浸透戦術

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浸透戦術(しんとうせんじゅつ、英語: Infiltration tactics)とは、一般に第一次世界大戦後半に採られたドイツ軍の戦術のことを指す。ただし、連合軍による他称であり、ユティエ戦術を含め当のドイツ軍はとくに名称を付けていない。[1]

突撃部隊[編集]

浸透戦術はドイツ軍と密接なかかわりがある。以下、ドイツ軍の戦術の変遷を中心に述べる。

20世紀初頭、各国の歩兵戦術は散兵線の構成を基本としていた。散開したときも各散兵は2歩分しか広がらず、戦闘においては中隊長が中隊以下を直接指揮していた。ドイツ軍の歩兵操典によれば、歩兵中隊244名の戦闘正面は、攻撃時に100mを著しく超過しない程度とされ、防御時には兵数に従い120ないし150mとされていた。[2]

1902年のボーア戦争は兵学界に論争を巻き起こした。戦力に劣るボーア軍が、6週間のうちに3度、2倍以上の戦力を有するイギリス軍を破ったのである。これらの戦闘の特徴は、イギリス軍の長く薄い正面攻撃が有力なるボーア軍散兵線の急射撃に敗れたことにあった。ドイツでは、戦訓を重視して分散化した散兵線を構成するようになった。しかし戦場が広くなりすぎて中隊長が指揮できないとされて旧来に戻された。1904-5年の日露戦争はこれに再考をもたらし、従来の縦隊戦術の好例であると見なした者もいれば、初期戦闘での惨烈な死傷者数におどろいた日本軍がより広い散兵線を構成するようになったと見た者もいた。地方分権的なドイツ帝国においては、教範の解釈が画一的ではなく、部隊によって密集隊形を重視するか散開隊形を重視するか分かれていた。

1914年、第一次世界大戦初頭の悲惨な経験は、散開隊形に軍配を上げた。ドイツ軍のある部隊が攻撃を行ったところ、散開隊形だった15コ中隊2250名のうち2225名が生き残ったが、密集隊形だった残り1コ中隊は150名のうち半数が死傷した。[3]1914年の終わりまでには、全軍に散開隊形が採用されるようになっていた。

1915年、しかし西部戦線の高度に発達した鉄道網と陣地線に対抗するには、散開隊形でもってしても限界があった。ドイツ軍においては、手榴弾坑道戦毒ガス火炎放射器と次々に採用してなんとか突破の糸口を見つけようとした。そのなかでもマックス・バウアー中佐は攻撃する歩兵に大砲を随伴させることを考えた。ちょうどクルップの37ミリ砲が開発されていた。1915年3月2日、ドイツ陸軍省は第8軍の軍団に工兵部隊から提供された人員で突撃隊をつくるよう命令した。実験部隊の隊長に選ばれたのはCalsow大尉である。

Calsow大尉の試みは失敗した。37ミリ砲は発砲光で容易に発見され、フランス砲兵の格好の標的となった。Calsow大尉は更迭され、かわりにエルンスト・ローワ大尉が就任した。実験部隊には惜しみない支援が与えられ、機関銃小隊、迫撃砲小隊、火炎放射小隊があらたに配属された。大尉が注目したのはロシア製の鹵獲76.2ミリ野砲だった。直接照準で陣地を制圧するのに最適とされ、任務に合うよう改造されて導入された。訓練では、5000分の1の精密な地図を使用し、航空写真などから得たフランス軍塹壕の実物模型を使って、なんども演習を繰り返した。こうした実験部隊の戦術の基本的要素は以下の通りである。

  1. 散兵線の前進ではなく小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変える
  2. 攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器を使う(機関銃、歩兵砲、塹壕砲、間接砲兵、火炎放射器)
  3. 手榴弾を装備した部隊で塹壕を掃蕩

フリードリヒ大王の時代、下士官は戦列の後ろで兵の逃亡を防ぐのが役目だった。しかしいまや戦闘指揮の焦点は少尉や下士官にうつり、独立不羈のかれらはみずからの意思で戦場を駆け巡るようになった。

1916年2月、突撃隊はヴェルダンで本格投入された。フランス軍縦深陣地への突破戦闘は、砲兵ではなく、歩兵の仕事として大部分が残っていた。そして分散化されたフランス防御戦術に対抗するために、ドイツ軍はかれら自身の攻撃戦術も分散化させなければならなかった。分散化のさらなる進展のある側面はフランス人が「浸透」と呼ぶものとなった。ドイツ側はこれについてなんの名前も与えていない。[4]連合軍側は浸透戦術と呼ぶことに固執したが、ドイツ軍は歩兵大隊が使うさまざまな兵器の「協同」と表現した。[5]

ローワ突撃隊はヴィルヘルム皇太子、そしてエーリヒ・ルーデンドルフという後援者を得た。ルーデンドルフは西部戦線で大機動戦を復活させる良い手段だと考え、軍ごとに将校や下士官を突撃隊のところへ行かせ、最新の戦術を学ばせるようにした。ローワ突撃隊は実戦部隊というよりも訓練部隊として活躍した。1916年12月、ドイツ軍は1906年版歩兵操典にかわる「戦時徒歩部隊訓練教令」を発布。散兵戦は公式に過去のものとなり、第二次世界大戦までスタンダードとなった歩兵戦術が誕生した。

大部隊用兵へ[編集]

柔軟縦深防御[編集]

1916年12月、ドイツ軍は「陣地戦における防勢会戦統帥要領」を発布した。「防勢会戦の目的は敵の戦力を消耗困憊せしめ、われ固有の戦力を節約せんとするにあり」と述べ、防御の目的は敵に対してであり、土地の占領に固執することではないことをうたっている。この目的を達成する原則は、防者は攻者に主導権を渡してはならない、防御は兵員の大小ではなく火力の大小に頼らなければならない、防者はあらゆる犠牲を払ってでも土地を守る主義を放棄しなければならない、防者は設備と陣地すべてに対し縦深を考慮しなければならない、というものであった。[6]

1916年のソンム戦において、ドイツ軍は第1陣地の占領に固執してイギリス軍との猛烈な増援合戦を演じ、大量の人員を消耗した。連合軍とおなじように人員不足に悩むドイツ最高統帥部の憂慮ははなはだしく、ゆえに統帥要領は死守主義を改めている。「高級指揮官はわが占領する土地の保有にのみ熱中してはならない。防御戦闘に有利な地区はわが友軍の手に残し、これに反し不利な土地を敵にゆずるよう指導するを要す」と。[7]

ドイツ軍きっての防御の巧手といわれるロスベルク大佐などこの教令の思想がリベラルすぎると反発し、参謀次長ルーデンドルフも反対者に理解を示して議論をふかめた。1917年の防御戦でやはり教令の方向性がただしいことが立証された。これまで第1陣地帯の前端が警戒に当てられていたが、第1陣地帯全域において戦闘するよう変更され、さらに連合軍の弾幕射撃が第1陣地帯と第2陣地帯に降りそそぐや、予備隊の集結がむずかしいため第1陣地帯全部が前哨地帯となった。敵の砲爆撃により交通網が寸断されることから反撃部隊には大幅な自由裁量権があたえられ、またその反撃部隊には突撃隊戦術が適用された。

1916年12月に端を発するドイツ軍防御戦術の変化について、ドイツ軍自身はとくになにも名前を付けていないが、ルプファーは「柔軟縦深防御」と呼んでいる。[8]

陣地戦における攻撃教令[編集]

1917年9月のリガ攻勢で、これまでの防御・反撃手法が大規模な攻撃手法に転用され、連合軍は注目した。攻勢直前に歩兵を最前線に集結させること、毒ガス弾を混ぜた短時間の強烈な砲撃、強点をさけて弱点攻撃するなどが観測され、攻撃司令官の名をとって「ユティエ戦術」[9]と連合軍側は呼んだ。[10]

西部戦線での来たるべき大攻勢にそなえて、1918年1月ドイツ軍は「陣地戦における攻撃教令」を発布。これによればドイツ軍は戦機を重視している。攻撃部隊は弱点を発見すればこれに乗じて敵線内に浸入し、左右の顧慮なく一意専心前進につとめる。その前進により後方につづく予備隊をもって敵の側背より包囲し敵を孤立にいたらしめ、もって全線の崩壊を期そうとした。フランス軍は砲兵の威力、とくに統一した大砲兵の威力を基礎とし、攻撃部隊を統制していたが、ドイツ軍は「敵をして驚愕より覚醒する余地を与えることなく迅速に攻撃を進展させ、もって敵の対抗手段を無効にさせようとする」精神的利益に重きを置いた。ドイツ軍が、砲兵・機関銃を破壊せんとする撲滅射撃をやめ、混乱させ無力化させる砲撃に変えたのもこのためである。[11]

しかしながら、1917年のリガ戦やカポレット戦では成功したドイツ軍の攻勢も、1918年春季大攻勢では限界を示した。たしかにこれまでの西部戦線の戦いとは異なりドイツ軍は何十キロも前進したが、ただ突出部をつくるだけで作戦次元ひいては戦略次元の勝利につなげることができなかった。戦術は戦術でしかなく、脚力にたよる攻者は、高度に発達した鉄道網と自動車隊との競争に負けた。[12]

評価[編集]

ルプファーは、ドイツ軍人の個々の努力の結晶により戦術が発展していったことに注目している。イギリス軍は戦術的ジレンマを解決するのにしばしば戦車や大砲といったテクノロジーに頼った。1918年春季大攻勢でもドイツ流の防御陣地を形だけ真似していたが、その真意を理解しておらず、ユティエ率いるドイツ第18軍に大突破を許した。これとは対照的に、ドイツ軍は発想を変えることで陣地戦を打破しようとした。ルーデンドルフ、ガイヤー、ブルフミュラー、ローワ、ロスベルクといった個々の創意を注意深く観察し、戦術に取り込んでいった。これにより1918年春季大攻勢での躍進を可能にしたという。[13]

グドマンドソンは、ドイツ軍の優位を主張しつつも「陣地戦という難問題を解決するために、連合軍はテクノロジー的解決に走り、ドイツ軍は戦術的解決に走った」というテーゼを否定している。ドイツ軍の戦術的解決は多くの新兵器――火炎放射器、軽機関銃歩兵砲迫撃砲、手榴弾、小銃榴弾、短機関銃など――を用いたものであり、連合軍の移動弾幕射撃、間接機関銃射撃、"砲兵が征服し歩兵が占領する"というアイディアは戦前の参謀大学なら教えられなかったことである。両軍の革新は共に、あたらしいテクノロジーとあたらしい戦術の結晶であった。

これを踏まえてドイツ軍戦術の革新について、グドマンドソンはまず分権を挙げる。中央集権的なイギリス軍やフランス軍と違い、地方分権的なドイツ軍には下級将校も教範の精神に反しないかぎりアレコレ試す自由があった。ドイツ軍を分権化した要素は自己啓発的な将校団である。ドイツ軍は英仏軍のように教範がきびしく規定したものではなく、もっと観念的なものだった。戦術問題で、ほかの軍隊では尋ねられる前に答えが用意されていたが、ドイツ軍では「どうやってあの丘を攻撃するのか」、「貴官は攻撃支援の機関銃をどう運用するのか」といった正解のない質問をする。これらの質問の癖は、いまだ見たことのない状況に適応しようとする際に、ドイツ軍に明確な利点を与えた。さいごに工兵である。公式の突撃隊は歩兵ではなく工兵から生まれた。歩兵と違い、工兵は要塞戦を知悉しており、陣地戦の突破問題に対して先んずることができた。地雷の設置や架橋といった危険に満ちた仕事をしていたかれらは、戦争に対するロマンチックな感傷から解放されていたという。[14]

反論[編集]

ドイツ軍の優位を主張するルプファー、グドマンドソン、サミュエルズに対し、イギリスの軍事史家パディ・グリフィスはドイツ軍に偏した考察だとしてはげしく批判している。

ドイツ軍とおなじようにイギリス軍も1915年エリート襲撃・擲弾チームを編成して塹壕襲撃を行っており、かれらには軽機関銃浸透、強烈な迫撃砲弾幕、そして"任務指揮"が推奨されていた。1916年ソンムの一連の戦闘でこれらの技術は発展精緻化され、1916-17年冬を通して一般歩兵に波及していった。イギリス大陸派遣軍の1917年2月発布「小隊訓練教範SS 143」はドイツ突撃隊ハンドブックと言っても差し支えないものであり、その内容はミニチュア版諸兵科連合戦の様相を呈していた。

1917年パッシェンデールの戦いでドイツ軍は理想的な防御態勢を築いていたにもかかわらずイギリス軍にあと一歩のところまで追いつめられ、逆に1918年3月の春季大攻勢でイギリス軍の貧弱な防御態勢にもかかわらずドイツ軍は多大な死傷者を出した。こうしたイギリス軍戦勝の基礎は、モナッシュ、ブリュティネル、フラーといった偶像に代表されるようなアンザック、カナダ軍、戦車軍団ではなく、イギリス本国軍なのだとグリフィスは主張している。[15]

[編集]

  1. ^ Lupfer(1981),p. 42; Gudmundsson(1989),p. 66.
  2. ^ 北旭生(1903),p. 65.
  3. ^ Gudmundsson(1989),p. 24.
  4. ^ Gudmundsson(1989),p. 66.
  5. ^ Drury(1995),p. 52.
  6. ^ 参謀本部編(1924b)p. 12; Lupfer(1981)p. 12.
  7. ^ 参謀本部編(1924b)p. 13.
  8. ^ Lupfer(1981),p. 13.
  9. ^ オスカー・フォン・ユティエ (Oskar von Hutier) の名はユグノーの家系であるためフランス語読みされる。フリーザー(2003a),p. 30; フリーザー(2003b),p. 239.
  10. ^ Wictor(2012),pp. 229-233.
  11. ^ 参謀本部編(1925),pp. 100-123.
  12. ^ Gudmundsson(1989),p. 178.
  13. ^ Lupfer(1981).
  14. ^ Gudmundsson(1989),pp. 171-179.
  15. ^ Griffith(1994),pp. 192-200. フランス軍における小部隊戦術の発展は、参謀本部編(1924a),pp.103-112; 参謀本部編(1924b),pp. 97-133. を参照のこと。

参考文献[編集]

  • カール・ハインツ・フリーザー 『電撃戦という幻 <上>』 大木毅訳、中央公論新社、2003aISBN 9784120033643
  • カール・ハインツ・フリーザー 『電撃戦という幻 <下>』 大木毅訳、中央公論新社、2003bISBN 9784120033650
  • 北旭生 『歩兵操典研究』 厚生堂、1903年
  • 参謀本部編 『世界大戦ノ戦術的観察(第二巻)』 偕行社、1924a2015年7月4日閲覧。
  • 参謀本部編 『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』 偕行社、1924b2014年12月5日閲覧。
  • 参謀本部編 『世界大戦ノ戦術的観察(第四巻)』 偕行社、1925年
  • 田村尚也「ドイツ突撃部隊」、『歴史群像アーカイブ volume3 ミリタリー基礎講座2 現代戦術への道』、学習研究社、2008年ISBN 9784056051995
  • 片岡徹也「陣地戦から電撃戦へ ――新しい創造とは――」、『陸戦研究』第564号2000年
  • Drury, Ian (1995). German Stormtrooper 1914-18. Osprey. ISBN 1855323729. 
  • Griffith, Paddy (1994). Battle Tactics of the Western Front: The British Army's Art of Attack 1916-18. Yale University Press. ISBN 0300066635. 
  • Gudmundsson, Bruce (1989). Stormtroop Tactics: Innovation in the Germany Army1914-1918. Praeger. ISBN 0275954013. 
  • Lupfer, Timothy (1981). The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War. Fort Leavenworth, Kansas: Combat Studies Institute. U.S. Army Command and General Staff College. Retrieved 2014/12/05. 
  • Wictor, Thomas (2012). German Assault Troops of World War 1. Schiffer. ISBN 9780764340369. 

関連項目[編集]