ロバート・キャパ

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 ロバート・キャパ
RobertCapabyGerdaTaro.jpg
スペインでのロバート・キャパ(ゲルダ・タロー撮影)
本名 Friedmann Endre Ernő
国籍 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 1913年10月22日
没年月日 1954年5月25日(満40歳没)
出身地 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国 ブダペスト
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ロバート・キャパ(Robert Capa [ˈɹɔbətˈkæpə | ˈɹɑ(ː)bɚtˈkæpə], 1913年10月22日 - 1954年5月25日)は、ハンガリー生まれの写真家

本名はフリードマン・エンドレ・エルネー(Friedmann Endre Ernő [ˈfriːdmɒn ˈɛndrɛ ˈɛrnøː])。フランス語読みのアンドレ・フリードマン(André Friedmann [ɑ̃dʁe.fʁidman])と表記されることもある[1]。同じく写真家で、1974年にICP(国際写真センター)を創設したコーネル・キャパは弟。

スペイン内戦日中戦争第二次世界大戦ヨーロッパ戦線第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン報道写真家として有名である。「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるものである[2]。スペイン内戦で親交を持ったヘミングウェイアルジェで知り合ったスタインベックピカソら多方面の作家芸術家たちとの幅広い交際も有名である。

生涯[編集]

フリードマンは1913年10月22日、洋服店を営んでいたユダヤ系アシュケナジム)の父フリードマン・デジェー(Friedmann Dezső、[ˈfriːdmɒnˈdɛʒøː])と母ベルコヴィッチ・ユリアンナ・ヘンリエッタ(Berkovits Julianna Henrietta、[ˈberkovit͡ʃˈjuliɒnːnɒˈhenriettɒ])の次男として、ハンガリーブダペストに生まれる[1]>。

1919年福音派の学校に入学、1923年マダーチ・イムレギムナジウムに入学。1931年共産党の左翼運動に加担した容疑で逮捕される[1]。釈放後はドイツのベルリンにわたり、ドイツ政治高等専門学校ジャーナリズム科に入学。1932年に大恐慌が発生、両親からの仕送りが期待できなくなったため、写真通信社「デフォト」の暗室係として働き始める[1]。同時期に彼にとってデビュー作品となるデンマークの首都・コペンハーゲンで講演するレフ・トロツキーの写真を撮影している[1]1933年にはユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命した(父デジェーはブダペストに残ったが、その後の消息については分かっていない)。フリードマンもベルリンを脱出し一時ウィーンに身を寄せ、その後ブダペストに帰省しヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる[1]

1933年9月、フランスパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真はほとんど買ってもらえず、わずかに売れた場合でもひどく安値で、まともに生活できるほどの生活費が得られない状態だった。あまりに困窮したため、同時期にパリに在住していた川添浩史アパルトマンに入り込むこともあったという[3]。1934年、ドイツから逃れてきた同じユダヤ人仲間の写真家ゲルダ・タローと仕事を通して出会う[1]。ゲルダは既に偉大な業績があるアメリカ人カメラマン「ロバート・キャパ(Robert Capa)」なる人物を創り出し、フリードマンはその人物になりすまして、写真を持ち込み売り込んでいたとされる[1][3]。そのころフリードマンはタローと同棲するようになっていた。

フランスの写真週刊誌『ヴュ』の1936年9月23日発刊の号に彼らの写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付され、さらに翌年その写真が、大きな発行部数を誇り影響力の大きかったアメリカのグラフ誌『LIFE』の1937年7月12日の号に転載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。この写真が、いわゆる「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真である。この写真を公表したころから、タローの企みがばれてしまい、フリードマンは自らを「ロバート・キャパ」と名乗るようになった[1][4]。この写真は、これらの雑誌に掲載された時に写真の下に付記されていたタイトルや解説などが信じられることによって「1936年7月のスペイン内戦勃発した時期にゲルダ・タローと従軍し、9月、コルドバ戦線で頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮ったものだ」と世界の人々から見なされた。しかし近年の研究で、この写真は実際の戦場を撮ったものではなく、さらに被写体は死んでおらず、また撮影者はキャパではなくゲルダであると指摘されている[5][6]

ゲルダが1937年7月26日、キャパがパリに戻り単独でスペイン内戦の取材を行っていた際に、スペイン政府軍の戦車に轢かれ死亡している[1]1938年アンドレ・ケルテス監修のもと、キャパはゲルダ・タローのとの共著として初の写真集「生み出される死(Death In The Making)」を発表[7]。同年に映画監督のヨリス・イヴァンスとともに日中戦争を取材、漢口で撮影した初のカラーフィルムが雑誌『LIFE』に掲載される[7]1939年アメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。1940年メキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材。1941年から翌年にかけて、『コリアーズ英語版』の特派員として大西洋護送船団に乗り込み、ロンドンへ渡り取材している[7]。1941年にはアイダホ州サンバレーへ渡り、盟友のヘミングウェイのもとを訪れて彼を撮影している[1]1943年3月から5月にかけて北アフリカ戦線、7月にイタリア戦線を取材。その間に『コリアーズ』の契約を解除されてしまうが、知己のあった『ライフ』と契約した[7]

1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。しかし現像の際に興奮した暗室助手のデニス・バンクス[8]が乾燥の際にフィルムを加熱しすぎてしまったために感光乳剤が溶け、まともな写真として残っているものは11枚しかなかった(8枚という説もある)。これが後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映されたという。8月にはパリ解放を撮影。同年12月のバルジの戦いを経て、1945年の終戦まで取材した[7]

戦後の1946年にアメリカ市民権を獲得し、イングリッド・バーグマンやピカソら著名人を撮影した[7]。特にバーグマンとは恋仲になったものの、結婚するまでに至ることはなく別れている。1947年アンリ・カルティエ=ブレッソンデヴィッド・シーモアジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948年にはイスラエルの建国を契機に、第一次中東戦争などを3回にわたって取材した[9]

1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した[9]。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省ドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した[9]

ロバート・キャパ賞[編集]

キャパにちなんで、報道写真を対象としたロバート・キャパ賞(Robert Capa Award)が、Overseas Press ClubによるOverseas Press Club Awardsの1部門として設けられている。

日本人では1970年沢田教一カンボジア内戦を取材中に銃撃され死亡した後に受賞している。

2000年から2001年にかけて、「20世紀と人間 ロバート・キャパ賞展」が日本国内各所で開催された。

日本との関わり[編集]

1935年に南仏カンヌで、川添浩史井上清一らと知り会い、一時期彼らのアパートに居候するほど親しく交流し、彼らに金を借りてライカを買ったという[10]。川添や井上の友人である原智恵子丸山熊雄きだみのる坂倉準三毎日新聞パリ支局長の城戸又一夫妻など、パリ在住の日本人らと交流し、城戸からは月20ドルのアルバイトを得ていた[11]。キャパの恋人であるゲルダが使ったペンネーム「ゲルダ・タロー」は当時パリに在住していた岡本太郎にちなんだものとされる。1954年には、毎日新聞の招待で来日しており、東京のほか、焼津、熱海。京都、奈良、大阪などを訪れており、皇居での昭和天皇や、メーデー大阪城四天王寺清水寺にむかう参道や東大寺の大仏、天理教教会本部などを収めた写真が残されている[12]

日本語文献[編集]

※版元品切も含む。なお2004年は、キャパ没後50年で多く刊行されている。

  • 『ちょっとピンぼけ Slightly out of Focus
川添浩史・井上清一訳 (文春文庫、初版1979年)、元版ダヴィッド社1956年、新版1980年
  • ロバート・キャパ『戦争 そのイメージ IMAGES OF WAR
井上清一訳、ダヴィッド社、初版1974年・新版1985年
リチャード・ウェーラン、コーネル・キャパが解説を書いている。元版は1991年、翌92年に普及版が刊。
  • 『ロバート・キャパ ちょっとピンぼけ文豪にもなったキャパ』 クレオ、2002年、ISBN 4877360689
マグナム・フォト東京支社監修で、手書き原稿や未公開作品を含んだ写文集
スペイン内戦の取材写真の初集大成、リチャード・ウェーランらが解説。2冊とも大著。
  • リチャード・ウェーラン編 『ロバート・キャパ 決定版』 ファイドン、2004年、写真937枚の大著
  • CAPA編集部 『CAPAS EYE ロバート・キャパの眼が見た世界とニッポン』 学研、2004年
  • アレックス・カーショウ 『血とシャンパン ロバート・キャパ-その生涯と時代』 野中邦子訳、角川書店、2004年
  • 加藤哲郎 『戦争写真家ロバート・キャパ』 ちくま新書、2004年
  • 横木安良夫 『ロバート・キャパ 最期の日』 東京書籍、2004年、ISBN 4487800110
  • 沢木耕太郎 『キャパの十字架』 文藝春秋、2013年、ISBN 9784163760704 (文藝春秋2013年1月号掲載分の改稿)
  • 吉岡栄二郎 『ロバート・キャパの謎 「崩れ落ちる兵士」の真実を追う』 青弓社、2014年、ISBN 9784787273567

ミュージカル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k Robert Capa 2005, p. 118
  2. ^ 「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」横浜美術館
  3. ^ a b Robert Capa 『ロバート・キャパ : ちょっとピンぼけ文豪にもなったキャパ』 川添浩史, 井上清一訳、マグナムフォト東京支社、2002年ISBN 4877360689
  4. ^ このあたりのいきさつが不明だった段階では「英語圏で読みやすい名前に変えた」などという推測だけが語られることも多かった。
  5. ^ 沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号
  6. ^ NHK『沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚〜“戦場”写真 最大の謎に挑む〜』2013年2月3日放映
  7. ^ a b c d e f Robert Capa 2005, p. 119
  8. ^ Morris blames it on a young developer named Dennis Banks. John G. Morris, "Get the picture, A personal history of photojournalism", Random House Inc, N-Y 1998
  9. ^ a b c Robert Capa 2005, p. 120
  10. ^ 『ちょっとピンボケ』川添浩史・井上清一訳
  11. ^ リチャード・ウィーラン『キャパ その青春』(沢木耕太郎訳、文藝春秋)
  12. ^ Robert Capa 2005, p. 131
  13. ^ 宝塚歌劇団宙組トップスターの凰稀かなめのバウホール主演作である。
  14. ^ 併演作はロマンチック・レビューの『シトラスの風II』だった。

参考文献[編集]

  • Robert Capa (2005). Capa In Color. Chiyoda-ku, Tokyo: Magnum Photos Tokyo. ISBN 978-3791353500. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]