コンテンツにスキップ

震洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Rezabot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月22日 (火) 09:23個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: ca:Shin'yō (llanxa suïcida))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

震洋一型艇

震洋(しんよう)は、第二次世界大戦日本海軍特攻兵器。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)。

概要

小型のベニヤ板モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされた。 末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。

震洋は黒島亀人の爆装モーターボートの構想から始まる。黒島亀人は連合艦隊主席参謀のころから同僚にこの構想を語っていた。1943年7月19日に黒島は軍令部第二部長に就任。これは海軍特攻に決定的な意義を持つといわれる。[1]

黒島は1944年4月4日には「作戦上急速実現を要望する兵力」と題した提案には装甲爆破艇(震洋)も入っていた。これは軍令部内で検討された後海軍省へ各種緊急実験が要望され艦政本部において○四兵器といて他の特攻兵器とともに担当主務部を定め特殊緊急実験が行われた。[2] 1944年6月25日にはすでに震洋は量産を開始していた。[3]

大本営は捿号作戦に合わして震洋隊の編成を急いだ。陸軍にも震洋と同種のマルレが存在したため密接な協調を取った。震洋とマルレは合わせて○ハと呼称されることになる。海軍と陸軍との間に1944年8月8日には○ハ運用に関する中央協定が結ばれる。大森仙太郎によれば震洋搭乗志願者が思ったより多かったため安心したという。(1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される。(正式には9月13日)[4])8月16日の検討会では草鹿龍之介井上成美から生還の可能性も残すよう要望も見られたが生還可能性は実現しなかった。[5]

海軍省は震洋を艦艇ではなく兵器として扱ったため部隊への供給といった形になり戦時編成は行う必要がなかった。[6]

なお、陸軍四式肉薄攻撃艇(マルレ)とともに特攻兵器として知られるが、震洋と異なりマルレは最初から特攻艇として開発されたものではない(四式肉薄攻撃艇#開発の経緯)。

陸軍海上挺進戦隊のマルレとともに、フィリピン沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。1945年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃し、幾ばくかの戦果を挙げてはいる。沖縄戦にも実戦投入された。アメリカの資料によると、終戦まで連合国の艦船の損害は4隻[7]

マルレとは違い防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録となった。実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多い。従って現行の文献では米軍の記録した水上特攻戦果に対し、震洋、マルレ共に配備された地域では日本軍側の戦果報告記録が無い場合(混乱の中で消失もしくは部隊ごと消滅した場合)「マルレもしくは震洋によるもの」とされることが非常に多い。

日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られた。九州・川棚の訓練基地跡や、終戦直後に高知県の第128震洋隊で起きた悲劇的な事故が有名。

開発の経緯

航走中の一型艇。
艇尾の金具はロサ砲懸架装置

1944年3月、軍令部は戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、このうち秘匿名称「○四金物」(船外機付き衝撃艇)として開発されたのが震洋である。1944年6月、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫し、それに伴うサイパン島陥落と戦局が悪化する中で、空母機動部隊の再建を事実上諦めて特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備するようになる。この軍令部の構想に基づき、艦政本部の全面的な同意を得て艦政本部第四部が主務となり設計を開始した。船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンを設計を強化して採用、速力は最低20ノット以上、30ノットを目指した。爆装については横須賀海軍工廠による実験の結果、300kgの爆薬であれば水上爆発でも喫水線下に約3mの破口を生じ、商船クラスであれば撃沈できるとの結果が出たが、震洋の小型船体では300kgの爆薬の搭載は無理なので250kgに減らされた上で直ちに試作にかかった。

試作艇は木造艇5隻と極薄鋼板艇2隻が作られ、船体は魚雷艇の船型を基礎としⅤ型船底を持つものであった。これらは1944年5月27日の海軍記念日に完成し直ちに試験が開始され、耐波性が不足していることが判明した為に艇首を改良した他は所期の性能を発揮し、8月28日に正式採用されこの際に「震洋」と名づけられた。これが一型艇である。この直後に2人乗りの五型艇も開発され生産された。さらにロケット推進式の六型艇(ベニヤ製)七型艇(金属製)、魚雷2装備の八型艇が開発されていたがこれらは実用に至らなかった。震洋は特攻艇として開発されたが設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていた[8]。武装は一型艇で250kgの爆薬の他、12cm噴進砲(ロサ弾)2基を搭載しており、五型艇はこれに13mm機銃一挺を追加し更に一部に無線電話装置が装備された。 設計時から量産を考慮して設計された為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間700~150隻が生産され終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産された。設計主務部員班長を務めた牧野茂は、「震洋」は技術的に見て軽量高性能であり、満足できる設計だったと述べている[9]

乗員は他の特種兵器搭乗員及び機体が無いために余剰となった航空特攻要員であった学徒兵海軍飛行予科練習生出身者を中心としていた。軍の作戦の一環として、若い将兵を集めて特攻隊が編成されたといえる。主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われ国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く、また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま、支援要員も含めて2,500名以上が戦死したとされる。終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されている。

諸元

区分 一型艇 五型艇
全長(m) 5.1 6.5
全幅(m) 1.67 1.86
全高(m) 0.8 0.9
喫水(普通/満載(m)) 0.326/0.380 0.55/0.60
排水量(トン) 1.295 2.2
機関 トヨタ特KC型ガソリンエンジン×1 トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2
馬力 67HP 134HP
最高速度(特別全力) 16ノット(23ノット) 27ノット(30ノット)
航続距離 110海里/16ノット 170海里/27ノット
兵装 爆装250kg、ロサ弾×2 爆装250kg、ロサ弾×2、13mm機銃×1
乗員 1名 2名

基地[10]

部隊名 指揮官 編成年月日 部隊編成 配置 死者数
第1震洋隊 東京都父島釣ヶ浜
第2震洋隊 東京都父島宮ノ浜
第3震洋隊 東京都母島西浦
第4震洋隊 東京都母島東港
第5震洋隊 東京都父島巽湾
第6震洋隊 ボルネオ島サンダカン
第7震洋隊 コレヒドール島 特攻108名(昭和20年2月20日)
第8震洋隊 レガスピー 特攻99名
第9震洋隊 コレヒドール島 特攻245名
第10震洋隊 コレヒドール島 特攻135名
第11震洋隊 コレヒドール島 特攻126名
第12震洋隊 コレヒドール島 特攻130名
第13震洋隊 コレヒドール島 特攻209名
第14震洋隊 比島進出途中海没
第15震洋隊 比島進出途中海没
第16震洋隊 吉田義彦(中尉) 東京都八丈島洞輪沢
第17震洋隊 鹿児島県奄美群島加計呂麻島三浦
第18震洋隊 島尾敏雄(大尉) 鹿児島県奄美群島加計呂麻島呑ノ浦 (出撃直前に終戦)
第19震洋隊 沖縄県石垣島川平湾
第20震洋隊 台湾高雄
第21震洋隊 台湾高雄
第22震洋隊 沖縄県金武 特攻74名
第23震洋隊 沖縄県宮良
第24震洋隊 馬公
第25震洋隊 馬公
第26震洋隊 沖縄県石垣島(竹富小浜島)
第27震洋隊 神奈川(三浦小網代) 石井少尉戦死(昭和20年7月30日)
第28震洋隊 台湾海口
第29震洋隊 台湾高雄
第30震洋隊 台湾海口
第31震洋隊 台湾高雄
第32震洋隊 海南島新村
第33震洋隊 海南島三亜
第34震洋隊 鹿児島県上甑島
第35震洋隊 香港南丫島
第36震洋隊 香港南丫島
第37震洋隊 廈門
第38震洋隊 沖縄県石垣島宮良
第39震洋隊 比島進出途中海没
第40震洋隊 鹿児島県奄美群島喜界島早町
第41震洋隊 沖縄県宮古島(宮古島平良)
第42震洋隊 沖縄進出途中海没
第43震洋隊 台湾進出途中海没
第44震洋隊 鹿児島県奄美群島奄美大島久慈
第45震洋隊 済州島城山浦
第46震洋隊 舟山島盤崎
第47震洋隊 鹿児島新庄
第48震洋隊 細島(宮崎土々呂)
第49震洋隊 高知県須崎
第50震洋隊 高知県宇佐
第51震洋隊 静岡県下田(静岡小稲)
第52震洋隊 舟山島泗礁山
第53震洋隊 井上叔保(中尉) 昭和20年5月25日 鹿児島長崎鼻山川
第54震洋隊 丸井重雄(少尉) 昭和20年5月25日 油津(宮崎大堂津)
第55震洋隊 神浦性太(少尉) 昭和20年5月25日 千葉県勝浦鵜原
第56震洋隊 岩館康男(中尉) 昭和20年5月25日 油壺(三浦)
第57震洋隊 下田和歌浦
第58震洋隊 千葉県銚子外川
第59震洋隊 千葉県館山州崎
第60震洋隊 三重県鳥羽
第61震洋隊 鹿児島県垂水
第62震洋隊 長崎県(長崎上五島)
第63震洋隊 福地壽一(二主) 昭和20年7月25日 鹿児島谷山
第64震洋隊 武井原夫(中尉) 昭和20年7月25日 佐世保(鹿児島垂水)
第65震洋隊 岩切法雄(大尉) 昭和20年7月25日 長崎京泊(雲仙市南串山)
第67震洋隊 満野功(大尉) 昭和20年7月25日 江ノ浦(静岡三津浜)
第68震洋隊 佐藤武彦(中尉) 昭和20年7月25日 千葉笹川
第101震洋隊 台湾進出途中海没
第102震洋隊 台湾淡水
第103震洋隊 海南島サルモン
第104震洋隊 舟山島盤嶼
第105震洋隊 馬公(台湾淡水)
第106震洋隊 川棚(鹿児島指宿)
第107震洋隊 香港南丫島
第108震洋隊 廈門コロンズ
第109震洋隊 川棚(長崎松島)
第110震洋隊 天草茂串
第111震洋隊 大島(喜界島小野津)
第112震洋隊 鹿児島間泊
第113震洋隊 廈門
第114震洋隊 舟山島菰茨島
第115震洋隊 舟山島泗礁山
第116震洋隊 細島(宮崎土々呂)
第117震洋隊 油津(宮崎大堂津)
第118震洋隊 唐津外津浦
第119震洋隊 済州島
第120震洋隊 済州島高山里
第121震洋隊 佃島(宮崎門川)
第122震洋隊 佃島(宮崎美々津)
第123震洋隊 鹿児島県坊ノ津
第124震洋隊 鹿児島県片浦
第125震洋隊 鹿児島県知覧聖ヶ浦
第126震洋隊 宮崎県油津(南郷外浦)
第127震洋隊 高知県御畳瀬
第128震洋隊 高知県手結 爆発事故で111名死亡(昭和20年8月16日)
第129震洋隊 千葉県勝浦
第130震洋隊 橋本是(少尉) 昭和20年5月25日 鹿児島県野間池
第131震洋隊 直井正數(少尉) 昭和20年5月25日 鹿児島県川内出口
第132震洋隊 渡邊國雄(中尉) 昭和20年5月25日 高知県土佐清水
第133震洋隊 昭和20年5月25日 鹿児島県喜入
第134震洋隊 半谷達哉(中尉) 昭和20年5月25日 宿毛(高知柏島)
第135震洋隊 中村太喜三郎(中尉) 昭和20年5月25日 千葉(安房小湊)
第136震洋隊 齋木進吾(中尉) 昭和20年5月25日 静岡県江ノ浦(静岡清水美保)
第137震洋隊 前野安司(少尉) 昭和20年5月25日 静岡県下田(静岡永津呂)
第138震洋隊 渡邊剛州(少尉) 昭和20年5月25日 福島(福島小名浜)
第139震洋隊 千葉県飯沼
第140震洋隊 静岡県下田(静岡稲取
第141震洋隊 福島県小名浜
第142震洋隊 宿毛(泊浦)
第143震洋隊 川棚(天草牛深)
第144震洋隊 近松正雄(中尉) 昭和20年7月25日 川棚(天草富岡)
第145震洋隊 上村進(大尉) 昭和20年7月25日 徳島県阿波橘
第146震洋隊 宮澤常雄(大尉) 昭和20年7月25日 宮城県宮戸島
第147震洋隊 不明

注記

  1. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322、324頁
  2. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326-327頁
  3. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 321頁
  4. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 39頁
  5. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁
  6. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 341頁
  7. ^ NHK 証言記録 兵士たちの戦争 ベニヤボートの特攻兵器-震洋特別特攻隊―より
  8. ^ 牧野『艦船ノート』p.263
  9. ^ 牧野『艦船ノート』p.268
  10. ^ 特別攻撃隊一覧表(海軍)

参考文献

関連項目

外部リンク