野口健

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野口 健(のぐち けん、1973年8月21日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市出身の日本人登山家了徳寺大学客員教授亜細亜大学国際関係学部卒業。高校から登山を始め、2005年に25歳でチョモランマの登頂に成功し、当時の七大陸最高峰登頂最年少記録を樹立した。また、エベレストや富士山の清掃活動など、環境問題に取り組んでいる[要出典]

経歴

生い立ち

日本人(元外交官野口雅昭)の父親と、エジプト人の母親とのハーフ。幼少期を海外で過ごす。カイロ日本人学校の小学部から、イギリスの立教英国学院小学部に6年時に転校。同学院の高等学校在学中、本人の言葉によれば“落ちこぼれ”の不良生徒であり、学校の先輩と喧嘩をして一ヶ月の停学処分を受ける。停学中の一人旅で植村直己の著書と出会い登山を始める。卒業後、亜細亜大学一芸入試で合格する。これもあり、植村を強く慕うようになる[1]。亜細亜大学在学中は、学長の衞藤瀋吉から精神面・資金面ともに多大な支援を受けたという。

七大陸最高峰の最年少登頂達成

亜細亜大学入学後から、世界の名立たる山々へ挑戦を挑み、各地で最年少登頂記録を樹立する。大学と並行して登山を続け、卒業前の1999年、25歳の時に世界最高峰エベレストにネパール側から登頂し、3度目の挑戦で登頂に成功。当時の七大陸最高峰の世界最年少登頂記録を更新した[注釈 1]

大学には8年間在籍した。

南極最高峰ビンソン・マシフ挑戦を前に、かつて植村直己のドキュメンタリーを多数製作していた大阪の毎日放送の取材が始まり、以後、野口のドキュメンタリー番組が立て続けに放送される。それらの番組において、危険な仕事を強いられるネパールの山岳民族シェルパ族の命が、先進国の登山隊によって軽んじられている実態を告発している。

清掃登山の開始

1997年、エベレストに初めてチベット側から挑戦した際、標高6500m地点で積極的にゴミ拾いを行うヨーロッパ登山隊のそばで、日本隊が捨てたゴミをテレビスタッフと共に見つけ衝撃を受ける。その映像は「汚された最高峰」として、毎日放送の同行記者の榛葉健が「筑紫哲也ニュース23」やJNNなどの報道番組で問題提起を行った。ゴミ回収の活動について、日本隊の投棄していたゴミが一番多かったという発言をしている。

野口はこの経験を皮切りに環境問題への意識を強く持つようになり、その後もエベレスト、マナスル富士山などの清掃登山を精力的に行うようになった。また同時期に、シェルパの遺族を救うシェルパ基金を設立。現在は、日本の国立公園や各地の山、講演会、自然教室などで「富士山から日本を変える」をスローガンに、環境問題の普及を提唱している。また、野口の活動を全面支援するNPO富士山クラブ理事。東京都レンジャー富士山レンジャーの提案者であり、現在は名誉隊長を務める。

橋本龍太郎との出会い

2000年に橋本龍太郎と出会う。山岳清掃を行う野口の活動に、登山家でもある橋本が興味を持ったことが縁となる。

同年、チョモランマ清掃登山を終えた野口は、1988年に「日本・中国・ネパール・チョモランマ合同隊」を率いた橋本龍太郎隊の捨てたゴミ(カラになった酸素ボンベ)を持ち帰り、橋本に返還する。

橋本は最初、野口を失礼な人間だと感じたが、野口の誠実な態度に心を動かされ、不法投棄に対する深い反省と謝罪を示し、それ以来、親交を深める。

2006年の正月、橋本は「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け」と野口に愛用のピッケルを託し、同年の7月に腸管虚血で死去した。彼の墓は青山墓地の他に、ヒマラヤ山脈のふもとのタンポチェ村にも存在し、野口はヒマラヤ登山の度にこの墓を訪れるという。

多方面での活動

2003年7月に日本人女性と入籍。2004年2月に第1子となる長女をもうけた[要出典]

2004年、自民党から参議院議員選挙比例区への出馬を打診され、本人も意欲を示していた[2]が、タレント議員批判に対して「自分はタレント候補ではない」と反発し不出馬を表明。同様に2007年7月の参議院議員選挙出馬の噂もあったが、本人は自分のブログで「それはありません。私は現場の人間ですから。」と不出馬を表明。自民党からの出馬を目指す理由として「一見、環境保護には縁遠そうな自民党から議員になることにこそ意味がある」と雑誌で語っていた。親交の深い橋本龍太郎の選挙応援や、橋本の元秘書など側近たちの選挙応援もしている。2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では、環境保護関連で親交のある小池百合子(当選)の応援に駆けつけた[3]

2007年、東京ヴェルディの環境アドバイザーに就任。ヴェルディの2007年開幕戦であるザスパ草津戦(国立競技場)では、でキックインセレモニーを行った。試合後は国立競技場周辺を、両チームのサポーターとゴミ拾いをおこない、環境意識への取り組みを示す。同年11月、新潟市が主催する「第2回安吾賞」に選ばれる[4]。2008年には植村直己冒険賞も受賞した[5]

2007年4月、都知事選で石原慎太郎のポスターに「石原さんを応援します」として登場するなど積極支援。2007年11月30日付けで了徳寺大学客員教授(教養教育センター)に就任。

遺骨収集活動

2008年からNPO法人「空援隊(くうえんたい)」に参加し、主にフィリピンにおける旧日本軍戦没者の遺骨調査・収集活動を開始する。2005年にヒマラヤで遭難した際、死を覚悟して遺書を書き、「自分の遺体を故郷に帰してくれないだろうか」と考えた時、橋本龍太郎から聞いた戦没者についての話を思い出したことがきっかけだったと述べている[6][7]

人物・評価

  • 選挙時の応援活動を多く行っているが、特定の政党に対する応援ではなく、政治家個人(共に活動した仲間)を応援するとのスタンスを取っている[8]
  • チベットへの人権侵害、環境対策など、中華人民共和国に対して批判的な意見を自身の公式ブログに載せている[9]
  • タレントのイモトアヤコが2012年9月にマッターホルンに登頂後、頂上からヘリコプターを利用して下山したことに対して「えっ、ヘリを使っていましたか(笑)。遭難、または体調不良がなければ通常では考えにくい選択肢。」「僕ならば登山は中止します。ガイドの判断だとするならばスイスでの登山はそれが一般的なのかもしれませんが。」「個人的な考え方ですが、山登りというものは自力で下山するところまでが山登り。」「エベレストはまだ早いんじゃないかな。」とツイッターで批判して話題となった[10]。その後、イモトはマナスル(8163m、死亡率17.85%)登頂に成功し自力で下山している。
  • CM出演の際に「登山家」に代わる肩書きとして「アルピニスト」という肩書で紹介する提案を受け、もともと「登山家」という言葉に悪印象を持っていた野口は以後「アルピニスト」の肩書を使うようになった[11][注釈 2]
  • 2015年7月、「第一回安藤忠雄文化財団賞」を受賞した[13]

家族

主な登山歴

  • 1990年 8月(16歳) モンブラン (4,810m)登頂(ヨーロッパ大陸)
  • 1990年12月(17歳) キリマンジャロ (5,895m)登頂(アフリカ大陸)
  • 1992年 9月(19歳) コジアスコ (2,228m)登頂(オーストラリア大陸)
  • 1992年12月(19歳) アコンカグア (6,960m)登頂(南米大陸)
  • 1993年 6月(19歳) マッキンリー (6,168m)登頂(北米大陸)
  • 1994年12月(21歳) ヴィンソン・マシフ (4,892m)登頂(南極大陸)
  • 1996年 1月(22歳) エルブルス (4,892m)登頂(ヨーロッパ大陸、ロシア)
  • 1996年10月(23歳) チョ・オユー (8,201m)登頂
  • 1999年 5月(25歳) エベレスト (8,844m)登頂(アジア大陸)ネパール側 - 七大陸最高峰登頂の世界最年少記録樹立(当時)
  • 2007年 5月(33歳) エベレスト (8,844m)登頂(アジア大陸)チベット側 - ネパール、チベットの両方からの登頂成功者は日本人8人目。

主な出演番組

山岳ドキュメンタリー番組

ニュース番組

  • MBSナウ毎日放送
    • 『20歳の南極(前・後編)』(1995年1月5・6日)
    • 『遥かなりエベレスト(前・後編)』(1995年4月27・28日)
    • 『エルブルースの絆』(1995年10月21日)
    • 『友人ナティーの死(前・後編)』(1995年12月14・15日)
    • 『エルブルースの絆2』(1996年2月10日
    • 『友人ナティーの魂(前・後編)』(1996年5月3・4日)
    • 『チョーユー』(1996年11月30日)
    • 『汚された最高峰〜チョモランマの知られざる現実』(1996年10月10日)
    • 『野口健さん、世界7大陸最高峰制覇!喜びの現地報告』(1999年5月17日)
    • 『野口健の新たな挑戦〜チョモランマ清掃登山』(2000年6月7日)
  • 筑紫哲也ニュース23『ヒマラヤ大雪崩から半年、遺品を回収』(TBS系列・毎日放送制作、1996年5月10日)
  • スペースJ『友人ナティーの死』(TBS系列・毎日放送制作、1996年5月22日)
  • VOICE(毎日放送)
    • 『野口健、最後のチョモランマ清掃登山へ』(2003年4月10日)
    • 『野口健、決死の清掃登山〜チョモランマ』(2003年7月1日)
    • 『野口健、最後のチョモランマ』(2007年6月29日)

バラエティー番組、その他

ほか多数

CM

社会貢献活動

関連項目

注釈

  1. ^ 同記録は2年後の2001年に、当時23歳の石川直樹によって更新され、さらには2011年に15歳のアメリカ人ジョーダン・ロメロ英語版が更新した。
  2. ^ 登山家の服部文祥は、アルピニストはアルピニズムに基き困難なスタイルで登山を行う者のことを意味し、野口の登山スタイルである大規模な遠征隊・固定ロープ・一般ルートといった手法がアルパインスタイルの対極にあることから、野口のことをアルピニストとは言えないと評している。[12]。「山と渓谷」2014年2月号に類似の指摘がある。

参考資料

  1. ^ 野口健公式ページならびにブログ・2008年2月13日 http://www.noguchi-ken.com/M/2008/02/51036231.html
  2. ^ “登山家の野口氏が出馬検討 来年の参院選、自民公認で”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年12月10日). http://www.47news.jp/CN/200312/CN2003121001000496.html 2013年6月26日閲覧。 
  3. ^ 09.22 アルピニストと環境相の関係 NEWS PROJECT
  4. ^ “野口健さんに安吾賞 特別賞はベンクスさん”. 共同通信社. 47NEWS. (2007年11月20日). http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007112001000827.html 2013年6月26日閲覧。 
  5. ^ “野口健さんに植村冒険賞 エベレストで「清掃登山」”. 共同通信社. 47NEWS. (2008年2月12日). http://www.47news.jp/CN/200802/CN2008021201000481.html 2013年6月26日閲覧。 
  6. ^ 野口健、笹幸恵なぜ30代の私たちが戦没者の遺骨収容に取り組むのか=野口健×笹幸恵」『SAPIO』第21巻第20号、小学館、2009年11月25日、2010年5月26日閲覧 
  7. ^ 理事辞任のブログ記事
  8. ^ 公式ブログ 選挙結果についての思い
  9. ^ 公式ブログ チベットに自由と正義を~人権問題に国境はない~
  10. ^ “ヘリ使ったイモトのマッターホルン登頂SPに野口健が苦言 「テレビはそこまでやるんだね」”. RBB TODAY. (2012年10月1日). http://www.rbbtoday.com/article/2012/10/01/95185.html 2015年1月27日閲覧。 
  11. ^ 野口健インタビュー J-Wave
  12. ^ 「ZAITEN」2014年10月号、財界展望新社、p72
  13. ^ 安藤忠雄文化財団賞 ブログ 野口健公式ウェブサイト2015/07/16
  14. ^ 野口健著「落ちこぼれてエベレスト」

野口本人の著書

その他の資料

外部リンク