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大祓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
夏越の祓から転送)

大祓(おおはらえ、おおはらい)は、人々に付着した罪・(けがれ)・災などを除去して清浄にする神事である[1]。初出は『日本書紀』で表記は大解除、読みは「オオハラへ」である[2]

中臣(なかとみ)の祓とも言われる。

概要

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宮中祭祀の主要祭儀一覧
四方拝歳旦祭
元始祭
奏事始
昭和天皇祭(先帝祭
孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
祈年祭
天長祭(天長節祭)
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
香淳皇后例祭(先后の例祭)
節折大祓
明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
新嘗祭
賢所御神楽
大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
節折・大祓

一般的に祓(秡)または解除(はらえ)は、、穢れ、病気、災厄などを除去するために行う儀礼と規定されており、大祓は「祭事その他の行事に際して行われる国家的な儀礼」と定義される[3][4]。古代律令国家において、朝廷における定例の大祓(二季恒例大祓)は公的祭祀の基本を定めた「神祇令」で規定され実施されており、そのため大祓は一般的に神道儀礼(神祇儀礼)とされている[3]。特に天下万民のを祓うという意味で大祓というとされ[5]、『国史大辞典』では「百官以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼」とされているが、罪・穢・祓という言葉は明確な概念ではなく、従って大祓の定義も明確なものとは言い難い[4]。なお、古くは「祓へ」は専ら罪を対象としたものであり、宮中の二季恒例大祓の後半の儀(百官大祓)で唱えられた大祓詞に穢という言葉はない[6]。「ハラへ」は「罪を除くこと」、罪の除去であり、「祓除」「解除」と表現した[7]。日本の祓(解除)は、中国で発生・展開した祓に由来しており、古代日本では「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であった[8][注釈 1]

大祓は国家規定から信仰習俗に変化した[10]。従来の神道学的な見方では、大祓は「太古以来の神道(神祇)儀礼として不変の意義を持ち続けてきた」とされるが、歴史をたどると、同一の国家儀礼でも時代によって意味付けは異なり、「時代ごとに変化しながら継承され、意義を持ち続けた」ことが分かる[11][10]

朝廷における大祓は元々服属儀礼であった[10]。天武天皇朝末の飛鳥元年(686年)の大祓(大解除)は、天皇の病気の回復を願う一連の宗教行事の一つとして行われ[12]、文武天皇の時代には、祭祀(神事)に先立って行う大祓が初めて登場し、大祓と神祇の祭りに必要な清浄性をもたらす「禊祓」とはほぼ同義になっていた[13]。奈良時代には本来の服属儀礼としての意味をなくしていき、清浄・除災・釈服(喪明け)のために行われるようになり、平安時代に入ると、神の祟りを事前に防ぐことを目的とする「由の大祓」が成立した[10]

摂関期以降は、国家儀礼としての大祓は形骸化したが、一方で貴族が個人レベルで陰陽師の祓を行うようになり、祓は朝廷から民間にも広まり、 信仰習俗として定着した[14][10]。大祓の行事は陰陽道や仏教と深く関わりながら、両部神道伊勢神道吉田(卜部)神道伯家神道垂加神道復古神道等の神道の教義や、学問、実践の重要な部分を形成した[14]

なお近世以降、六月祓を宮中の二季恒例大祓と混同する例が見られるが、六月祓、夏越祓とは平安中期以降に陰陽師が6月に行った祓の呼称であり、本来は別物である[15]。また中世の宮中には、天皇に仕える女房や侍従(天皇の直接的な臣下)が行う祓があったという記録があり、宮中で六月祓と呼ばれていたが、これも別ものである[16]

現代の神社本庁は、大祓は日本人の伝統的な考え方に基づくものと主張している[17]

朝廷による大祓

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昭和天皇即位の礼。即位の礼の年に行われる大嘗祭では、天皇が神と一緒に食事をする「大御饌供進の儀」の前にと大祓が行われる。

大祓(大解除)は、天武天皇朝(飛鳥時代)の記録が最古のものであり、奈良時代に律令(当時の基本法)に明記された[18][19]。朝廷による大祓は、宮中で行われるものだけでなく、諸国で行われるケース(諸国大祓)もあった[19]

天武天皇朝の大解除や諸国大祓がもととなり、大宝令 (たいほうりょう)以後に二季恒例大祓が制度として定例化したと考えられる[20]。二季恒例大祓は一般的に7世紀の天武天皇朝に創始されたと考えられているが、持統天皇朝とする説もあり、7世紀後半であるとは言える[21]。8世紀初頭には恒例で行われていたことが確認できる[21]。朱雀門があった場所や各地の遺跡からは、二季恒例大祓や諸国大祓で使用されたとみられる人形(ひとがた)が数多く出土している[22]

二季恒例大祓の後半の儀(百官大祓)は、朝廷に仕える全ての官人の参加を求める大がかりな儀礼として規定されているが、実際にこれほど大規模に行われた記録がないとの指摘もある[19][23]。二季恒例大祓は、天皇の祓と百官の祓の2つの儀から成り、天皇中心の国家秩序を体現し確認する意味があった[24][25]

平安前期(9世紀後半の光孝天皇朝まで)までは、天皇の祓の儀と百官の祓の儀の二部構造で、両者が連動する形を維持していたが、天皇の在り方が、官僚機構(百官)と直接的な関係をほぼ持たない、上級貴族による政治体制の中心としての王朝的天皇に変化したことに伴い、二季恒例大祓の天皇の祓は「二季晦日御贖(みあが)儀」と呼ばれるようになり、中宮・東宮も対象とする儀となり、大祓とは呼ばれなくなった[26]。また、律令官人制の再編成・貴族社会の新しい身分秩序の形成に伴い、二季恒例大祓は平安中期以降は分裂し、派生の祓の儀も生じ、また陰陽師の祓も急激に広まり、公の場で多くの恒例祓が行われるようになった[27][15]

二季恒例大祓は朝廷の律令的官人制・官司制と密接に結びついたものであり、15世紀応仁の乱後に公家が京を離れ、実施を支える構造・体制が失われると廃絶した[28][18]。乱後に小規模になった朝廷では官職も名目上のものとなり、朝廷の祓は六月祓(二季恒例大祓の六月の大祓ではない)で事足りたと見え、朝廷や神祇官にとっての二季恒例大祓の意味も失われ、以降明治時代まで復興されることはなかった[28]。明治政府は官僚組織のトップとして天皇を頂く体制であり、この政体ゆえに復興されたと思われる[29]

起源

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国家が行った大祓の史料上の確実な初見は、『日本書紀天武天皇天武5年(676年)8月辛亥条とされ、これが通説である[18][2][30]。「大解除」と表記されており、『日本書紀』では「オオハラへ」と訓づけていた[2]

「詔曰、四方為大解除(オオハラへ)、用物即國別國造輸。祓柱、馬一匹・布一常。以外郡司、各刀一口・鹿皮一張・钁(くわ)一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束、且毎戸麻一條。[2]

日本の祓(解除)は、中国で発生・展開した祓(解除)に根源を持ち、「解除」とは中国の道教の用語である[31][8][32]鎌田純一は、大祓とは「わが国の祓の風習の上に、道教のそれを加えて天下国家の禊」としたものとみている[31]三橋正は、大祓は国内の混乱を終わらせた天武天皇によって「日本古来の儀礼」として創られた服属儀礼であり、同時期に成立した記紀神話の内容が道教起源の祓に投影されたものとみている[32]

中国の習俗を取り入れた古代日本の祓は、「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であった[8]。天武天皇が行った大祓は、国造郡司に馬、布、麻などの祓物を供出させ行われた[7]。三橋正は、この大祓は壬申の乱(672年)後に朝廷が国造などの旧勢力を完全掌握するために、償いとして財物を供出させる行事としての祓を国家規模で行ったもので、一時的に中断していた国家的服属儀礼が祓の形を借りて復活したものとしている[8]。『日本書紀』推古天皇28年(620年)十月条には、推古天皇朝に行われた、天皇の父母の陵(墓)などの古墳の周囲に諸氏族に大柱を建てさせる行事が記録されており、様々な遺跡からも立柱が見つかっている[33]。この行事の柱は、神を降ろす神聖な柱という意義を持つ祭祀であった可能性があるが、同時に天皇(大王)が「氏毎に科」して「大柱」を建てさせるという、天皇に対する服属儀礼であった[34]。このような儀式は前方後円墳が消えると共に忘れられたと考えられるが、それに伴い柱は抽象化され、祭祀的要素と服属儀礼的要素が別の形に展開した[34][35]。飛鳥時代の寺院は古墳と一体となって存在したと考えられており、日本の仏教受容の初期段階には柱(塔)が強力な宗教的シンボルとして働き、在来の神信仰と仏教の混合・同化の状態であった[36][37]。柱を建てさせる行事の祭祀的な面は、仏教の「心柱」を経て、天武天皇朝には、新たな祭神の名前、伊勢神宮心御柱[注釈 2]、日本独自の神の助数詞である柱などに展開した[36][39]。また服属儀礼としての側面は、部分的には、須弥山を作って蕃族(辺境の服属民)を饗応する仏教儀礼の服属儀礼となり、その後、天武天皇朝に大祓が創られた[40][41]。『日本書紀』の最古の大祓の記事では、「用物」として「国別の国造」以下に「祓柱(ハラヘツモノ)」を供出させたと書かれており、三橋正は、柱祭祀で諸氏族が建てていた服属の証としての柱が抽象化された表記とみなしている[42]

「大祓詞」に対応する『古事記』の記述

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『日本書紀』の記述からは、成務天皇の時代には、仲哀天皇(実在性が低い天皇の一人で、ヤマトタケルの子とされる)崩御後に「祓(解)」ないし服属儀礼的な諸氏族による財物の貢納があったという伝承が定着していたことが分かるが、『古事記』のみがこれを祓ではなく大祓としており、大祓詞と深く関連させた内容的となっている[43]

殯宮(あらきのみや)に坐(ま)せて、更に国の大奴佐を取りて、生剝、逆剝、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたわけ)、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)の罪の類(たぐい)を種種(くさぐさ)求(ま)ぎて、国の大祓為て亦建内宿禰沙庭(まにわ)に居て、神の命(みこと)を請ひき。[44]

帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらのみこと、仲哀天皇)と皇后の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)が熊襲を討とうという時に、皇后が筑紫の訶志比宮(かしひのみや、香椎宮)で神がかりになり、天皇が神降ろしのための琴を弾いて、建内宿禰が沙庭(神降ろしの場)で神託を求め、「西の方に金銀や宝に満ちた国があり、その国を服従させてやろう」という神託が下された[45]。しかし西の方には海しか見えず、天皇はその信託を信じずに「神の偽り」と述べ琴を弾くのを止めたため、神罰を受けて急死[45]。それに驚き恐れ、天皇の遺体を殯宮(遺体を埋葬まで安置する場所)に安置して、国中に大奴佐(大幣、祓具)を献上させ、生剝、逆剝…といった(祓うべき)罪[注釈 3]の類を色々求めて国の大祓を行い、建内宿禰が神託を請い、この国の全ては皇后のおなかの子(応神天皇)が統治すべきという神託が下され、その子の性別を問うと男子とのことであった[47]。建内宿禰が神託を下した神の名を問うと、天照大神の御心によるものであり、また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神(住吉三神)と仰せられた、というのが、引用の前後を補足したエピソードの内容である(この後、神の後押しを受けた神功皇后が新羅を征服する三韓征伐が続く)[47]

この『古事記』の記述は、大祓が太古に成立したという説の有力な根拠ともされてきた[43]。三橋正は、『古事記』は天武天皇の同時代性が強い書であり、擬古的な服属儀礼として創られた大祓は、「国家秩序の具現を可視的に示すだけでなく、神話と共に史実として語り継がなければならなかった」ため、『古事記』に強引に編入されたと推定している[43]

古墳時代 - 奈良時代

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臨時大祓

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朝廷の大祓には、天皇即位後の最初の新嘗祭である大嘗祭の前後や、斎宮斎院卜定(による任命)・群行(宮中から伊勢に向かう儀礼の旅)、大規模な疫病の流行、妖星(彗星・流星などの特異な星のことで、凶兆とされた)出現などで臨時に執り行う臨時大祓もあった[20]

二季恒例大祓

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二季恒例大祓は、毎年6月12月晦日に行われた(現代では新暦6月30日12月31日)。令の施行細則である『延喜式 (えんぎしき)』で規定され、諸省寮でも細かく規定されている[20]。『儀式』、『北山抄 』、『江家次第』(ごうけしだい)などの文献からも、古代の大祓の様子をうかがうことができる[48]並木和子は二季恒例大祓について、神祇令などの範とされた中国の「唐令祠令」には類似の行事がないことから、「七世紀から八世紀の中央集権体制の形成期に日本で独自に創出された行事」と推測している[21]

神祇令によれば二季恒例大祓は、毎年の 6月と12月の晦日に中臣(なかとみ)が祓の麻(ぬさ)を奉り、東西文部(やまとかわちのふびとべ)が祓の刀(たち)(罪穢を断つ義)を天皇に奉り、祓詞「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」(中国の道教の神々に天皇の除災招福、息災延命を祈願するもの)を読み、祓所にて中臣が百官の男女に大祓詞を宣り下し、卜部(うらべ)が解除(はらえ)を行った。この「祓所」とは多くは朱雀門[49]であり、朱雀門前の広場に親王大臣(おおおみ)ほか(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓ったと思われる。

古代日本の律令制国家の神祇祭祀には、天皇中心の国家秩序を神の名のもとに確認するという意味があり、2月の祈年祭、6月・12月の月次祭と二季恒例大祓の百官大祓は、天皇直属の神祇官から全官人まで集めて行う大掛かりなもので、百官の上に天皇が立つという関係を具現化し、天皇を中心とする国家意識を徹底させるものであった[24][25]。二季恒例大祓は、天皇を対象とする儀と、天皇を除く朝廷の参仕者全員を対象とする儀(百官大祓)から構成されており、2つの儀は、対象者、式次第、執行場所だけでなく、基づく宗教思想も異なる[50]。天皇を対象とする儀では、漢音(中国音)で道教的色彩の濃い祓詞(呪)が読み上げられ、祓詞の内容は大陸(中国)の思想に基づいており、一方百官大祓は記紀神話の内容・精神が投影され、神祇(神道)思想に立脚する擬古的な儀式となっている[51][42][32]。2つの儀の組み合わせにより、罪穢の除去、除災招福を目的とするとともに、百官の上に天皇が立つという関係を具現化して確認し、天皇を中心とする国家意識を徹底させるものとなっている[24][25]。ただし、国家運営の理想と現実には落差があり、実際に全官人を集めて大規模な神祇祭祀を行っていた文献上の形跡がないとの指摘もある[23][注釈 4]

百官大祓は、既に起きてしまった災厄をリセットして今後の国体の鎮守を図る意味の他、共同体の構成員に全員の参加を義務付けて宣下する本来の形式が推定されることから、上位の政権による“禁忌を犯してはならない”というを広く知らしめて遵守させる側面があったと考えられる[53]

律令制下での構造
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「神祇令」は、現在では『養老令』(9世紀前半に成立)の注釈書である『令義解』の中に二十条として残されており、二季恒例大祓はこの中で次のように規定されている[54]

凡六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻。東西文部。上祓刀。讀祓詞。訖。百官男女。聚集祓所。中臣宣祓詞。卜部為解除。[54]
(凡そ六月・十二月の晦日(つごもり)の大祓には、中臣は御祓麻(みはらえのぬさ)をたてまつれ、東西文部(やまとかわちのふびとべ)は祓刀をたてまつり、祓詞を読め。訖りなば、百官男女を祓所に聚め集へて、中臣は祓詞を宣り、卜部は解除をせよ。[55]

並木和子によると、「訖」の前後で異なる儀の説明がなされている[54][56]。以降便宜的に、前半で述べられている二季恒例大祓の儀を「大祓A」、後半で述べられている儀を「大祓B」と呼ぶ。大祓Aと大祓Bは大祓というひとまとまりの儀とされているが、対象者、式次第、執行場所が異なり、2つの儀から成る二重構造となっている[50]

大祓Aの参加対象者は天皇である[57]。一方、大祓Bの参加対象者は百官男女で、集解によると、親王以下官男女の全員で、通常は官人に含まれない下働きまで含み、つまり天皇を除く朝廷の参仕者全員とされる[57]

大祓Bの前に大祓Aが実施され、これは大祓Aが大祓B上に位置することを示し、天皇と百官の在り方を象徴するものと思われる[25]。二季恒例大祓は、罪穢の除去、除災招福という目的を持つと同時に、大祓Aと大祓Bによって、百官の上に天皇が立つという関係を具現・確認する儀であった[25]。「神祇令」はあくまで律令国家の祭祀を規定するものであり、「神祇令」掲載の他の祭祀では天皇の儀が伴う場合も言及されておらず、天皇の儀に触れているのは二季恒例大祓のみである[58]。つまり、大祓Aは天皇の個人的な儀や天皇家の儀ではなく、律令国家のトップに立つ者としての天皇の儀である[58]

大祓Bの実施を中止し大祓Aは行った、といった記録もあり、この2つの儀は異なる原理で行われていたことがわかる[51]。また大祓Aでは、古い渡来氏族の東文忌寸氏と西文忌寸氏の東西文部(やまとかわちのふびとべ)が「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」を漢音(中国音)で読み上げるが、これは道教的色彩の濃い祓詞(呪)で大陸(中国)の思想に基づいており、呪術的要素を含み、除災招福、息災延命祈願を目的とする[51]。一方大祓Bの祓詞「大祓詞」は、中臣氏が大和詞で宣り、内容的には神祇(神道)思想に立脚しており(ただし、大祓Bの祓具には道教の影響が指摘されている[59])、最終的な目的として除災招福の要素もあるが、その手段は天皇以下の臣下の罪穢の除去である[51]。並木和子は、両者は元々独立した別の儀であった可能性が高く、大祓Aは大化以前から存在し、一方大祓Bが天武朝に創られ、そして律令制下で祭祀制度を形成するに当たり両者を結合し、二季恒例大祓とされ、大祓Aの中臣の儀は2つの儀を結びつけるために付け加えられたと推測している[60]

天皇を対象とする儀

大祓Aの式次第は次の通りである。

  1. 中臣による大麻儀
  2. 東西文部による祓刀儀
  3. 東西文部による祓詞儀[51]

祭場は内裏の正殿紫宸殿であった[61]

二季恒例大祓の祝詞としてよく知られるのは大祓詞であるが、大祓Aの祓詞はこれではなく、「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」という祓詞(呪)である[62]。これは古い渡来氏族の東文忌寸氏と西文忌寸氏の東西文部が天皇の御前に「祓の横刀(たち)」を献り、漢音で読み上げるものであった[62]。天皇の身の災いを防ぐことと天皇の長寿延命を願い、国(日本もしくは東西文部の故郷の中国[注釈 5])が良く治まることを願い祝福するもので、道教の神々が列挙されており、道教的色彩が濃い[32][63][64]

この儀は大宝2年(702年)成立の『続日本紀』に記載があり、これ以前から行われていたことは確かだが、大宝律令の段階で法的に制度化されたと考えられる[65]。『儀式』『延喜式』の「御贖(みあが)の儀」に相当するものであるが、「御贖の儀」が天皇だけでなく中宮東宮にも行われていたのに対し、天皇に対してのみ行われた[62]

謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以銀人(禄人[注釈 6])、請除禍災。捧以金刀、請延帝祚。呪曰、東至扶桑、西至虞淵。南至炎光、北至弱水、千城百国、精治万歳、万歳万歳。[64]『延喜式』

「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此」は1つの呪と考えられることが多いが、2つの呪で構成されているという解釈もある。粕谷興紀は、前半は中国古代の最高神で道教の神である「皇天上帝[注釈 7]」ら多くの神々を挙げ、これらの神々に対して「捧以禄人、請除禍災、捧以金刀、請延帝祚。」として、いったん呪として完結しているとみなしている[67]。「呪曰」はつなぎの言葉で、これ以降は別の呪であるという[67]

「禄人」は幸いをもたらす人形の意であり、『延喜式』大祓の条の料物の中にある「金銀人像」のことで、鉄製の人形に金と銀との箔を押したものある[68]。これを神々に捧げて天皇の身から災いを除いてくれるよう願い、「金刀」を捧げて天皇の御位(寿命)を伸ばしてくれるよう願う[68]。大祓Aが当初から「銀人/禄人」を伴っていたかは不明だが、増尾伸一郎は、禊祓の祭儀とみなされるようになった段階で新たに祭具として人形[注釈 8]の「金銀人像」が追加されたと考えられることから、9世紀以降に使用が定着したとみている[65]

粕谷興紀は、この儀は東西文忌寸部らが天皇に奉る形であるが、同時に自分たちが信奉する道教の神々に捧げるという二重構成になっており、東西文忌寸部という渡来人の独自色が強いと指摘し、彼らの道教的な「呪」を「御贖の儀」に無理に合わせて転化したものではないか、と推測している[71]

天皇を除く朝廷の全参仕者を対象とする儀

大祓Bの式次第は次の通りである。

  1. 中臣による祓詞儀
  2. 卜部による解除儀[51]

律令期から終焉まで、内内裏の南正門である朱雀門を祓所とした[72]。内内裏が荒廃して朱雀門がなくなり、「朱雀門跡当時深田」と記される状況となっても、この近辺で行われ、一貫して「天皇以下百官」を祓う儀として行われ続けた[72]

大祓Bで中臣が宣る祓詞が大祓詞で、大祓の必要性を説き、神々によって罪が祓われる過程を解説している[19]

大祓詞は中臣祓となり、宣命体から奏上体に変わった[14]

現在は、大正3年(1914年)に当時の内務省の選定による神話や障害者に対する差別的な表現内容を含む天つ罪・国つ罪の列挙の部分が大幅に省略された大祝詞が奏上される。これは中臣祭文[73](さいもん)とも言われ、現在の大祓詞はこれを一部改訂したものになっている。

「大祓詞」や、『大祓詞』に対応する『古事記』の記述では、祓うべきものたちを「天つ罪」「国つ罪」といい、世俗的なとは異なり、祓い清めるには普通の祓式で用いる短文の祓詞(はらえことば、のりと)ではなく、長文の大祓詞を奏上、あるいは宣(の)り下して浄化する。大祓Bの大祓詞で挙げられる国津罪・天津罪は、人を殺すことや謀反のような基本的刑罰の対象となる罪ではなく、共同体秩序の破壊、農業関連の妨害行為、または神事に関する農業(新嘗祭用の田の経営)の妨害行為、これが象徴する祭式や神聖なものの冒涜である[74][75]

諸国大祓

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宮中ではなく諸国で行われる諸国大祓もあり、天武天皇10年(681年)7月・朱鳥元年(686年)に諸国大解除の記事がある[19][20]。諸国大祓は、朝廷から派遣された大祓使によって諸国で執り行われたが、福永光司によると道教的色彩の濃い祭祀であった[76]。諸国大祓でどのような祭祀具が使われたかはっきりわかっていないが、鐵人像(金属製の人形)が用いられたと指摘されている[76][77]

平安時代以降

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平安前期(9世紀後半の光孝天皇朝まで)までは、大祓Aと大祓Bの二部構造で、両者が連動する形を維持していたが、大祓Aは『儀式』で「二季晦日御贖(みあが)儀」と記されるようになり、天皇だけでなく中宮・東宮の儀についても記載されるようになった[26]。以降、大祓Aが大祓の名で呼ばれることはほとんどなくなった[26]。このような変化は、天皇の在り方が、律令的官僚機構の上に立つ公的存在(律令的天皇)から、上級貴族が政治を行う体制の中心の存在であり官僚機構と直接的な関係のない王朝的天皇に変化したことと連動するもので、大祓Aが王朝的行事・宮廷行事へと変化する端緒であると考えられる[26]。平安時代中期(9世紀後半 - 12世紀)には、御贖の儀(大祓Aの発展形)は律令的天皇の行事の色を弱め、元々道教色が濃いにもかかわらず神祇(神道)色を強め、節折の儀が加えられた[78]。祭場は元々内裏の正殿紫宸殿であったが、天皇が日常的に過ごす場である清涼殿に移動しており、これも天皇の在り方の変化に伴う変更と考えられる[61]

律令官人制が再編成されて貴族社会の新しい身分秩序が形成され、律令制下の百官は政治集団としての上級貴族と中級・下級の官人(実務官人集団)に分裂した[27]。こうした律令官人制の構造変化に対応し、大祓Bはいくつかに分裂・派生し併存していた[79]。中級・下級の官人の官祓が大祓Bに当たる[79]。大祓Bの行事を司る役職は、平安時代前期までは大臣・納言が勤めることもあったが、醍醐天皇朝の昌泰年間(898年 - 904年)以降は参議が担当し、大祓Bが行われなくなるまで続いた[27]。参議は議政官としての地位は高くないが、殿上人ら天皇の侍臣の中での地位は高く、参議が行事を司る役職を勤めることで、大祓Bと天皇のつながりが持たれたと考えられる[80]。また、『西宮記』の大祓Bの記述における「御贖物」は、「御」の字から天皇が大祓Aで用いた贖物と考えられ、大祓A(御贖儀)と大祓B(官祓)は、こちらでも形式的な繋がりを保っていた[81]

大祓Bから分離したと考えられる内蔵祓には殿上人と蔵人所の人々が参加し、これに伴う饗は河原で行われたが、祓も河原で行われたようである[81]。内蔵祓の式日は不明だが、大祓Bの派生であることから6月12月の晦日もしくはその数日前に行われた可能性が高いが、この日には他に宮中で「人形菅抜(茅の輪)」を用いた祓が行われたという記録もあり、これらは天皇の直接的な臣下の祓いといえる[82]。またこれら以外に、太政官解除とも呼称された太政官の祓などの諸司単位の六月祓もあり、広く行われていたようである[82]。諸司は大祓Bの参加者でもあるが、並行して諸司が独自に六月祓を行った理由としては、諸司の独立性・自己完結性が高まったこと、律令財政の破綻で中級・下級の官人が位録(国からの給料)の支給を受けられなくなり諸司への帰属を強めたこと、陰陽祓の普及、人々の穢意識が変化し、人の罪穢ではなく場の穢の祓が必要とされたこと、などがある[83]

中臣祓のような「神々による祓」に対する人々の関心は高まっていったが[19]、平安中期の朝廷では神祇(神道)は天皇中心の体制で、神祇官の祓はおいそれと受けられるものではなかった[61][83]。陰陽師の祓はこうした制約もなく、貴族社会には陰陽道的祭儀を含む呪術的儀が急速に広まり、院や上級貴族諸家は10世紀半ば頃から陰陽師による恒例・臨時の祓を行っていた[61][83]。諸司単位で行われた六月祓は陰陽師の祓である[82]。陰陽師の祓は、11世紀には茅の輪(菅抜)を用いてたことが窺われ、六月祓、夏越祓等と呼ばれていたが、12月に行われた例は見られず、大祓Bとは明確に別ものと認識されており、呼称が混同されることはなかった(近世以降は混同されることが多い)[15]。また中世には、天皇に仕える女房や侍従(天皇の直接的な臣下)が茅の輪を用いて行う祓があり、六月祓と呼ばれていたが、内侍や宮中の女房らは大祓B(官祓)にはいかず、こちらに参加していたようである[16]

このように10世紀以降、大祓B(官祓)以外にも公の場で多くの恒例祓が行われるようになり、相対的に大祓Bの罪穢消去機能の価値は低下したと思われるが、この行事の機能や意義はそれに限られるものではなく、引き続き行われた[15]。「神祇令」に規定された祭祀・神事は12世紀以前に衰退し、多くが行われなくなったが、大祓Bは、祈年月次、新嘗といった重要祭祀と並んで15世紀まで存続した[21]

13世紀初頭から14世紀初頭の鎌倉時代には、朝廷・天皇のもとで平時には大祓A・大祓B共に実施されていた[84]。院政の上皇や鎌倉幕府では、六月祓は行われたが大祓Bが行われることはなかった[84]。南北朝時代には、北朝で大祓が行われたことが確認できる[84]。大祓Bには内侍(天皇の直接の部下)が参加するようになり、これにより朝廷に所属する官司・官人集団の各代表が集結する形となり、本来の大祓に近づいた面もあるが、一方大祓Aは大祓Bの後に行われるようになり、両儀のつながりはなくなり、こちらの面では本来の姿は失われた[85]

二季恒例大祓の12月の大祓は早くに廃れたとする説もあるが、貞治年間(1362年 - 1368年)には、まだ6月の大祓と同様に行われていたことが確認できる[29]。12月の大祓この頃から諸司に付される例が多くなっていったが、6月の大祓と同様に15世紀半ばまで続いた[29]。並木和子によると、二季恒例大祓の最後の記録は、室町時代の享徳3年(1454年)12月で、以降に臨時大祓や六月祓などは行われたが、二季恒例大祓は確認されていない[29]。最後の二季恒例大祓の後に応仁の乱で公家の多くが京を離れ、かろうじて存在した太政官組織・官人制が解体、二季恒例大祓を行う組織はなくなった[29]

応仁の乱後の公家社会、朝廷は天皇を中心とした小規模で自己完結的なものとなり、官職は名目のみのものとなり、二季恒例大祓の復興が目指されることもあったが実現しなかった(朝廷の儀で復興したものは他に幾つかあった)[14][21][28]。一方、六月祓が宮中以下に定着し、朝廷の規模的に宮中の祓はこれで事足りたのか、朝廷や神祇官も二季恒例大祓に特に意義・価値を感じなくなっていたようである[28]

中世の神道説は、仏教・儒教・道教などの外来思想の影響が強く、用語や概念を取り入れて形成されており、神道で重視された清浄を心の問題として見る際には、仏教の「禅定」や儒教の「正直」等の言葉で表現され、内面的な純粋さが求められるようになった[86]。神道説の変化は大祓詞の解釈にも影響を与え、例えば神道説で説かれる清浄性は朝廷が定めた穢規定の次元を超えて仏教的に理解され、両部神道の『中臣祓訓解』では大祓詞は仏教的に解釈されて、大祓詞により煩悩に汚されない清浄な「心の源」が得られるとされ、心の清浄性が強調された[86]

江戸時代の中後期の国学の盛り上がりの中、国学者の大祓詞への関心が高まり、明治維新後には、明治政府による国家神道・旧儀再興の流れに乗って、「万民の罪穢を祓う行事」、国家の祓として二季恒例大祓が再興され、宮中で行われるようになった[87][21]明治4年(1871年)、明治天皇宮中三殿賢所の前庭にて二季恒例大祓を400年ぶりに復活させ、翌明治5年に太政官布告を出して『大宝律令』以来の旧儀の再興を命じた[88]。また「天下一般修行可致(全国民が(神道的な)修行を実施するように)」 という明治政府の理念により、神社の祭式として個人の修行を主眼とする大祓の行事が定められたが、宮司による祝詞と神官による「祓詞」をセットにした二部制の儀式となっており、古来より伝わる様式とは大きく異なる[87]

再興された二季恒例大祓は、大正昭和平成大嘗祭に際しても執り行われた。

参列する皇族を成年男子の親王に限っていたが、平成26年(2014年)に宮内庁は、男性皇族が実質少なくなったことを理由に、以降の二季恒例大祓への参加を成年の女性皇族にまで広げると発表した[89]

科刑としての大祓

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平安時代に入り、神の祟りを事前に防ぐことを目的とする「由の大祓」が成立したが、人に課せられる贖罪・科刑の意味での祓もこれに並行して変化し、神祇(神道)に関するものに限られるようになり、延暦20年(801年)に、祭(神事)の違反に対して課される大祓・中祓・下祓の科料が規定されている[10][90]

民間行事としての大祓

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茅の輪(大和神社

毎年の犯した罪や穢れを除き去る民間の除災行事は、現代では大祓として定着している。民間の場合、6月のものは「夏越の祓」(なごしのはらえ)、12月のものは「年越の祓」(としこしのはらえ)とも呼び分けられる。前者は「名越」と表記されたり、「夏越神事」「夏祓」「六月祓」などと呼ばれることもあり[91]、また、月遅れを採用する事例も見られる。その場合、月の大小の兼ね合いが生じるが、晦日に意義があるため、旧暦の6月30日や新暦の7月31日に行われる。

夏越の祓

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六月祓、夏越祓は、平安中期10世紀半ば頃から行われた陰陽師による祓の呼称であり、11世紀には茅の輪(菅抜)を用いてたことが窺われる[15]。これは12月に行われた例は見られず、二季恒例大祓とは明確に別ものと認識され呼称が混同されることはなかったが、近世以降は混同例が多く見られる[83]。また中世の宮中には、六月祓と呼ばれる祓があり、天皇に仕える女房や侍従が茅の輪を用いて行う祓であったが、これは天皇の直接的な臣下、家人としての行事と見られる[16]

拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える夏越の祓は、古くから民間でも見られた年中行事のひとつであり、さまざまな風習が残っている。

明治4年(1871年)の太政官布告では、「夏越神事」「六月祓」の呼称を禁止をして大祓の復活が宣ぜられた[88]。これにより神仏分離が行われた全国の神社でも毎年の大祓が行われるようになった。太平洋戦争後になると「夏越神事」「六月祓」の呼称も一部では復活し現在に至っている。

茅の輪くぐり

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夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居の葉を建てて注連縄を張った結界内にで編んだ直径数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式である。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたりしたとされる。

福山市新市町観光協会によると、素盞嗚神社牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請)の蘇民将来伝説では、武塔神は貧しくも自分をもてなした蘇民の娘に茅の輪を腰につけさせ、宿の提供を拒んだその地域に者らを蘇民の家族を除いて皆殺しにし、自らの正体を素戔嗚尊と名乗り、茅の輪を身に付けていればこれ以降災いを避けることができると教え、去っていった[92]

疫隈國社 素盞嗚神社では蘇民将来説話に基づいて、茅の輪くぐりを行った後に解体し、持ち帰って個々に茅の輪にする風習が残っている。一方、行事後の茅の輪には祓われた罪や穢れ・災厄が遷されているため、持ち帰るのは避けるべきという見方もある[93]

現代の風習

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6月の夏越の祓に併せ、独自の風習が備わるところがある。

京都では夏越祓に「水無月」という和菓子を食べる習慣がある[94]。水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子である。水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、三角の形は暑気を払うため、平安時代の貴族が旧暦6月1日(氷の朔日)、冬のうちに保存しておいて食べた氷を表しているという説がある[95]

脚注

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注釈

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  1. 三橋正は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して悪行をなし、その代償として千座置座(ちくらのおきど)を課せられて追放されたという記紀神話の神逐(かむやらい)のエピソードも、祓が「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であったことを反映するものとしている[9]
  2. 伊勢神宮の遷宮制は、通説では持統天皇朝に始まるとされ、これに従えば原型は天武天皇朝に形成されたと考えられる[38]
  3. 大祓詞と共通する罪が並んでいるが、天津罪・国津罪の区別は見られない[46]
  4. 三橋正は、『日本書紀』『古事記』の記述からは、「神祇令」の規定は理想を明文化したものに過ぎず、現実を反映していないと指摘している[52]
  5. 金子武雄は、「東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水」の四至は天皇の威光が及ぶところであり(つまり日本)、これを祝福するものとしており、青木紀元も、四至は「天皇の統治される多くの国々の意」としている[63]。粕谷興紀は、古代中国の神話的・伝説的な四至であるため、中国全土を示しており、この呪は彼らの望郷の思いの結晶とみている[63]
  6. 『本朝月令』六月晦日大祓事條所引の『弘人式』逸文にあるほぼ同文の呪では「禄人」[65]
  7. 道教の神である皇天上帝は桓武天皇朝の長岡京の郊祀の祭文においても祝祷の対象であり、当時複数回行われた「天神祭」で祀られていたのは日本固有の天津神ではなく皇天上帝であった[66]
  8. 古代日本の人形呪儀が依拠した可能性のある史料としては、『正統道蔵』(道教教典)洞玄部表奏類所収の『赤松子章暦』があげられ、この「金人」「銀箔人」「錫人」などが『延喜式』の金属製人形の典拠の一つとも考えられている[69][70]

出典

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  8. 1 2 3 4 三橋 2010, pp. 212–213.
  9. 三橋 2010, pp. 262.
  10. 1 2 3 4 5 6 三橋 2010, p. 11.
  11. 三橋 2010, p. 211.
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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