デヴィッド・オレアリー

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デヴィッド・オレアリー Football pictogram.svg
名前
本名 デヴィッド・アンソニー・オレアリー
ラテン文字 David Anthony O'Leary
基本情報
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
イングランドの旗 イングランド
生年月日 1958年5月2日(55歳)
出身地 イングランドの旗 ロンドン / ストーク・ニューイントン
身長 184cm
選手情報
ポジション DF (CB)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1993
1993-1995
イングランドの旗 アーセナルFC
イングランドの旗 リーズ
558 (11)
12 0(0)
代表歴
1976-1993 アイルランドの旗 アイルランド 68 0(1)
監督歴
1998-2002
2003-2006
2010-2011
イングランドの旗 リーズ
イングランドの旗 アストン・ヴィラFC
アラブ首長国連邦の旗 アル・アハリ
1. 国内リーグ戦に限る。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

デヴィッド・アンソニー・オレアリーDavid Anthony O'Leary1958年5月2日 - )は、イングランドロンドンストーク・ニューイントン出身の元同国代表の元サッカー選手。現在はサッカー指導者。指導者としてのキャリアはリーズ・ユナイテッドAFCでスタートし、後にアストン・ヴィラFCで指揮した。最近はアル・アハリ・ドバイの監督として働いていた。現役時代はDF (CB)として20年プレーし、その大部分をアーセナルFCで過ごした。また、アーセナルでの全コンペティションを含めた出場722試合は、クラブ最多出場記録となっている。

経歴[編集]

クラブ[編集]

アーセナル[編集]

シェルボーンFC英語版のジュニアユースでプレーしていたオレアリーは、1973年に見習いとしてアーセナルFCと契約した。16歳の時にはリザーブチームでプレーするなどすぐに出世街道を進み、1975年8月16日のバーンリーFC戦でトップチームでデビューを果たした。まだ17歳だったにもかかわらず、シーズン30試合にも出場した。翌年から10年間毎シーズン40試合以上に出場し、アーセナルで絶えずプレーした。(負傷により27試合しか出られなかった1980-81シーズンを除く)

1979年のFAカップ決勝戦では、マンチェスター・ユナイテッドFC相手にプレーすると3-2で勝利し、初のメジャータイトルを獲得した。また、1978年, 1980年のFAカップと1980年のUEFAカップウィナーズカップで決勝でプレーしているが惜しくも優勝を逃している。1982年にオレアリーはチームのキャプテンに選ばれるも、18ヶ月後に、グラハム・リックス英語版へとキャプテンの座が移った。

オレアリーは、100, 200試合出場の最年少記録を打ち立て、わずか26歳ながら出場400試合に到達するなど数々の出場記録を塗り替えていった。1989年11月には、ジョージ・アームストロング (サッカー選手)英語版が保持していた最多出場記録621試合を抜いた。この時点で、オレアリーはもはやファーストチョイスではなかったが、(ジョージ・グラハム監督は、CBのコンビにトニー・アダムススティーヴ・ボールド英語版を選択していた)それでも20試合以上に出場し、タイトルがかかった最終節の直接対決のリヴァプールFC戦でスタメン出場すると、2-0で無失点に抑え、見事1988-89シーズンのタイトル獲得に貢献した。オレアリーは主にサブとしてだったが、1991年に再びリーグタイトル、1993年にはFAカップとリーグカップの二冠に貢献した。

オレアリーは、クラブに20年間と長く在籍した中で、トップチームで722試合・全レベルで1000試合以上に出場し、アーセナルの最多出場数記録を打ち出した。世界中の"ガナーズ"(アーセナルの愛称)ファンが選ぶ偉大な選手50に14位に選ばれた。

リーズ[編集]

アーセナルでプロになってからの19年後に、フリー移籍でリーズ・ユナイテッドAFCへ加入した。当初はレギュラーだったが、アキレス腱を負傷したため、これ以降は欠場。翌シーズンも怪我の影響で全試合を欠場した。1995-96年初めまでクラブから給与を貰っていたが、9月に再び怪我をしたため引退を発表。リーズでは、全コンペティションで計14試合に終わった。

代表[編集]

1976年のイングランド代表戦で1-1と引き分けた試合に、まだティーンエイジャーながらA代表デビューを果たした。

1986年5月に、ジャッキー・チャールトン監督がアイスランドで開かれたミニトーナメントへの参加を打診するも、オレアリーは家族と休日を過ごす予定だったため拒否した。それ以降1988年11月まで2年間招集されず、その期間に開催されたUEFA欧州選手権1988のメンバーにも選ばれなかった。[1]

代表でのハイライトは、1990 FIFAワールドカップルーマニア代表とのPK戦で訪れた。この試合でスティーヴ・ストーントンと交代で出場し26分プレー。0-0での引き分けによりPK戦が行われた。両チーム共にPKを4本ずつ決めた後、ルーマニア側の5本目ダニエル・ティモフテ英語版のPKをパット・ボナーがセーブ。次のPKをオレアリーが見事決め、PK戦5-4で勝利。アイルランド代表史上初のベスト8進出に貢献した。

UEFA EURO '92予選の5-0と大勝したトルコ代表戦で代表キャリアで唯一となるゴールを決めた。

監督[編集]

引退して間もなく、1996年9月にアーセナルで指導を受けたジョージ・グラハム監督の下、最後に所属したリーズでアシスタントとしてキャリアをスタートさせた。

リーズ[編集]

グラハムがトッテナム・ホットスパーFCへ去ると監督に昇格。初監督となった1998-99シーズンは、リーグ4位で終えUEFAカップの参加資格を得た。翌1999-2000は、UEFAカップではトルコのガラタサライに破れ準決勝で敗退し、国内リーグでは3位に入りUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。これは、プレミアリーグが設立した1992-93以降で初めてのCL参戦となった。この快挙から2000年に、ユービーアイソフトからゲームボーイカラーでオレアリーを題したオレアリー・マネージャー2000英語版が発売するまでになった。

2000-01年のCLでは旋風を起こし準決勝まで進出するもバレンシアCFに敗れ、リーグの方では少し順位を落としUEFAカップ圏内に終わった。長期間CLへ参加することを考え、将来のゲート収入を見越していた会長のピーター・リズデイル英語版が予算編成で6000万ポンド組みお金を借りた。このことが後にクラブにとって深刻な障害になった。

2001-02年の当初、リーズは上手くいっていた。シーズンの前半では頻繁にトップの座につき、それは2002年1月1日まで続いた。しかし、シーズン後半になるとフォームを崩していき低迷し、5位に終わった。これは、再びCLを逃しUEFAカップへの参戦を意味した。また、このシーズンはリーズ市内中心部でトップチームでプレーをするリー・ボウヤージョナサン・ウッドゲイトを含む4人の選手がアジア人留学生を暴行したとして起訴され、[2]この件やお金のトラブルでクラブが疲弊していること等をオレアリー自身が暴露した"Leeds United On Trial"を出版する[3]等ピッチの外でも混乱に見舞われた。

2002年6月の時点でオレアリーは、就任してから4年未満で選手獲得のためにほぼ1億ポンドを費やしていたものの優勝はなかった。しかし、トップ6以下で終わることはなかった。2002年夏にリズデイル会長は、オレアリーを解雇してテリー・ヴェナブルズを監督に据えた。オレアリーの離脱を合図にクラブは負のスパイラルへと陥っていくことになった(財務状況による何人かの主要選手を売却したことに起因する)。この間に監督がヴェルナブルズ→ピーター・リードエディ・グレイ英語版と3人もの人物が監督になったが、2004年にプレミアリーグから降格。その3年後には、8000万ポンドの負債を抱えて破産を申請、これに伴い勝ち点が剥奪されたため、シーズン終了を待たずにリーグ1(3部リーグ)へと降格していった。

リーズでオレアリーは、ジョナサン・ウッドゲイト, リー・ボウヤー, アラン・スミス, ハリー・キューウェル, スティーブン・マクファイル英語版, エイリック・バッケ英語版, イアン・ハート, ダニー・ミルズ(ミルズは、チャールトン・アスレティックFCから4万ポンドで連れてきた)など若い選手達を次々と育てていき、名声を高めていった。

衰退していくリーズに関するインタビューの中でオレアリーは、"私はリーズを離れたくなかった。ファンは素晴らしく、ここで素晴らしい時間を過ごしました。クラブが踏みとどまるのを望んでいます"と語った。[4]また、リズデイル会長がクラブを去った際に、オレアリーは監督としてリーズへ復帰したいと述べた。

アストン・ヴィラ[編集]

フリーとなったオレアリーに、2002-03シーズンを通して様々なクラブの監督になるチャンスがあった。特に10月にピーター・リードを解雇したサンダーランドAFCの次期監督候補の一人として名前が挙がり、皮肉なことにオレアリーの師匠であるジョージ・グラハムも候補に名を連ねていた。[5]そして、ハワード・ウィルキンソン英語版が3月に解雇され再び監督の座が空くと、またしても候補の一人として名前が挙がった。[6]しかし、結局2003年6月にアストン・ヴィラFCへ就任するまでフリーだった。

2003年11月の初め、クラブは降格圏スレスレにいた。オレアリーは、この状況を資金不足により限られたスカッドの中で打開していくことになった。前監督のグラハム・テイラー英語版に信頼されていなかったため、全くといってもいいほど結果を残すことができなかった(昨季15試合1得点)コロンビア代表ストライカーのファン・パブロ・アンヘルに全幅の信頼を寄せ復活させると、シーズン最後の週には、チームを欧州カップ戦に挑める順位にまで押し上げた。最終的には6位に甘んじ、ミルウォールFCFAカップ決勝へ出場したことと、ミドルズブラFCフットボールリーグカップで優勝したため、欧州カップ戦参加にあと一歩届かなかったものの、苦しい台所事情ながら予想以上の成果を挙げることになった。

2004-05[編集]

この年は、昨シーズンより上を目指していたが、順位は10位に下がる結果となった。また、シーズン中には再び降格の危機があり、ダグ・エリス英語版会長から緊縮財政によって制限されていたにもかかわらず、ACミランからデンマーク代表DFのマルティン・ラウルセンチェルシーFCから期待の若手カールトン・コールリーグ・アンで評価が高いフランス人MFマテュー・ベルソン英語版と契約し、難を逃れた。オレアリーのモチベーターとしてのスキルをファンから疑問視されていたが、見捨てられていたリー・ヘンドリー英語版と不安定なノルベルト・ソラーノのフォームを戻し、疑問を払拭した。

2005-06[編集]

この夏はミラン・バロシュケヴィン・フィリップスを含む6選手を補強し、チームの質を上げたにもかかわらず、2005-0年はさらに順位を下げたシーズンとなった。オレアリーがファンは移り気なものと言い放ち、ただでさえ不安定だったファンとの関係が悪化。この発言に怒ったサポーターが"我々は移り気じゃない。我々はあなたが好きじゃない"と旗を掲げた。[7]さらにリーグカップでは、3部に所属する格下のドンカスター・ローヴァーズFC相手に0-3と敗北。これにより、ますますファンとメディアから非難にさらされることになった。17試合でちょうど17ポイントしか獲得出来なかったことにより12月には降格圏ギリギリのラインにいた。しかし、冬の期間にはエヴァートンFCに4-0で勝利、ミドルズブラFCにも4-0で勝利すると、首位を独走するチェルシー相手に引き分け、順位を上げることに成功。最終的に16位と降格より2つ上の順位で終わった。地元のライバルであるウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCが降格したことにより、2006-07シーズンのプレミアリーグは、アストン・ヴィラだけがミッドランズ (イングランド)英語版地方で唯一のクラブとなった。

2007年7月14日、オレアリーとアストン・ヴィラ両方の周囲に嵐が吹き荒れた。クラブの選手から会長であるダグ・エリス英語版を批判する共同声明が発表された。[8]7月19日になると、オレアリーとクラブは双方共に合意で契約を解消、このことにメディアは大騒ぎした。また、この数ヶ月以内にエリス会長はランディ·ラーナー英語版へクラブを売却、監督にはマーティン・オニールが任命された。

アル・アハリ[編集]

オレアリーは、2010年7月4日にアラブ首長国連邦アル・アハリ・ドバイで監督業に復帰。ここでの最初の行動は、チームの新キャプテンとして、かつてイタリア代表でも主将を務めたファビオ・カンナヴァーロを据えたことだった。2011年4月2日に、オレアリーはアル・ジャジーラ・クラブ戦で1-5と敗戦したことをうけ解任された。[9][10]4月22日にクラブは正式にオレアリーとアシスタントコーチのロイ・エイトケン英語版解任を発表した。[11]その際、3年契約のうち残り2年が残っていた。アル・アハリからの補償を得るため、2012年3月にFIFAに助けを求めた。[12]

サッカー一家[編集]

弟のピアース・オレアリー英語版シャムロック・ローヴァーズFCセルティックFCでプレーし、アイルランド代表として7キャップ記録している。また、甥のライアン・オレアリー英語版は現在キルマーノックFCでプレーしている。こちらはU-19までアイルランド代表でプレーしていたが、後に生まれ育ったスコットランドの方を選択した。[13]

所属クラブ[編集]

選手時代[編集]

指導者時代[編集]

獲得タイトル[編集]

チーム[編集]

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ FAI History Chapter 26 - The European Championship 1988
  2. ^ Fury over race verdict
  3. ^ O'Leary brought to book
  4. ^ Leeds still have time - O'Leary
  5. ^ Graham rules out Black Cats job
  6. ^ Stadium of Light contenders
  7. ^ Who is the Villain of the piece?
  8. ^ Villa dismiss player unrest claim
  9. ^ David O’Leary to be sacked as coach of Dubai side Al Ahli - report
  10. ^ It's Dubai bye-bye for O'Leary
  11. ^ David O'Leary sacked by Dubai's Al Ahli football team
  12. ^ David O'Leary asks for Fifa help in Al Ahli contract dispute
  13. ^ Don's wary of new 'recruits'

外部リンク[編集]