伊土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
伊土戦争
Italian battery near Tripoli.jpg
トリポリ港の砲台と駐留するイタリア陸軍
戦争:伊土戦争
年月日1911年9月29日 - 1912年10月18日
場所:オスマン帝国領リビア
結果:イタリア王国の勝利
交戦勢力
イタリア王国の旗 イタリア王国 オスマン帝国の旗 オスマン帝国
Flag of Cyrenaica.svg サヌーシー教団
指導者・指揮官
Flag of Italy (1861–1946).svg ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
Flag of Italy (1861–1946).svg アウグスト・オブレ
Flag of Italy (1861–1946).svg カルロ・カネヴァ
Flag of Italy (1861–1946).svg ジョヴァンニ・バッティスタ
Flag of Italy (1861–1946).svg ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ
オスマン帝国の旗 メフメト5世
オスマン帝国の旗 エンヴェル・パシャ
オスマン帝国の旗 ムスタファ・ケマル
戦力
兵員3万4000名[1]
馬・騾馬6000頭[1]
貨車1050両[1]
大砲48門[1]
山砲24門[1]
合計:3万4000名[1]
オスマン帝国軍
兵員4800名~8000名[2][3]
サヌーシー教団
民兵2万名[3]
合計: 2万8000名[3]
損害
戦死3431名[4]
負傷4220名[4][注 1]
死傷者2万名[6][7][注 2]
装甲艦1隻撃沈
水雷艇2隻撃沈

伊土戦争(いとせんそう、: Guerra italo-turcaトルコ語: Trablusgarp Savaşı (トリポリの戦い)、: Italo-Turkish War, Turco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国オスマン帝国の間で戦われた戦争。戦争はイタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でトリポリタニアフェザーンキレナイカを獲得した。占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア州として一括的に統治する事とした(リビア保護領)。イタリア=トルコ戦争とも。

戦争の過程でイタリア海軍によって東地中海のドデカネス諸島を占領して制海権を奪取していたが、これについてはオスマン側に返還された[8]。だが対価として諸島でのイタリア海軍による拠点の建設など実質的な進駐が容認されていた。1923年、オスマン帝国崩壊に伴う第二次ローザンヌ会議において、ムスタファ・ケマルによるトルコ共和国はドデカネス諸島の完全な割譲に同意した[9]

第一次世界大戦直前に起きた諸戦争の一つとして扱われる場合が多いが、それらの中でもこの戦争は非常に大きな意味を持った。イタリア王国軍が陸海戦でオスマン帝国軍を圧倒する様子は、オスマン帝国の支配下から脱したばかりのバルカン半島諸国に大きな勇気を与えた。バルカンが結束すればオスマンに勝てるかも知れないという希望は、バルカン同盟の結成と第一次バルカン戦争を促すことになる。

軍事的にも伊土戦争は非常に大きな意味を持つ戦いとなった。1911年10月23日、イタリア陸軍航空隊は飛行船による前線偵察を行わせており、11月1日に捕捉したオスマン軍部隊に爆弾を投下した。これは世界で最初の「空軍による地上攻撃」として記録されている[10]

背景[編集]

北アフリカに対するイタリア王国オスマン帝国の係争は、露土戦争終結後に開催された1878年ベルリン会議での議論に遡る事ができる。バルカン諸国のオスマン帝国からの解放が決定された同会議で、フランス共和国イギリス帝国キプロス占領を認める代わりに、モロッコ地方とチュニジア占領を認めさせた。これについてチュニジアに権益を持っていたイタリアが反対すると、フランスは「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と誘いをかけた。1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとチュニジアに関する協力協定が交わされた[11]。しかしイタリア政府は然程トリポリタニアに興味を示さず、協定は宙に浮いたままになっていた。

時代が下って1900年代に入ると、イタリア国内の報道機関は盛んにトリポリタニアが豊かな土地であるという報道を行った。トリポリタニアは鉱物が豊富でよく灌漑されており、オスマン帝国軍は数千人しか駐屯していないと喧伝された。また現地の住民はオスマン帝国に敵対的であり、侵入は「散歩にすぎない」と宣伝された。経済的不況の中で民衆は植民地の拡大を求めるようになった。

諸外国の権益が絡む北アフリカへの軍事行動は大きな賭けであったが、ジョヴァンニ・ジョリッティ首相によって遠征は検討され始めた。左翼・右翼双方を取りまとめていたジョリッティは非戦主義のイタリア社会党を懐柔して、国内の反対派を押さえ込んだ。この時にあくまで植民地戦争反対を唱えた人物の一人が後のファシスト政権の独裁者ベニート・ムッソリーニであった。

1911年9月29日、イタリア王国はトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府に対して提示した。オスマン帝国はイタリア王国に対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答した。イタリア王国はこれを満足できる回答ではないとして宣戦布告した。

勃発[編集]

エンヴェル・パシャ

沿岸部占領[編集]

イタリア王国軍は上陸準備を完了するまでの間、トリポリ港に対する砲撃をまず行うこととした。イタリア王立海軍は9月28日夕方にトリポリを離れ、10月3日にトリポリ港に対する攻撃を開始した。この時に先遣隊として揚陸された海兵部隊はたちまち駐屯していたオスマン軍を撃退してトリポリを占領した。

戦前の喧伝通り、オスマン軍の正規軍は数千名しか展開していなかった。加えて援軍を送るためのルートは海路しかなかったが、優勢なイタリア海軍を恐れてオスマン海軍は消極的な行動に終始した。従ってオスマン軍は新しい司令官や将校などを派遣する時ですら、欧州の中立国を通じて移動するという手段をとった。現地司令官はどうにか戦力を増加させるべく、異教徒への敵愾心を持つ現地兵を軍に加わらせた[12]

トリポリ攻略戦でのイタリア陸軍兵

対するイタリア王国軍も10月10日に2万名の第一次遠征軍をトリポリタニア・キレナイカの主要拠点に揚陸させた。戦闘でトリポリトブルクデルナベンガジなど両地域の沿岸部を占領した。イタリア陸軍は先進的な装備で敵を圧倒したが、その中には空軍だけでなく装甲車も含められていた[13][14]。世界初の航空攻撃も行われたが、まだ空軍はそれほど重要な存在になることはできなかった。

内陸部での塹壕戦[編集]

沿岸部を征服して残る内陸部フェザーンに迫るイタリア陸軍に対し、オスマン軍は強固な防衛線と遅延戦術によって戦局を膠着化させようとした。この戦いでは後のトルコ革命の英雄となるムスタファ・ケマルが途中で参加しており、総司令官エンヴェルと対立しながらも、1911年にトブルクでの破壊工作を指揮して功績を挙げている[15][16]

伊土戦争の戦局図(1911年-1912年)

既にオスマン軍が2万8000名にまで膨れ上がっていた事もあり、膠着を嫌ったイタリア王国は第二次遠征軍を派遣して兵員を一挙に10万名へ拡大した。しかし遅延戦術を根本的に打開する手段にはならず、両軍の戦いは砂漠地帯での塹壕戦に移行していった。

1912年3月3日、停滞した塹壕戦でエンヴェル将軍は主用拠点の一つデルナに対して1500名の兵士を派遣したが、より少ないイタリア陸軍の守備隊に撃退された。オスマン軍は砲兵部隊を投入して再度攻勢を試みたが、後方から増援を得たイタリア側の塹壕を破ることはできなかった。9月14日、今度はイタリア陸軍による攻勢が開始され、3個連隊による猛攻でオスマン側の拠点が制圧された。9月17日、補給線を断たれた状態に陥ったエンヴェルは総反撃を命令したが、むしろオスマン軍の損害が増すばかりで、そればかりかエンヴェル自身もイタリア陸軍のアルピーニ兵による銃火で負傷する有様だった。

イタリア海軍の活躍と戦争終結[編集]

ベイルート海戦の作戦地図

イタリア王国軍は海軍優位を生かし、内陸部遠征への援護としてオスマン帝国本国に対する攻撃を敢行した。1912年2月24日、イタリア海軍のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦「フランチェスコ・フェルッキオ」「ジュゼッペ・ガリバルディ」がオスマン帝国本土のベイルート港に突入、応戦したオスマン海軍の装甲艦「アヴニッラー」と水雷艇「アンカラ」を撃沈する一方的な勝利を収めた(ベイルート海戦)。オスマン海軍を殲滅した後、損害のなかったイタリア海軍はベイルート市街地を砲撃で徹底的に破壊して帰還した。

敗戦はオスマン海軍の弱体さを示すと共に、東地中海の制海権が完全に失われた事を示した。イタリア王国軍はエリトリア駐屯軍を増強して東西からオスマンの北アフリカ領を圧迫することができるようになった。またイタリア海軍はエーゲ海にまで足を伸ばしてドデカネス諸島ロドス島を占領したり、首都イスタンブールを砲撃するなど本土周辺を自国近海のように自由に行動した。

これらは単にオスマン帝国海軍に精神的な屈辱を与えるだけでなく、状況を見ていたバルカン諸国に強い衝撃を与えた。北アフリカに軍が食い込んでいる事も然ることながら、イタリア海軍が東地中海を席巻する事は、バルカン方面のオスマン軍が非常に不利な状態になる事を意味した。1912年後半、ブルガリアセルビアギリシャバルカン同盟を結成、イタリア海軍によって孤立させられていたバルカン半島のオスマン軍を攻撃した(第一次バルカン戦争)。

講和[編集]

1912年10月18日、オスマン帝国はローザンヌで開かれた講和会議でイタリアに対して要求の大部分を認める条約に署名した。これにより約1年間に亘って続いた同戦争は、オスマン帝国のイタリア王国に対する敗北という形で終結を見た。講和案は以下の通りとなった。

  • オスマン皇帝はトリポリタニアフェザーンキレナイカ宗主権をイタリア王に譲渡する
  • トブルクとベンガジの太守制度については形式的に維持されるが、太守任命はイタリア王の裁可を必要とする
  • また太守の給与はオスマン帝国が全額負担する
  • ドデカネス諸島とロドス島は条約履行後に返却する

第一次世界大戦で再び両国は敵対した為、ドデカネス諸島はイタリア王国の軍事占領下に置かれた。1920年、中央同盟に加わっていたオスマン帝国が敗戦により解体されると、イタリアは戦勝国としてイギリス・フランス及びギリシャ王国と共にアナトリアを分割占領(イタリア王国が担当した領域は北西部であった)を行った。その後、セーヴル条約でアナトリアの植民地化とギリシャ王国の完全な旧領回復(メガリ・イデア)が決定する。アナトリア北西部の植民地化と引き換えにイタリア王国はドデカネス諸島をギリシャに渡す予定になっていた。

しかしセーヴル条約に反対する大規模な反乱が起こり、ギリシャ王国の大遠征軍がムスタファ・ケマルに組織された革命軍に大敗を喫する事件が起きる(希土戦争)。イタリア王国は他の戦勝国同様にギリシャに見切りをつけ、新たにケマルの革命政府に対するアナトリア返還を決める。

1923年、第二次ローザンヌ会議でイタリア王国はトルコ共和国を承認、トルコ共和国は返礼としてドデカネス諸島を割譲した。

脚注[編集]

  1. ^ コレラ流行による病死者1948名を含む[5]
  2. ^ 捕虜や反乱協力者とされた1万名に対する処刑も含む[6]

引用[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f Italy. Esercito. Corpo di stato maggiore (1914). The Italo-Turkish War (1911-12). Franklin Hudson Publishing Company. 
  2. ^ Youssef Aboul-Enein and David Trandberg (2012年3月6日). “Arab Thoughts on the Italian Colonial Wars in Libya”. Small Wars Journal. 2013年11月14日閲覧。
  3. ^ a b c The History of the Italian-Turkish War, William Henry Beehler, page 14
  4. ^ a b World War I: A Student Encyclopedia, Spencer C. Tucker,Priscilla Mary Roberts, page 946
  5. ^ Emigrant nation: the making of Italy abroad, Mark I. Choate, Harvard University Press, 2008, ISBN 0-674-02784-1, page 176.
  6. ^ a b Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts: World War I: A Student Encyclopedia, ABC-CLIO, 2005, ISBN 1-85109-879-8, page 946.
  7. ^ Boris Zesarewitsch Urlanis: Bilanz der Kriege, Berlin 1965, page 123
  8. ^ Treaty of Ouchy (1912), also known as the First Treaty of Lausanne
  9. ^ Full text of the Treaty of Lausanne (1923)
  10. ^ U.S. Centennial of Flight Commission: Aviation at the Start of the First World War Archived 2012年10月9日, at the Wayback Machine.
  11. ^ Alliance System / System of alliances”. thecorner.org. 2007年4月3日閲覧。
  12. ^ M. Taylan Sorgun, "Bitmeyen Savas", 1972. Memoirs of Halil Pasa
  13. ^ Crow, Encyclopedia of Armored Cars, pg.104.
  14. ^ Biddle, Rhetoric and Reality in Air Warfare, pg.19.
  15. ^ "1911–1912 Turco-Italian War and Captain Mustafa Kemal". Ministry of Culture of Turkey, edited by Turkish Armed Forces-Division of History and Strategical Studies, pages 62–65, Ankara, 1985.
  16. ^ "1911–1912 Turco-Italian War and Captain Mustafa Kemal". Ministry of Culture of Turkey, edited by Turkish Armed Forces-Division of History and Strategical Studies, pages 62–65, Ankara, 1985.

外部リンク[編集]