竹 (松型駆逐艦)

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竹
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
級名 松型駆逐艦
艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画
起工 1943年10月15日
進水 1944年3月28日
就役 1944年6月16日
最期 1945年12月1日特別輸送艦指定
その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体
除籍 1945年10月25日
要目
基準排水量 1,262t
公試排水量 1,530t
全長 100.00m
最大幅 9.35m
吃水 3.30m
ボイラー ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000hp
速力 27.8kt
燃料 重油370t
航続距離 18ktで3,500
乗員 211名/248名[1]
兵装 40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)
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(たけ) は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]。戦時量産型駆逐艦である松型(丁型)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては2代目である。横須賀海軍工廠で建造。太平洋戦争中である1943年(昭和18年)10月15日起工。1944年(昭和19年)6月16日竣工した。戦時量産型のため「雑木林」と渾名されるなど[3]、性能は比較的低かったが終戦まで生き残り、戦後は復員輸送艦としての任務にあたった。

戦歴

竹の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。

レイテ島の戦いまで

1944年(昭和19年)1月25日「竹」と命名される[2]。同日附で駆逐艦一等松型に類別[4]。3月28日、本籍を横須賀鎮守府に定められる[5]

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海で訓練の後、7月12日に門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する[6]。7月15日附で、秋月型駆逐艦2隻(霜月冬月)により第四十一駆逐隊が、松型駆逐艦4隻()により第四十三駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)が、それぞれ編制される[7][8]。 その翌日の7月16日、第十一水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦長良」、重巡洋艦摩耶」、練習巡洋艦「鹿島」、駆逐艦「朝雲浦風冬月清霜」とともに、沖縄方面への輸送作戦『ろ号作戦』で中津沖を出撃[9]。7月17日に中城湾に到着後[10]、「冬月、清霜」とともに南大東島への緊急輸送任務を行う[11]。すべての輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日にに帰投した[12]。8月10日、「清霜」とともに柱島泊地を出港し[13]、8月16日にマニラに到着[14]。8月17日からは「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く[15]。米潜水艦の雷撃により沈没した軽巡洋艦「名取」の救援を命じられ2日間捜索するも発見できず[16]、8月26日夜には、ガルアングル島南西端で座礁中にアメリカ潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS-310) の雷撃を受けて船体が切断・座礁した駆逐艦「五月雨」の乗員を収容した[17]。輸送作戦中の8月20日、第四十三駆逐隊は新編された第三十一戦隊江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入される[18]。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った[19]

8月30日からは南西方面艦隊三川軍一中将・海兵38期)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した[20]。10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った[21]。10月14日にミリに到着して[22]マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した[23]。この船団は指揮艦である駆逐艦「春風」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた[24]。10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め[25]、「春風」はアメリカ潜水艦シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた[24]。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている[26]

多号作戦

第三次・第五次多号作戦

「竹」は10月20日から始まったレイテ島の戦いに関わる事となり、三度にわたってレイテ島オルモック湾への輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった[27]。作戦直前、田中弘国駆逐艦長が肺結核肋膜炎とも)で退艦、11月3日に飯村忠彦少佐(海兵65期)が臨時艦長として着任する[28]。宇那木少佐は11月1日附で「竹」駆逐艦長を任ぜられているが、軽巡「五十鈴」や駆逐艦「梅」を乗り継ぎながらマニラへ移動中であり、実際の着任は遅れた[29]

11月9日未明3時、「竹」は第三次多号作戦で駆逐艦「島風」(第二水雷戦隊旗艦。早川幹夫少将・海兵44期)、「初春浜波第46号駆潜艇」および「第30号掃海艇」と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した。翌10日14時、「竹、初春」は「長波朝霜」および「若月」と交代で第四次多号作戦部隊に編入されてマニラに帰投することとなり[30]、11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して18時30分にマニラに帰投した[31]。11月13日、米軍機動部隊のマニラ空襲に遭遇、港外に退避して損害はなかった[32]。なお「竹、初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、この日の空襲によって駆逐艦「朝霜」を残して全滅、乗組員の間では「竹」は「強運の艦」としての噂が広まった[33]

「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(木村昌福少将・海兵41期)とともに南沙諸島長島に向かい、長島で南方に進出途上の第四航空戦隊(戦艦伊勢日向)などと会合[34]、飯村駆逐艦長が退艦して宇那木少佐が新任駆逐艦長となる[35]。アメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と途中ですれ違いつつ[36]、マニラに引き返した[37]

11月24日、竹は第五次多号作戦第二梯団[38]として第6号輸送艦第9号輸送艦および第10号輸送艦と共にマニラを出撃した[39]。翌25日、「米機動部隊が接近中」との情報でマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊したが[40]、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没し、第9号輸送艦も損傷[41]。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他[42]ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった[43][44]。レイテ島オルモック湾への突入を命じられ、高井義助航海長は『方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した[43][44]。機関長は燃料流出を懸念したが、命令なら突入すると進言[44]。砲術長は反対した[44]。 しかし、第9号輸送艦より『砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断』との報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした[45][44]。生存者を救助しつつ11月26日にマニラに帰投[44]。宇那木艦長は南西方面艦隊司令部に出頭して詫びを入れた[46]。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった[47]

第七次多号作戦・クーパー撃沈

11月30日、応急修理を終えた「竹」は第七次多号作戦で駆逐艦「」と共に第9号輸送艦、第140号輸送艦第159号輸送艦を護衛してマニラを出撃した[48]。夕刻、酸素魚雷点検中の事故により魚雷1本を誤って投棄、「竹」の残魚雷は3本となった[49]。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[50]第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[50]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[50]。そして、三度目の作戦[50]としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) 、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[51]は18時30分にレイテ湾を出撃し[51]、オルモック湾に急行した。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[52]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[51]

駆逐艦クーパー

12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた[53][54]。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した[53]。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[55]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[56]。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[57]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[58]、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した[58]。「竹」は12.7cm 高角砲25mm 機銃酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った[59]。オルモック湾内を24ノットで航行しながらの機動するため、座礁を懸念しながらの戦闘であった[60]

最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ[57]、また電気機器の故障により発射の機会を逃した[60]。二度目の機会を得て魚雷2本を発射、四番連管は起動弁の故障で発射できなかった[61]。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した[62]。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した[63]。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった[64]。一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)[65]。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり[66]、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた[65]。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた[62]。やがて第120駆逐群が南方へ去っていった事により、これ以上の戦闘は行われなかった。

やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた[67]。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した[68]。 夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる[68]。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した[68]。12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発[69]。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された[70]。途中で傾斜を回復させた「竹」は、12月4日午後にマニラに帰投した[71]。宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった[72]。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した[72]。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった[53]。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった。12月5日から14日まで応急修理を行ったが[73]、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた[74]

終戦まで

「竹」は本格的な修理を受けるため12月15日にマニラを出港[75]。この時猛烈な台風に遭遇、付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている[76]。12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港[77]。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団を護衛して基隆を出港[78]中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した[79]。翌2日、「竹」は呉海軍工廠に回航[79]。当初の予定では1月末から2月初頭[80]、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが[81]、予定は延びて3月15日まで修理を行った[82]。4月16日から26日にかけての工事では、三式探信儀などが装備された[83]。その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた[84]。3月19日の呉軍港空襲では10名余の負傷者を出した[85]

4月29日から「」とともに回天との訓練に参加した後[86][87]、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った[88]。しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は「」「」とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった[86]。樹木と網で偽装した「竹」はついに攻撃される事なく[89]、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後[90]、10月25日に除籍された。

戦後

戦後の「竹」は1945年12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ[91]、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島浦賀間を二度往復し[92]、次いでパラオと浦賀間を一往復[92]サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した[93]。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した[94]。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった[95]。1946年に復員輸送を終え同年7月26に特別保管艦に指定[96]され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留[97]された。1947年(昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ[98]イギリスに賠償艦として引き渡され解体された。

歴代艦長

艤装員長
  1. 田中弘國 少佐:1944年4月15日[99] - 1944年6月16日[100]
駆逐艦長/艦長
  1. 田中弘國 少佐:駆逐艦長 1944年6月16日[100] - 1944年11月1日[101]
  2. 宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日[101] - 艦長 1945年12月20日[102] - 退任年月日不明[103]
  3. 伊東謹之助[104] 復員事務官:就任年月日不明[103] - 1946年10月30日[105]
  4. 市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日[105] - 1947年2月20日[106]
  5. 南部伸清 復員事務官:1947年2月20日[106] - 1947年3月10日[107]
  6. 福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日[107] - 1947年7月16日[108]

脚注

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁
  2. ^ a b #達昭和19年1月(2)pp.31-33『達第十七號 昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦七隻、掃海艇一隻、驅潜艇一隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 竹(タケ) 伊號第三百六十八號潜水艦 伊號第三百六十九號潜水艦|株式會社藤永田造船所ニ於テ検図 驅逐艦 梅(ウメ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 桃(モモ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十五潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 屋代(ヤシロ) 海防艦 日振(ヒブリ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 鵜来(ウクル) 第十三號海防艦 第十五號海防艦 第十七號海防艦 第十九號海防艦|株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造 第三十四號掃海艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第六十三號駆先手|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 特務艦 大濱(オホハマ)』
  3. ^ #南海の死闘71頁
  4. ^ #内令昭和19年1月(5)pp.17-18『内令第二百號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦、一等松型ノ項中「松」ノ下ニ「、竹、梅、桃」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十四」ノ下ニ「、伊號第十五」ヲ、同伊三百六十一型ノ項中「伊號三百六十六」ノ下ニ「、伊號三百六十八、伊號三百六十九」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「笠戸」ノ下ニ「、日振、鵜来」ヲ、同三御藏型ノ項中「倉橋」ノ下ニ「、屋代」ヲ、同第一號型ノ項中「第十一號」ノ下ニ「、第十三號、第十五號、第十七號、第十九號」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十四號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第六十一號」ノ下ニ「、第六十三號」ヲ加フ』
  5. ^ #内令昭和19年3月(2)p.18『内令第四百八十號|驅逐艦 竹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|第二十四號海防艦 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右警備海防艦ト定メラル|第六十號驅潜艇 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|佐世保鎮守府在籍 第六十號驅潜艇 右警備驅潜艇ト定メラル|昭和十九年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  6. ^ #南海の死闘86頁
  7. ^ #内令昭和19年7月p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃| 』
  8. ^ #南海の死闘87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 31頁
  9. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁
  10. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁
  11. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁
  12. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39、45頁
  13. ^ #南海の死闘88頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁
  14. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁
  15. ^ #南海の死闘87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁
  16. ^ #南海の死闘88頁
  17. ^ #南海の死闘88-89頁、『戦闘詳報』、25、43頁
  18. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 27頁
  19. ^ #南海の死闘89頁
  20. ^ 雨倉、95頁
  21. ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁
  22. ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁
  23. ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁
  24. ^ a b 木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁
  25. ^ 木俣『日本水雷戦史』、581頁
  26. ^ #南海の死闘98-100頁
  27. ^ #南海の死闘101頁
  28. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)187頁、#南海の死闘104頁
  29. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)186頁
  30. ^ 『多号作戦戦闘詳報第二号』、38頁
  31. ^ #南海の死闘108頁、『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁
  32. ^ #南海の死闘109頁
  33. ^ #南海の死闘110-111頁
  34. ^ 野村、10頁;宇那木、6頁
  35. ^ #南海の死闘112頁
  36. ^ 宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』、586頁
  37. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)187頁
  38. ^ 第一梯団は二等輸送艦3隻で編成
  39. ^ #南海の死闘115頁
  40. ^ #南海の死闘116頁、宇那木、8頁
  41. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)191頁
  42. ^ #南海の死闘125頁
  43. ^ a b 宇那木、10頁
  44. ^ a b c d e f #佐藤 艦長続編(文庫)193-195頁
  45. ^ #南海の死闘頁126-127頁
  46. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)196-197頁
  47. ^ 宇那木、13頁
  48. ^ #南海の死闘131頁、#佐藤 艦長続編(文庫)198頁
  49. ^ #南海の死闘134-135頁
  50. ^ a b c d ニミッツ、ポッター、401頁
  51. ^ a b c 木俣『日本水雷戦史』、565頁
  52. ^ 木俣『日本水雷戦史』、565、566頁;ニミッツ、ポッター、401頁;渡辺、319頁、#南海の死闘152頁
  53. ^ a b c 宇那木、16頁
  54. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)202頁
  55. ^ 木俣『日本水雷戦史』、566頁、#南海の死闘161頁
  56. ^ 木俣『日本水雷戦史』、566頁
  57. ^ a b 宇那木、17頁
  58. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』、567頁
  59. ^ #南海の死闘138頁
  60. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)204-205頁
  61. ^ #南海の死闘140-141頁
  62. ^ a b 雨倉、99頁
  63. ^ #南海の死闘152頁
  64. ^ #南海の死闘143頁
  65. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)207頁
  66. ^ #南海の死闘145-146頁
  67. ^ 宇那木、19頁、#南海の死闘147頁
  68. ^ a b c #佐藤 艦長続編(文庫)209頁
  69. ^ 宇那木、21頁
  70. ^ 宇那木、20-21頁、#南海の死闘147-148頁
  71. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)212頁、#南海の死闘149頁
  72. ^ a b 宇那木、23頁
  73. ^ 田村、133頁
  74. ^ #南海の死闘167頁
  75. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)213頁
  76. ^ #南海の死闘172頁
  77. ^ 宇那木、26-27頁、#南海の死闘174-175頁
  78. ^ 宇那木、29頁
  79. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)214頁
  80. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, 38-39頁
  81. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 19頁
  82. ^ 田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある
  83. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, 17-18頁
  84. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 23、29、41、44頁
  85. ^ #南海の死闘185頁
  86. ^ a b 宇那木、35頁
  87. ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 84頁
  88. ^ #南海の死闘188頁。田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している
  89. ^ 宇那木、36-37頁、#南海の死闘194-195頁
  90. ^ 宇那木、40頁
  91. ^ 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。
  92. ^ a b 宇那木、42頁
  93. ^ 宇那木、42-43頁
  94. ^ 宇那木、43頁
  95. ^ 宇那木、44-45頁
  96. ^ 昭和21年9月5日付 復員庁 復二第230号。
  97. ^ 昭和21年8月23日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第187号。
  98. ^ 昭和22年7月16日付 復員庁 復二第500号。
  99. ^ 昭和19年4月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1426号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072097300 で閲覧可能。
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  101. ^ a b 昭和19年11月6日付 秘海軍辞令公報 甲 第1636号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072101800 で閲覧可能。
  102. ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 官房人第19号による職名の自動変更。
  103. ^ a b 現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、宇那木第二復員官の退任発令と伊東復員事務官の就任発令は確認できない。なお、宇那木復員事務官は1946年9月27日付で退官している。
  104. ^ 昭和21年11月12日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第86号「正誤」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。
  105. ^ a b 昭和21年11月6日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第83号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。
  106. ^ a b 昭和22年3月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。
  107. ^ a b 昭和22年3月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第147号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。
  108. ^ 昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。

参考文献

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  • 田村俊夫「「竹」の兵装増備状況」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社
  • 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日~昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100
  • 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』朝日ソノラマ新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9
  • 茂呂計造『南海の死闘 少年水兵の海戦記』近代文藝社、1994年9月。ISBN 4-7733-3262-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。  「竹」水雷科連管手。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

関連項目