ウォーレン・バフェット

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ウォーレン・バフェット
Warren Buffett
Warren Buffett KU Visit.jpg
生誕 Warren Edward Buffett
1930年8月30日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ
住居 ネブラスカ州オマハ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育 ウッドローウィルソン高校
出身校 ペンシルベニア大学ウォートン・スクール(中退)
ネブラスカ大学リンカーン校
コロンビア大学ビジネススクール
職業 投資家
活動期間 1951 -
影響を受けたもの ベンジャミン・グレアム
影響を与えたもの ビル・ゲイツ
給料 10万ドル(約1147万円)
純資産 増加 785億ドル(約9兆円)
身長 178 cm (5 ft 10 in)
肩書き バークシャー・ハサウェイ CEO
政党 無所属
宗教 不可知論
配偶者 スーザン(1952 - 2004 / 死別)
アストウッド(2006 - )
子供 スーザン
ハワード
ピーター
ハワード・バフェット
レイラ・シュタール
署名
Warren Buffett Signature.svg

ウォーレン・エドワード・バフェット英語: Warren Edward Buffett1930年8月30日 - )は、アメリカ合衆国投資家経営者資産家慈善活動家。世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイ筆頭株主であり、同社の会長CEOを務める。大統領自由勲章を受賞している。

バフェットはバークシャー・ハサウェイの司令塔であり、長期投資を基本スタイルとし、長期間に渡って同社に高い運用成績をもたらした[1][2]ウォール街等の金融街ではなく地元ネブラスカ州オマハを中心とした生活を送っている為、敬愛の念を込めて「オマハの賢人」(Oracle of Omaha) とも呼ばれる[3]。毎年開催されるバークシャー・ハサウェイの株主総会では、バフェットと同社の副会長チャーリー・マンガーの話[4]を聞くために、世界中から数万人にものぼる株主が参加している[5]

概要[編集]

バフェットはバークシャー・ハサウェイ等を通して多額の株式投資を行い、大きな成功を収めた。株式会社という形態をとっていても、バークシャーはパートナーシップであるとバフェットが表明している[6]。バークシャーは実質的にバフェットとチャーリー・マンガーが運営する投資ファンドに近い性質を持っているとも言われている[7]。バークシャーは一株当たりの内在価値を最大限に高めることを目的としている[8]。一方で内在価値と乖離した高い株価も好んでおらず、株価は内在価値を反映した妥当な水準であることを望んでいる[9]

バフェットからの手紙(毎年の財務諸表に掲載されている)には、株価指数S&P 500とバークシャー・ハサウェイの株価の比較を載せている[10]。バフェットが1965年にバークシャー・ハサウェイの経営権を握ってから2015年現在までの約50年間に、S&P 500の上昇率が約14,000%(140倍)だったのに対し、バークシャー・ハサウェイの株価は約200万%(20000倍)という桁外れの上昇をみせた[2]。運用成績としては、複利計算で約21%のリターンを40年以上に渡って出していることになる。

フォーブス誌によるアメリカの長者番付フォーブズ400では1986年の5位以来、毎年ベスト10に入り続けている(2008年現在)[11]世界長者番付ではビル・ゲイツ1994年から13年連続で1位となり[12]、バフェットは2位であることが多かった。バフェットは2007年に前年から資産を100億ドル増加させ、620億ドル(約6兆4360億円)となり初めて1位になった(米国内の長者番付では1993年に1位になったことがある)[13][14]

バフェットの資産は、主に自身がCEOを務めるバークシャーの株式を通じて形成されている[15]。バフェットの生活は質素で、1958年に31,500ドルで購入したオマハの郊外の住宅に今でも住んでいる。バフェットは、バークシャーから「報酬」として、年間10万ドルを受け取り暮らしている[3][16]。バークシャーは、バフェットが経営権を握って以来「無配当」を貫いているため、バフェットは同社から配当金は貰っていない。

2006年6月に、バフェットは資産の85%に当たる約374億ドルを、5つのフィランソロピーに寄付すると発表した。これはアメリカ史上最大の金額であり、寄付はバークシャーのB株の形で、寄付残額の5%ずつ毎年支払われる。寄付のうち約310億ドル(当時B株1000万株)は、2004年からバークシャーの社外取締役を務める[17][18]親交の深いビル・ゲイツが関わるビル&メリンダ・ゲイツ財団[19]、残りは4つの財団に寄付される[20][21]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

バフェットは1930年ネブラスカ州オマハユグノー系のハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。バフェットは幼い頃からビジネスを始めていた。例えば祖父からコーラを6本25セントで購入し、それを1本5セントで売ったり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬予想新聞の販売などを行っていた[22]

バフェットは11歳の時に初めて株式を購入した。姉のドリスと共にシティ・サービス優先株を1株38ドルで3株購入したのだが、その後、1株27ドルまで下落した。バフェット達は1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。この経験からバフェットは忍耐を学んだと後に述懐している[23]

証券会社を営む父が、1942年下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越したが、当時12歳のバフェットは新しい生活になじめず、祖父の家からオマハの学校に中学2年まで通うことになった[24]1943年には自転車を仕事の経費として控除し、13歳で初めて所得税を申告した[25]。中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。また成績は芳しくなかったが、新聞配達は継続していた。

中学を卒業したバフェットはワシントンD.C.に戻り、高校に進学した[24]。高校3年のときに友人と中古のピンボールを1台25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになった[26]。その後、この事業を退役軍人に1,200ドルで売却した。

1947年ペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退し、ネブラスカ大学リンカーン校に編入した。ネブラスカ大学を卒業後、ハーバード大学ビジネス・スクールに入学しようとしたが断られた[27]コロンビア大学で著名な証券アナリストであり『賢明なる投資家』の著者のベンジャミン・グレアムデイビッド・ドッドが教職についていることを知ったバフェットはコロンビア大学のビジネススクールに進学し、投資について学んだ[28]

グレアムが保険会社GEICOの重役であることを知ったバフェットは、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かった。門前払いをされそうになったが、中に入れてくれるまでドアを叩き続けたという。そこでバフェットは当時の副社長そして後の友人であり影響を受けたロリマー・デビッドソン(Lorimer Davidson)に会った[29]

1951年に大学院で修士号を取得後、ウォール街で働こうとするが、父とグレアムに反対された。バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。バフェットは故郷オマハに戻り、株式ブローカーとして父の証券会社で働いた。テキサコガソリンスタンドに資産の20%を投資したが損失を出した、後に失敗した投資の1つとして語っている[30]。また、人前で話をする訓練のためにデール・カーネギーの演説コースを受講した[31]。学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで平均年齢が彼の2倍以上の受講生に"投資原理"を教えた。この頃にスーザン・トンプソンとデートをするようになる。

1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈った。後にビル・ゲイツがバークシャーの子会社の宝石店ボーシャイムに指輪を買いに来たときに例に用いて諭している[32]1953年に長女スーザン・アリスをもうけ、翌年には2人目の子供ハワードが生まれた。

パートナーシップの運営[編集]

1954年グレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマンに証券アナリストとして入社した(初任給は年間12,000ドル)。ここでは後に著名な投資家になるウォルター・シュロスと共に働いた。1956年にグレアムは引退し、会社は解散した。グレアムはバフェットを評価しており、1970年代の後半に『賢明なる投資家』の改訂を行っていたグレアムが入院した際に手伝いをバフェットに依頼した。バフェットは根本部分は変更せずにインフレや企業分析について改訂を提案したが、退院したグレアムは自分で改訂作業を行った[33]

当時バフェットの貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。バフェットは故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。1957年にさらに2つのパートナーシップを追加でつくり、合計5つパートナーシップを運営した。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、1957年にファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入した。この家にバフェットは現在も住んでいる[3]

1959年、後にバークシャーの副会長となるチャーリー・マンガーに出会い、2人はすぐに意気投合した[34][35]。彼は会社の成功の要になる。1960年にはパートナーである1人の医師に、10,000ドルを投資する気がある医師を10人見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。1961年、パートナーシップの資産が数百万ドルを突破し、風車の製造会社に対して初めて100万ドル規模の投資をした。

1962年ニューヨークへ出かけ、古い友人から数十万ドルの資金を集めた。パートナーシップの資産が720万ドルになる。多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめ、最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更した。運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザ(地元オマハの名士ピーター・キューイットの名にちなむ[36])に移す。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。

繊維業のバークシャーが1株あたり8ドル未満で売られており、経営を改善すれば業績が好転すると考え、最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進めた。マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談すると、ハリー・ボトルのほうが良いと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、大きな利益を出す。

1963年、バークシャーの筆頭株主になる。デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。翌年、アメリカン・エキスプレスが倒産の危機のある子会社に対して法的義務のない状態で資金を融通しようとしたスキャンダルによって同社の株価が暴落したときに、バフェットは解決可能な問題であると判断し[37]、逆に株を買った。

1965年にウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。1株38セントで当時の時価総額の5%にあたる400万ドルを投資した。1株48セントになったときに売却したが、後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めている。1967年、バフェットのパートナーシップの資産が6500万ドルになる。バフェットはこのパートナーシップに初めて10セントの配当を出した[38]1969年、バフェットはパートナーシップの解散を行った。パートナー達は現金かバークシャーの株式など幾つかの方式を選ぶことができた[39]

ブルーチップ・スタンプス株の保有[編集]

1956年に9つの会社によって設立されたブルーチップ・スタンプは、小売店の販売促進のための景品スタンプ事業を行っていた。9社による独占に対して小売店から反トラスト法違反で訴えられ、1967年にブルーチップ・スタンプスと改名し株式の55%は市場に流通するようになった。バフェットは割安であると判断して株を購入し、情報交換していた友人のチャーリー・マンガーリック・ゲーリンも別個に購入していた。1971年時点でバフェット家が13%、マンガーのパートナーシップが8%、ゲーリンのパートナーシップが5%を保有していた。更にバフェットが部分的に所有しているバークシャーが17%、ダイバーシファイド・リテーリングが16%のブルーチップ株を保有し、ダイバーシファイド・リテーリングはバークシャーの株を持ち、マンガーのパートナーシップはダイバーシファイド・リテーリングの株を保有していた。その後の買い増しによって合計75%のブルーチップ株をバフェットたちが所有することになった[40]

マンガー、ゲーリン、バフェットはブルーチップの取締役となり、景品事業によって生まれる準備金の運用を行った。1972年には製菓業のシーズ・キャンディーを帳簿価格の約3倍の価格で買収して子会社とした。更に貯蓄貸付組合のウェスコ・フィナンシャルの株8%を1株10ドル台前半で購入した。1973年にウェスコがフィナンシャル・コープと合併する計画が発表されると、バフェットたちはウェスコの株主に不利な条件の合併に反対するため17%まで買い増しを行った。規制があり20%以上取得するには許可を受ける必要があったため、バフェットたちは創業家で大株主のピータース家を説得して合併を撤回させた。合併計画によって1株17ドルまで上昇していたウェスコ株は合併中止によって下落することが想定されたが、バフェットたちは他の株主へ公正さを保つため残りの3%を17ドルで購入した。株式取得に関する許可を得ると公開買付けなどによって最終的に80%を保有した[41]

SECはブルーチップを通じたウェスコ株の取得を中心にバフェットたちの投資活動の調査を行った。ブルーチップの株が複雑な形で保有されていたこともあり、SECは何らかの不正を行っているのではないかという疑惑を持っていた。最終的にはウェスコの合併中止後も株を高値で買ったことが株価を操作したと判断され、問題になった。バフェットたちは同様の過ちを今後行わないことを明言し、1975年にSECはブルーチップからウェスコの株主へ11万5000ドルの支払いを命じた。この件の影響でバフェットたちは組織の簡略化に取り組むことになった。マンガーのパートナーシップは1974年の暴落から回復した1975年に解散し、マンガーはバークシャーの副会長に就任した。ダイバーシファイド・リテーリングはバークシャーに吸収された。ブルーチップも1983年にバークシャーとの株式交換によって合併し、複雑な株主構成は解消された[41]

バークシャー・ハサウェイの経営[編集]

1965年にバフェットは繊維業のバークシャーの経営権を取得し、新社長にケン・チェイスを指名した。バフェットは1970年からバークシャーの会長として、現在では有名となっている株主への年次報告書を執筆し始める。 バークシャーは1973年にワシントン・ポスト株を買い始める。ワシントン・ポストとその機関紙を支配しているキャサリン・グラハムと親友になり、バフェットはワシントンポストの社外取締役となる。バークシャー株が下落し始め、バフェットの純資産は1974年には半減する。バフェットの指示にて、バークシャーは資金の借り入れを行う。

1977年、ブルーチップを通じて3250万ドルでバッファロー・イブニング・ニュースを買収した。新たに日曜版を開始し、既存の平日版の読者に4週間無料で、店頭では特別価格で販売した。このことでライバルのクーリエ・エクスプレスから反トラスト法にて訴訟を起こされ、解決まで5年を要した[42]。1979年にABC株を1株当たり290ドルで購入した。バフェットの純資産は1億4000万ドル近くとみられていたが、年間5万ドルを給与として貰い生活を続けていた。 バークシャーの株価が年初775ドルから年末に1,310ドルまで上昇した為、バフェットの純資産が6億2000万ドルとなり初めてフォーブス誌に名前が載る。

副会長のマンガーの発案により1981年からバークシャーが利益の一部を寄付する際に、寄付先を株主が持ち株に応じて決定できるという慈善事業計画を策定した[43]

1983年、家具屋のネブラスカ・ファーニチュア・マートを6000万ドルで買収した。バフェットはオーナーが同社の売却を考えていることを知り、オーナーの息子と事前に下交渉をしていた。その上でバフェットは店を訪ねてオーナーの老婦人と直接交渉し、会計の監査や在庫の調査をせずに言い値に対して即払いで購入した[44]

1983年のバークシャーの持つポートフォリオは13億ドル程度の価値と評価されるまで成長していた。一方で本来の繊維業は不振を続け、1985年にバフェットはバークシャーの繊維部門の再建を断念して工場を閉鎖した。優秀な生え抜きの経営陣と資本を注ぎ込んだが、最後の9年間累計で売上が5億3000万ドル、1000万ドルの赤字であった。当時すでにアメリカにおいて斜陽産業であった繊維業を再建することはできなかった[45]

1985年、3億1500万ドルで世界書籍百科事典などを製造しているScott & Fetzerを買収した。1985年にABCとキャピタル・シティーズの合併の成功を助ける。連邦裁判所からキャピタル・シティーズとワシントン・ポストの両方で取締役であることを認められなかったため、ワシントン・ポストの取締役を辞任した。1989年、670万ドルで社用ジェット機を購入した際に、かつて他社のジェット機購入を批判したことに絡めて冗談交じりに「THE INDEFENSIBLE」(言語道断号)と名づけた。

1987年にアメリカ最大規模の証券会社ソロモン・ブラザーズロナルド・O・パールマンによる敵対的買収の対象となっていたため、CEOのジョン・グッドフレンドはバフェットに助けを求めた。バフェットは証券業界を好ましく思っていなかったがグッドフレンドを評価していたため7億ドルを投資し、マンガーと共にソロモンの取締役に就いた。1991年にソロモンの債券トレーダーのポール・モウザーが財務省証券の入札での買占めをはじめとする複数の違法取引を行ったスキャンダルが発覚した。グッドフレンドとソロモン副会長のジョン・メリウェザーがこの事実を知りながら取締役会や監督省庁に隠し続けていた為、SEC財務省をはじめとする多くの機関から重大事件とみなされた。最終的にグッドフレンドとソロモンの社長であるトーマス・ストラウスと法律顧問が辞任したが、それだけでは解決されないほど問題が大きかったためバフェットが暫定CEOに就任した。バフェットは信用があり、法律問題にも積極的に取り組んだ結果ソロモンが2億9000万ドルの罰金を支払うことで事件は終結した[46]

1988年にコカ・コーラ株を買い始め、最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で買った。1989年バークシャーの株価は4,800ドルから8,000ドル以上に上昇し、バフェットの純資産は約42億ドルになる[47]。1996年ニューヨークのCardozo Law Schoolに参加してThe Essays of Warren Buffettを編集、発行することとなる。

1997年から1998年にかけて、1オンスあたり4.6から4.8ドルで約1億3000万オンスのを投資として購入した[48]。2006年に売却した。

2011年3月21日に日本へ初来日し、自身が間接的に投資を行う大手切削工具メーカータンガロイの新工場完成式典(3月22日開催)への出席が予定されていたが[49]東日本大震災のため完成式典も来日も延期された。その後、新工場の完成式典が行われる11月21日にあわせて工場のある福島県を来訪した[50][51]

2012年2月に自らの後継者を特定したとしたが具体的な名前は明かさなかった[52]。同年4月17日に初期の前立腺癌であることを明らかにした[53]

人物[編集]

プロテスタントの家庭に育ったが、現在は不可知論者だとインタビューに応えている[54]

かなりの偏食家であり、食に関しては様々なエピソードを持つ。ソニーの当時のトップだった盛田昭夫が、ニューヨークの自宅にバフェットを招待し食事を運ばせた際、次から次に出てくる日本料理20品に一切手をつけなかったと言われる。

タンガロイの新工場の竣工式典に出席した際、ある種類のハンバーガーとある種類のコカ・コーラしか食べないという事前情報を手に入れたタンガロイ側は、マクドナルドクォーターパウンダーから具材を全て抜き、ソースも味付けも無い、完全にパンを挟んだだけのものを用意した。

コカ・コーラが大好物で、それもものすごく甘いチェリーコークしか飲まない。それを1日に何本も飲む。6本程度飲んでしまうことは珍しくなく、医師健康診断の際に、彼の食生活を聴いた際、そのあまりの偏食ぶりに「遺伝子がよほど頑張らなければ、常人ならとっくに死んでいる」と驚きを交えて評した[55]

自家用車に関しては、高価な車両を何台も所有することはない。フォードの株を所有しているにも関わらず、一時期はゼネラルモーターズキャデラックを所有。その後継には、スバル・アウトバックを選択した[56]と報道されたが、その後、自身のInstagram上で「人生でスバルに乗ったことはないよ。(愛国者なので)キャデラックを新調したよ」と否定した[57]

家族[編集]

バフェットの父・ハワードは証券業を営み、1930年から共和党下院議員を務めた。バフェットは父から多くを学び、短期間だが父の証券会社で共に働いていたこともある[58]。バフェットは3人兄弟で、姉のドリスと妹のバーティーがいる。祖父はオマハに食料雑貨店を持っており、チャーリー・マンガーはこの雑貨店で働いていたことがあるがこの間にバフェットと出会うことは無かった[59]

1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、スーザンとの間に長女スーザン・アリス(リトル・スージー)、長男ハワード、次男ピーターの3人が生まれた。1977年に子育てを終えたスーザンはバフェットと別れて暮らすようになった。しかし離婚はしておらず、バフェットもスーザンの自由な生き方を支持していた。バフェットの遺産を受け継ぐことになっていた[60]が、2004年に先立たれたために資産を複数の財団へ寄付することになった。バフェットは子供達を甘やかすことは本人のためにならないとして厳しく育て、自立させた[61]。長男ハワードはバークシャーの役員を務めており、次男ピーターは作曲家で映画スカーレット・レターに楽曲を2曲提供している。

バフェットは妻のスーザンから紹介されたアストリッド・メンクスという女性と1978年から同居していた。2004年にスーザンが亡くなり、バフェットは2006年にアストリッドと再婚した[62]

投資[編集]

バフェットの投資に関する考え方はベンジャミン・グレアムの理論をベースとしている[63]。株式が企業の一部であることを意識し、市場に惑わされず、安全余裕率を忘れないことが重要な要素だとしている。その他にフィリップ・フィッシャーの影響も受けている[64]。当初は株価純資産倍率PBR)が1未満の株が解散価値の水準に価格修正される傾向があることから、PBRが1よりも小さい株を買い、価格修正されたところで売却し、差額を得るという方法が主流だった[65]。しかし、失敗した投資やチャーリー・マンガーの意見によって、バフェットは単に割安な企業よりも数字に表れないものを含めて内在価値が高い事を重視するようになり、普通の企業を格安で買うよりも優れた企業を相応の価格で購入すべきだとしている[66][67]

投資基準[編集]

バフェットが投資する基準として、事業の内容を理解でき、長期的に業績が良いことが予想され、経営者に能力があり、魅力的な価格であるという4つを挙げている[68]

事業の内容が自分にとって複雑すぎる分野には手を出さないため、基本的にハイテク分野の企業などには投資をしていないがIBMアップルには高配当からか投資。長期的な業績を計るためには、ブランド力や価格決定力を持つことを重視している[69]。企業は事業拡張や多角化の際に誤った判断によって容易にその価値を失いトラブルを発生させてしまうため、尊敬できる有能な経営者とだけ付き合う。ただし、有能な経営者も悪化したビジネスを立て直すことはできないと考えている[70]

買収[編集]

バフェットは分散投資を行わず、基準を満たす優れた企業を買収あるいは株式を大量に取得するという集中的な投資を行う[71]。買収した企業では元の経営陣がそのまま経営を続け、バフェットは資本の安定と適正な役員報酬によって経営者が安心して運営できる環境を提供する。バフェットの方針は経営を続けたいが企業を売却したいオーナー経営者を惹きつけ、1997年から1999年の間には7社の買収に成功した[72]

バフェットは1970年代にボルチモアの百貨店・ホーチスチャイルド・コーンを買収したが、地域での小売の競争が厳しいため3年後にほぼ購入価格で売却することになった[73]。バークシャーを買収した際は新社長を登用して繊維事業の改善を図るなど、経営に介入したが上手くいかず最終的には工場を閉鎖せざるを得なくなった。これらの失敗の一方で、元々優秀なビジネスを行っていたシーズ・キャンディーの買収は成功したことから現在のスタンスが確立した[74]

裁定取引[編集]

バフェットは長期投資が最も望ましいとしているが、基準を満たす投資先がない場合は裁定取引も行う。合併や買収などが公表された企業の株価と計算上の株価に差があれば、実現される可能性と期間を考慮して取引を行う。バフェットは裁定取引の場合でも少数の大規模な案件を扱う[75]

語録[編集]

  • 1ドルのものを40セントで買う哲学を学んだ[76]
  • リスクとは、自分が何をやっているかよくわからないときに起こるものです[77]
  • 他人が慎重さを欠いているときほど、自分たちは慎重に事を運ばなければならないということです[78]
  • 株式投資の極意とは、いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。これに尽きます[79]
  • 世論調査なんて考えることの代わりにはなりません。
  • ルール その1:絶対に損をするな。ルール その2:絶対にルール1を忘れるな[80]
  • ビジネスの世界では、いつもフロントガラスよりバックミラーの方がよく見えるものです。
  • 風見鶏を見ているだけでは金持ちにはなれません[81]
  • 時代遅れになる原則はそもそも原則ではありません(バリュー投資について)[82]
  • 尊敬できる人のもとで働きなさい(就職活動に関するアドバイス)[83]
  • ウォーレンはカラーテレビのような人です。みなが白黒なのに彼にはカラーに見えるの(妻スーザンがバフェットを評して)[84]
  • 買うのは企業、株ではない。
  • ロケット工学で博士号を取る必要はありません。投資とは、知能指数160の人間が130の人間を倒すゲームではないからです。合理的かどうかが問題です[85]

慈善活動[編集]

バークシャーの慈善事業[編集]

株式会社の利益は株主のものであるという立場から、経営者が寄付を行う場合は個人として行うべきだとバフェットは主張している。バークシャーでは企業として寄付を行う場合は寄付先を株主が持ち株に応じて決定できるという慈善事業計画を1981年から行っている。そのため相反する主張を行う団体の両方に寄付を行っていることもある[43]

個人財産の寄付[編集]

バフェットの財産は99%がバークシャー株である[15]が、死後は慈善事業などを目的としたスーザン・トンプソン・バフェット財団(Susan Thompson Buffett Foundation)に寄付される予定であった。2004年に亡くなった妻の個人資産であった26億ドル相当の土地はこのバフェット財団に寄付されている。2006年6月にバフェットは資産の85%にあたる374億ドルを5つの慈善財団に寄付すると発表した。寄付はバークシャーのB株の形で寄付残額の5%ずつ毎年支払われることになっている[86]。そのうち310億ドルはビル&メリンダ・ゲイツ財団に寄付することとなった[20]

2010年より、ビル・ゲイツと「ギビング・プレッジ」と称する寄付推奨活動を開始した。

ランチオークション[編集]

毎年、バフェットと一緒にステーキランチを楽しむ権利がオークションにかけられ、1億円以上で落札されている。落札金はグライド財団に全額寄付される。

脚注[編集]

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  1. ^ バークシャーの保有する一株あたりの資産は1965年から30年間に年率33.4%の増加した。 カニンガム 12頁
  2. ^ a b ジェフ・マシューズ (2009). バフェットの株主総会. エクスナレッジ. ISBN 978-4-7678-0819-2.  14-17頁
  3. ^ a b c フォーブス (2005年3月10日). “Warren Buffett Warren Buffett”. 2008年11月12日閲覧。
  4. ^ https://www.youtube.com/watch?v=MFKaMMWeZok
  5. ^ バークシャー社の今年の年次株主総会に、およそ3万5,000人が参加する見通しであることを伝えるロイターの記事(2009年5月1日 16:06(JST)配信,2009年6月4日閲覧)
  6. ^ ローレンス・A・カニンガム 「バフェットからの手紙」(2000) 54項
  7. ^ バートン・マルキール「ウォール街のランダムウォーカー 原著第9版」(2009) 454-455項
  8. ^ ローレンス・A・カニンガム 「バフェットからの手紙」(2010) 57項
  9. ^ 庄司卓矢 『バフェットの謎』 技術評論社、2010年ISBN 978-4-7741-4194-7 85-86項
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参考文献[編集]

  • ローレンス・A.カニンガム 『バフェットからの手紙』 増沢浩一監訳、パンローリング、2000年ISBN 4-939103-21-8
  • ジャネット・ロウ 『ウォーレン・バフェット』 平野誠一訳、ダイヤモンド社、1999年ISBN 4-478-36044-8
  • ジャネット・ロウ 『投資参謀マンガー』 増沢和美訳、パンローリング、2001年ISBN 4-939103-43-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]