イスラエルのユーロビジョン・ソング・コンテスト
イスラエル | |
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加盟放送局 | IBA |
国内選考大会 | Kdam Eurovision |
出場 | |
出場回数 | 34 |
初出場 | 1973 |
最高順位 | 優勝: 1978、1979、1998 |
最低順位 | 準決勝24位、2007 |
外部リンク | |
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イスラエルのユーロビジョン・ソング・コンテストでは、イスラエルにおけるユーロビジョン・ソング・コンテストについて述べる。イスラエルは地理的にはヨーロッパではないものの、イスラエルの放送局が欧州放送連合(EBU)に加盟していることからユーロビジョン・ソング・コンテストに参加する権利を持っており、1973年大会で初めて大会に参加した。
歴史
優勝
2008年までに、イスラエルは3回の優勝を経験している。Izhar CohenとAlphabetaはパリで行われた1978年大会では、アップテンポの楽曲「A-Ba-Ni-Bi」で優勝を果たした。翌年の大会はエルサレムで行われ、Gali AtariとMilk and Honeyの「Hallelujah」でイスラエルは再度の優勝を果たした。イスラエルが3度目の優勝を果たしたのは、バーミンガムで行われた1998年大会のことであり、トランスセクシャルの歌手ダナ・インターナショナルが「Diva」を歌って優勝を勝ち取った。これは、イスラエル国内の保守派からは激しい反発を生んだ。
その他
初期のころ、イスラエルでの国内選考はイスラエル放送局の内部で行われていた。Ilanitが2度にわたってイスラエル代表に選出されたことに対する批判から、ヘブライ歌唱合唱フェスティバルでの優勝者がイスラエル代表となる方式に改められた。1978年大会、1979年大会ではこの方法に従ってイスラエル代表が選出された。
しかし1980年には、フェスティバルの優勝者であったHa'akhim ve ha'akhiyotというバンドの「Pizmon Chozer」は、大会に参加することができなかった。1978年に続く1979年の2年連続での優勝の後、イスラエル放送局は短期間の間に2度の大会主催は不可能であった。イスラエルは大会の主催を諦め、主催権をオランダに譲り渡した。既に多くの時間が費やされた後であり、大会主催者はソング・コンテストの適切な日取りを選ぶことは難しくなっていた。最終的に大会の開催日とされた日は、イスラエルでは戦没将兵記念日であったため、イスラエルは大会に参加することはできなくなった。これは、2008年までの時点で、優勝の翌年に大会に参加しなかった唯一の例である。
優勝以外では、イスラエル代表に対する大会での反応はさまざまであった。(1982年大会のAvi Toledano、1983年大会のオフラ・ハザは多くの国々から高得点を得た一方、このひたすら歌い踊るイスラエルのスタイルの人気は1986年ごろまでには衰えていった。異なるスタイルへの挑戦として、Rita Kleinsteinは1990年大会で繊細なバラッドを歌い、2000年大会ではPing-Pongのディスコ風の楽曲を歌ったものの、大きく失敗におわった。しかしPing-Pongは、その楽天的な歌詞と中東の平和を願うメッセージで注目を集めた。彼らは大会での演技の最後にシリアの旗を振り、多くのイスラエル人の怒りを買った。
2004年、David D'Orは「Leha'amin」(להאמין)で11位となり、過去5年で最も高い順位となった。キエフでの2005年大会では、シリ・マイモンは4位に輝き、久々のベスト5復活を果たし、2006年大会の無条件での決勝進出を決めた。2006年大会ではイスラエルはEddie Butlerの楽曲「Together We Are One」で大会に挑んだが、わずかに4得点を得て23位に終わった。イスラエル放送局のユーロビジョン委員会がイスラエル代表に選出したバンドのティーパックス(Teapacks)は、ヘルシンキで行われた2007年大会では準決勝で28組中の24位という結果となり、決勝進出を逃した。2008年大会では準決勝を通過し、決勝に進むことができた。
モスクワで行われる2009年大会では、大会で初めてアラブ系イスラエル市民の歌手としてミラ・アワド(Mira Awad)が、アヒノーム・ニニ(en:Achinoam Nini)と共にイスラエル代表として参加する。
イスラエルの参加に対するアラブ世界の反応
1978年大会では、イスラエルの演技のときヨルダンの放送局JRTVは中継を中断し、代わりに花の画像を映し出した。イスラエルが大会で優勝する見通しとなったとき、JRTVは突然放送を打ち切った[1]。その後、ヨルダンのニュース・メディアはイスラエルが優勝した事実を報じることを拒み、優勝者はベルギーであると報じた(実際にはベルギーは2位であった)[2]。
イスラエルのユーロビジョン・ソング・コンテスト参加によって、参加の権利のある多くのアラブの国々が大会に参加しないことを決めている。チュニジア、モロッコ、レバノンがこれに当たる。チュニジアは参加を試みたものの、最終的に不参加を決定している。レバノンは2005年大会の参加直前まで言ったものの、レバノンの法律はイスラエルの存在を認めることを禁止しており、レバノンのテレビはあらゆるイスラエルの映像を放映できず、これが欧州放送連合の定めた大会の規定に触れるため[3]、参加できなかった。モロッコは大会に実際に参加した経験のあるただ一つのアラブの国であり、イスラエルが参加しなかった1980年大会に参加している。
参加者
投票履歴(1975年 - 2011年)
イスラエルから高得点が送られた国々:
順位 | 国 | 得点 |
---|---|---|
1 | イギリス | 138 |
2 | フランス | 115 |
3 | オランダ | 103 |
= | スウェーデン | 103 |
4 | デンマーク | 94 |
5 | スペイン | 93 |
イスラエルに高得点を送った国々:
順位 | 国 | 得点 |
---|---|---|
1 | フランス | 152 |
2 | フィンランド | 125 |
3 | スイス | 122 |
4 | ポルトガル | 113 |
5 | ドイツ | 106 |
出典:[8]
得点の合計は決勝のときのもののみであり、準決勝のものは含まない。
主催
年 | 場所 | 会場 | 司会 |
---|---|---|---|
1979 | エルサレム | International Convention Center | Yardena Arazi, Daniel Pe'er |
1999 | エルサレム | International Convention Center | Dafna Dekel, Sigal Shachamon, Yigal Ravid |
脚注
- ^ O'Connor, John Kennedy (2005). The Eurovision Song Contest 50 Years The Official History. ロンドン: Carlton Books Limited. ISBN 1-84442-586-X
- ^ “Eurovision Song Contest 1978”. esctoday.com (2005年). 2007年5月8日閲覧。
- ^ “Lebanon withdraws from Eurovision”. BBC News (2005年3月18日). 2006年7月15日閲覧。
- ^ Hondal, Victor (2009年12月29日). “Harel Skaat officially confirmed as Israeli representative”. ESCToday. 2009年12月29日閲覧。
- ^ Webb, Glen (2009年12月29日). “Israel: Harel Skaat to Oslo”. European Broadcasting Union. 2009年12月29日閲覧。
- ^ Webb, Glen (2010年3月15日). “Israel: Harel Skaat to sing Milim in Oslo”. European Broadcasting Union. 2010年3月15日閲覧。
- ^ Klier, Marcus (2010年3月15日). “Harel Skaat to perform Milim in the Eurovision Song Contest”. ESCToday. 2010年3月15日閲覧。
- ^ “Points to and from Israel (1975-2008)”. EurovisionRecords. 2008年2月6日閲覧。