永井均

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永井 均(ながい ひとし、1951年11月10日 - )は、日本哲学者日本大学教授。存在論・倫理学などを専門分野とする。

哲学・人物[編集]

自我論では、独自に〈私〉という術語を創出し、これを中心に議論を進めている。永井によれば、歴史上のあらゆる哲学は「どうして自分だけが私なのか、どうして他者は私ではないのか」というアポリアに答えを与えられず、その意味で哲学は始まってすらいないという。〈私〉とは、言語によって抹消されるために論じることはきわめて難しいが、しかし「私」概念の理解の根底に痕跡を残しているなにものかであるという。永井はこの概念を武器に、他我問題などの哲学上の難問へと切り込んでゆく。近著『なぜ意識は実在しないのか』では、〈私〉という術語こそ用いていないが、チャーマーズの『意識する心』を批判的に検証した。「他の誰でもない私」を偏重して論じるため、独我論またはそれに近接する学説として扱われることも多い。

2004年に出版された『私・今・そして神』では、「開闢」を巡る考察が展開されている。「開闢」とは、「それがそもそもの初めである、ある名づけえぬもの」であり、「それ以上遡行不可能な単なる奇跡」である。他のものとの対比がそれに持ち込まれると、あたかも対比が成立する為の共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれ、同時に「開闢」それ自体が対比によって成立した内部に位置づけられることになり、その錯覚が現実を誕生させる。内部から「開闢」に存在の条件が与えられるという観点を「カント原理」、それに対立する「開闢そのもの」の観点を「ライプニッツ原理」と呼んでいる。また、言語の有意味性自体が「開闢」の隠蔽を担っており、この言語(私が理解する唯一の言語)の有意味性の内部に私が幽閉されているということに置いて、「開闢」を内部で語ることは出来ないという。(しかし、語ることが出来ない「開闢」が、説明によって他者の共感を得るのは何故なのか、というのが永井の問いである)

またウィトゲンシュタインニーチェなどの研究も行っている。西田幾多郎の哲学についても解説書(永井の言によるなら、西田哲学を使って独立に哲学した本)を書いている。

2008年4月から10月まで、朝日新聞夕刊上で悩み相談も行っていた。

経歴[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房1986年
  • 『〈魂〉に対する態度』(勁草書房 1991年
  • 『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書1995年
  • 『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版、1995年、ちくま学芸文庫2007年
  • 『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書1996年
  • 『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社1997年)『道徳は復讐である』文庫
  • 『子どものための哲学対話――人間は遊ぶために生きている!』(講談社、1997年、講談社文庫、2009年
  • 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房、1998年)のち講談社学術文庫 
  • 『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998年)
  • 『マンガは哲学する』(講談社、2000年)のち岩波現代文庫 
  • 『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』(岩波書店2001年)のち現代文庫 
  • 『倫理とは何か――猫のアインジヒトの挑戦』(産業図書2003年)のちちくま学芸文庫 
  • 『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書、2004年
  • 西田幾多郎――「絶対無」とは何か』(NHK出版、2006年
  • 『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店、2007年)
  • 『ヴィトゲンシュタインの誤診―『青色本』を掘り崩す』(ナカニシヤ出版、2012年) 
  • 『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎、2013年)
  • 『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎、2013年)
  • 『哲おじさんと学くん』(日本経済新聞出版社、2014年)
  • 『存在と時間 哲学探求1』(文藝春秋、2016年)

共著[編集]

  • 小泉義之)『なぜ人を殺してはいけないのか?』(河出書房新社、1998年)

共編著[編集]

訳書[編集]

共訳[編集]

関連項目[編集]

脚注・出典[編集]

外部リンク[編集]