ゲーベン追跡戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ゲーベン追跡戦
Pursuit of Goeben and Breslau.png
ゲーベンの逃走を示した図
戦争第一次世界大戦
年月日1914年7月28日 - 8月10日
場所地中海
結果ゲーベンブレスラウの逃亡成功
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
ドイツの旗 ドイツ帝国
指導者・指揮官
Naval Ensign of the United Kingdom.svg アーチボルド・バークレー・ミルン英語版
Naval Ensign of the United Kingdom.svg アーネスト・トラウブリッジ英語版
Civil and Naval Ensign of France.svg オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール英語版
War Ensign of Germany (1903-1918).svg ヴィルヘルム・スション英語版
戦力
巡洋戦艦3
装甲巡洋艦4
軽巡洋艦4
駆逐艦14
巡洋戦艦1
軽巡洋艦1
損害
なし 船員4人

ゲーベン追跡戦(ゲーベンついせきせん)とは第一次世界大戦勃発時に地中海で生起した軍事行動であり、イギリスの地中海艦隊が巡洋戦艦ゲーベンマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウからなるドイツの地中海艦隊の行動を妨害しようとしたものである。ドイツ艦隊はイギリス艦隊から逃れ、ダーダネルス海峡を通過してコンスタンティノープルに至った。このことはオスマン帝国中央同盟国側で第一次世界大戦に参戦するきっかけとなった。

イギリス側は、通信の遅れによる情報の錯綜と上層部のあいまいな指示などが災いして混乱し、結局ドイツ艦隊を逃してしまった。

背景[編集]

ゲーベンとブレスラウの写真。

巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウからなるドイツの地中海艦隊(ヴィルヘルム・スション英語版少将)は1912年に派遣された。その戦時における役割はアルジェリアからフランスへの兵員輸送の妨害であった。ゲーベンとブレスラウは共に1912年に竣工したばかりの新鋭艦であった。

一方、イギリスも1914年には地中海艦隊を改編、戦艦6隻を本国に戻し、そのかわり巡洋戦艦2隻を編入した。これにより、地中海のイギリス巡洋戦艦は3隻となっていた。

開戦直後[編集]

1914年7月28日オーストリア・ハンガリー帝国セルビアとの間で戦争が勃発した時、ゲーベンはアドリア海ポーラボイラーの修理中であった。アドリア海に閉じ込められないためにスションは修理を急がせたが、結局修理が完了していない状態で出航した。8月1日にスションはイタリアブリンディジに到着したが、イタリアは中立であることを理由にして給炭を行わなかった。ゲーベンはタラントでブレスラウと合流後メッシーナへ向かい、そこでドイツ商船から石炭を補給した。

一方、7月31日にイギリスの海相ウィンストン・チャーチルは地中海艦隊の指揮官アーチボルド・バークレー・ミルン英語版中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、マルタを拠点とする地中海艦隊は巡洋戦艦、インフレキシブルインディファティガブルインドミタブル装甲巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻および14隻の駆逐艦からなっていた。

8月1日、ミルンはマルタに艦隊を集結させた。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルをアーネスト・トラウブリッジ英語版少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦チャタムメッシーナ海峡へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており、ミルンはインドミタブルとインディファティガブルをゲーベン捜索のため西へ向かわせた。

最初の接触[編集]

明確な命令は無く、そのためスションはアフリカ沿岸で戦争開始に備えることにした。スションはアルジェリアの港ボーヌ(現在のアンナバ)とフィリップヴィル(現在のスキクダ)の攻撃を計画した。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへ向かった。8月3日午後6時、西に向かって航行中にスションはドイツがフランスに宣戦布告したという報告を受けた。4日朝早く、スションは司令長官であるアルフレート・フォン・ティルピッツ提督から「8月3日トルコと同盟が結ばれた。直ちにコンスタンティノープルへ向かえ」という命令を受けた。目標近くまで来ていたため、スションは夜明けに砲撃を行い、それから給炭のためメッシーナに向かった。

戦争前のイギリスとの協定により大西洋沿岸防衛をイギリスに任せていたためフランスは全艦隊を地中海に集中させることができた。フランス艦隊の3つの部隊が輸送船団の護衛に当たっていた。しかし、ゲーベンがさらに西に向かうことも予想されたにもかかわらず、輸送船団の防御を強固とするためにフランスのオーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール英語版中将はゲーベン捜索に1隻の艦艇も派遣しなかった。そのためスションは妨害を受けずに東に向かうことができた。

スションの進路にはイギリスの巡洋戦艦インドミタブルとインディファティガブルがおり、8月4日午前9時30分に両者は接触した。フランスと異なり、この時イギリスはまだドイツと戦争状態になっていなかった。そこで、イギリスの巡洋戦艦はゲーベンとブレスラウの追跡を開始した。ミルンはドイツ艦隊と触したこととその位置は報告したが東に向かっていることを伝えるのを怠った。そのため、チャーチルはドイツ艦隊がまだフランスの輸送船団の脅威になると思い、ミルンに輸送部隊が攻撃された場合は交戦することを許可した。この時点では、チャーチルらはゲーベンが西へ向かっていると思い込んでおり、その後の指示に影響を及ぼすこととなる。

追跡[編集]

イギリス艦から撮られたドイツ艦隊。左側の2本煙突が「ゲーベン」で右側の4本煙突の艦が「ブレスラウ」。

ゲーベンの速力は27ノットであったがボイラーの損傷のため24ノットしか出せなかった。スションにとって幸運なことにイギリスの2隻の巡洋戦艦もボイラーに問題を抱えておりゲーベンの速度についてくることができなかった。ただし、ゲーベンではフル回転でボイラーへの給炭を続けたためボイラー室の船員4人が過労で殉職している(彼らは本戦闘での唯一の犠牲者である)。インドミタブル、インディファティガブルは遅れ、軽巡洋艦ダブリンが接触を続けたが、霧および日没のためシチリア島北岸のサン・ヴィト岬沖でダブリンはドイツ艦隊を見失った。ゲーベンとブレスラウは8月4日深夜にメッシーナに到着した。また、ドイツはイギリスと戦争状態になった。スションは、メッシーナからの出港支援のためにオーストリア軍艦の出動を駐ウィーンドイツ大使館付武官と軍令部に要請した。

一方、イギリス海軍省はミルンに、イタリアの中立を尊重しイタリアの領海内に侵入しないよう命じた。これはメッシーナ海峡の通過が不可能であることを意味した。そのため、ミルンは海峡の出口に部隊を配置した。未だスションが輸送船団攻撃や大西洋に向かうと予想していたため、ミルンは2隻の巡洋戦艦、インフレクシブルとインディファティガブルを海峡の北に配置し、南側は軽巡洋艦グロスター1隻のみであった。その上、ミルンはインドミタブルをチュニジアのビゼルトへ給炭に向かわせた。

スションにとってメッシーナは避難所とはならなかった。イタリアは彼に24時間以内の出港を要求し、石炭の補給は拒絶した。ドイツの汽船から石炭が手作業で集められたが、集まったのは8月6日夕刻までで1500トンであり、コンスタンティノープルに行くのには不十分であった。ティルピッツ提督からの新たなメッセージがさらにスションを窮地に追い込んだ。スションは、オーストリアの海軍は地中海での支援は行わず、またトルコは未だ中立であるため、コンスタンティノープルに向かうべきではない、と知らされた。おそらく戦争の終わりまで閉じ込められるであろうがポーラに避難するという選択もあった。だが、スションはコンスタンティノープルへ向かうことを決めた。スションの意図はトルコとロシアを開戦させるというものであった。

8月6日、ゲーベンとブレスラウは地中海東部に現れた。そこで2隻はグロスターと遭遇した。グロスターはドイツ艦隊追跡を開始した。ミルンは巡洋戦艦は西に残したままにし、ダブリンを派遣してトラウブリッジの巡洋艦戦隊に加えた。ミルンはこれでドイツ艦隊を阻止できると考えた。

トラウブリッジ戦隊は4隻の装甲巡洋艦、ディフェンスブラック・プリンスウォーリアデューク・オブ・エジンバラからなっていた。 装甲巡洋艦の9.2インチ砲とゲーベンの11インチ砲ではトラウブリッジ戦隊はアウトレンジ攻撃されるため、トラウブリッジは唯一のチャンスは夜明けにゲーベンが彼の部隊の東に位置している時だと考えた。8月7日午前4時、彼はそのような配置に位置することに失敗し有利な条件で攻撃をかけることが不可能となった。優勢な敵との交戦を避けろというチャーチルのあいまいな命令のため、トラウブリッジは退却した。

ミルンはグロスターに交戦しないよう命じた。ミルンは未だにスションが西へ向かうと考えていた。だが、グロスターの艦長にとってはゲーベンが逃走しているのは明らかであった。ブレスラウはグロスターへの攻撃を試みた。スションはギリシャ沖に石炭船を待機させており、合流するために追跡者を振り切る必要があったためである。グロスターはゲーベンを引き返させようとブレスラウに対し砲火を開いたが戦果はなく、最終的にミルンはマタパン岬で追跡を中止するようグロスターに命じた。

8月8日夜中過ぎ、ミルンは3隻の巡洋戦艦と軽巡洋艦ウェイマスを東に向かわせた。午後2時、海軍省からミルンに、イギリスがオーストリアと戦争になったという誤った情報が届いた。そして、ゲーベン捜索よりアドリア海の警備を選択した。8月9日、ミルンはゲーベンを追跡せよとの明白な命令を受けた。ミルンはこの時点でもスションがダーダネルスを目指しているとは考えておらず、エーゲ海出口の警備を決心した。

8月9日デヌーサ島沖でスションは石炭を補給。8月10日午後5時、彼はダーダネルスに到着、通過の許可を待った。国際信号旗水先案内人を要求したのに対し、トルコの水雷艇はこれに応じたため彼らに先導されて二隻はダーダネルス海峡を通過した(この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している)。午後8時30分、近くにいたイギリスの副領事から、二隻がダーダネルスを通過したためダーダネルスを封鎖すべき、とイギリスへ打電されたが、ロンドンへは14時間、さらにミルンへは6時間かかってようやく届いたためもはや手遅れだった。翌11日夕方になってようやくウェイマスがダーダネルスに到着し、通過を要求したがトルコ側から拒絶された。

ドイツとトルコの間で交渉が行われ、8月16日、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着した。到着時にはまだオスマン帝国(トルコ)は中立を維持していたが、武装解除も退去要請もせず、両艦はオスマン政府に買い上げられることとなった。イギリスはこの措置に強く抗議したものの、決定は覆らず両艦はオスマン帝国海軍所属となり、こうしてゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム、ブレスラウはミディッリと改名された。しかし、乗員はそのままドイツ人であり、スションはオスマン帝国海軍の司令長官に任命され、1917年に帰国するまでトルコに留まった。

一方、ミルン、トールブリッジとディフェンスの艦長フォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内で公然と非難され、有罪にこそならなかったものの以後閑職に回されて不遇をかこつ事となった。

その後[編集]

ドイツはゲーベンとブレスラウの譲渡により、トルコを同盟国側に引き込むことに成功した。そして、1915年ロシア支援のため行われたガリポリの戦い連合国は大きな損害を出すことになった。

オスマン帝国海軍所属となった2隻は黒海ロシア相手に戦った。ミディッリは1918年1月20日、インブロス島攻撃の際に触雷、沈没したがヤウズは第二次世界大戦後までトルコ海軍に在籍していた。

ゲーベンに乗船していたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後に回想録「孤独な二隻」を著し、英訳もされている。

外部リンク[編集]