ユージン・スミス

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ユージン・スミスと妻のアイリーン・美緒子・スミス(1974年)

ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカ写真家1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。

経歴[編集]

カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母が、アメリカインディアンポタワトミ族の血筋もひく。

ユージンの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃自殺している。ユージンはこの影響で早い時期から人の命や医療ケアに強い関心を持ち続けた。

第二次世界大戦中にサイパン沖縄硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦歩兵と同行中に日本軍迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった[1]。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している[2]

戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。

1950年イギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、ライフ誌編集部の方針と合わず対立、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

1961年日立製作所のPR写真撮影のために来日する。ユージンはそのとき、もう一度日本を撮りたいという願いを持っていた。

1970年8月、51歳のときにニューヨークマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会う。富士フイルムCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めた[1]。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人[1][3]。東京育ちで11歳のとき渡米し[3]、当時はカリフォルニアスタンフォード大学の学生であった[1]。出会ってわずか1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼む。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた[1]

ユージンと親交のあった元村和彦[4]が同年秋に渡米した際、ニューヨークでユージンらに、来日して水俣病の取材をすることを提案した。1970年代は水俣病裁判とも重なり、日本全国各地で公害社会問題となっていた時期でもあった。

ユージンとアイリーンはこれに応じ、翌1971年8月16日に来日した。同年8月28日に日本で婚姻届を出し、東京都内のホテル披露宴を挙げて結婚夫婦となった。スミス夫妻は患者多発地域であった熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、ともにチッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行った[5]

1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生した[6]。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられ、脊椎を折られ片目失明の重傷を負った[7]

ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となった。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。そして『ライフ』誌の1972年6月2日号に、チッソ水俣工場の排水管から不知火海メチル水銀を含んだ工場廃液が流される様を撮影した写真「排水管からたれながされる死」を発表した。ユージンはチッソを告訴することも勧められたがそれを拒み、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けた[1]

ただし、チッソ水俣工場は、1960年代半ばにはすでに閉鎖循環方式(有害物が排出されない)に転換し、1968年にはアセドアルデヒドの生産を完全に停止している。つまり60年代半ば以降、排水から有機水銀は出ていない(政野敦子「四大公害病」)。したがって上記の1972年のライフ誌にはかなり古い写真を掲載したと思われるが、出版時にもまだ汚水が放出されているとの誤解を招きかねないものであった。

1945年の沖縄戦の際の負傷の後遺症で、ユージンは歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなっていた。またアルコール依存症にも苦しみ、アイリーンによれば「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養源で、それにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートで飲んでいた」という[1]。チッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛に悩まされ「(風呂の薪割り用の)斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに頼むこともあった[1]。それでもユージンは撮影を続け、1973年4月には、西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催された[1]

1974年10月、写真集『水俣』の掲載写真の選定や文章もほぼ終えて、スミス夫妻は3年間暮らした水俣市を去り、ニューヨークへ帰国した[1]。翌1975年5月にはアイリーンとの共著で、悲願であった写真集『MINAMATA』英語版の出版を果たし、世界中で大反響を呼んだ[1]。しかしその直後、ユージンとアイリーンは離婚することとなった[1][5][8]

離婚後のユージンは、アリゾナ州ツーソンで晩年を送り、アリゾナ大学で教鞭をとっていた。チッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下のより、カメラのシャッターを切ることもピントを合わせることもできなくなっていたが、日本や日本人を恨むことはなかった[9]1977年12月には脳溢血で倒れ、翌年には奇跡的に回復して一時はセミナーを行うまでになったが、1978年10月15日に自宅そば食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こし死去した。享年59歳[1]。日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、1980年のユージンの死後であった[1]

死後[編集]

アイリーンはのちに再婚して子をもうけた。アメリカ国籍[10]であるが現在は京都市に在住し[3]京都市左京区田中関田町22-75-103に1994年[11]、ユージンとアイリーンが水俣で撮影した全写真の著作権管理を行う組織として「アイリーン・アーカイブ」[12]を設立した。大阪人権博物館(リバティおおさか)をはじめ、京都国立近代美術館東京都写真美術館などの美術館にユージンの作品を収蔵するとともに、出版社や新聞社、テレビ局などマスメディアへの作品貸出や使用許諾を行っている[11]。また反原発環境保護団体「グリーン・アクション」[13]の代表を務める(所在地は「アイリーン・アーカイブ」と同一)[14]。なお大阪人権博物館は2020年5月31日をもって閉館し、ユージンの『水俣』オリジナルプリントを含む収蔵物は大阪市の他の施設へ移管される予定である[15]

スミス夫妻が水俣へ移住した年の1971年12月に撮影された、胎児性水俣病の少女を母親が抱いて入浴させている写真「入浴する智子と母」は、ユージンの『水俣』の写真の中でも名高い1枚で、「ピエタ」を思わせる構図の母子像は、写真展や水俣病についての書籍でもたびたび紹介されてきたものだが、遺族である両親とアイリーンの話し合いにより、1998年6月に「アイリーン・アーカイブ」では今後は同写真の使用を許諾しない方針であることが発表された[1][8][10]。このため、ユージン生誕100周年を記念して2017年11月25日から2018年1月28日まで東京都写真美術館で開催された「生誕100年 ユージン・スミス展」[16]でもこの有名な写真は展示されることはなかった。

この「封印」に対しては、写真家や美術館関係者などから様々な意見があり、当該写真を所蔵する清里フォトアートミュージアムの広報担当者は「自分はこの1枚に出会って水俣病や現代の世界につながる環境問題に関心を持つきっかけとなったので、ぜひ多くの人に見てほしい」と語り[10]、同館の学芸員は「この件は国際会議でも話題になっており、海外の所蔵館の中には展示できなくなるのなら購入費用を弁済してほしいという声もある」と述べた[10]。また同館館長の細江英公は「日本の著作権法では著作者の許諾に関係なく、美術品などの現所有者は作品の展示ができるし、教科書に掲載することも可能である」と指摘した[10]

また水俣でスミス夫妻と寝食を共にしながら、ユージンの助手を務めた石川武志は「(写真が)封印されたことがすごく残念だ。普遍性をもつこの母子像は人類にとって失ってはならない芸術作品だ。ユージンが生きていたら展示や掲載を望むと思う」と語り、アイリーンによるこの「封印」に強く反対した[1]

影響を受けた写真家[編集]

石川武志

写真家の石川武志は、ユージンらが来日した1971年当時は写真学校を卒業したばかりで、東京の原宿に住んでいた。ユージンの写真展を見て感銘を受け、原宿で偶然ユージンを見かけて声をかけたところ、アシスタントとして水俣へ一緒に行かないかと誘われた。当初は3か月の予定で引き受けたが、スミス夫妻が水俣にいた丸3年間アシスタントを務めた。石川はアイリーンと同い年で、スミス夫妻が水俣で借りた家を本拠に行動を共にした[9]

スミス夫妻が水俣での撮影を終えて帰国した後、英語版写真集『MINAMATA』の出版と個展の手伝いを頼まれ、石川も後を追って1975年にニューヨークへ渡った。石川自身は当時水俣で撮影した写真は発表していなかったが、当時と現在の患者たちの写真をまとめ、2012年に『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』[17]として出版した[9]

森枝卓士

水俣市出身の写真家・森枝卓士は、新日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場近くの自宅で生まれ育った。両親は同社の社員で、1959年11月2日の4歳の頃、水俣病で被害を受けた漁民が工場に押しかけたこともあった。少年期は社会問題に関心を持たず過ごしたが、ユージンの写真を雑誌で見かけて「社会的なテーマを扱っているのに美しい」と感動した。高校生のときにスミス夫妻が水俣に移住してからは親に内緒で通い続けた[18]

森枝の父親はチッソ労働組合の方針を批判して新労組に加入し、チッソを擁護する集会にも参加していたが、スミス夫妻と行動を共にする息子の姿に驚いて「こん、ばかもんが!」と激怒した。森枝はのちに「水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町」「僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちが叶わなかった夢だった、東京の大学に僕と弟妹の3人の子供を送り卒業させた。だから複雑な感情があったわけですね。」として、父親が森枝の行動に怒って寝込んだことや、水俣病の取材中にユージンらが暴行を受けたことを語っている[18]

表現方法[編集]

ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。[19] そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。

日立製作所の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く[20]

それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム写実主義)を排除していたとされる。

これは客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる[21]
ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている[22]
写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない[23]

著名な写真[編集]

  • 第二次世界大戦の戦場サイパンで米兵により発見された傷ついた幼児の写真(1944年)
  • 硫黄島で日本兵の塹壕を一掃する米海兵隊(1945年)
  • 『楽園へのあゆみ The Walk to Paradise Garden』(1946年)
  • 『カントリー・ドクター Country Doctor』(1948年)
  • 『スペインの村 Spanish Village』(1950年)
  • 『助産婦 Nurse Midwife』(1951年)
  • 『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』(1954年)
  • 『ピッツバーグ Pittsburgh』(1955年)
  • 『ハイチ Haiti』(1958年-1959年)
  • 『ミナマタ Tomoko Uemura in Her Bath』(1971年)

ユージン・スミス賞[編集]

彼の死後、ユージン・スミス・メモリアル基金(W. Eugene Smith Memorial Fund)によりユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた。人間性や社会性を重視した写真作品を対象としている。主な受賞者にセバスチャン・サルガドなどがいる。

著書[編集]

  • ユージン・スミス、アイリーン・M. スミス共著『水俣 生―その神聖と冒涜』(創樹社、1973年)
  • ユージン・スミス、アイリーン・M. スミス共著、中尾ハジメ訳『写真集 水俣』(三一書房、1980年/普及版・1982年/新装版・1991年)

写真集・図録[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「写真はときには物を言う」――水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡” (日本語). Yahoo!ニュース (2017年12月26日). 2020年9月25日閲覧。
  2. ^ 美術手帖1971年10月号
  3. ^ a b c 終わらない水俣病 世界に問う米国人カメラマンの元妻” (日本語). 朝日新聞デジタル (2020年5月1日). 2020年9月25日閲覧。
  4. ^ 元村和彦(もとむら かずひこ): 美術関係者 : 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2020年9月25日閲覧。
  5. ^ a b デップさん主演で映画化 「ミナマタ」伝えた米国人写真家、元妻が語る「最後の勝負」” (日本語). 西日本新聞 (2018年12月3日). 2020年9月25日閲覧。
  6. ^ ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」NHK教育テレビ、2018年11月18日放送
  7. ^ 宇井純『技術と産業公害』第4章「水俣病」、東京大学出版会
  8. ^ a b ノンフィクション大賞受賞者が巨匠写真家題材の受賞作を語る” (日本語). NEWSポストセブン. 小学館 (2013年6月14日). 2020年9月25日閲覧。
  9. ^ a b c MINAMATA: W. ユージン・スミスへのオマージュ 石川武志インタビュー” (日本語). ニッポンドットコム (2019年10月8日). 2020年9月25日閲覧。
  10. ^ a b c d e 写真のあるべき姿──私の想い”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
  11. ^ a b わたしたちについて”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
  12. ^ TOPページ”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
  13. ^ グリーン・アクション | Working Together to Create a Nuclear-Power-Free Japan” (日本語). 2020年9月25日閲覧。
  14. ^ 代表の逮捕──不起訴の経緯について” (日本語). グリーン・アクション. 2020年9月25日閲覧。
  15. ^ 美術手帖 (2020年9月8日). “「無名な人々」は存在するのか。大下裕司評 大阪人権博物館(リバティおおさか)「35年展」” (日本語). Yahoo!ニュース. 2020年9月25日閲覧。
  16. ^ 生誕100年 ユージン・スミス写真展”. 東京都写真美術館 (2017年11月25日). 2020年9月25日閲覧。
  17. ^ 『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』石川武志” (日本語). 千倉書房. 2020年9月25日閲覧。
  18. ^ a b 「ときを結ぶ」(4)「伝える水俣」人生決めた世界的写真家 差別と分断の地を撮影 魂の言葉、子どもらに フォトジャーナリスト・森枝卓士” (日本語). 47NEWS. 共同通信社 (2019年9月16日). 2020年9月25日閲覧。
  19. ^ 「ユージン・スミス写真集一九三四-一九七五」より
  20. ^ 「ユージン・スミス展」パンフレット
  21. ^ 写真集『水俣』英語版の序文
  22. ^ 写真集『水俣』英語版の序文
  23. ^ ユージン・スミス写真集 一九三四-一九七五

関連項目[編集]

外部リンク[編集]