲の発達、機関銃の発達、有刺鉄線の実用化は、本格的な要塞を構築せずとも塹壕でも十分な防御を可能とした。そのため第一次世界大戦においては、長大な塹壕による防御線が主体となった。逆にその後は戦車航空機の実用化により、塹壕も含めて長大な防衛線が無力化した。

こうして星形要塞のみならず要塞そのものが衰退していく事になるが、死角が無いという星形要塞の形状はその後も有効性があったため、基地防衛のための機関銃陣地など、限定されたシチュエーションにおいては、星形要塞類似の陣地の構築は現代でも行われている。

日本の星形要塞[編集]

日本の稜堡築城には、誤りと思われる部分が見られる[4]。フランク(flank)からフェイス(face)前面の堀内が撃てないか、または射線に死角があるという誤りは多い(楠葉台場、龍岡城、四稜郭など)。

脚注[編集]

  1. ^ Siegfried Giedion, Space, Time and Architecture (1941) 1962 p 43.
  2. ^ "The Oxford History of Modern War", Charles Townshend
  3. ^ Kingra, Mahinder S. 'The Trace Italienne and the Military Revolution During the Eighty Years' War, 1567-1648.' The Journal of Military History 57, No. 3 (July, 1993): 431-446
  4. ^ 藤井尚夫 (2017-08-06). “稜堡式築城技術の輸入と実態”. シンポジウム「幕末の城」, 第34回 全国城郭研究者セミナー. 中世城郭研究会.. https://www.komazawa-u.ac.jp/~kazov/chujoken/semi2017/ 2017年9月3日閲覧。 
  5. ^ 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1976年度撮影)
  6. ^ 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1975年度撮影)

出典[編集]

  • Olof af Hällström Sveaborg – The island fortress off Helsinki
  • Duffy, C. (1975) Fire & Stone, The Science of Fortress Warfare 1660-1860, ISBN 978-0-7858-2109-0

関連項目[編集]

外部リンク[編集]