野呂恭一
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野呂恭一 のろ きょういち | |
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生年月日 | 1919年11月30日 |
出生地 |
日本 三重県飯南郡飯高町 (現三重県松阪市) |
没年月日 | 1995年3月6日(75歳没) |
出身校 |
東京高等師範学校卒業 (現筑波大学) |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
子女 | 子・野呂昭彦 |
第57代 厚生大臣 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
選挙区 | 旧三重2区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1963年11月21日 - 1983年11月28日 |
第51・52代 三重県議会副議長 | |
在任期間 | 1959年5月 - 1960年8月 |
野呂 恭一(のろ きょういち、1919年11月30日 - 1995年3月6日)は、日本の政治家である。三重県議会議員、衆議院議員などを歴任した。
経歴
1919年(大正8年)生まれ。三重県飯南郡飯高町出身。父は野呂庫治郎。
東京高等師範学校卒業。戦後、三重県議会議員選挙に地元の飯南郡から立候補して当選し、県議会議員となった。1959年(昭和34年)には三重県議会議長に就任した。
その後、県議を辞めて衆議院議員に転身した。三木武夫に師事し、自由民主党三木派に所属した。1972年(昭和47年)、第2次田中内閣で法務政務次官に就任。1973年(昭和48年)、息子・野呂昭彦を秘書とした。四十日抗争に際しては、三木や海部俊樹(後の内閣総理大臣)に従い福田赳夫に一票を投じた。1979年(昭和54年)、第2次大平内閣で厚生大臣に就任。1980年(昭和55年)のハプニング解散につながる内閣不信任決議案には三木らが欠席したにもかかわらず、石田博英らとともに敢然と出席し反対票を投じた。1990年(平成2年)、勲一等瑞宝章を受章した。
ほかに、防衛政務次官、衆議院商工委員会委員長、衆議院石炭対策特別委員会委員、自由民主党恩給制度調査会会長などの要職を歴任した。
家族・親族
- 子-野呂昭彦(衆議院議員、松阪市長、三重県知事)
主な著作
- 『恩給は倫理・共済は連帯―恩給と共済年金の改善のために』1978年 軍恩連盟全国連合会
- 『赤坂九丁目七番地―防衛政務次官のメモ』 1972年 永田書房
参考文献
- 喜田孜(1966)『政陣四季 野呂恭一 政治二十年』一路政治研究会
公職 | ||
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先代 橋本龍太郎 |
厚生大臣 第58代:1979年 - 1980年 |
次代 斎藤邦吉 |
議会 | ||
先代 稲村佐近四郎 |
衆議院商工委員長 1976年 - 1978年 |
次代 橋口隆 |