「櫻の樹の下には」の版間の差分

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『'''櫻の樹の下には'''』(さくらのきのしたには)は、[[梶井基次郎]]の短編小説。[[散文詩]]と見なされることもある。[[サクラ|桜]]の樹の下には[[死体|屍体]]が埋まつてゐる!」という冒頭文に始まり、話者の「俺」が、聞き手の「お前」に語りかけるという手法の物語。満開の[[桜]]や[[カゲロウ|かげろう]]の[[美]]・[[生]]のうちに[[屍体]]という[[醜]][[死]]を透視し、惨劇を想像するという[[デカダンス]]の心理が描かれている<ref name="album">[[鈴木貞美]]『新潮本文学アルバム 梶井基次郎』([[新潮社]]、1984年)</ref>。
『'''櫻の樹の下には'''』(さくらのきのしたには)は、[[梶井基次郎]]の[[短編小説]]。[[散文詩]]と見なされることもある。満開の[[サクラ|桜]]や[[カゲロウ|かげろう]]の[[生]]の美のうちに[[屍体]]という[[醜]][[死]]を透視し、惨劇を想像するという[[デカダンス]]の[[心理]]、話者の「俺」が聞き手の「お前」に語りかけるという[[物語]]的手法で描かれている<ref name="album4">[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]々」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=65-83}})</ref><ref name="yoshikawa">{{Harvnb|吉川|1995}}</ref>。近代文学に新たな桜観をもたらした作品でもあり、「'''桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!'''」という衝撃的な冒頭文は有名である<ref name="kashi42">「第四部 第二章 帰阪」{{Harvnb|柏倉|2010|pp=367-376}})</ref><ref name="ichikawa">{{Harvnb|市川|2005}}</ref>{{refnest|group="注釈"|共通する桜イメージを主題にした作品に[[坂口安吾]]の『[[桜の森の満開の下]]』がある<ref>{{Harvnb|応傑|2006}}</ref>。[[村上龍]]などはこの冒頭の一文に影響され、『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。』というタイトルの随筆集を出版している。}}


== 発表経過 ==
[[1928年]](昭和3年)、季刊誌『[[詩と詩論]] 第二冊』12月号に掲載された。3年後の1931年(昭和6年)5月に[[武蔵野書院]]より刊行の作品集『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』に収録された。文庫版は[[新潮文庫]]『檸檬』、[[ちくま文庫]]『梶井基次郎全集 全一巻』などに収録されている。
[[1928年]](昭和3年)12月5日発行の[[季刊]][[同人誌]]『[[詩と詩論]]』第2冊に掲載された<ref name="otani12">「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」({{Harvnb|大谷|2002|pp=259-282}})</ref><ref name="nenpu-b">[[鈴木貞美]]「梶井基次郎年譜」({{Harvnb|別巻|2000|pp=454-503}})</ref>{{refnest|group="注釈"|短い作品のため、すでに『近代風景』5月号に発表済みの「[[器楽的幻覚]]」も同時に掲載された<ref name="otani12"/>。}}。その後、基次郎の死の前年の[[1931年]](昭和6年)5月15日に[[武蔵野書院]]より刊行の作品集『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』に収録された<ref name="nenpu-b"/>。同書には他に17編の短編が収録されている<ref name="shoshi">[[藤本寿彦]]「書誌」({{Harvnb|別巻|2000|pp=516-552}})</ref>。

翻訳版は、[[ジョン・ベスター]]・Stephen Dodd訳により[[アメリカ]](英題:Beneath the Cherry Trees、またはUnder the Cherry Trees)、Christine Kodama訳により[[フランス]](仏題:Sous les cerisiers)で行われている<ref name="honyaku">ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」({{Harvnb|別巻|2000|pp=640-642}})</ref><ref>{{Harvnb|Dodd|2014}}</ref>。

== あらすじ ==
灼熱した[[生殖]]の幻覚させる[[後光]]のような、人の心を撲たずにはおかない、不思議な生き生きとした美しい満開の[[桜]]の情景を前に、逆に[[不安]]と[[憂鬱]]に駆られた「俺」は、桜の[[花]]が美しいのは樹の下に[[屍体]]が埋まっていて、その[[腐敗|腐乱]]した液を桜の[[根]]が吸っているからだと想像する。

そして[[ウスバカゲロウ|薄羽かげろう]]の生と[[死]]を見て、[[剃刀]]の刃に象徴される惨劇への期待を深める。花の美しい生の真っ盛りに、死のイメージを重ね合わせることで初めて心の均衡を得、自分を不安がらせた[[神秘]]から自由になることが出来ると、「俺」は「お前」に語る。


== 削除された最終断章 ==
== 削除された最終断章 ==
『櫻の樹の下には』は初出時、4つの断章で構成された作品であったが、刊行本『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』収録時に最終章([[剃刀]]の刃の話後半部分)は削られたが、ここを何故、梶井が削除したかの理由は明らかではない<ref name="album"/>。剃刀の刃の話の後半部分は以下の内容である。
『櫻の樹の下には』は初出時、4つの断章で構成された作品であったが、刊行本『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』収録時に最終章(冒頭部近くにある〈[[剃刀]]の刃の話に対応している後半部分)は削られたが、ここを何故、梶井が削除したかの理由は明らかではない<ref name="album4"/><ref name="kashi42"/><ref name="yoshikawa"/>。剃刀の刃の話の削られた後半部分は以下の内容である。
{{Quotation|――それにしても、俺が毎晩家へ帰つてゆくとき、暗のなかへ思ひ浮んで来る、剃刀の刃が、空を翔ぶ[[蝮]]のやうに、俺の[[頚動脈]]へかみついてくるのは何時だらう。これは洒落ではないのだが、その刃には、<br />
{{Quotation|――それにしても、俺が毎晩家へ帰つてゆくとき、暗のなかへ思ひ浮んで来る、剃刀の刃が、空を翔ぶ[[蝮]]のやうに、俺の[[頚動脈]]へかみついてくるのは何時だらう。これは洒落ではないのだが、その刃には、<br />
 Ever Ready (さあ、何時なりと)<br />
 Ever Ready (さあ、何時なりと)<br />
と書いてあるのさ。}}
と書いてあるのさ。|梶井基次郎「櫻の樹の下には」(『[[詩と詩論]]』第2冊掲載)}}


== あらすじ ==
== 作品背景 ==
=== 湯ヶ島滞在 ===
灼熱した[[生殖]]の幻覚させる[[後光]]のような、人の心を撲たずにはおかない、不思議な生き生きとした美しい満開の[[桜]]の情景を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の樹が美しいのは下に屍体が埋まっているからだと想像する。そして[[カゲロウ|かげろう]]の[[死]]や、[[剃刀]]の刃に象徴される惨劇への期待を深める。花の美しい[[生]]の真っ盛りに、死のイメージを重ね合わせることで初めて心の均衡を得、自分を不安がらせた[[神秘]]から自由になることが出来ると、「俺」は「お前」に語っていく。
[[梶井基次郎]]は[[転地療養]]のため[[1926年]](昭和元年)の[[大晦日]]から[[伊豆市|伊豆]][[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]を訪れ、[[川端康成]]の紹介で[[1927年]](昭和2年)[[元旦]]から「湯川屋」に長期滞在するようになった<ref name="album4"/><ref name="otani8">「第八章 [[冬至]]の落日――飯倉片町にて」({{Harvnb|大谷|2002|pp=162-195}})</ref>(詳細は[[梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊]]を参照)。2月中旬頃、[[大仁町|大仁]]にかかっていた[[動物園]]の[[動物]]が[[下田市|下田]]へ移動する際、貨物自動車に載せられない大きな[[象]]や[[ラクダ]]が[[下田街道|街道]]上を歩いていった<ref name="sho223">「[[淀野隆三]]宛て」(昭和2年3月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=197-199}}に所収</ref><ref name="otani9">「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」({{Harvnb|大谷|2002|pp=196-215}})</ref><ref name="kashi35">「第三部 第五章 三好との友情」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=280-289}})</ref>。その時、地域の小学校も臨時休校になり、ふだん静かな山里は一大イベントで賑わった。子供や村人に混じって基次郎と川端夫妻もその珍しい行進見物を楽しんだ<ref name="kashi35"/><ref name="otani9"/>。


一行が去った後も基次郎は、〈どこか あの日の巨大な足跡でも残つてゐないか〉と、[[伊豆の踊子]]に喩えたその〈可憐なものが歩いてゐる〉光景を心から〈想望〉し、その後も川端と2人で動物たちの話題に興じた<ref name="sho223"/><ref name="kashi35"/>。[[春]]になると「湯川屋」の真向いからは、[[伊豆市|世古峡]]の[[断崖]]に生える[[ソメイヨシノ|染井吉野]]が見られ、4月には満開の美しい[[ヤマザクラ|山桜]]を眺めた<ref name="sho232">「淀野隆三宛て」(昭和2年4月10日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=207-211}}に所収</ref>。都会では見られない[[風景]]や[[植物]]や[[昆虫]]、動物の生態([[河鹿]]の[[交尾]]、生け捕りにされた藪[[熊]]など)は、その後の基次郎の作品の題材になっていった<ref name="otani9"/><ref name="kashi35"/><ref name="kashi36">「第三部 第六章 素材」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=290-299}})</ref>。4月に川端は[[横光利一]]の結婚披露宴出席を機に湯ヶ島を離れて東京に戻ったが、病状が一進一退の基次郎はその湯ヶ島の山里に長逗留することになった<ref name="otani9"/><ref name="kashi35"/>。
== 作品評価・解釈 ==
{{Quotation|山の便りをお知らせいたします。[[櫻]]は[[ヤエザクラ|八重]]がまだ咲き残つてゐます [[つつじ]]が[[火]]がついたやうに咲いて来ました [[石楠花]]は湯本館の玄関のところにあるのが一昨日一輪、今日は[[浄蓮の滝|浄簾の滝]]の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ[[蕾]]の[[紅色|紅]]もさしてゐない位です (中略)<br />
『櫻の樹の下には』は、梶井にしては珍しく「かなり強いイメージの比喩」を多様されており、「美に醜を対置し、美のうちに“惨劇”を見出す[[デカダンス]]の美意識とその心理」が描かれている作品だと[[鈴木貞美]]は解説している<ref name="album"/>。
今年[[山]]で[[春]]に会ひ私のなによりの驚きは冬葉の落ち尽してゐた[[雑木林]]が薄紅に薄緑に若芽の[[瓦斯]]体を纏ひはじめた美しさでした これが日に日に生長してゆく眺めは私をよろこばせ、情なくさせ、そしてとうとう茫然とさせてしまひました |梶井基次郎「[[川端康成]]宛ての書簡」(昭和2年4月30日付)<ref>「[[川端康成]]宛て」(昭和2年4月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=217-219}}に所収</ref>}}


基次郎は、[[谷|渓]]を下りて[[狩野川]]の支流・猫越川の川岸で[[河鹿]]を観察したり、[[ウスバカゲロウ]]を見たりと様々な自然風景を眺めて魅せられていた<ref name="sho239">「淀野隆三宛て」(昭和2年5月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=221-222}}に所収</ref><ref name="kashi36"/>。
[[桐山金吾]]は、話者の「俺」が、華麗に咲く満開の桜の花のあまりの美しさに、逆に[[不安]]と[[憂鬱]]に陥るが、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」と信じることにより、「不安がらせた神秘」から解放され心が和むことから、「美に対する心象が明確なかたちを浮びあがらせてくる、生と死の平衡感覚を描いた作品である」と解説している<ref>[[桐山金吾]]「梶井基次郎『桜の木の下には』の成立と[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]的世界」([[国学院]]雑誌 1986年12月)</ref>。
{{Quotation|谷を[[ウスバカゲロウ|うすばかげろう]]が上つてゆく、この虫は此頃実に多い、此の間も今日[[河鹿]]を見たところで、岩の間の水溜りに それの数知れぬ一群が死んでゐた、水に泛んでゐる[[昆虫の翅|羽根]]で その水たまりは[[石油]]を流したやうな色がついてゐた|梶井基次郎「[[淀野隆三]]宛ての書簡」(昭和2年5月6日付)<ref name="sho239"/>}}


6月頃には、川端の勧めで湯ヶ島にやって来た[[萩原朔太郎]]とも知り合いとなるが、萩原も湯ヶ島の桜に魅了され多くの作品を書いた<ref name="ichikawa"/>。この年の12月には、すでに『櫻の樹の下には』は創作・構想されていたとされる<ref name="sho375">「淀野隆三宛て」(昭和6年4月6日、12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=403-406}}に所収</ref><ref name="yoshikawa"/>。翌[[1928年]](昭和3年)3月のノートには、『[[冬の蠅 (小説)|冬の蠅]]』の草稿、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『巴里の憂鬱』の「エピローグ」の英訳の写しと共に、以下のような記述がある<ref name="nikk12">「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=424-444}}に所収</ref><ref name="yoshikawa"/>。
『櫻の樹の下には』の末尾の「今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする」の一節について[[相馬庸郎]]は、「庶民」を「芸術的に発見」したのだと位置づけている<ref>[[相馬庸郎]]「梶井基次郎・序説」(『橋本佳先生還暦記念文集』 1964年5月)</ref>。これに対し、[[飛高隆夫]]は反論して、「生活者の論理に対抗し得る芸術の論理の獲得」を意味していると解説している<ref>[[飛高隆夫]]「梶井基次郎ノート―[[湯ヶ島]]時代の文学」([[大妻女子大学|大妻]]国文 1971年3月)</ref>。
{{Quote|櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる<br />
私逹は溪に沿つた街道の午後を散歩してゐた。|梶井基次郎「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)<ref name="nikk12"/>}}


=== 帰京後 ===
[[吉川将弘]]は『櫻の樹の下には』が「物語体小説」だということを重視しながら、「俺」が「わかつた」と感じたのは、「生命の[[誕生]]と終わりは表裏一体の物である」ということだとし、「誕生はどんなに美しくとも、裏側に壮絶な死を隠しており、死はどんなに汚らわしくとも、美しい誕生に繋がっているということである」と考察しながら<ref name="yoshikawa">[[吉川将弘]]「『桜の樹の下には』論―物語体小説という試み―」([[広島大学]]近代文学研究会、1995年12月)</ref>、話者の「俺」が「お前」に求めているのは、単なる理解だけでなく、自分と「お前」を重ね合わせようとしているとし<ref name="yoshikawa"/>、「その思想を、二人で共有しようという願い、[[共同体]]を作ろうという願いが、そこにはある」と論考している<ref name="yoshikawa"/>。
[[1928年]](昭和3年)5月10日前後に「湯川屋」を引き払い、[[東京市]][[麻布区]][[飯倉 (東京都港区)|飯倉片町]]32番地(現・[[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]3丁目4番21号)の[[下宿]]に戻った梶井基次郎は、留守中に部屋を貸していた[[北川冬彦]]と同宿の[[伊藤整]]([[東京商科大学]]生)と初対面した<ref name="itosei">[[伊藤整]]「小説作法(第一話)」(月刊文章 1939年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=113-117}}に所収</ref><ref name="itoseiden">伊藤整「文学的青春傳(抄)」([[群像]] 1951年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=207-209}}に所収</ref><ref name="otani11">「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」({{Harvnb|大谷|2002|pp=243-258}})</ref>。

基次郎と親しくなった伊藤整は、まだ発表していない作品の内容を聞かされ、その素晴らしさに興奮した<ref name="itosei"/>。その基次郎の語りでは、人間をはじめ[[鹿]]・[[犬]]・[[馬]]などの死体が満開の桜の樹の下に埋まっていて、その死体の破れた腹からは腐った内蔵が見え、犬のつぶれた目からは液汁がどろどろ流れ出し、人の足の切り口も詳らかに描写されていた<ref name="itosei"/><ref name="itosaku">伊藤整「櫻の樹の下には」([[作品]] 1932年6月・追悼特集補遺号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=316-318}}に所収</ref><ref name="otani11"/>。

その物語のイメージは、湯ヶ島の「[[太陽光|光線]]の強い風景」の中で着想されたものだと基次郎は語っていたという<ref name="itosei"/><ref name="kashi42"/>。伊藤は、それを『マルドロールの歌』([[ロートレアモン伯爵]]作)の一部にでもありそうな「人の眼を覆はせるやうな」が惨澹たる一節だったとしている<ref name="itosaku"/>。
{{Quotation|それは、桜の[[花]]の[[根]]や[[幹]]が[[透明]]になって、地面の下まで透いて見える、ということだ。桜の幹の中に在る数限りない細い管を、[[樹液]]が根の方から登って行くのが分る。そして桜の根元の地下には、色々な動物の死骸が埋まっている。それは[[鹿]]や[[犬]]や[[猫]]や[[猿]]や[[鼠]]や、色々な動物である。その動物の腐敗した身体の方に、桜の根が生きもののように伸びて行って、[[毛細管]]がその死骸にからまっている。そしてその腐った死骸から[[養分]]を吸いとっては上の幹から枝へ、枝から花へと送っているのだ。<br />
「でなければ、あんなに桜の花が美しいわけはないんだ。それだから桜の花はあんなに美しいんだよ」と梶井が言った。私は聞いていて、彼の話に感嘆した。すばらしい話だ、と私は思った。梶井のその話を聞いていると、桜の花が私の見て来たのよりもずっと美しく思われ、それ自体が[[生命]]の爆発であるように思われて来るのであった。|[[伊藤整]]「若い詩人の肖像」<ref>伊藤整『若い詩人の肖像』([[新潮社]]、1958年12月)。{{Harvnb|市川|2005|p=89}}</ref>}}

しかし8月中旬から体調が悪化し、毎日のように[[血痰]]を吐いて呼吸困難で歩けなくなるほど[[結核]]の病状が進んできたため、その様子を心配する友人達の強い勧めで、基次郎は9月に大阪市[[住吉区]]阿倍野町99番地の実家に帰郷した(詳細は[[梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へ]]を参照)。そして北川冬彦から詩誌『[[詩と詩論]]』に寄稿依頼されていたことから、伊藤整に話していた物語の改稿に取りかかり、9月13日以降の10月頃から本稿執筆を始めた<ref name="kashi42"/>{{refnest|group="注釈"|詩誌『[[詩と詩論]]』は[[春山行夫]]が主宰し、[[北川冬彦]]、[[安西冬衛]]、[[飯島正]]、[[神原泰]]、[[近藤東]]、[[竹中郁]]などの[[アバンギャルド|前衛的]][[詩人]]が参加していた<ref name="kashi42"/>。}}。

伊藤整は、12月に発表された『櫻の樹の下には』を期待して読んだが、下宿で基次郎のその風貌と声で聞いた「滋味」のある内容よりも短く整理されていたために、小説としての魅力が薄れていると思った<ref name="itosei"/><ref name="kashi42"/>。また、これが詩欄に掲載されたことに基次郎はやや不満げで、しきりに「小説であること」を伊藤に繰り返したという<ref name="itosei"/>{{refnest|group="注釈"|しかし『詩と詩論』には、「小説」欄はなく、「エッセイ」「詩」「ノオト」「エスキース」「批評その他」の欄だけであった<ref name="itosei"/><ref name="kashi42"/>。}}。

== 作品評価・研究 ==
『櫻の樹の下には』は、基次郎の作品の中では短い方であるが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!〉という冒頭の文章が印象に残る人気作で、他の作品と比べ、「かなり強いイメージの[[比喩]]」が多用されている<ref name="album4"/>。[[鈴木貞美]]は、「[[美]]に[[醜]]を対置し、美のうちに“惨劇”を見出す[[デカダンス]]の美意識とその[[心理]]」が描かれている作品だと解説している<ref name="album4"/>。

[[伊藤整]]は、実際に基次郎から直接語られた内容がとても衝撃的で素晴らしかったために、整理・短縮されていた発表作に失望感を抱き、「[[日光浴]]で真黒になつた目の細い顔から白い歯を出して語る梶井自身の姿の魅力がなくなつてゐた」と思ったが、それは『櫻の樹の下には』が「凡作だといふことでは決して無い」と解説し<ref name="itosei"/>、日本人の[[観念]]には珍しい印象でありながらも、「読了の感じは、やつぱりなにかしら、[[植物性]]のものであり、[[植物]]の美しさをこれほどみなぎらした作品を私は知らない」と高評している<ref name="itosaku"/>。
{{Quotation|日本の近代作家の中でこんな美しい[[幻想]]を[[散文]]に描いたのは、あるひは[[谷崎潤一郎]]の「母を恋ふるの記」にのみ較べられるやうなことではないかと思はれる。日本の[[小説家]]の作れない種類の美しいイメージがこの作品にはある。<br />
最も[[シャルル・ボードレール|ボオドレエル]]的な[[精神]]で書かれてゐながら、その類型はボオドレエルの「[[散文詩]]」の中に全く見当らないことも、彼のために書いておかねばならないだらう。しかし私は失望した。彼の話しかたがあまり素晴らしかつたのである。そして今では彼のこの作品をあの話の輪郭として見、話の味を思ひ出す糸口としてやつぱり美しいと思つてゐる。|[[伊藤整]]「小説作法(第一話)」<ref name="itosei"/>}}

[[柏倉康夫]]は、刊行本『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』収録時に削除された〈[[剃刀]]の刃〉の話の最終章について、「これがないと作品の整合性は崩れるのだが、その一方で話がボードレールの散文詩のように作り物じみてしまうきらいがあって、梶井はあえて削除したのであろう」と考察している<ref name="kashi42"/>。

[[桐山金吾]]は、話者の〈俺〉が、華麗に咲く満開の桜の花のあまりの美しさに、逆に〈[[不安]]〉と〈[[憂鬱]]〉に陥るが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる〉と信じることにより、〈不安がらせた[[神秘]]〉から解放され心が和むことから、「美に対する心象が明確なかたちを浮びあがらせてくる、生と死の平衡感覚を描いた作品である」と解説している<ref>[[桐山金吾]]「梶井基次郎『桜の樹の下には』の成立と[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]的世界」([[国学院]]雑誌 1986年12月)。{{Harvnb|吉川|1995|p=29}}</ref>。

『櫻の樹の下には』の末尾の〈今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、[[花見]]の[[酒]]が呑めさうな気がする〉の一節について[[相馬庸郎]]は、「[[庶民]]」を「[[芸術]]的に発見」したのだと位置づけている<ref>[[相馬庸郎]]「梶井基次郎・序説」(『橋本佳先生還暦記念文集』 1964年5月)。{{Harvnb|吉川|1995|p=29}}</ref>。これに対し、[[飛高隆夫]]は反論して、「[[生活]]者の論理に対抗し得る芸術の[[論理]]の獲得」を意味していると解説している<ref>[[飛高隆夫]]「梶井基次郎ノート―湯ヶ島時代の文学」([[大妻女子大学|大妻]]国文 1971年3月)。{{Harvnb|吉川|1995|p=29}}</ref>。

[[吉川将弘]]は『櫻の樹の下には』が「[[物語]]体小説」だということを重視しながら、〈俺〉が〈わかつた〉と感じたのは、「[[生命]]の[[誕生]]と終わりは表裏一体の物である」ということだとし、「誕生はどんなに美しくとも、裏側に壮絶な死を隠しており、死はどんなに汚らわしくとも、美しい誕生に繋がっているということである」と考察しながら<ref name="yoshikawa"/>、話者の〈俺〉が〈お前〉に求めているのは、単なる理解だけでなく、自分と〈お前〉を重ね合わせようとしているとし、「その[[思想]]を、二人で共有しようという願い、[[共同体]]を作ろうという願いが、そこにはある」と論考している<ref name="yoshikawa"/>。


== 参考 ==
== 参考 ==
欧米には、「[[薔薇]]の下で」という、ラテン語で[[:en:sub rosa|sub rosa]]、英語ではunder the roseという表現があり、「秘密に」という意味にもなる。梶井が参考にしたかどうかは不明である。
欧米には、「[[薔薇]]の下で」という、[[ラテン語]]で[[:en:sub rosa|sub rosa]]、[[英語]]ではunder the roseという表現があり、「[[秘密]]に」という意味にもなる。梶井が参考にしたかどうかは不明である。

== おもな収録本 ==
{{See|城のある町にて#おもな刊行本}}

=== アンソロジー収録 ===
*『詩と真実――ちくま哲学の森』([[筑摩書房]]、1989年12月18日。[[ちくま文庫]]、2012年1月10日)
**編集:[[鶴見俊輔]]、[[森毅]]、[[井上ひさし]]、[[安野光雅]]、[[池内紀]]。解説:池内紀「画家と悪魔:解説にかえて」
**収録作品:[[アンゲルス・ジレージウス|ジレージウス]]「箴言」([[大山定一]]訳)、[[エミール=オーギュスト・シャルティエ|アラン]]「芸術に関する101章より」([[斎藤正二]]訳)、[[アルベルト・ジャコメッティ|ジャコメッティ]]「昨日、動く砂は」([[矢内原伊作]]訳)、[[小出楢重]]「下手もの漫談」、[[遠山啓]]「詩人失格」、[[寺田寅彦]]「自画像」、[[落合太郎]]「モンテーニュ」、[[フランツ・カフカ|カフカ]]「[[断食芸人]]」([[池内紀]]訳)、[[尾崎士郎]]「酔中一家言」、[[野上弥生子]]「桜間弓川さんのこと」、[[武智鉄二]]「間」、[[円地文子]]「艶、深、偉」、[[花田清輝]]「芝居絵」、[[坂口安吾]]「Farceに就て」、[[夏目漱石]]「模倣と独立」、[[中野重治]]「素樸ということ」、[[竹内好]]「中国文学と日本文学」、[[梶井基次郎]]「桜の樹の下には」、[[田中美知太郎]]「美について」、[[柳宗悦]]「美の法門」、[[岡倉天心]]「茶室」([[桜庭信之]]訳)、[[正岡子規]]「[[歌よみに与ふる書|歌よみに与うる書]]」、[[萩原朔太郎]]「蕪村俳句のポエジイに就いて」、[[滝口修造]]「曖昧な諺」、[[西脇順三郎]]「オーベルジンの偶像」、[[深瀬基寛]]「悦しき知識」
*『櫻憑き――[[異形コレクション]]綺賓館3』([[光文社]][[カッパ・ノベルス]]、2001年4月25日)
**編集:[[井上雅彦]]
**カバーデザイン:[[宗利淳一]]
**収録作品:[[菅浩江]]「桜湯道成寺」、[[五代ゆう]]「阿弥陀仏よや、をいをい」、[[森真沙子]]「花や今宵の…」、[[速瀬れい]]「約束の日」、[[菊池秀行]]「ある武士の死」、[[竹河聖]]「闇桜」、[[井上雅彦]]「花十夜」、[[城昌幸]]「人花」、[[新美南吉]]「花をうめる」、[[森奈津子]]「シロツメクサ、アカツメクサ」、[[吉行淳之介]]「花畠」、[[藤田雅矢]]「舞花」、[[坂口安吾]]「[[桜の森の満開の下]]」、[[倉橋由美子]]「花の下」、[[萩原朔太郎]]「春の実体:憂鬱なる花見」、[[赤江瀑]]「春泥歌」、[[石川淳]]「山桜」、[[小泉八雲]]「十六桜」、[[梶井基次郎]]「桜の樹の下には」、[[謡曲]]「[[西行桜]]」(抄)
*『林修の「今読みたい」日本文学講座』([[宝島社]]、2013年10月。[[宝島SUGOI文庫]]、2015年7月4日)
**編集・解説:[[林修]]
**収録作品:[[宮沢賢治]]「[[注文の多い料理店]]」、[[夏目漱石]]「[[夢十夜]]」「変な音」、[[芥川龍之介]]「[[蜜柑 (小説)|蜜柑]]」「[[猿蟹合戦]]」「教訓談」、[[中島敦]]「[[山月記]]」「悟浄歎異」「[[名人伝]]」、梶井基次郎「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」「桜の樹の下には」、[[志賀直哉]]「[[小僧の神様]]」、[[横光利一]]「[[機械 (小説)|機械]]」、[[太宰治]]「[[走れメロス]]」「猿ヶ島」


== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|date=1966-05|title=[[梶井基次郎]]全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-70402-3|ref={{Harvid|旧2巻|1966}}}}
*文庫版『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』(付録・解説 [[淀野隆三]])([[新潮文庫]]、1967年。改版2003年)
*{{Citation|和書|date=1966-06|title=梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-70403-0|ref={{Harvid|梶井3巻|1966}}}}
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*{{Citation|和書|date=2000-01|title=梶井基次郎全集第3巻 書簡|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-70413-9|ref={{Harvid|新3巻|2000}}}}
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*[[吉川将弘]]「『桜の樹の下には』論―物語体小説という試み―」([[広島大学]]近代文学研究会、1995年12月) [http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_33_25.pdf]
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1954-04|title=[[檸檬 (小説)|檸檬]]・[[冬の日 (小説)|冬の日]] 他九篇|publisher=[[岩波文庫]]|isbn=978-4-00-310871-0|ref={{Harvid|岩波文庫|1954}}}} 改版は1985年。
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=2003-10|title=檸檬|edition=改|publisher=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-109601-8|ref={{Harvid|新潮文庫|2003}}}} 初版は1967年12月。
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1986-08|title=梶井基次郎全集 全1巻 |publisher=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4-480-02072-7|ref={{Harvid|ちくま全集|1986}}}}
*{{Citation|和書|author=[[市川紘美]]|date=2005-03-15|title=憂鬱なる桜:『櫻の樹の下には』における桜像|journal=日本文學|issue=101|volume=|pages=83-96|publisher=[[東京女子大学]]|naid=110007184630|ref={{Harvid|市川|2005}}}}
*{{Citation|和書|author=[[大谷晃一]]|date=2002-11|title=評伝 梶井基次郎|edition=完本|publisher=[[沖積舎]]|isbn=978-4-8060-4681-3|ref={{Harvid|大谷|2002}}}} 初刊([[河出書房新社]])は1978年3月 {{NCID|BN00241217}}。新装版は 1984年1月 {{NCID|BN05506997}}。再・新装版は1989年4月 {{NCID|BN03485353}}
*{{Citation|和書|author=[[柏倉康夫]]|date=2010-08|title=評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ|publisher=[[左右社]]|isbn=978-4-903500-30-0|ref={{Harvid|柏倉|2010}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[鈴木貞美]]|date=1985-07|title=新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-620627-6|ref={{Harvid|アルバム梶井|1985}}}}
*{{Citation|和書|author=[[吉川将弘]]|date=1995-12|title=『桜の樹の下には』論―物語体小説という試み―|journal=近代文学試論|issue=33|volume=|pages=25-36|publisher=[[広島大学]]近代文学研究会|naid=120000883032|ref={{Harvid|吉川|1995}}}}
*{{Citation|和書|author=[[応傑]]|date=2006-09|title=「美しい女」と「満開の桜の森」の真相 : 「[[桜の森の満開の下]]」をめぐって|journal=[[朝日大学]]経営論集 |issue=21|volume=|pages=9-17|publisher=朝日大学|naid=110006556342|ref={{Harvid|応傑|2006}}}}
*{{Citation|author=Stephen Dodd|date=2014-02|title= The Youth of Things: Life and Death in the Age of Kajii Motojiro|publisher=University of Hawaii Pres|isbn=978-0824838409|ref={{Harvid|Dodd|2014}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[シャルル・ボードレール]]
*[[アプロディーテー]]
*[[アプロディーテー]]
*[[シャルル・ボードレール]]
*[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]
*[[ソメイヨシノ]]
*[[萩原朔太郎]]
*[[若山牧水]]


==外部リンク==
==外部リンク==
* {{青空文庫|000074|427|新字新仮名|桜の樹の下には}}
* {{青空文庫|000074|427|新字新仮名|桜の樹の下には}}
*[[S:桜の樹の下には|桜の樹の下には]]([http://ja.wikisource.org/wiki/ ウィキソース])
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2016年9月18日 (日) 00:30時点における版

櫻の樹の下には
Beneath the Cherry Trees
著者 梶井基次郎
発行日 1928年12月5日
発行元 厚生閣書店季刊同人誌詩と詩論』第2冊)
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 雑誌掲載
公式サイト [1]
ウィキポータル 文学
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櫻の樹の下には』(さくらのきのしたには)は、梶井基次郎短編小説散文詩と見なされることもある。満開のかげろうの美のうちに屍体というを透視し、惨劇を想像するというデカダンス心理が、話者の「俺」が聞き手の「お前」に語りかけるという物語的手法で描かれている[1][2]。近代文学に新たな桜観をもたらした作品でもあり、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という衝撃的な冒頭文は有名である[3][4][注釈 1]

発表経過

1928年(昭和3年)12月5日発行の季刊同人誌詩と詩論』第2冊に掲載された[6][7][注釈 2]。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[7]。同書には他に17編の短編が収録されている[8]

翻訳版は、ジョン・ベスター・Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Beneath the Cherry Trees、またはUnder the Cherry Trees)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Sous les cerisiers)で行われている[9][10]

あらすじ

灼熱した生殖の幻覚させる後光のような、人の心を撲たずにはおかない、不思議な生き生きとした美しい満開のの情景を前に、逆に不安憂鬱に駆られた「俺」は、桜のが美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜のが吸っているからだと想像する。

そして薄羽かげろうの生とを見て、剃刀の刃に象徴される惨劇への期待を深める。花の美しい生の真っ盛りに、死のイメージを重ね合わせることで初めて心の均衡を得、自分を不安がらせた神秘から自由になることが出来ると、「俺」は「お前」に語る。

削除された最終断章

『櫻の樹の下には』は初出時、4つの断章で構成された作品であったが、刊行本『檸檬』収録時に最終章(冒頭部近くにある〈剃刀の刃〉の話に対応している後半部分)は削られたが、ここを何故、梶井が削除したかの理由は明らかではない[1][3][2]。〈剃刀の刃〉の話の削られた後半部分は以下の内容である。

――それにしても、俺が毎晩家へ帰つてゆくとき、暗のなかへ思ひ浮んで来る、剃刀の刃が、空を翔ぶのやうに、俺の頚動脈へかみついてくるのは何時だらう。これは洒落ではないのだが、その刃には、

 Ever Ready (さあ、何時なりと)

と書いてあるのさ。 — 梶井基次郎「櫻の樹の下には」(『詩と詩論』第2冊掲載)

作品背景

湯ヶ島滞在

梶井基次郎転地療養のため1926年(昭和元年)の大晦日から伊豆湯ヶ島を訪れ、川端康成の紹介で1927年(昭和2年)元旦から「湯川屋」に長期滞在するようになった[1][11](詳細は梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊を参照)。2月中旬頃、大仁にかかっていた動物園動物下田へ移動する際、貨物自動車に載せられない大きなラクダ街道上を歩いていった[12][13][14]。その時、地域の小学校も臨時休校になり、ふだん静かな山里は一大イベントで賑わった。子供や村人に混じって基次郎と川端夫妻もその珍しい行進見物を楽しんだ[14][13]

一行が去った後も基次郎は、〈どこか あの日の巨大な足跡でも残つてゐないか〉と、伊豆の踊子に喩えたその〈可憐なものが歩いてゐる〉光景を心から〈想望〉し、その後も川端と2人で動物たちの話題に興じた[12][14]になると「湯川屋」の真向いからは、世古峡断崖に生える染井吉野が見られ、4月には満開の美しい山桜を眺めた[15]。都会では見られない風景植物昆虫、動物の生態(河鹿交尾、生け捕りにされた藪など)は、その後の基次郎の作品の題材になっていった[13][14][16]。4月に川端は横光利一の結婚披露宴出席を機に湯ヶ島を離れて東京に戻ったが、病状が一進一退の基次郎はその湯ヶ島の山里に長逗留することになった[13][14]

山の便りをお知らせいたします。八重がまだ咲き残つてゐます つつじがついたやうに咲いて来ました 石楠花は湯本館の玄関のところにあるのが一昨日一輪、今日は浄簾の滝の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだもさしてゐない位です (中略)
今年に会ひ私のなによりの驚きは冬葉の落ち尽してゐた雑木林が薄紅に薄緑に若芽の瓦斯体を纏ひはじめた美しさでした これが日に日に生長してゆく眺めは私をよろこばせ、情なくさせ、そしてとうとう茫然とさせてしまひました — 梶井基次郎「川端康成宛ての書簡」(昭和2年4月30日付)[17]

基次郎は、を下りて狩野川の支流・猫越川の川岸で河鹿を観察したり、ウスバカゲロウを見たりと様々な自然風景を眺めて魅せられていた[18][16]

谷をうすばかげろうが上つてゆく、この虫は此頃実に多い、此の間も今日河鹿を見たところで、岩の間の水溜りに それの数知れぬ一群が死んでゐた、水に泛んでゐる羽根で その水たまりは石油を流したやうな色がついてゐた — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年5月6日付)[18]

6月頃には、川端の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎とも知り合いとなるが、萩原も湯ヶ島の桜に魅了され多くの作品を書いた[4]。この年の12月には、すでに『櫻の樹の下には』は創作・構想されていたとされる[19][2]。翌1928年(昭和3年)3月のノートには、『冬の蠅』の草稿、ボードレールの『巴里の憂鬱』の「エピローグ」の英訳の写しと共に、以下のような記述がある[20][2]

櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる
私逹は溪に沿つた街道の午後を散歩してゐた。
梶井基次郎「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)[20]

帰京後

1928年(昭和3年)5月10日前後に「湯川屋」を引き払い、東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿に戻った梶井基次郎は、留守中に部屋を貸していた北川冬彦と同宿の伊藤整東京商科大学生)と初対面した[21][22][23]

基次郎と親しくなった伊藤整は、まだ発表していない作品の内容を聞かされ、その素晴らしさに興奮した[21]。その基次郎の語りでは、人間をはじめ鹿などの死体が満開の桜の樹の下に埋まっていて、その死体の破れた腹からは腐った内蔵が見え、犬のつぶれた目からは液汁がどろどろ流れ出し、人の足の切り口も詳らかに描写されていた[21][24][23]

その物語のイメージは、湯ヶ島の「光線の強い風景」の中で着想されたものだと基次郎は語っていたという[21][3]。伊藤は、それを『マルドロールの歌』(ロートレアモン伯爵作)の一部にでもありそうな「人の眼を覆はせるやうな」が惨澹たる一節だったとしている[24]

それは、桜の透明になって、地面の下まで透いて見える、ということだ。桜の幹の中に在る数限りない細い管を、樹液が根の方から登って行くのが分る。そして桜の根元の地下には、色々な動物の死骸が埋まっている。それは鹿や、色々な動物である。その動物の腐敗した身体の方に、桜の根が生きもののように伸びて行って、毛細管がその死骸にからまっている。そしてその腐った死骸から養分を吸いとっては上の幹から枝へ、枝から花へと送っているのだ。
「でなければ、あんなに桜の花が美しいわけはないんだ。それだから桜の花はあんなに美しいんだよ」と梶井が言った。私は聞いていて、彼の話に感嘆した。すばらしい話だ、と私は思った。梶井のその話を聞いていると、桜の花が私の見て来たのよりもずっと美しく思われ、それ自体が生命の爆発であるように思われて来るのであった。 — 伊藤整「若い詩人の肖像」[25]

しかし8月中旬から体調が悪化し、毎日のように血痰を吐いて呼吸困難で歩けなくなるほど結核の病状が進んできたため、その様子を心配する友人達の強い勧めで、基次郎は9月に大阪市住吉区阿倍野町99番地の実家に帰郷した(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。そして北川冬彦から詩誌『詩と詩論』に寄稿依頼されていたことから、伊藤整に話していた物語の改稿に取りかかり、9月13日以降の10月頃から本稿執筆を始めた[3][注釈 3]

伊藤整は、12月に発表された『櫻の樹の下には』を期待して読んだが、下宿で基次郎のその風貌と声で聞いた「滋味」のある内容よりも短く整理されていたために、小説としての魅力が薄れていると思った[21][3]。また、これが詩欄に掲載されたことに基次郎はやや不満げで、しきりに「小説であること」を伊藤に繰り返したという[21][注釈 4]

作品評価・研究

『櫻の樹の下には』は、基次郎の作品の中では短い方であるが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!〉という冒頭の文章が印象に残る人気作で、他の作品と比べ、「かなり強いイメージの比喩」が多用されている[1]鈴木貞美は、「を対置し、美のうちに“惨劇”を見出すデカダンスの美意識とその心理」が描かれている作品だと解説している[1]

伊藤整は、実際に基次郎から直接語られた内容がとても衝撃的で素晴らしかったために、整理・短縮されていた発表作に失望感を抱き、「日光浴で真黒になつた目の細い顔から白い歯を出して語る梶井自身の姿の魅力がなくなつてゐた」と思ったが、それは『櫻の樹の下には』が「凡作だといふことでは決して無い」と解説し[21]、日本人の観念には珍しい印象でありながらも、「読了の感じは、やつぱりなにかしら、植物性のものであり、植物の美しさをこれほどみなぎらした作品を私は知らない」と高評している[24]

日本の近代作家の中でこんな美しい幻想散文に描いたのは、あるひは谷崎潤一郎の「母を恋ふるの記」にのみ較べられるやうなことではないかと思はれる。日本の小説家の作れない種類の美しいイメージがこの作品にはある。
最もボオドレエル的な精神で書かれてゐながら、その類型はボオドレエルの「散文詩」の中に全く見当らないことも、彼のために書いておかねばならないだらう。しかし私は失望した。彼の話しかたがあまり素晴らしかつたのである。そして今では彼のこの作品をあの話の輪郭として見、話の味を思ひ出す糸口としてやつぱり美しいと思つてゐる。 — 伊藤整「小説作法(第一話)」[21]

柏倉康夫は、刊行本『檸檬』収録時に削除された〈剃刀の刃〉の話の最終章について、「これがないと作品の整合性は崩れるのだが、その一方で話がボードレールの散文詩のように作り物じみてしまうきらいがあって、梶井はあえて削除したのであろう」と考察している[3]

桐山金吾は、話者の〈俺〉が、華麗に咲く満開の桜の花のあまりの美しさに、逆に〈不安〉と〈憂鬱〉に陥るが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる〉と信じることにより、〈不安がらせた神秘〉から解放され心が和むことから、「美に対する心象が明確なかたちを浮びあがらせてくる、生と死の平衡感覚を描いた作品である」と解説している[26]

『櫻の樹の下には』の末尾の〈今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見が呑めさうな気がする〉の一節について相馬庸郎は、「庶民」を「芸術的に発見」したのだと位置づけている[27]。これに対し、飛高隆夫は反論して、「生活者の論理に対抗し得る芸術の論理の獲得」を意味していると解説している[28]

吉川将弘は『櫻の樹の下には』が「物語体小説」だということを重視しながら、〈俺〉が〈わかつた〉と感じたのは、「生命誕生と終わりは表裏一体の物である」ということだとし、「誕生はどんなに美しくとも、裏側に壮絶な死を隠しており、死はどんなに汚らわしくとも、美しい誕生に繋がっているということである」と考察しながら[2]、話者の〈俺〉が〈お前〉に求めているのは、単なる理解だけでなく、自分と〈お前〉を重ね合わせようとしているとし、「その思想を、二人で共有しようという願い、共同体を作ろうという願いが、そこにはある」と論考している[2]

参考

欧米には、「薔薇の下で」という、ラテン語sub rosa英語ではunder the roseという表現があり、「秘密に」という意味にもなる。梶井が参考にしたかどうかは不明である。

おもな収録本

アンソロジー収録

脚注

注釈

  1. ^ 共通する桜イメージを主題にした作品に坂口安吾の『桜の森の満開の下』がある[5]村上龍などはこの冒頭の一文に影響され、『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。』というタイトルの随筆集を出版している。
  2. ^ 短い作品のため、すでに『近代風景』5月号に発表済みの「器楽的幻覚」も同時に掲載された[6]
  3. ^ 詩誌『詩と詩論』は春山行夫が主宰し、北川冬彦安西冬衛飯島正神原泰近藤東竹中郁などの前衛的詩人が参加していた[3]
  4. ^ しかし『詩と詩論』には、「小説」欄はなく、「エッセイ」「詩」「ノオト」「エスキース」「批評その他」の欄だけであった[21][3]

出典

  1. ^ a b c d e 湯ヶ島の日々」(アルバム梶井 1985, pp. 65–83)
  2. ^ a b c d e f 吉川 1995
  3. ^ a b c d e f g h 「第四部 第二章 帰阪」(柏倉 2010, pp. 367–376)
  4. ^ a b 市川 2005
  5. ^ 応傑 2006
  6. ^ a b 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259–282)
  7. ^ a b 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454–503)
  8. ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516–552)
  9. ^ ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640–642)
  10. ^ Dodd 2014
  11. ^ 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162–195)
  12. ^ a b 淀野隆三宛て」(昭和2年3月7日付)。新3巻 2000, pp. 197–199に所収
  13. ^ a b c d 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196–215)
  14. ^ a b c d e 「第三部 第五章 三好との友情」(柏倉 2010, pp. 280–289)
  15. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和2年4月10日付)。新3巻 2000, pp. 207–211に所収
  16. ^ a b 「第三部 第六章 素材」(柏倉 2010, pp. 290–299)
  17. ^ 川端康成宛て」(昭和2年4月30日付)。新3巻 2000, pp. 217–219に所収
  18. ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年5月6日付)。新3巻 2000, pp. 221–222に所収
  19. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和6年4月6日、12日付)。新3巻 2000, pp. 403–406に所収
  20. ^ a b 「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)。旧2巻 1966, pp. 424–444に所収
  21. ^ a b c d e f g h i 伊藤整「小説作法(第一話)」(月刊文章 1939年3月号)。別巻 2000, pp. 113–117に所収
  22. ^ 伊藤整「文学的青春傳(抄)」(群像 1951年3月号)。別巻 2000, pp. 207–209に所収
  23. ^ a b 「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」(大谷 2002, pp. 243–258)
  24. ^ a b c 伊藤整「櫻の樹の下には」(作品 1932年6月・追悼特集補遺号)。別巻 2000, pp. 316–318に所収
  25. ^ 伊藤整『若い詩人の肖像』(新潮社、1958年12月)。市川 2005, p. 89
  26. ^ 桐山金吾「梶井基次郎『桜の樹の下には』の成立とボードレール的世界」(国学院雑誌 1986年12月)。吉川 1995, p. 29
  27. ^ 相馬庸郎「梶井基次郎・序説」(『橋本佳先生還暦記念文集』 1964年5月)。吉川 1995, p. 29
  28. ^ 飛高隆夫「梶井基次郎ノート―湯ヶ島時代の文学」(大妻国文 1971年3月)。吉川 1995, p. 29

参考文献

  • 梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』筑摩書房、1966年5月。ISBN 978-4-480-70402-3 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌』筑摩書房、1966年6月。ISBN 978-4-480-70403-0 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡』筑摩書房、2000年1月。ISBN 978-4-480-70413-9 
  • 『梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』筑摩書房、2000年9月。ISBN 978-4-480-70414-6 
  • 梶井基次郎『檸檬冬の日 他九篇』岩波文庫、1954年4月。ISBN 978-4-00-310871-0  改版は1985年。
  • 梶井基次郎『檸檬』(改)新潮文庫、2003年10月。ISBN 978-4-10-109601-8  初版は1967年12月。
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関連項目

外部リンク