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大祓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
茅の輪から転送)

大祓(おおはらえ、おおはらい、おーばらい[1])は、人々に付着した罪・(けがれ)・災などを除去して清浄にする神事であり、朝廷で行われた国家的儀礼である[2][3]。初出は『日本書紀』で表記は大解除、読みは「オオハラへ」である[4]

民間では伝統的に6月(旧暦)に行われる夏越の祓(名越の祓)(なごしのはらえ なごしのはらい)があり、六月祓(水無月祓)夏祓等とも呼ばれる[5][6]チガヤ)の輪を潜ることが本来の夏越の祓である[5]。大祓は国家の公事であり、大祓と夏越の祓は、起源も由来も異なり、呼称も明確に区別されていたが、近世以降は混同例が多く見られる[7][5]

現在の神社で6月・12月に行われる大祓は、神道国家主義体制を推進する明治政府が朝廷の大祓を基に神社の祭式としてアレンジして定め、神社に行わせたものが基本となっている[8]

概要

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宮中祭祀の主要祭儀一覧
四方拝歳旦祭
元始祭
奏事始
昭和天皇祭(先帝祭
孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
祈年祭
天長祭(天長節祭)
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
香淳皇后例祭(先后の例祭)
節折大祓
明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
新嘗祭
賢所御神楽
大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
節折・大祓

一般的に祓(秡)または解除(ハラへ、はらえ)は、、穢れ、病気、災厄などを除去するために行う儀礼と規定されており、大祓は「祭事その他の行事に際して行われる国家的な儀礼」と定義される[9][3]。「ハラへ」は本来「罪を除くこと」、罪の除去であり、「祓除」「解除」と表現した[10]。現代では、特に天下万民(全ての民)のを祓うという意味で大祓というとされ[11]、『国史大辞典』では「百官(朝廷に仕える全ての官人)以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼」とされているが、罪・穢・祓という言葉は明確な概念ではなく、従って大祓の定義も明確なものとは言い難い[3]

当初の大祓は、古代律令国家の形成期に成立した国家的儀礼である[12]。7世紀後半・8世紀の天武天皇持統天皇朝においてに神道が成立したという見解が主流であるが、この時期に国家的祭祀体制とその体系が整備され[注釈 1]、公的祭祀の基本を定めた「神祇令」が作られ、朝廷の国家的儀礼としての大祓が成立した[13][14]。ただし、当時の朝廷が強固な宗教統制・宗教支配を行ったという見方は現在では疑問視されており、律令祭祀制度は理念先行で、制度として十分に機能していなかったという意見が有力である[13][注釈 2]。朝廷が旧暦6月と12月の晦日に行う恒例の大祓(二季恒例大祓)は「神祇令」で規定され実施されており、そのため大祓は一般的に神道儀礼(神祇儀礼)とされている[9]。古代において大祓は大嘗祭ほど重視されておらず、秘儀でもないが、王権を支える柱の一つであった[16]

二季恒例大祓は、天皇を対象とする祓と朝廷に仕える全ての官人(百官)を対象とする祓の二段階構造であり[17][18]、天皇を対象とする祓の方が古いと考えられている[19][20]。なお、古くは「祓へ」は専ら罪を対象としたものであり、朝廷の二季恒例大祓の後半の儀(百官大祓)で唱えられた大祓詞に穢という言葉はない[21]

日本の祓(解除)は、中国で発生・展開した祓(解除)に由来しており、古代日本では「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であり、祓いを科し、神に捧げものをして清めてもらうことも古代日本で広く行われていた[22][23][注釈 3]。『古事記』『日本書紀』(記紀神話)には、スサノヲアマテラスに対して悪行をなし、その罪の消除のために千座置座(ちくらのおきど)という物品を徴収され、髪や爪を抜かれて罪過を贖(あがな)い、追放されたという神逐(かむやらい)のエピソードがあり、このスサノヲが犯した罪が祓の儀礼伝承の起点となっている[14][注釈 4]。なお、大祓の場所が朱雀門外の溝の前であり水辺であることから、記紀神話のイザナギの禊も大祓の起源神話とする見方もある[25][26]三橋正は、大祓は国内の混乱を終わらせた天武天皇によって「日本古来の儀礼」として創られた服属儀礼であり、同時期に成立した記紀神話の内容が道教起源の祓に投影されたものとみている[27]鎌田純一は、大祓とは「わが国の祓の風習の上に、道教のそれを加えて天下国家の禊」としたものとみている[28]岡田莊司は、当時は神事上の禁忌・罪が祟り・災いを引き起こす可能性があると考えられていたため、罪の消除儀礼として大祓を年2回に制度化し、災いの発生を防ぎ国土の保全を図ったものとしている[29]武光誠は、太政官が監督する祭祀は稲作に欠かせない神事と考えられており、大祓は農耕儀礼としての性格を持ち、稲作を妨げる穢れを清めるものであるとしている[30][18]。武光は、人間の罪が大きな天災を引き起こすという思想は元々日本にはなく、中国の祥瑞災異思想渡来人が朝鮮半島経由で持ち込み、それが日本に広まったものと推定している[31]

大祓の文献上の初見は『日本書紀』の天武天皇5年8月16日の大解除(大祓)で、これは恒例のものではなく、臨時大祓と言える[32]。天武天皇朝の大解除や、朝廷から大祓使を諸国に派遣して行う諸国大祓が基となり、7世紀の天武天皇朝もしくは持統天皇朝に二季恒例大祓が創始され、8世紀初頭には恒例で行われていた[33]大宝令 (たいほうりょう、大宝元年(701年)制定)以後に、制度として定例化したと考えられる[34]

朝廷による大祓の意義は時代によってかなり違いがあり、天武天皇朝末にはすでに変化が見られ、飛鳥元年(686年)の大祓(大解除)は天皇の病気の回復を願う一連の宗教行事の一つとして行われ[35]文武天皇の時代には、祭祀(神事)に先立って行う大祓が初めて登場し、大祓と神道(神祇)の祭りに必要な清浄性をもたらす「禊祓」とはほぼ同義になっていた[36]。奈良時代には本来の服属儀礼としての意味をなくしていき、清浄・除災・釈服(喪明け)のために行われるようになり、平安時代に入ると、祭の中止による神の祟りを事前に防ぐことを目的とし、「神への謝罪」としての側面を持つ「由(よし)の大祓」が成立した[37][38]。宮中の神道の神事や仏教の法会、天皇の私的な神事の前にも臨時大祓が行われたが、大祓詞を一部省略し神に申し上げる形に改変した「中臣祭文」が読まれていたと考えられる[39]。「中臣祭文」は「中臣寿詞」とも称され、一般的には「中臣祓」と呼ばれた[39]。宮中の臨時大祓では必ずしも神官が中臣祓を読誦していたわけではなく、陰陽師が担った記録も残されている[39]。平安時代中期の摂関期以降は、大祓は国家的儀礼としての威厳と実効性を失い形骸化し、元来の意味とはかけ離れた形で行われた[39]。従来の神道学的な見方では、大祓は「太古以来の神祇(神道)儀礼として不変の意義を持ち続けてきた」とされるが、歴史をたどると、同一の国家儀礼でも時代によって意味付けは異なり、「時代ごとに変化しながら継承され、意義を持ち続けた」ことが分かる[40][37]

以下、大祓ではないが、大祓と関連し、現在の大祓にもつながるため、宗教儀礼・信仰習俗としての祓の儀礼の伝播と大祓詞・中臣祓の展開について述べる。宮中では大祓から様々な行事が展開した。道教的行事の御燈とそれに伴う由の祓からは「御燈の由の祓」が、二季恒例大祓の天皇の祓の儀からは「節折」が展開して宮中の年中行事化した[39]。「御燈の由の祓」はさらに中国から伝わった上巳の祓と習合して3月3日の節句流し雛に、次いで雛祭りへと展開した[39]

大祓は国家規定から信仰習俗に展開した[37]。朝廷の大祓の形骸化に伴い、貴族が個人レベルで祓を行うようになり、貴族が私的な宗教儀礼・信仰習俗として取り入れることで祓の儀礼が普及した[41]。神官は私的な祈祷を行わないため、平安中期以降に貴族社会等で行われた私的祈祷は陰陽師や僧侶によるもので、主に陰陽師が担ったが、中臣祓が荘厳な祓の呪文として用いられた[41][42][37][43]。宮中では旧暦6月に陰陽師による六月祓・夏越祓が行われており、朝廷の六月晦日の大祓から生じたと思われるが、これは貴族社会の風流(季節のイベント)であり[39][7]、宮中の正式な典礼ではなかった[44]。10世紀には陰陽道の祓が国家的行事・国家的呪法として行われ、安産や病気平癒のための呪法、祈祷の一種、個人祈願の呪法として流行し、その影響を受けて仏教でも祓の儀式が作られて、僧も中臣祓を読むようになった[45][43][46][47][48]。さらに神道でも陰陽道の祓・仏教の祓の影響を受け、平安末期には伊勢神宮御師が私的な祓を行うようになり、神社のある地域を超えて東国各地で活躍し、これが中世の伊勢大神宮信仰を推進する原動力となった[49][47]

祓の儀礼は中世には習俗化し簡略化していったが、中臣祓が用いられたことで、陰陽師や僧侶が担っても神道儀礼と捉えられていた[50]。国家体制の中にあった神道は、儀礼面は整い厳密に祭祀が執行されていたが、思想面・理論的は全く未発展であり、天台宗真言宗の高僧が中臣祓の注釈を通して仏教側の神道思想を形成・体系化し、神道側がこれを吸収して仏説を排する形で神道説を展開した[51][52][53]。こうして中臣祓(大祓詞)は陰陽道や仏教と深く関わりながら、両部神道伊勢神道(度会神道)、 吉田神道(卜部神道、唯一神道)、 伯家神道垂加神道復古神道等の神道の教義や、学問、実践を形成していった[42]。中世の神道の理論的形成・組織化の背景としては、律令国家の崩壊による混乱、それに伴う価値大系の変動、末法思想、阿弥陀如来のみを絶対的な救い主として他の仏や神に祈ることを退け専修念仏を掲げた浄土宗の台頭、これ対する旧仏教側の高僧たちの危機感・時代に即した思想の必要性、律令祭祀体制・神社制度の崩壊に伴い神社が経済的基盤を喪失し神官たちが強い危機感を抱いていたこと等がある[51]

中臣祓(大祓詞)と記紀神話は一体的に研究・解釈されるようになったが、両者とも律令国家・天皇制の形成期に作られたもので、当時の朝廷の精神・意図が反映されており、天皇による日本支配の正当性を主張する面がある[52]。そのため宗教者たちは、中世における実際の天皇権力・王権とは特に無関係に、古代律令国家が創生期に残した枠組みの中で中臣祓を解釈し、王権を精神的に追及することになり、「日本」や「神道」を意識すると「記紀神話」と「大祓詞」に回帰し、必然的に天皇を指向する、という思考構造が形成され、天皇を支えようという思想が観念的に生じ、天皇の精神的権威が高められた[52]。江戸時代、垂加神道を創始した山崎闇斎は、中臣祓を解釈して祓の儀礼を天皇との絶対的な君臣関係の象徴と解説し、神道・中臣祓と尊王を結びつけ、本居宣長は大祓詞や記紀神話を研究し、復古と日本的純粋性を希求する方向性を示した[54]。こうして王制復古の精神が展開し、明治維新後に政府の「政祭一致」の理念のもとで神道が国家神道となった[55]。国家神道として神道の「純化」が進められ、伊勢の御師などの民間の祓は禁じられた[56]

茅の輪(大和神社、奈良県天理市)

次に、今日大祓とも呼ばれる、茅の輪くぐりを行う民間の六月の祓について説明する。夏越の祓、六月祓等と呼ばれた旧暦6月の祓は民間で伝統的に広く行われた[5]。朝廷の大祓はいくつもの宮中行事・年中行事へと展開し、また貴族社会では神官以外(主に陰陽師)による祓の行事が定着し、民俗行事へと拡散したと推定されるが、6月の祓である夏越の祓はそのひとつと考えられている[57]。6月の行事だが、必ずしも6月の晦日に行われたわけではない[5]。夏越の祓では、チガヤ)の輪を潜ることと、水辺で麻・木綿などを着けた五十籤を立てて祓が行われるが、茅の輪を潜ることが本来の夏越の祓の行事である[5]。宮中で茅の輪くぐりは中世以前には行われておらず、室町時代からと考えられている[58]。茅の輪くぐりが元々民間で行われ、上流階級や神社に伝播した可能性が高いと指摘されている[59][60]

茅の輪は牛頭天王信仰として理解され、年中行事として定着した[61]。牛頭天王は日本で疫病の神・疫病を防ぐ神として古くから篤い信仰を集めた神であり、インド起源の渡来神と考えられている[62][63]。なお、牛頭天王は明治維新の神仏分離(神仏判然令)で排斥され、祇園社(現八坂神社)と全国各地の祇園社系神社の祭神はスサノヲに変更されている[63][64]大森志郎によると、大祓と夏越の祓は、起源も由来も異なるものである[5]

明治維新後、明治政府は近代化・富国強兵を目指し、その中で神道国家主義体制をとって古儀(古い儀式)の復興を目指し、まず宮中の大祓が再興された[65][66]。明治政府は、民間の「六月祓」「夏越神事」と呼ばれる行事は本来の意義を失い歪曲された「大祓」であるとし、古く正しい儀礼に戻すと主張して、古代の大祓をアレンジして神社祭式としての大祓を新しく「再興」し全国の神社に行わせるようになった[8][67][注釈 5]。明治政府が大正3年に定めた祭式・祓詞が現在の神社の大祓の基本となってる[69]。明治政府は、神社や民間に伝えられていた祓の習俗を尊王思想・復古思想によって「純化」して宮中と神社の大祓の祭式を定めており、現在も皇室や全国の神社で純粋な神道儀礼として大祓が行われているが、これらは律令時代の大祓の復興・復元とは言い難い[70]。現代の神社では6月と12月末に大祓が行われ、12月に実施される大祓と呼ばれる行事でも、茅の輪くぐりを行う神社が多く見られる[71][72]

現代の神社の12月の大祓、伊勢神宮皇大神宮

現代の神社本庁(民間の宗教法人)は、大祓は日本人の伝統的な考え方に基づくものと主張している[73]

朝廷による大祓

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昭和天皇即位の礼。即位の礼の年に行われる大嘗祭では、天皇が神と一緒に食事をする「大御饌供進の儀」の前にと大祓が行われる。

大祓(大解除)は、天武天皇朝(飛鳥時代)の記録が最古のものであり、奈良時代に律令(当時の基本法)に明記された[74][75]。朝廷による大祓は、宮中で行われるものだけでなく、諸国で行われるケース(諸国大祓)もあった[75]

大祓の文献上の初見は『日本書紀』の天武天皇5年8月16日の大解除で、これは二季恒例大祓ではなく、臨時大祓と言える[32]。戦後の祝詞研究の第一人者青木紀元は、大祓は天武天皇朝の初期に臨時大祓から始まり、その時に大祓詞の原型(現在の大祓詞の一部)が作られたとみている[32]。武光誠は、大祓は「『浄御原令』制定と深くかかわる形で天武朝後半に整備された」としている[76]。浄御原令は中国風の法典であり、神官はこの制定と並行し「令制」に合わせた形をとる神祇官に再編され、太政官と神祇官の役割分担が作られた[76]

天武天皇朝の大解除や諸国大祓が基となり、大宝令 (たいほうりょう)以後に二季恒例大祓が制度として定例化したと考えられる[34]。二季恒例大祓は一般的に7世紀の天武天皇朝に創始されたと考えられているが、持統天皇朝とする説もあり、7世紀後半であるとは言える[33]。8世紀初頭には恒例で行われていたことが確認できる[33]。これまでの諸研究によると、稲作に関わる祭祀は天武天皇朝から持統天皇朝にかけて急速に整備された[30]。武光誠は、大祓は「『浄御原令』制定と深くかかわる形で天武朝後半に整備された」と述べている[76]

二季恒例大祓は、天皇を対象とする祓と百官を対象とする祓の2つの儀から成り、天皇中心の国家秩序を体現し確認する意味があった[77][78]。百官の祓の儀は、実際の規模はともかく、朝廷に仕える全ての官人の参加を求める大がかりな儀礼として規定されている[75][79]。二季恒例大祓の後半の百官の祓の儀は、律令期から終焉まで大内裏の南正門である朱雀門を祓所とした[80]。大内裏が荒廃して朱雀門がなくなり、「朱雀門跡当時深田」と記される状況となっても、この近辺で行われ、一貫して「天皇以下百官」を祓う儀として行われ続けた[80]。百官の祓の儀で唱えられた大祓詞は、日本で仏教の薬師如来信仰の『薬師経』思想が受容され、これが中国の天命思想と結びつき、古代日本の律令制国家のもとで7世紀以降に形成されたものと考えられている[81]。大祓・大祓詞の特性として、擬古的であると同時に、仏教の影響が認められる点がある[82]。また大祓は道教的な面があり、天皇の祓の儀では、道教の神々・道教的な神々に祈願する祓詞(呪)が中国音で読まれた[83]。人形祭祀であり、道教に由来する除病・除災・延命の呪具である人形(ひとがた)と、罪を贖う伝統的な人形を用いられた[17]。諸国大祓も道教的色彩の濃い祭祀であったといわれ、人形が用いられた[84][85]

平安前期(9世紀後半の光孝天皇朝まで)までは、天皇の祓の儀と百官の祓の儀の二部構造で、両者が連動する形を維持していたが、天皇の在り方が、官僚機構(百官)と直接的な関係をほぼ持たない、上級貴族による政治体制の中心としての王朝的天皇に変化したことに伴い、二季恒例大祓の天皇の祓は「二季晦日御贖(みあが)儀」と呼ばれるようになり、天皇の伸長を竹の節で測って祓う「節折の儀」に展開し、中宮・東宮も対象とする儀となり、大祓とは呼ばれなくなった[86][87]。平安時代には二季恒例大祓は衰退し、摂関期になると参加者も減り、天元5年(892年)の記録では公卿が一人も参加していない[86]。また、律令官人制の再編成・貴族社会の新しい身分秩序の形成に伴い、二季恒例大祓は平安中期以降は分裂し、派生の祓の儀も生じ、また陰陽師の祓も急激に広まり、公の場で多くの恒例祓が行われるようになった[88][89]

二季恒例大祓は朝廷の律令的官人制・官司制と密接に結びついたものであり、二季恒例大祓は衰退したまま数百年続き、王権・朝廷が権威を失う中世には実質的な意義を失い、15世紀応仁の乱後に公家が京を離れ、実施を支える構造・体制が失われると廃絶した[86][90][74]。乱後に小規模になった朝廷では官職も名目上のものとなり、朝廷の祓は六月祓(二季恒例大祓の六月の大祓ではない)で事足りたと見え、朝廷や神祇官にとっての二季恒例大祓の意味も失われ、以降明治時代まで復興されることはなかった[90]。明治政府は官僚組織のトップとして天皇を頂く体制であり、この政体ゆえに復興されたと思われる[91]

起源

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国家が行った大祓の史料上の確実な初見は、『日本書紀天武天皇天武5年(676年)8月辛亥条とされ、これが通説である[74][4][92]。「大解除」と表記されており、『日本書紀』では「オオハラへ」と訓づけていた[4]

「詔曰、四方為大解除(オオハラへ)、用物即國別國造輸。祓柱、馬一匹・布一常。以外郡司、各刀一口・鹿皮一張・钁(くわ)一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束、且毎戸麻一條。[4]

これは同年の旱魃への対処として行なわれたものである[17]。日本の祓(解除)は、中国で発生・展開した祓(解除)に根源を持ち、「解除」とは中国の道教の用語である[28][23][27]。中国の習俗を取り入れた古代日本の祓は、「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であった[23]。天武天皇が行った大祓は、国造郡司に馬、布、麻などの祓物を供出させ行われた[10]。三橋正は、この大祓は壬申の乱(672年)後に朝廷が国造などの旧勢力を完全掌握するために、償いとして財物を供出させる行事としての祓を国家規模で行ったもので、一時的に中断していた国家的服属儀礼が祓の形を借りて復活したものとしている[23]。『日本書紀』推古天皇28年(620年)十月条には、推古天皇朝に行われた、天皇の父母の陵(墓)などの古墳の周囲に諸氏族に大柱を建てさせる行事が記録されており、様々な遺跡からも立柱が見つかっている[93]。この行事は祭祀であった可能性があり、諸氏族が建てた大柱は神を降ろす神聖な柱であったとも考えられるが、同時に天皇(大王)が「氏毎に科」して「大柱」を建てさせるという天皇に対する服属儀礼であった[94]。このような儀式は前方後円墳が消えると共に忘れられたと考えられるが、それに伴い柱は抽象化され、祭祀的要素と服属儀礼的要素が別の形に展開した[94][95]。飛鳥時代の寺院は古墳と一体となって存在したと考えられており、日本の仏教受容の初期段階には柱(塔)が強力な宗教的シンボルとして働き、在来の神信仰と仏教の混合・同化の状態であった[96][97]。柱を建てさせる行事の祭祀的な面は、仏教の「心柱」を経て、天武天皇朝には、新たな祭神の名前、伊勢神宮心御柱[注釈 6]、日本独自の神の助数詞である柱などに展開した[96][99]。また服属儀礼としての側面は、部分的には、須弥山を作って蕃族(辺境の服属民)をもてなす仏教儀礼の服属儀礼となり、その後、天武天皇朝に大祓が創られた[100][101]。『日本書紀』の最古の大祓の記事では、「用物」として「国別の国造」以下に「祓柱(ハラヘツモノ)」を供出させたと書かれており、三橋正は「祓柱」という表記について、柱祭祀で諸氏族が建てていた服属の証としての柱が抽象化されたものとみている[82]

日本では、孝徳天皇朝の7世紀中頃に人形(ひとがた)祭祀が始まり、7世紀後半に人形・馬形・刀形・舟形・斎串の木製模造品の祭祀具セットが成立し、天皇と都の清浄性を保つことを目的とする人形祭祀の大祓が行われるようになった[注釈 7][17]。大平茂は、古墳時代に始まる禊を目的とする湧水・流水祭祀と、人形を水に流す律令制の大祓のつながりを指摘している[102]

「大祓詞」に対応する『古事記』の記述

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『日本書紀』の記述からは、成務天皇の時代には、仲哀天皇(実在性が低い天皇の一人で、ヤマトタケルの子とされる)崩御後に「祓(解)」ないし服属儀礼的な諸氏族による財物の貢納があったという伝承が定着していたことが分かるが、『古事記』のみがこれを祓ではなく大祓としており、大祓詞と深く関連させた内容的となっている[103]

殯宮(あらきのみや)に坐(ま)せて、更に国の大奴佐を取りて、生剝、逆剝、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたわけ)、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)の罪の類(たぐい)を種種(くさぐさ)求(ま)ぎて、国の大祓為て亦建内宿禰沙庭(まにわ)に居て、神の命(みこと)を請ひき。[104]

引用の前後を補足したエピソードの内容は次の通りである。帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらのみこと、仲哀天皇)と皇后の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)が熊襲を討とうという時に、皇后が筑紫の訶志比宮(かしひのみや、香椎宮)で神がかりになり、天皇が神降ろしのための琴を弾いて、建内宿禰が沙庭(神降ろしの場)で神託を求め、「西の方に金銀や宝に満ちた国があり、その国を服従させてやろう」という神託が下された[105]。しかし西の方には海しか見えず、天皇はその信託を信じずに「神の偽り」と述べ琴を弾くのを止めたため、神罰を受けて急死[105]。それに驚き恐れ、天皇の遺体を殯宮(遺体を埋葬まで安置する場所)に安置して、国中に大奴佐(祓具の大幣)を献上させ、生剝、逆剝…といった(祓うべき)罪[注釈 8]の類を色々求めて国の大祓を行い、建内宿禰が神託を請い、この国の全ては皇后のおなかの子(応神天皇)が統治すべきという神託が下され、その子の性別を問うと男子とのことであった[107]。建内宿禰が神託を下した神の名を問うと、天照大神の御心によるものであり、また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神(住吉三神)であると仰せられた(この後、神の後押しを受けた神功皇后が新羅を征服する三韓征伐のエピソードが続く)[107]

この『古事記』の記述は、大祓が太古に成立したという説の有力な根拠ともされてきた[103]。三橋正は、『古事記』は天武天皇の同時代性が強い書であり、擬古的な服属儀礼として創られた大祓は、「国家秩序の具現を可視的に示すだけでなく、神話と共に史実として語り継がなければならなかった」ため、『古事記』に強引に編入されたと推定している[103]

古墳時代 - 奈良時代

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二季恒例大祓

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二季恒例大祓は、毎年旧暦の6月12月晦日に行われた(現代では新暦6月30日12月31日)。令の施行細則である『延喜式 (えんぎしき)』で規定され、諸省寮でも細かく規定されている[34]。『儀式』、『北山抄 』、『江家次第』(ごうけしだい)などの文献からも、古代の大祓の様子をうかがうことができる[108]並木和子は二季恒例大祓について、神祇令などの範とされた中国の「唐令祠令」には類似の行事がないことから、「七世紀から八世紀の中央集権体制の形成期に日本で独自に創出された行事」と推測している[33]

神祇令によれば二季恒例大祓は、毎年の 6月と12月の晦日に中臣(なかとみ)が祓の麻(ぬさ)を奉り、東文氏(東文忌寸氏)と・西文氏(西文忌寸氏)の東西文部(やまとかわちのふびとべ)が祓の刀(たち)(罪穢を断つ義)を天皇に奉り、祓詞「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」(中国の道教の神々に天皇の除災招福、息災延命を祈願するもの)を読み、祓所にて中臣が百官の男女に大祓詞を宣り下し、卜部(うらべ)が解除(はらえ)を行った。この「祓所」とは多くは朱雀門[109]であり、朱雀門前の広場に親王大臣(おおおみ)ほか(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓ったと思われる。

古代日本の律令制国家の神祇(神道)祭祀には、天皇中心の国家秩序を神の名のもとに確認するという意味があり、2月の祈年祭、6月・12月の月次祭と二季恒例大祓の百官大祓は、天皇直属の神祇官から全官人まで集めて行う大掛かりなもので、百官の上に天皇が立つという関係を具現化し、天皇を中心とする国家意識を参加者に徹底させようというものであった[77][78]。二季恒例大祓は、天皇を対象とする儀と、天皇を除く朝廷の参仕者全員を対象とする儀(百官大祓)から構成されており、2つの儀は、対象者、式次第、執行場所だけでなく、基づく宗教思想も異なる[110]。天皇を対象とする儀では、漢音(中国音)で道教的色彩の濃い祓詞(呪)が読み上げられ、祓詞の内容は大陸(中国)の思想に基づいており、一方百官大祓は記紀神話の内容・精神が投影され、神祇(神道)思想に立脚する擬古的な儀式となっている[111][82][27]。2つの儀の組み合わせにより、罪穢の除去、除災招福を目的とするとともに、百官の上に天皇が立つという関係を具現化して確認するものとなっている[77][78]。ただし、国家運営の理想と現実には落差があり、実際に全官人を集めて大規模な神祇祭祀を行っていた記録上の形跡がないとの指摘もある[79][注釈 9]

百官大祓は、既に起きてしまった災厄をリセットして今後の国体の鎮守を図る意味の他、共同体の構成員に全員の参加を義務付けて宣下する本来の形式が推定されることから、上位の政権による“禁忌を犯してはならない”というを広く知らしめて遵守させる側面があったと考えられる[113]

なお、大祓詞註釈の研究により、六月晦日大祓詞(中臣祓・中臣祭文)には中世以降内容の変更があったことが知られている[114]

律令制下での構造
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二季恒例大祓は「神祇令[注釈 10]」の中で次のように規定されている[115]

凡六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻。東西文部。上祓刀。讀祓詞。訖。百官男女。聚集祓所。中臣宣祓詞。卜部為解除。[115]
(凡そ六月・十二月の晦日(つごもり)の大祓には、中臣は御祓麻(みはらえのぬさ)をたてまつれ、東西文部(やまとかわちのふびとべ)は祓刀をたてまつり、祓詞を読め。訖りなば、百官男女を祓所に聚め集へて、中臣は祓詞を宣り、卜部は解除をせよ。[116]

並木和子によると、「訖」の前後で異なる儀の説明がなされている[115][117]。以降便宜的に、前半で述べられている二季恒例大祓の儀を「大祓A」、後半で述べられている儀を「大祓B」と呼ぶ。大祓Aと大祓Bは大祓というひとまとまりの儀とされているが、対象者、式次第、執行場所が異なり、2つの儀から成る二重構造となっている[110]

大祓Aの参加対象者は天皇である[118]。一方、大祓Bの参加対象者は百官男女で、集解によると、親王以下官男女の全員で、通常は官人に含まれない下働きまで含み、つまり天皇を除く朝廷の参仕者全員とされる[118]

大祓Bの前に大祓Aが実施され、これは大祓Aが大祓Bの上に位置することを示し、天皇と百官の在り方を象徴するものと思われる[78]。二季恒例大祓は、罪穢の除去、除災招福という目的を持つと同時に、大祓Aと大祓Bによって、百官の上に天皇が立つという関係を具現・確認する儀であった[78]。「神祇令」はあくまで律令国家の祭祀を規定するものであり、「神祇令」掲載の他の祭祀では天皇の儀が伴う場合も言及されておらず、天皇の儀に触れているのは二季恒例大祓のみである[119]。つまり、大祓Aは天皇の個人的な儀や天皇家の儀ではなく、律令国家のトップに立つ者としての天皇の儀である[119]

持統天皇崩御時に、大祓Bの実施を中止し大祓Aは行ったといった記録もあり、この2つの儀は異なる原理で行われていたことがわかる[111][120]。また大祓Aでは、古い渡来氏族の東西文氏(東西文忌寸部氏)の東西文部[注釈 11]が「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」を漢音(中国音)で読み上げるが、これは大陸(中国)の思想に基づいており、道教的色彩の濃い祓詞(呪)で呪術的要素を含み、除災招福、息災延命祈願を目的とする[111]。一方大祓Bの祓詞「大祓詞」は、中臣氏が大和詞で宣り、内容的には神祇(神道)思想に立脚しており(ただし、大祓Bの祓具には道教の影響が指摘されている[124])、最終的な目的として除災招福の要素もあるが、その手段は天皇以下の臣下の罪穢の除去である[111]

並木和子は、両者は元々独立した別の儀であった可能性が高く、大祓Aは大化以前から存在し、一方大祓Bが天武朝に創られ、そして律令制下で祭祀制度を形成するに当たり両者を結合し、二季恒例大祓とされ、大祓Aの中臣の儀は2つの儀を結びつけるために付け加えられたと推測している[19]。武光誠もまた持統天皇崩御時の記録から、大祓Aが本来の朝廷の祓の行事であるとし、元々天皇家が中国の祥瑞災異思想に通じた知識人である東西文部に小規模な祓を行わせており、大祓Bが後から追加されたと推定し、それは天武朝以降とみている[20]。武光誠は、大祓Aは彼らが渡来してまもない6世紀頃から始まった可能性もあるとしている[125]

天皇を対象とする儀

大祓Aの式次第は次の通りである。中臣卜部の儀と東西文部の儀の二重構造となっている[17]

  1. 中臣による大麻儀
  2. 東西文部による祓刀儀
  3. 東西文部による祓詞儀[111]

祭場は内裏の正殿紫宸殿であった[126]

二季恒例大祓の祝詞としてよく知られるのは大祓詞であるが、大祓Aの祓詞はこれではなく、「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのしゅう ふちのふみべもこれにならへ)」という祓詞(呪)である[127]。これは東西文部が天皇の御前に「祓の横刀(たち)」を献り、漢音で読み上げるものであった[127]。天皇の身の災いを防ぐことと天皇の長寿延命を願い、国(日本もしくは東西文部の故郷の中国[注釈 12])が良く治まることを願い祝福するもので、道教の神々・道教的神々が列挙されており、道教的色彩が濃い[27][128][129][130]

この儀は大宝2年(702年)成立の『続日本紀』に記載があり、これ以前から行われていたことは確かだが、大宝律令の段階で法的に制度化されたと考えられる[131]。『儀式』『延喜式』の「御贖(みあが)の儀」に相当するものであるが、「御贖の儀」が天皇だけでなく中宮東宮にも行われていたのに対し、天皇に対してのみ行われた[127]

謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以銀人(禄人[注釈 13])、請除禍災。捧以金刀、請延帝祚。呪曰[注釈 14]、東至扶桑、西至虞淵。南至炎光、北至弱水、千城百国、精治万歳、万歳万歳。[129]『延喜式』

福永光司によると、皇天上帝三極大君などは『書経』や『易経』に基づく道教的な神々であり、東王父西王母などは道教の神々である[130]。真っ先に挙げられている皇天上帝は中国古代の最高神である[132][133][注釈 15]。金属製の人形の「銀人/禄人[注釈 16]」を神々に捧げて天皇の身から災いを除いてくれるよう願い、「金刀」を捧げて天皇の御位(寿命)を伸ばしてくれるよう願う[134]。並木和子はこの祓詞について、「大陸の思想に基づいた直接的な除災招福・息災延命の祈願」であって、罪穢を祓うという考え方は表面に出ていないことを指摘し、祓詞というより呪言というべきと述べている[130]。「金刀」は東西文部が献上するのではなく、官司が作ったものを彼らに預けて天皇に奉る形であり、よって服属儀礼ではない[135]

粕谷興紀は、この儀は東西文部が天皇に奉る形であるが、同時に自分たちが信奉する道教の神々に捧げるという二重構成になっており、東西文氏(東西文忌寸部氏)という渡来人の独自色が強いと指摘し、彼らの道教的な「呪」を「御贖の儀」に無理に合わせて転化したものではないか、と推測している[136]

天皇を除く朝廷の全参仕者を対象とする儀

大祓Bの式次第は次の通りである。

  1. 中臣による祓詞儀
  2. 卜部による解除儀[111]

大祓Bで中臣が宣る祓詞が大祓詞である。(冒頭と最後に置かれた周知などを除く)本文の構成は大きく2つに別れ、前段は神話であり、まず天孫降臨神話を掲げて、大祓が高天原に由来する重要な行事で、それが天孫である天皇によって行われると述べ、その天皇の籠もる祈願の場としての「みあらか」、宮殿の意義に神話を収斂させている[137][138]。後段は祓であり、前段の神話の権威によって祓を達成しようとする構成となっている[137]。大祓の必要性を説き、神々によって罪が祓われる過程が説明されている[75]

青木紀元は大祓詞を分析して三段階を経て成立したものとし、「天つ宮事により天つ金木・天つ菅曽の行事を行い、天つ祝詞の太祝詞事を宣ることによって罪は祓われる」という古い本来の祓思想[注釈 17]と、祓が終わった後に「祓えつ物(祓のために神に捧げる品物)」を川に流すことで罪が清められるという新しい祓思想が混在していることを指摘している[140]。新しい祓思想は、本来別の概念である祓と(みそぎ)が混同される過程で生じたものと考えられる[140]

現在は、大正3年(1914年)に当時の内務省の選定による神話や障害者に対する差別的な表現内容を含む天つ罪・国つ罪の列挙の部分が大幅に省略された大祝詞が奏上される。これは中臣祭文[141](さいもん)とも言われ、現在の大祓詞はこれを一部改訂したものになっている。

大祓Bの大祓詞で、祓うべき罪として挙げられる国津罪・天津罪は、人を殺すことや謀反のような基本的刑罰の対象となる罪ではなく、共同体秩序の破壊、農業関連の妨害行為、または神事に関する農業(新嘗祭用の田の経営)の妨害行為、これが象徴する祭式や神聖なものの冒涜である[142][143]

諸国大祓

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宮中ではなく諸国で行われる諸国大祓もあり、天武天皇10年(681年)7月・朱鳥元年(686年)に諸国大解除の記事がある[75][34]。諸国大祓は、朝廷から派遣された大祓使によって諸国で執り行われたが、福永光司によると道教的色彩の濃い祭祀であった[84]

臨時大祓

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朝廷の大祓には、天皇即位後の最初の新嘗祭である大嘗祭の前後や、斎宮斎院卜定(による任命)・群行(宮中から伊勢に向かう儀礼の旅)、大規模な疫病の流行、妖星(彗星・流星などの特異な星のことで、凶兆とされた)出現などで臨時に執り行う臨時大祓もあった[34]

科刑としての大祓

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平安時代に入り、神の祟りを事前に防ぐことを目的とする「由の大祓」が成立したが、人に課せられる贖罪・科刑の意味での祓もこれに並行して変化し、神祇(神道)に関するものに限られるようになり、延暦20年(801年)に、祭(神事)の違反に対して課される大祓・中祓・下祓の科料が規定されている[37][144]

平安時代以降

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平安前期(9世紀後半の光孝天皇朝まで)までは、大祓Aと大祓Bの二部構造で、両者が連動する形を維持していたが、大祓Aは『儀式』で「二季晦日御贖(みあが)儀」と記されるようになり、天皇だけでなく中宮・東宮の儀についても記載されるようになった[87]。以降、大祓Aが大祓の名で呼ばれることはほとんどなくなった[87]。このような変化は、天皇の在り方が、律令的官僚機構の上に立つ公的存在(律令的天皇)から、上級貴族が政治を行う体制の中心の存在であり官僚機構と直接的な関係のない王朝的天皇に変化したことと連動するもので、大祓Aが王朝的行事・宮廷行事へと変化する端緒であると考えられる[87]。平安時代中期(9世紀後半 - 12世紀)には、御贖の儀(大祓Aの発展形)は律令的天皇の行事の色を弱め、元々道教色が濃いにもかかわらず神祇(神道)色を強め、節折の儀が加えられた[145]。祭場は元々内裏の正殿紫宸殿であったが、天皇が日常的に過ごす場である清涼殿に移動しており、これも天皇の在り方の変化に伴う変更と考えられる[126]

律令官人制が再編成されて貴族社会の新しい身分秩序が形成され、律令制下の百官は政治集団としての上級貴族と中級・下級の官人(実務官人集団)に分裂した[88]。こうした律令官人制の構造変化に対応し、大祓Bはいくつかに分裂・派生し併存していた[146]。中級・下級の官人の官祓が大祓Bに当たる[146]。大祓Bの行事を司る役職は、平安時代前期までは大臣・納言が勤めることもあったが、醍醐天皇朝の昌泰年間(898年 - 904年)以降は参議が担当し、大祓Bが行われなくなるまで続いた[88]。参議は議政官としての地位は高くないが、殿上人ら天皇の侍臣の中での地位は高く、参議が行事を司る役職を勤めることで、大祓Bと天皇のつながりが持たれたと考えられる[147]。また、『西宮記』の大祓Bの記述における「御贖物」は、「御」の字から天皇が大祓Aで用いた贖物と考えられ、大祓A(御贖儀)と大祓B(官祓)は、こちらでも形式的な繋がりを保っていた[148]

大祓Bから分離したと考えられる内蔵祓には殿上人と蔵人所の人々が参加し、これに伴う饗は河原で行われたが、祓も河原で行われたようである[148]。内蔵祓の式日は不明だが、大祓Bの派生であることから6月12月の晦日もしくはその数日前に行われた可能性が高いが、この日には他に宮中で「人形菅抜(茅の輪)」を用いた祓が行われたという記録もあり、これらは天皇の直接的な臣下の祓といえる[149]。またこれら以外に、太政官解除とも呼称された太政官の祓などの諸司単位の六月祓もあり、広く行われていたようである[149]。諸司は大祓Bの参加者でもあるが、並行して諸司が独自に六月祓を行った理由としては、諸司の独立性・自己完結性が高まったこと、律令財政の破綻で中級・下級の官人が位録(国からの給料)の支給を受けられなくなり諸司への帰属を強めたこと、陰陽祓の普及、人々の穢意識が変化し、人の罪穢ではなく場の穢の祓が必要とされたこと、などがある[7]

庭前で祈祷を行う陰陽師の安倍晴明。左上が病鬼、右側が式神。「泣不動縁起」、15世紀[150][151]

中臣祓のような「神々による祓」に対する人々の関心は高まっていったが[75]、平安中期の朝廷では神祇(神道)は天皇中心の体制で、神祇官の祓はおいそれと受けられるものではなかった[126][7]。陰陽師の祓はこうした制約もなく、貴族社会には陰陽道的祭儀を含む呪術的儀が急速に広まり、院や上級貴族諸家は10世紀半ば頃から陰陽師による恒例・臨時の祓を行っていた[126][7]。諸司単位で行われた六月祓は陰陽師の祓である[149]。陰陽師の祓は、11世紀には菅抜(小型の茅の輪)を用いてたことが窺われ、六月祓、夏越祓等と呼ばれていたが、12月に行われた例は見られず、大祓Bとは明確に別ものと認識されており、呼称が混同されることはなかった(近世以降は混同されることが多い)[89]。また中世には、天皇に仕える女房や侍従(天皇の直接的な臣下)が茅の輪を用いて行う祓があり、六月祓と呼ばれていたが、内侍や宮中の女房らは大祓B(官祓)にはいかず、こちらに参加していたようである[152]。なお近世以降、夏越祓(名越祓)六月祓(水無月祓)等と呼ばれた旧暦6月の祓を朝廷の国家儀礼である大祓と混同する例が見られるが、別物である[89]。これら六月祓は宮中の正式な典礼ではなかった[44]

このように10世紀以降、大祓B(官祓)以外にも公の場で多くの恒例祓が行われるようになり、相対的に大祓Bの罪穢消去機能の価値は低下したと思われるが、この行事の機能や意義はそれに限られるものではなく、引き続き行われた[89]。「神祇令」に規定された祭祀・神事は12世紀以前に衰退し、多くが行われなくなったが、大祓Bは、祈年月次、新嘗といった重要祭祀と並んで15世紀まで存続した[33]

13世紀初頭から14世紀初頭の鎌倉時代には、朝廷・天皇のもとで平時には大祓A・大祓B共に実施されていた[153]。院政の上皇や鎌倉幕府では、六月祓は行われたが大祓Bが行われることはなかった[153]。南北朝時代には、北朝で大祓が行われたことが確認できる[153]。大祓Bには内侍(天皇の直接の部下)が参加するようになり、これにより朝廷に所属する官司・官人集団の各代表が集結する形となり、本来の大祓に近づいた面もあるが、一方大祓Aは大祓Bの後に行われるようになり、両儀のつながりはなくなり、こちらの面では本来の姿は失われた[154]

二季恒例大祓の12月の大祓は早くに廃れたとする説もあるが、貞治年間(1362年 - 1368年)には、まだ6月の大祓と同様に行われていたことが確認できる[91]。12月の大祓はこの頃から諸司に付される例が多くなっていったが、6月の大祓と同様に15世紀半ばまで続いた[91]

平安宮は中期から徐々に荒廃し、天皇の主な住まいも平安宮外の里内裏に移っていった。平安後期には宮域内の大半が原野と化しており(人々が車馬で往来し家畜が放牧されていた)、天皇も儀式のときに内裏に来るだけとなり、承久3年(1221年)に承久の乱により建設中の内裏の造営が中断し、その後の火事で内裏は廃絶、里内裏が正式の「皇居」となった[155]。しかし、宮域内の原野は単なる空き地ではなく、王権にとって即位式・大嘗祭・大祓などの国家的な儀式・祭祀の場として必要であり、鎌倉時代後半以降も朱雀門などの外郭施設を整備し続けることで場を保っていた[156]。関係者が特定の日時に特定の跡地に集まって儀礼・祭祀を執り行ったと推定されている[156]。仁治3年(1242年)の後嵯峨天皇大嘗祭に関する記録では朱雀門の存在が確認できるが、弘安9年(1286年)の大祓は朱雀門跡地で行なわれており、この時点で朱雀門跡は廃絶していた[156]。並木和子によると、二季恒例大祓の最後の記録は、室町時代の享徳3年(1454年)12月で、以降に臨時大祓や六月祓などは行われたが、二季恒例大祓は確認されていない[91]。最後の二季恒例大祓の後に応仁の乱(1467年 - 1477年)で公家の多くが京を離れ、かろうじて存在した太政官組織・官人制が解体、二季恒例大祓を行う組織はなくなった[91]

応仁の乱後の公家社会、朝廷は天皇を中心とした小規模で自己完結的なものとなり、官職は名目のみのものとなり、二季恒例大祓の復興が目指されることもあったが実現しなかった(朝廷の儀で復興したものは他に幾つかあった)[42][33][90]。一方、六月祓が宮中以下に定着し、朝廷の規模的に宮中の祓はこれで事足りたのか、朝廷や神祇官も二季恒例大祓に特に意義・価値を感じなくなっていたようである[90]

臨時大祓

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淳仁天皇朝には、天長7年(830年)に賀茂川での斎王禊に続いて大祓が行われたが、祓所は朱雀門ではなく建礼門であり、文徳天皇朝にも斎王を伊勢から迎える際・斎王を任じる際に建礼門で、群行の際には朱雀門と建礼門で大祓が行われている[157]。これらの大祓は「国家の祓」ではなく、天皇の居所というごく限られた空間に「清浄性をもたらす」ための「大型化した禊」として行われたとみられる[158]。穢意識が発達し「穢を近づけると祟をなす神」という神観念の形成が形成されたことで、祭祀の主体としての天皇に清浄性が強く求められるようになり、禊儀礼が行われ、大祓も意味付けが変わり、禊儀礼と「大型化した禊」としての大祓が補い合う形で行われるようになった[159]

由の大祓
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大祓は文徳天皇朝で「穢を除く」という意味付けがなされ、次の清和天皇朝で盛んに行われるようになった[159]。貞観年間に穢意識が増大し、祟りをなす神への恐れが強まる中、「穢」→「神」→「祟」という観念により、「由(よし)の大祓」が成立した[160]

穢規定[注釈 18]に抵触する事で祭が中止された際に、これにより起こる「神の祟」を未然に防ぐために、「穢」→「祭中止」→「由(よし)の大祓」という対応が定番になっていった[159]。「由の大祓」とは、「神事(祭)が穢が原因で中止された場合に、その「由」を祓う大祓」であり、単に穢の除去を目的とするものではなく、「神への謝罪」としての機能が見られる[159]。神祇関連の臨時大祓の主流は、神事の前に穢を除く「禊」としての大祓から「由の大祓」に移行していき、貞観17年以降は定例化したと考えられる[159]。由の大祓は必ずしも神官によるものではなく、陰陽師によるものも記録されている[57]

大祓の矮小化
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天皇個人の諒闇(父母が死去した際に天皇が喪服を着用する服喪期間)終了時は朱雀門大祓が、御心喪(諒闇後の天皇の内心での服喪期間)終了時は建礼門大祓が行われるようになった[162]。奈良時代には、天皇の服喪期間(釈服)が終わる節目に諸国に祓使の派遣が行われていたが、平安時代にはそれも行われなくなった[162]。火事、造営・作事始等の際にも大祓が行われた[162]

また、仏事に転用されて「仏事大祓」が行われるようになり、文献上の初見は天暦947年で醍醐天皇朱雀天皇朝には成立していた可能性がある[162]。これは天皇の御願による仏事(法会)に先立ち、これを行う限定的な空間を清浄にするために行われたと考えられる[162]

ほぼ同時期には、天皇一代に一度行われる一代一度大奉幣を前に行う大祓が定着している[163]。初見は寛平9年(897年)で、醍醐天皇が臨席しているが、大祓への天皇の参加は前例が見られなず、天皇の私的な祓禊の面が見られる[163]。摂関期に始まる天皇の神社行幸(参詣)の前にも大祓が行われ、仏事・神事を問わずに「天皇の御願による宗教行事」に大祓が行われるようになった[164]。三橋正は、これらには「国家秩序を象徴する儀礼としての面影は見られない」と指摘し、大祓は「神の祟を恐れる天皇の私的な祓」へと転化し矮小化したが[注釈 19]、だからこそ多くの律令祭祀が形骸化して実施の意義を失う中で、実質的な機能・意義を持つ儀礼として継続されたという見解を示している[164]

宮中行事・習俗としての展開
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宮中では、北辰(北極星)に灯火を捧げて安寧を祈る道教的行事の御燈に伴って、由の祓が行われたが、摂関期以降は灯火を捧げることが省略され、「御燈の由の祓」として年中行事化した[39]。また、二季恒例大祓の天皇の祓から展開した節折も宮中で年中行事化した[39]。年二回の大祓のは貴族社会に定着し、特に六月の祓は「夏越の祓」として風流(季節のイベント)にもなった[39]。「御燈の由の祓」は中国から伝わった上巳の祓と習合して雛祭りへと展開した[39]。不浄や災厄を移した人形を川に流していたが、3月3日の節句流し雛に発展し、江戸時代には雛人形が普及した[39]

中臣祓とその展開

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朝廷の大祓の形骸化に伴い、貴族が個人レベルで祓を行うようになり、貴族が私的な宗教儀礼・信仰習俗として取り入れることで祓の儀礼が普及した[41]。平安中期以降に貴族社会等で行われた私的祈祷は陰陽師や僧侶によるもので、主に陰陽師が担ったが[注釈 20]、彼らは中臣祓を「祓ひ給ひ清め給ふ」荘厳な呪文として用いた[41][42][37][43]。神職は神社に属しその神社の神々に奉仕するため、外に出て個人のために私的な祈祷を行うことは難しく、そのため民間の陰陽師が活躍した[49]。10世紀には水辺で行う陰陽道の祓の河臨祓七瀬祓が国家的行事・国家的呪法として行われており、これらは安産や病気平癒のための呪法、祈祷の一種、個人祈願の呪法として流行した[45][43][47][注釈 21]。密教修法と同じく回数が多いほどご利益があると考えられ、百度祓・千度祓・万度祓の度数祓が行われるようになった[43][47]。仏教では陰陽道の祓の影響を受けて、仏教の六字法[注釈 22]と河臨祓を習合させ、反逆呪詛(呪詛の祓)・病事・産婦のための修法である密教儀礼・仏教祓の六字河臨法が作られ、修法に陰陽師を招いて中臣祓を読ませるだけでなく、僧が中臣祓を読むようになった[46][47][48][46]。神道でも、陰陽道の祓・仏教の祓の影響を受け、平安末期には伊勢神宮の御祈祷師(後の御師につながる)が病気や安産祈願などの「私的な祈祷としての祓」の分野に進出して東国各地で活躍するようになり、これが中世の伊勢大神宮信仰を推進する原動力となった[49][47][167]。神道は神社のある地域に活動が限定されていたが、こうして新時代を迎えた[49]。中臣祓は必要に応じて改編されて用いられた[47]

祓の儀礼は中世には習俗化し簡略化していったが、中核には中臣祓があり、そのため陰陽師や僧侶が担っても神道儀礼として理解されていた[50]。呪文化した中臣祓は、日本固有のものと捉えられ、「日本」研究の古典、一種の「神道古典」と解釈され研究され、この注釈から様々な神道説が生まれた[52][53]。中臣祓(大祓詞)は陰陽道や仏教と深く関わりながら、両部神道伊勢神道(度会神道)、 吉田神道(卜部神道、唯一神道)、 伯家神道垂加神道復古神道等の神道の教義や、学問、実践の重要な部分の形成に関わった[42]岡田莊司は「神道の理論的形成は、古代末期の律令的秩序の崩壊と価値大系の変動に起因する仏教革新運動の一環として位置づけられる。」と述べている[51]。陰陽師・僧侶・神職それぞれの立場から多くの中臣祓の注釈書が書かれたが、初期の注釈書はほぼ仏教側によるものである[168]。初期の神道思想は、天台宗・真言宗の高僧たちの教学研究から生まれた[51]。神道の思想史的展開は仏教側から始まったが、古代律令国家の解体が進み混沌とする時代の中、当時の新仏教である浄土宗に対する旧仏教側の高僧たちの危機感、末法という時代意識が出発点となっている[169][170]。旧仏教側は、仏法の衰えた末法の世でも中臣祓の効能で罪咎も滅すると強調し、苦しみを取り除き楽を与え、福を速やかに招く等と説いたが、これは苦しむ民衆の願望を反映させたものであった[171]。当時浄土教が流行したが、これは死後の来世極楽浄土)における救済を信じそれを目指すものであり、現世否定の宗教である[167]浄土教の一派である日本の浄土宗の祖法然は、絶対的な救済者を阿弥陀如来のみとして専修念仏を説き、神に祈ることを否定したが、真言宗真言密教)を中心とする旧仏教側は、救済者を阿弥陀如来のみとする法然の考えと根本的に相容れなかった[170]。旧仏教側の僧たちは浄土教に対抗し、末法の世における自教の有用さを示すために中臣祓を取り入れていき、中臣祓によって自身が救われたい・人々を救いたいという願いを結晶する形で、『中臣祓訓解』やその異本の『中臣祓記解』といった中臣祓の注釈本が書かれた[167]。旧仏教側はこうして神道思想を発展させ、時代に即した思想を体系的に形成し、浄土教・浄土宗への批判を展開した[170]

神道は国家体制の中にあったこともあり、儀礼面は厳重に整えられ祭祀が執行されていたが、思想面・理論的は全く未発展であり、仏教側が展開した神道説を受け継いで、そこから神道理論を体系化していった[51]。神道側による神道説は、仏教側の中臣祓の注釈書を下敷きに仏説を排する形で展開した[51][168]。律令祭祀であった神社制度は古代律令国家の崩壊で変化せざるを得ず、経済基盤を失いつつあった神官たちは強い危機感を抱き、これが神道側による神道思想の発展・組織化につながった[51]。伊勢神道(度会神道)は、真言宗による両部神道の初期の中臣祓の注釈書を吸収し、強い影響を受けて形成された[51][172][注釈 23]。こうして形成された神道説は、仏教・儒教・道教などの外来思想の影響が強く、用語や概念を取り入れて形成されており、神道で重視された清浄を心の問題として見る際には、仏教の「禅定」や儒教の「正直」等の言葉で表現され、内面的な純粋さが求められるようになった[173]。神道説で説かれる清浄性は朝廷が定めた穢規定の次元を超えて仏教的に理解されており、両部神道の『中臣祓訓解』では中臣祓は仏教的に解釈され、中臣祓により煩悩に汚されない清浄な「心の源」が得られるとされ、心の清浄性が強調された(煩悩は仏教用語)[173]。吉田神道の創始者の吉田兼倶は中臣祓の講釈を頻繁に行っており、神代から代々続く日本神道はインドや中国に勝るもので、中臣祓は(吉田神道の拠点である吉田神社の祭神でもある)春日明神の作であり、日本の祓が最古かつ最上であると主張、中臣祓等の伝授を行って自身が提唱した吉田神道の普及に努めた[174]

大祓と記紀神話は律令国家・天皇制の形成期に作られたものであり、そのため天孫降臨などのモチーフを共有し、当時の精神が投影されている[52]。記紀神話は天皇による日本支配の正当性を語るものであるが、中臣祓(大祓詞)にも同様の面があり、両者は一体的に解釈されるようになった[175]。こうして宗教者たちは、中世における実際の天皇権力・王権とは離れた場所で、古代律令国家が創生期に残した枠組みの中で中臣祓を解釈し、王権を精神的に追及することになった[52]。その結果、「日本」や「神道」を意識すると「記紀神話」と「大祓詞」に回帰し、必然的に天皇を指向する、という思考構造が形成され、天皇の存在とは離れた場所で天皇権力と特に利害もなく、天皇制を支えようとする思想が起こり、天皇の精神的権威が高められた[175]

江戸時代には、吉田家が幕府の公認のもとで全国の神社・神職を広く支配していたため、吉田神道の思想的な影響も大きく、中臣祓を理論付けて宗教的実践と結び付けて重視することも広まり、江戸時代だけでも中臣祓に関する書が300以上も書かれ、少なくない数が流布していた[175]垂加神道を創始した山崎闇斎は、日本では神代から天皇との君臣関係が不変・絶対であるという政治的な面を含む神道論を説き、中臣祓を解釈して祓の儀礼を絶対的な君臣関係の象徴と解説し、神道・中臣祓と尊王を結びつけた[175]。江戸時代の中後期の国学の盛り上がりの中、国学者の大祓詞への関心が高まり、中臣祓ではなく『延喜式』に収録された大祓詞の注釈研究が盛んになり、本居宣長は、神話との関連だけでなく歴史的考察を行い、古代律令国家が大祓を行っていた実態を明らかにし、民間の祓の儀礼での中臣祓の読誦と本来の国家儀礼としての大祓との違いを示した[176]。神道は、山崎闇斎によって尊王との結びつき、本居宣長によって復古と日本的純粋性を希求する道が示されたことで、王制復古の精神へと展開し、明治維新後に政府の「政祭一致」の理念のもとで国家神道となった[55]。明治政府は、民間での祓は正統的でないとして禁止しており、伊勢神宮改革で御師たちの御祓大麻の配賦も禁じられた[56]

明治政府による国家神道・旧儀再興の流れに乗って、「万民の罪穢を祓う行事」、国家の祓として二季恒例大祓が再興され、宮中で行われるようになった[177][33]明治4年(1871年)、明治天皇宮中三殿賢所の前庭にて二季恒例大祓を400年ぶりに復活させ、翌明治5年に太政官布告を出して『大宝律令』以来の旧儀の再興を命じた[178]

再興された二季恒例大祓は、大正昭和平成大嘗祭に際しても執り行われた。

参列する皇族を成年男子の親王に限っていたが、平成26年(2014年)に宮内庁は、男性皇族が実質少なくなったことを理由に、以降の二季恒例大祓への参加を成年の女性皇族にまで広げると発表した[179]

民間の6月の祓

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六月祓、夏越祓は、平安中期10世紀半ば頃から行われた陰陽師による祓の呼称であり、11世紀には菅抜を用いてたことが窺われる[89]。また中世の宮中には、六月祓と呼ばれる行事があり、天皇に仕える女房や侍従が茅の輪を用いて行う祓であったが、これは天皇の直接的な臣下、天皇家の家人としての行事と見られる[152]藤原忠通の詩では六月祓を「世上の流例」としているが、これは俗なことを意味し、公式な典礼でなかったことが分かる[44]。六月祓が12月に行われた例は見られず、二季恒例大祓とは明確に別ものと認識され呼称が混同されることはなかったが、近世以降は混同例が多く見られる[7]。近世に民間の夏越の祓と朝廷の二季恒例大祓が混淆された可能性がある[180]

夏越の祓

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民間では伝統的に6月(旧暦)に「夏越の祓」「名越の祓」が行われ、「六月(みなつき)祓」「夏祓」「夏越神事」などと呼ばれることもある[5][6]一条兼良による室町中期の『公事根源』の記述を見るに、6月の「なごしのはらへ」は家々で行わる行事であった[181]

村々で春秋に行われた祭は農耕の祈願と感謝の祭りであるが、夏に行われる祭りは「浜降り」「船渡御」など水に関わる行事が多く、夏越の祓はこうした夏祭りほぼ同じ季節に行われた[5]。夏越の行事は、先祖祭を前提に理解されている[182]。また、野神や山の神との関係、稲作に関する儀礼との関係も指摘されている[183][注釈 24]。夏越の祓は、稲の穂孕みの季節を迎え、田に最後の水を張る季節に行われる[184]。大形徹によると、夏越の祓の茅の輪くぐりは、冬の終わりである大晦日に行われる追儺と対照をなしている[182]

夏越の祓は6月に行われたが、必ずしも6月の晦日に行われていないというのが定説である[5]。6月の晦日に行われたものは、朝廷の二期恒例大祓の6月の大祓に合わせたと考えられる[5]

行事の内容としては、の輪を潜ることと、水辺で麻・木綿などを着けた五十籤を立てて祓を行うことがあるが、大森志郎は茅の輪を潜ることが本来の夏越の祓であると述べている[5]。水辺の祓の由来は分からないが、朝廷の大祓系統の要素を取り入れたものかもしれない[5]

夏越の祓(名越の祓)は、「ナゴシ」を「ナゴす」という動詞と関係があるとみて、「神を和ごす」、つまり神々を和めるの意味という意見もある[185][注釈 25]。大森志郎は、夏越の祓は神々への奉仕の行事ではなく人間のための行事であると指摘し、「神を和ごす」説を机上の説と退け、大神神社の茅の輪くぐりを司る綱越神社の名前から、茅の輪くぐりがもともと綱[注釈 26]を越す神事で「綱越の神事」と呼ばれた可能性を指摘し、「ナゴシ」は元々「ツナコシ」であり、夏の行事であることから「夏」の字が当てられた可能性を示唆している[187]

茅の輪・菅抜

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牛頭天王(西大寺所蔵吉野曼荼羅図、南北朝時代))
牛頭天王とスサノヲの習合神 祇園大明神(『仏像図彙』、1783年)
スサノヲ(1858年)
天刑星(12世紀の辟邪絵

「茅の輪」とは茅(チガヤ)を束ねて輪にしたものとされる[188][注釈 27]。菅抜との輪は近い関係にあり、同一のものとされることもあるが、大型で人が潜るものが茅の輪、小型で人が身につけるものが菅抜(菅貫)と区別され得ると思われる[5]。茅は中国で古くから宗教的行事に多用され、邪霊を取り除き清める「辟邪」や「祓え」では、茅・白茅が頻繁に用いられてきた[190]。山中裕によると、平安時代以前の文献に六月晦日の道具として茅の輪が登場することはない[191]。また『延喜式』の二期恒例大祓の科物、祓えつ物にも見られない[191]。「茅輪」が登場する最古の文献は、平安時代末期の『執政所抄』であるが、大きさや使用方法は不明である[191]。菅抜という言葉は鎌倉時代以降徐々に使われなくなったようで、これと入れ替わるように「輪越」「御輪」、そして「茅輪」という記述がみられるようになっていった[192]。菅抜を衣の襟に掛ける行事は12世紀から見られ、17世紀後半の『日次紀事(ひなみきじ)』には、7月7日に高貴な童子の形の金銀の茅輪を賜り、それを7月晦日まで身に付ける宮中行事があったと記録されている[193]

茅の輪くぐりは祓とされているが、一般の祓とは異なり、疫病を避けることが起源である[194]牛頭天王信仰として理解され、年中行事として定着した[61]。牛頭天王は疫病の根源であり、疫病をもたらす悪神(眷属)を支配すコントロールする神であることから生じた信仰と考えられるが[61]、この信仰はインドから中国を経て日本に伝わったと思われるが、かなり複雑化しており、牛頭天王のほかに、スサノヲ、仏教の薬師如来観音菩薩大日如来、道教の商貴王(鍾馗)・天刑星陰陽道方位神である天道神・歳徳神八将神、朝鮮の民俗信仰の「ソシモリ[注釈 28]」など、アジア世界の様々な尊格・信仰が包摂されている[62]。仏教思想や渡来系氏族の信仰、特に陰陽道とも混じりあって一体視されたものと考えられる[62]。なお、牛頭天王は単純に仏とも言い難い尊格であるが、明治維新神仏分離(神仏判然令)で仏菩薩に近い存在として明治政府に名指しで排斥され、牛頭天王とスサノヲの習合は否定され、祇園社(現八坂神社)と全国各地の祇園社系神社の祭神はスサノヲに変更されている[63][64]

茅の輪は一般的に、鎌倉時代の『日本書紀』注釈書の『釈日本紀』に記載引用されている『備前国風土記』逸文の蘇民将来の伝承に由来するとされており(『備前国風土記』自体は失われており、この記述が『風土記』編纂時のものかは疑問視されている[196])、現在では茅の輪と疫病の神である牛頭天王(=スサノヲ)はこの伝承を介在に強く結びつけられているようである[197]。『備前国風土記』逸文の蘇民将来の伝承は疫隅国社(おそらく江熊天王社〔現素盞嗚神社[198])の縁起として語られており、武塔神が蘇民とその家族に、魔除けの呪具である茅の輪を腰につけることを教えたとされる[188]。内容は次の通りである。

  1. (備後国風土記における疫隅国社について)昔、北海にいらっしゃった武塔神が南海にいる女子を妻に娶ろうと旅立った。
  2. しかし、日が暮れてしまったので、蘇民将来という二人の兄弟に宿を借りることにした。
  3. 初めに、大変裕福な弟の将来(巨旦将来)の家を訪れた。しかし、弟将来は武塔神に宿を貸さなかった。
  4. 次に貧しい兄、蘇民将来の元へ訪れた。この兄は、貧しいながら柄(あわがら、粟の茎)を敷き、粟飯などでもてなした。
  5. その後数年を経て、武塔神は八柱の御子(八王子)を連れて兄蘇民将来の元へ、再度訪れ、蘇民将来に対して恩に報いたい旨を伝え、また彼に子孫はいるかと尋ねた。そこで蘇民将来は、娘が妻といると答えたところ、腰の上に茅の輪をつけさせよ、と命じた。
  6. そこで蘇民将来は、娘に茅の輪を付けさせたところ、その夜になり、武塔神と八柱の御子が、蘇民将来の娘だけを残し悉く滅ぼしてしまった。
  7. 武塔神は、「私は速須佐能雄神である、後世に疫病が広まった時、お前(蘇民将来の娘)は、「蘇民将来の子孫なり」と言って、茅の輪を腰につけたならば、その疫病から逃れられるだろう。」と仰った。[199]

この伝承で武塔神は疫病の神、防疫・除疫神的な神格をもち、武塔神・蘇民将来・巨旦将来が音読するしかない名前であること、兄弟の名前の異質さ(姓名の順が逆か)、北海・南海といった逸文の記述から、大陸から渡来した神と考えるのが自然である[200][201][202]。『備前国風土記』逸文に牛頭天王の名はないが、牛頭天王信仰の中心地のひとつである京都の祇園社(現八坂神社)の「祇園牛頭天王縁起」のプロットがほぼこの伝承と同じであり、『神道集』等で牛頭天王と習合・異名の関係とされた武塔神を媒介に、牛頭天王とスサノヲが結びつけられたと考えられる[203][204][注釈 29]。疫病(伝染病)は海外からやって来るため、海外から渡来した疫病の神を祀ることで防疫・除疫に繋がるとされていた[206]

祇園祭のチマキ

國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館は、「菅貫(菅抜)は平安時代以来の夏の祓の道具だが、後世、素盞嗚尊が伝えた疫病よけ・茅の輪と同一視され、人がくぐれるものも作られた。」と述べている[207]。茅の輪や注連縄、元々牛頭天王を祀った八坂神社の祇園祭の飾りチマキ(これも蘇民将来の故事と重ねて語られる)等は、「悪鬼を縛り上げ、包んで封じ込め、あるいは食らい、また邪気をそぎおとしたりする効果を期待している」と思われる[208]。茅の輪ではなく「蛇(じゃ)」と呼ばれるものを防疫の呪具とする説話もあり、簡略化されているが蘇民将来の伝承と同系であるが、この「蛇」とは江戸の駒込の祭で売られていた麦藁の蛇の呪具のことのようである[209]。説話と呪法が形を変えて伝播していたことが分かる[209]

大形徹は、これらは中国の『山海経』に登場する葦索(葦縄)につながるものと推定しており、また満州旗人満州人)の家では正月などの祭事の際に注連縄と同じ形状の「草包」と呼ばれる草の束を家にかけており、これは外部からの穢れの侵入を遮断する一種の魔除けだったという報告(1940年刊行)を取り上げ、東アジア的な広がりを示唆している[208]

茅の輪くぐり

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彌彦神社の夏越の祓の茅の輪くぐり、新潟県
高城神社の茅の輪くぐり(胎内くぐり)、埼玉県

夏越の祓では各所の神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われ、茅の輪をくぐることが祓とされ、病気や厄除けのまじないとされ、長命延寿につながるともされた[188]。明治政府が全ての神社に大祓を行わせるようになったが、全ての神社で夏越の祓(名越の祓)、すなわち茅の輪くぐりを行うわけではない[210]。茅の輪くぐりは珍しい行事ではないが、行う神社と行わない神社がある[210]。大森志郎によると、茅の輪くぐりの行事を伝えてきたのは、祇園社(八坂神社)をはじめ出雲系の神社であり、中世に吉田神道が取り上げて教理を加えたことで、宮中やその他の神社でも行われるようになった[211]。茅の輪くぐりの行事を辿って登場する神々は、スサノヲ、大物主、大国主といずれも出雲系の神である[212]

橋本章は、茅の輪潜りの伝承の順序を次のように整理している。

  1. 蘇民将来の伝承は、茅の輪を腰に帯びることによる災厄からの回避であった。
  2. 平安期、宮廷貴族達の間では菅貫を身に付けて水無月の祓をする習慣があった。
  3. 中世期以降の文献には、六月の晦日に茅の輪くぐりをする事例が多数見受けられる。
  4. 現在、茅の輪くぐりは蘇民将来の伝承を母体として各地の神社で執り行われている。[213]

現代では各地の神社が夏越の祓として茅の輪くぐりを盛んに行っているが、こうした神社はおおむね茅の輪くぐりの由来を蘇民将来の伝承と考えているようである[183]。しかし、蘇民将来の伝承では茅の輪は腰につけるもので、くぐるという所作は見られない[214]

伊勢神宮では中世以降に六月祓・茅の輪くぐりが行われるようになったようである[215]。輪越(わごし)の神事(じんじ)と呼ばれ内宮・外宮で行われ、輪の径は4尺・太さ5寸ほどあり、はじめ茅の輪に芻霊(すうれい。藁や草で作った人形)が挿してある[215]。参加者は人形を持って、「みな月の名越の祓する人は千年の命のぶとこそきけ」と唱えながら3度茅の輪を越し、その後、人形に唾を付けて返した[215]。外宮の記録によると、茅の輪くぐりが終わった後、茅の輪を3段に切って、芻霊と共に神域を流れる豊川に流し捨てたという[215]。明治6年に廃止され、以後行われていない[215]。大森志郎は、スサノヲのヤマタノオロチ退治説話との関連性を指摘し[216]、日本には注連縄を始め、雷神・水神として龍蛇を崇める蛇神信仰英語版の名残がおびただしく見られるが、茅の輪も蛇の形象であるとする説を唱えている[217]。群馬県邑楽郡板倉町の雷電神社では、人々がくぐったあとに茅の輪を解いて、茅の輪を蛇とみなして頭から利根川の本流に流し、祓の完了とする[188]。大形徹は、「川に流すことは『続漢書』「礼儀志」に見えるの行事と同じである」と評している[188]

大森志郎は、奈良県の大神神社では夏越の祓の人形・茅の輪くぐりの神事「おんぱら祭」が行われるが、この祭の茅の輪は三輪神(三輪山の神、大物主)の説話における糸の輪、すなわち三輪神の姿であり、祭神の本質と関わる神事であると評している[187]。三輪神は『古事記』では蛇であることが暗示されており、『日本書紀』では子蛇、または大蛇であり雷であるとされている[218]。「おんぱら祭」は、一の鳥居の外にある綱越神社という小さな社の例祭として行われるが、茅の輪の行事を司る神の社と思われる[187]。大物主と同一神とされる大国主を祀る出雲大社でも6月の晦日に茅の輪くぐりを行っていたが、明治5年の神社改正後には廃止され、どのようなものだったのかはわからない[219]。大国主・大物主は蛇神の性質を帯びているが、スサノヲもまた退治したヤマタノオロチの性質を帯びていると言える[219]

室町幕府では6月晦日に水無月祓が行われたが、夜に茅の輪くぐりが行われ、将軍は左手に麻の葉をもって、筵の上で三度茅の輪をくぐったという[215]。江戸幕府でも茅の輪くぐりが行われていた[215]。橋本章は、『後水尾天皇年中行事』では茅の輪くぐりについて、昔から世俗にあったようだと述べられていることを指摘し、茅の輪くぐりが元々民間で行われ上流階級に伝播した可能性は否定できないと述べている[60]。大森志郎は、文献から上流階級における茅の輪くぐりは院政時代からのものであり、宮中や神社には本来なかったもので、民間から伝わったものであることは明らかであると述べている[59]。室町幕府は、民間の武士が行っていた行事を幕府の公事としたものが少なくない[210]。茅の輪くぐりは上流階級でも神社でも世俗の行事と思われており、神社の公式行事ではなく、あくまで奉仕者たちの個人的な行事であった[210]

現代の素盞嗚神社牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請)では、蘇民将来説話に基づいて茅の輪くぐりを行い、その後に後に解体したものを持ち帰って個々に茅の輪にするという。これについては、行事後の茅の輪には祓われた罪や穢れ・災厄が遷されているため、持ち帰るのは避けるべきという見方もある[220]。茅の輪を川に流す以外に、茅の輪を燃やして迎え火や送り火に用いた地域もあり、祓の側面が見られる[183]。ただし、水にまつわる農耕儀礼の色が濃く、個人の祓や禊の側面が希薄であったり、子どもの行事としての面が強い等、その内容や意味合いは集落・地域によって差異があり多様である[183]

現代の神社では6月と12月末に明治政府が定めた大祓が行われ、6月の大祓だけでなく、12月の大祓でも茅の輪くぐりを行う神社が多く見られる[71][72]

現代の風習

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6月の夏越の祓に併せ、独自の風習が備わるところがある。

京都では「水無月」という和菓子を食べる習慣がある[221]。水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子である。水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、三角の形は暑気を払うため、平安時代の貴族が旧暦6月1日(氷の朔日)、冬のうちに保存しておいて食べた氷を表しているという説がある[222]

明治政府による「神社の大祓」の祭式の制定

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明治維新後、明治政府は文明を開化し、欧米列強諸国と渡り合える国造りを目指し、その中で国の根幹の精神の基礎に「古代よりの神祇(神道)信仰」を据えることを決めて神道国家主義体制がとられ、まず皇室の古儀(古い儀式)の復興の一つとして宮中の大祓が復興された[65][66][注釈 30]。こうした皇室の古儀復興の試行錯誤の中[注釈 31]、新しく「神社の大祓」の祭式が定められ、国民の教化に活用された[65]。神社祭式としての大祓は明治4年(1871年)に実施された[224]

また明治4年の太政官布告では、「夏越神事」「六月祓」の呼称を禁止をして大祓の復活が宣ぜられた[178]。太政官布告では「大祓ノ儀従前六月祓或は夏越神事ト称シ執行来候処全ク後世一社ノ神事ト相心得本儀ヲ失ヒ候ニ付今般旧儀御再興被為在候間追々天下一般修行可致様被仰出候事」とされ、大祓は「六月祓」や「夏越神事」などと呼ばれて行われてきたが、後世になるにつれて、単なるどこかの神社の行事と捉えられ本来の意義が失われてしまったため、古代の正しい儀式の形(旧儀)を再興すると主張され、民間の伝統的な夏越の祓は否定され、明治政府が「復興」した神社の大祓が行われるようになった[67]。岸川雅範は神田神社の例にあげ、江戸の他の神社同様に6月晦日に夏越の祓が行われ、神主・社家により奉仕されていたが、明治政府の命令で行うようになった大祓は、従来の夏越の祓とは違う神事だとされたと述べている[67]

神社祭式としての大祓は明治5年に祓式が制定された[225]。「天下一般修行可致(全国民が(神道的な)修行を実施するように)」 という明治政府の理念により、個人の修行を主眼として定められたものだが、朝廷の大祓式が神社祭式として一般の人々を対象に儀式化されるに当たり、かなり大胆な変更が加えらている[226][177]

宮司による祝詞と神官による「祓詞」の宣読をセットにした二部制の儀式となっており、この祓詞は大祓詞を大幅に短縮したものである[177]。明治政府が定めた二部制の神社の大祓の祭式は、宮司が神殿の扉を開いて祝詞を奏上体で唱え、神官が神殿扉を背に「群參諸人」に対し、公民の犯したかもしれない罪事が祓処の四神により祓われたことを宣命体で宣べる形となっている[227]。神社に祀られる神に祈ることで、その神と祓処の四神との「神講」が行われ諸人の罪穢が払われるという独特の神理解となっており、復興された宮中の大祓とも異なるものとなっている[227]。大祓詞の罪について、東京の中央政府と、神道関係を含む行政全般の中心を自認する京都の地方政府との間で様々な議論が行われたが、外国の目を意識し、特にセックスに関する罪が具体的に列挙されている点が問題視されたようである[228]。東郷茂彦は神社祭式としての大祓導入の主導者はわからないと述べているが[229]、杉山剛は、元土佐藩士で教部省官僚の奥宮慥斎が教部省で、官僚・国学者の福羽美静の指示を受けて実現させたもので、「明治5年に復活されたことは、慥斎の意図が深く関わって実現されたものであった。」としている[230]。奥宮慥斎は高知藩で藩政改革に携わっており、藩の政策として自作の大祓式の普及を試みて頓挫した経験があった[231]

明治政府による二部制の「神社の大祓」の祭式は、明治8年の「神社祭式制定」(式部寮達)に組み込まれ、これにより始めて正式な神社祭式となり、当時の神社界はこの祭式を受け入れていったと考えられる[232]。当時の書籍などからは、明治期の神社では明治政府が定めた二部制大祓式により斎行されていたことが窺われる[232]

明治政府は、天皇皇祭祀と国家的神社祭祀の両制度を整えて、国家の重要な構成要素として組み込み、近代的祭政一致国家を形成していった[233]。明治政府は神社の祭式・祭祀に熱心に手を入れ、大正3年に祭式・祭祀の具体的な手順作法を綿密に定めた[234]。神社の大祓式については内務省訓令第四号による「官国幣社以下神社遙拝及大祓次第」で定め、府県社以下神社遙拝及大祓次第」も官国幣社に「準ス」とした[234]。新たに定められた大祓式では古代には貴重だった紙を幣として多用されており、古儀の復興を意図したことが窺える[69]。大祓詞は、かなり簡略化されていたものが延喜式祝詞・中臣祓に準拠するものに変更されたが、「今日では天津罪の内容はあまりに不自然であり、国津罪の内容に至つては非道義的で不義の宣伝にもなるからよろしくない」(八束清貫談)として、天津罪・國津罪とだけ示し罪の内容は全て削除された[235]。この時定められた祭式・祓詞が、現在の神社の大祓の基本となってる[69]。「古儀の復活」とされた大正3年の神社の大祓の改革は、明治5年に明治政府が定めた二部制の大祓式を行うようになっていた神社界から熱烈に歓迎された[236]

大祓と大祓詞は、大正デモクラシーを経て満州事変を機に変化する国論の中、日本精神・国体と結び付けられて大いに隆盛した[236]

太平洋戦争後になると、「夏越神事」「六月祓」の呼称も一部では復活し現在に至っている。

祭祀用具

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二期恒例大祓の天皇を対象とする儀(大祓A)では、東西文部が祓刀として金装横刀(黄金の大刀)を捧げる[237]薗田香融は、「刀剣は人間を殺傷する武器であると同時に、人間に災いする悪霊や邪気を追い払う咒具であり、 聖器でもあった」と指摘しており、中村英重は、大祓Aと鎮魂祭を、律令祭祀において、天皇などの身体、生命、霊魂の保全を目的とする聖体祭祀と位置付けている[238]

中山さらによると、8世紀成立の「神祇令」で刀を用いる儀礼は、大祓Aと鎮魂祭であり、天皇を対象とする大祓Aでは金装横刀が用いられた[237][注釈 32]。中山さらは、「(天皇が)神の祟りで不予におちいり、崩御につなることがないように捧げるものとして、災いを除き長寿をもたらす刀が天皇への祟に対応するための大祓や鎮魂祭の料物として存在したと考えられる。」と述べている[239]

人形(ひとがた)

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人形は7世紀末から利用されている[12]。身代わりになるので形代(かたしろ)、罪を贖うので贖物(あがもの)、身体にこすりつけて使うので撫物(なでもの)等と呼ばれた[58]

人形に罪や穢を移し水に流すことで祓われるという観念は、中国の南北朝時代の年中行事を記した『荊楚歳時記』等にも記載があり、中国江南の道教的信仰に基づく習俗に由来するものである[240]。古代日本の人形呪儀が依拠した可能性のある史料としては、『正統道蔵』(道教教典)洞玄部表奏類所収の『赤松子章暦』があげられ、この「金人」「銀箔人」「錫人」などが『延喜式』の金属製人形の典拠の一つとも考えられている[241][242]

二期恒例大祓の天皇の儀の祓詞にある「銀人/禄人」は『延喜式』大祓の条の料物の中にある「金銀人像」のことで、鉄製の人形に金と銀との箔を押したものある[134]増尾伸一郎は、この儀が禊祓の祭儀とみなされるようになった段階で新たに祭具として人形の「金銀人像」が追加されたと考えられることから、9世紀以降に使用が定着したとみている[131]

『延喜式』では他に、二期恒例大祓の百官の儀における御贖の鉄人像や、毎月晦日の祓に御贖の金人像・銀人像も規定されている[240]。諸国大祓でどのような祭祀具が使われたかはっきりわかっていないが、鐵人像(金属製の人形)が用いられたと指摘されている[84][243]。二期恒例大祓の百官の儀の祓所である朱雀門があった場所や各地の遺跡からは、二季恒例大祓や諸国大祓で使用されたとみられる人形が数多く出土している[85]

脚注

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注釈

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  1. 太政官神祇官の二官体制のもとで律令官社制が完成した[13]
  2. 神道成立の淵源期と言える古墳時代は、ヤマト王権が確立したとはいえ、基盤は地域の氏族社会にあり、地域の首長層が担う氏族祭祀が基本にあった[15]。天武天皇・持統天皇朝以降は、各々の氏族祭祀の上を律令祭祀制が覆う形となったが、この二つは相反する関係であり、氏族祭祀に天皇は原則不介入であった[15]
  3. 「神祇令」の大祓条における郡別・戸別に物品を供出させる規定は、この古代の祓の価値観によるものである[14]
  4. 三橋正は、この千座置座のエピソードは、祓が「罪を犯した者に財物を提出させて償いをさせる行事」であったことを反映するものとしている[24]
  5. 神社の例祭の源流は氏族祭祀・氏神祭祀であることが多く、大化の改新前(古墳時代)から天皇不介入が原則であったが、明治天皇を掲げる明治政府はこれを破って神社の例祭に介入するようになり、神社を社格制度中に取り込み、国家祭祀制が全国の神社に根を張り巡らせることになった[68]
  6. 伊勢神宮の遷宮制は、通説では持統天皇朝に始まるとされ、これに従えば原型は天武天皇朝に形成されたと考えられる[98]
  7. ここから、人形・馬形・刀形・舟形・斎串の木製祭祀具セットが日本各地に拡がっていったと考えられる[17]
  8. 大祓詞と共通する罪が並んでいるが、天津罪・国津罪の区別は見られない[106]
  9. 三橋正は、『日本書紀』『古事記』の行事の記述を見る限り、「神祇令」の規定は理想を明文化したものに過ぎず、現実を反映していないと指摘している[112]
  10. 「神祇令」は、現在では『養老令』(9世紀前半に成立)の注釈書である『令義解』の中に二十条として残されている[115]
  11. 東西文部は後漢霊帝の曾孫の阿知使主の子孫とされ、仲哀天皇神功皇后の子の応神天皇の時代に渡来したとされる[121][122]。彼らは中国語に通じ漢字を使いこなすことに長け、代々朝廷の事務を受け持つ先進文化の担い手の家系であった[121]。武光誠は、東西文部は中臣氏や忌部(斎部)氏より前から天皇家の祓に関わっていたと考えるのが妥当であるとしている[123]
  12. 金子武雄は、「東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水」の四至は天皇の威光が及ぶところであり(つまり日本)、これを祝福するものとしており、青木紀元も、四至は「天皇の統治される多くの国々の意」としている[128]。粕谷興紀は、古代中国の神話的・伝説的な四至であるため、中国全土を示していると考えるのが妥当で、この呪は彼らの望郷の思いの結晶とみている[128]
  13. 『本朝月令』六月晦日大祓事條所引の『弘人式』逸文にあるほぼ同文の呪では「禄人」[131]
  14. 「東文忌寸部献横刀時呪 西文部准此」は1つの呪と考えられることが多いが、2つの呪で構成されているという解釈もある。粕谷興紀は、前半は中国古代の多くの神々を挙げ、これらの神々に対して「捧以禄人、請除禍災、捧以金刀、請延帝祚。」として、いったん呪として完結しているとみなしている[132]。「呪曰」はつなぎの言葉で、これ以降は別の呪であるという[132]
  15. 皇天上帝は桓武天皇朝の長岡京の郊祀の祭文においても祝祷の対象であり、当時複数回行われた「天神祭」で祀られていたのは日本固有の天津神ではなく皇天上帝であった[133]
  16. 「禄人」は幸いをもたらす人形の意[134]
  17. 古い本来の祓思想は、記紀神話のスサノヲの罪の祓の説話などに見られる[139]
  18. 穢規定では穢の種類による伝播の範囲と必要な忌の期間が定められているが、穢を浄化する方法は全く記されておらず、大祓を行えば元の清浄な状態に戻るということはない[161]。穢に触れたものは忌の期間が明けるまで一切神事に関わることはできない[161]
  19. 「大祓が矮小化し、神の祟を恐れる天皇の私的な祓へと転化したことを示している。他の律令祭祀にも共通するが、大祓の儀は摂関期に入ると国家的統治意識の衰退と緩慢な貴族政治の中で国家的な意義を失い、形骸化の一途をたどる。内実を詳細に知ることはできないが、大祓は恒例であれ臨時であれ、国家の祈りとして大祓詞を読む儀という程度の意味しか持たなくなってしまったのではないだろうか。」[164]
  20. 承久本「北野天満宮絵巻」における、家における宗教的なシーンでは、安産祈祷は民間の巫女、陰陽師・山伏たち、病気平癒祈願は僧侶が行っている[49]
  21. 河臨祓・七瀬祓の手法は、依頼主の衣服や人形を水辺に持っていき、解縄をすり合わせ、茅の輪をかけて流し、中臣祓を読むというものである[47]。平安時代の河臨祓は文字通り「河に臨て祓をする」ものであり、陰陽師だけでなく、主人(祓われる対象、祓の依頼主)も河原に赴いて行った[165]
  22. 六字とは六観音であり、六字経を読誦する[166]
  23. 伊勢神道を唱えた伊勢神宮の祠官である度会氏の「最極秘本」は両部神道の伝書『中臣祓訓解』『中臣祓記解』である[51]
  24. 滋賀県蒲生町の集落における水無月行事の茅の輪くぐりをフィールドワーク研究した橋本章は、野神や山の神との関係が様々に見られることや、稲作における水利関係の事象にまつわる儀礼が取り込まれていることを指摘している[183]
  25. 大言海』等で、「ナゴシ」とは「神を和ごす」の意味であるとして、中国の「追儺」の日本版とする「和儺」説を唱えている[185]。「和儺」は中国の「追儺」に対して作られた造語である[185]
  26. 縄は古くから祓具として用いられており、祓われる人が直接縄を解くという解縄という方法がある。この綱の材料がチガヤ)であったことが記録されている[186]
  27. 大形徹は、茅の輪は「実際はススキを用いているに思われる。」と述べている[189]。橋本章は、滋賀県蒲生町の集落における水無月行事では、当地で茅の輪用に栽培されていたのはイネ科の茅だろうと述べている[61]
  28. 『日本書紀』には、高天原から追放されたスサノオは、新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄り、その後に出雲に行ったとの記録があり、曾尸茂梨の場所は、多くの先行研究で現在の韓国の江原道春川だと言われている。春川には牛頭山という山があり、熱病の薬栴檀の産地であったことから、この山を冠した神や仏が信仰されていたという。戦前に日本の朝鮮総督府は、春川をスサノオの降臨地ソシモリであると決め神社を創建しようとしたが、終戦で実現はしていない。春川=ソシモリとし、祇園社(八坂神社)、牛頭天王の故地であるとする説は今もみられる。[195]
  29. 中近世には、『備前国風土記』逸文は古風土記時代のものと信じられており、武塔神は日本の土着神と考えられ、武塔神=スサノヲと、仏とみなした牛頭天王の習合が説かれた[205]
  30. 日本に次々と欧米列強諸国の技術・文化・制度が流入する中、「伝統」を復活させ「日本的精神基盤の再確認」を行うことには、日本人として過去につながる自己のアイデンティティを守るという面もあったと思われる[223]
  31. 明治政府は大祓のほかに2月の祈年祭、11月の新嘗祭紀元節祭(神武天皇祭)、天長節祭、伊勢両宮遥拝式、元始祭、孝明天皇祭、春秋二季皇霊祭などを次々と定めており、そのうち紀元節祭・天長節祭は全く新しい祭典であった[67]。一方、江戸時代に行われた人日上巳端午七夕重陽五節供を廃止している[67]
  32. 10世紀成立の『延喜式』において、刀を用いる儀礼は、大祓A、 鎮魂祭 霹靂神祭鎮新宮地祭八衢祭八十島祭出雲国造神賀詞奏上儀礼であるが、金装横刀を用いるのは、天皇を対象とする大祓Aと出雲国造神賀詞奏上儀礼のみである[237]

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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