狭山事件
![]() | この記事での元服役囚の実名記載については、削除の方針 ケースB-2の例外とされています。 詳細は、ノートページをお読みください。 |
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領 |
事件番号 | 昭和49年(あ)第2470号 |
1977年(昭和52年)8月9日 | |
判例集 | 刑集第31巻5号821頁 |
裁判要旨 | |
甲事実について逮捕・勾留の理由と必要があり、甲事実と乙事実とが社会的事実として一連の密接な関連がある場合(判文参照)、甲事実について逮捕・勾留中の被疑者を、同事実について取調べるとともに、これに付随して乙事実について取調べても、違法とはいえない。 | |
最高裁判所第二小法廷 | |
裁判長 | 吉田豊 |
陪席裁判官 | 岡原昌男 大塚喜一郎 本林譲 栗本一夫 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑訴法60条1項,刑訴法198条1項,刑訴法198条2項,刑訴法199条 |
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件の確定判決に対する再審請求事件についてした再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告 |
事件番号 | 昭和56(し)45 |
1985年(昭和60年)5月27日 | |
判例集 | 集刑第240号57頁 |
裁判要旨 | |
所論引用の各新証拠(判文参照)は、それ自体においても、また、旧証拠と総合評価しても、申立人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠とはいえない。(いわゆる狭山事件第1次再審請求) | |
最高裁判所第二小法廷 | |
裁判長 | 大橋進 |
陪席裁判官 | 木下忠良 牧圭次 島谷六郎 鹽野宜慶 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑訴法435条6号,刑訴法447条1項 |
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件 |
事件番号 | 平成14(し)18 |
2005年(平成17年)3月16日 | |
判例集 | 集刑第287号221頁 |
裁判要旨 | |
刑訴法435条6号の証拠の明白性を否定するなどした原判断が是認された事例(いわゆる狭山事件第2次再審請求) | |
最高裁判所第一小法廷 | |
裁判長 | 島田仁郎 |
陪席裁判官 | 横尾和子 甲斐中辰夫 泉徳治 才口千晴 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑訴法434条 同426条1号 |
狭山事件(さやまじけん)は、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件。「誘拐殺人事件」と呼ばれる場合もあるが、誘拐罪では起訴されていない。
解説
1963年5月23日に被差別部落出身で元養豚場勤務の鳶職手伝い・石川一雄(当時24歳)が逮捕され、のちに強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗[注釈 1]・森林窃盗[注釈 2]・傷害[注釈 3]・暴行[注釈 4]・横領[注釈 5]で起訴され、一審では全面的に罪を認めたが、一審の死刑判決後に一転して冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定して石川は服役した(1994年に仮釈放されている)。
本事件については、捜査過程での問題点が提起されており、石川とその弁護団及び支援団体が、冤罪を主張して再審請求をしている。また、石川が被差別部落の出身であったことから、この事件は部落差別との関係を問われ、大々的に取り扱われることとなった。したがって、部落解放同盟や中核派・革労協・社青同解放派の立場からは、この事件に関する裁判を狭山差別裁判と呼ぶ。
ただし、一審当時から石川を支援していた日本国民救援会は冤罪説に立ちつつも
と批判している。また、石川一雄冤罪説に立たない革マルの立場からは、この事件に関する裁判を狭山無差別裁判と呼んでいる。
マスコミの多くも、石川一雄を「元受刑者」ではなく「さん」「氏」付けで呼ぶようになっている。ただし、日本共産党においてはこの限りではない(歴史的経緯は#支援活動参照)。
事件の展開
1963年5月1日
- 埼玉県狭山市上赤坂の富裕な農家の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。
- 午後6時50分頃、心配した長男(当時25歳)が車で学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻っていなかった。
- 午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状であり、以下のように書かれていた(最初に原文を、次に口語訳を示す)。
「子供の命が欲しかったら、4月29日五月2日の夜12時に、金二十万円女の人がもッて前さのヤの門のところにいろ。(子供の命が惜しかったら、5月2日夜12時、佐野屋の門前に現金20万円を女性に持たせて待て)」
「刑札には名知たら小供は死。(警察に話したら子供は死ぬ)」
「くりか江す 刑札にはなすな。気んじょの人にもはなすな 子供死出死まう。(繰り返す、警察に話すな、近所の人にも話すな。子供は死んでしまう)」
- なお、封筒の宛名には、「少時様」という意味不明の文字を消した上で、被害者少女の父親の氏名が宛字で記されていた。脅迫文の冒頭にも「少時様」と書いたのを消した跡があった。同様に「4月29日」が「五月2日」、「前の門」が「さのヤの門」に書き換えられていたが、佐野屋に門は存在しなかった。
5月2日
- 夜、次女(当時23歳)は身代金受け渡し場所として指定された狭山市堀兼の佐野屋酒店の前で、20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持って犯人を待った。
- 次女は犯人と約12分間にわたって会話したが、犯人は「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づいて「おらぁ、帰るぞ」と逃げてしまった。このとき、警察官は40人で張り込んでいたが、脅迫状の「友だちが車出いくからその人にわたせ」との文言を真に受けて車通りにしか配置を行っておらず、現れた犯人を取り逃がしてしまった。犯人の声について、次女は「年齢は26~27歳から33歳くらい。ごく普通の声で、どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声であった」と証言[2]。また、次女の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長は「中年の男」と証言[2]。張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と証言している[2]。
- 上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と発言、中勲捜査本部長も「犯人は土地鑑があることは今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と発言した。
5月3日
- 早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で見つかった。捜査官は、足跡の臭いを警察犬に追わせたが、1匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で追跡を停止した。もう1匹は、佐野屋から北側の川越方面に進んで停まった。夜明けに足跡の採取をおこなった結果、足跡は地下足袋(職人足袋)によるもので、権現橋方面に向かった後、市道をやや逆進し、さらに南側の畑に入っていた。
犯人の足跡の臭いが途絶えた不老川(草刈橋からI養豚場方面を望む) - その権現橋のたもとにI養豚場があった。また、I養豚場の経営者の自宅もあった。I養豚場の経営者や家族、それに従業員は、狭山市内の被差別部落の出身者であった[要検証 ]。I養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、被差別部落民からも警戒されていた [注釈 7]。権現橋はまた、被害者少女の通学路にもあたっていた。
5月4日
- 午前10時半、殺害された少女の遺体が、雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていたのが発見された。
- 夜、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が、少女宅で司法解剖を行った。
- 遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞めたことによる窒息死であったが、警察側の五十嵐鑑定では「加害者の上肢(手掌、前膊或いは上膊)あるいは下肢(下腿等)による扼殺」とされ、弁護側の上田・木村鑑定等では、被害者の首に見られる蒼白帯から、幅広い布による絞殺とされた。
- 少女は生前に姦淫されており、膣内から血液型B型の精液が検出された。抵抗傷などは見られなかったが、警察側鑑定では強姦とされ、弁護側鑑定では和姦とされた。
- 胃の中には粥状の食物が約250ml残っていた。法医学ではこれは最後に食事したときから2時間、長くても3時間以内に死亡したと推定される(それ以上経過すると胃の中の食物はほとんど腸に移動してしまうため)。
- 胃の中にはジャガイモ・ナス・タマネギ・ニンジン・小豆・菜(葉)・米飯粒の半消化物のほか、トマトが残っていた。後に同級生が法廷で証言したところによると、被害者が当日12時頃、昼食として摂った調理実習のカレーライス(ならびにその付け合わせ)には、トマトは入っていなかった。
- 後頭部には生前に負ったものと思しき裂創があり、おそらく転倒の際、角のある鈍体に衝突して生じたものと推定された。弁護側鑑定では、牛乳瓶2本分程度の出血があったとされた。
- 腹部や下肢に引きずられた痕があった。
- 処女膜には少なくとも1週間以上前にできたものとみられる亀裂があったが出血はなかった。ただし、処女膜の亀裂はスポーツ等によって生じた可能性もあり、事件前における性体験の有無は不明であった[注釈 8]。
- 死斑の状態から、初め6時間以上にわたり仰向けにされ、その後うつぶせにされたものと推定された。
逮捕と自供
1963年3月に発生した「吉展ちゃん誘拐事件」で警察は犯人を取り逃がしており(2年後の1965年に犯人検挙)、次いで起きた狭山での誘拐犯人取り逃がしについて強い批判を受けた。死体が発見された4日には柏村信雄警察庁長官が辞表を提出し、引責辞任した(10日)。埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させるも捜査は難航。死体発見の同日、特捜本部はI養豚場の経営者に聞き込みをおこなったところ、同養豚場からスコップが紛失していることを聞かされたため、この経営者に盗難の被害届を書かせた[3][4]。スコップの存在を知っていたのはI養豚場関係者に限られることや、I養豚場の番犬に慣れている者でなければスコップを盗み得ない状況にあったことから、警察はI養豚場関係者に的を絞り、特命捜査班を組織してI養豚場関係者に対する捜査を開始した。時の国家公安委員長・篠田弘作は「こんな悪質な犯人は、なんとしても必ず生きたまま捕らえる」と発表した[5]。11日午後5時ごろ、I養豚場から盗まれたスコップが狭山市入間川東里の小麦畑で発見された。このスコップは一見して農作業や土木工事に使われていたスコップではないことが明瞭であり、木部に食用の油が付着していたため、捜査当局はI養豚場の養豚用スコップと判断した[6][7]。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから、遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。
同月23日、遺体遺棄現場近くの被差別部落に住む石川一雄(当時24歳、血液型B型)が傷害や暴行や窃盗などの容疑で別件逮捕された。石川は小学校5年修了後、農家の子守奉公や靴屋の店員見習い、製菓工場の工員、土工を経てI養豚場に住み込みで働いていたことがあり、同養豚場関係者21名の中で、B型の血液型を持つ人間は石川ただ1人であった[8]。石川が住む部落にはI養豚場関係者が多く、石川も事件の3ヶ月ほど前までI養豚場に勤めていた。共同通信社は、逮捕前から有力容疑者が石川であるという情報を入手しており、逮捕前日の22日、工事現場で働いていた石川を撮影している。また警察は、報道陣に対して逮捕当日から「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」と発表した。一方「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これが白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」と答えたという[9]。警察は20日以上にわたって取り調べを行ったが石川は自白をせず、別件で起訴された後、弁護士の保釈の申請が認められて6月17日に釈放されることになったが、釈放直後に警察は本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑)で再逮捕した。
再逮捕された石川は、6月20日に養豚場の元同僚たちと3人で被害者を輪姦・殺害した、ただし自分は脅迫状を届けただけである、という自白を行った。さらに、6月21日には石川が描いた少女のカバンを捨てた場所の地図に基づいてカバンが発見された。6月24日には単独犯行を自白した。6月26日には自供に基づいて自宅から万年筆が発見された。さらに、7月2日、石川の自供に基づいて腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が発見された。
石川の再逮捕を受け、被害者の長兄は
「犯人は土工に違いないと思っています。というのは、死体の埋め方です。ふみ固められた農道を掘りかえし、しかも中に死体を入れておきながら、現場に土が少しももり上がっていない。いったい、このあまった土をどこへ持って行ったか。おそらく土工なら処分するのは簡単だったに違いない。
また、わたしは石川の犯行と信じて疑わない。とはいってもこの犯行は単独犯ではないとも思っている。という訳は荒ナワにある。いかに犯人とはいっても、死体をひとりでかつぐのはいやだったんじゃないだろうか……。そこで荒ナワをまきつけて棒でも入れて、二人でかついでいったんじゃないかと、思うのです」[10]
「石川の単独犯行といわれるが、私には納得のいかない点もある。Y(被害者)の死体にまかれていた縄はどうなるのか、一人で死体を短時間に隠したり、埋めたりすることができるだろうか。共犯が誰かいて死体を運びやすいよう縄をまきつけたとしか思えない」[10]
と語った。
冤罪説
カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。そのため三大物証と呼ばれている。しかし、下記の点を根拠に冤罪説を主張する者もいる。
- 腕時計については当初捜索のために発表された品名はシチズン・コニー(埼玉県警から特別重要品触として5月8日に手配された物はコニー6型で側番号C6803 2050678と個体識別情報があった)となっていたものが、実際に発見されたのはシチズン・ペット。つまり別の物。
この点につき最高裁は、
「側番号は、捜査官が品触れを作成するために見本として使用した同種同型の腕時計の側番号を軽率にもそのまま記載したことが証拠上明らか」
と、側番号が違うのは捜査官の不注意ミスと述べた。さらに、
「かえって、関係証拠によると、本件腕時計はY(被害者)と姉Tの二人が互いに使用していたことがあり、その場合、それぞれ違ったバンド穴を使用していたというのであって、本件腕時計のバンドにはその事実を裏付ける形跡が窺える」
と述べ、発見された腕時計が被害者やその姉の使用品であることは間違いないとしている。
- 発見された万年筆は中に入っていたインクがブルーブラック。被害者が当日にペン習字の授業で使っていたとされるインクはライトブルー。
この点につき最高裁は、
「被害者又は万年筆やインクと無縁ではない申立人によって本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がある以上,本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるとはいえない」[11]
と述べ、被害者または石川がペン習字の授業の後、インクを詰め替えた可能性を認定した。
- 石川の自宅は「自供」以前に何度も捜索されていたにも関わらず、人目につきやすい勝手口の鴨居から万年筆が突然「発見」されたのは「自供」後。
この点につき最高裁は、
「鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落すことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる」
と、警官が見落とした可能性を認定した。
- 警察側が証拠とする脅迫状の筆跡が石川の筆跡と異なるものであることは明確であり、かつ、当時の石川には文字を書く能力がないに等しかった。
この点につき最高裁は、脅迫状の筆跡や用字上の特徴と石川の特徴を比べた上で、両者の特徴は同一であると結論づけた。石川の識字能力については、石川が14歳の時に3ヶ月間ひらがなや漢字を習っていたこと、顧客の氏名を漢字で書きこなしていたこと、報知新聞の競馬予想欄や読売新聞を読む力があったこと、友人から交通法規の本と自動車構造の本を借りて読んでいたことなどを挙げて「他の補助手段を借りて下書きや練習をすれば、作成することが困難な文章ではない」と認定した。なお、国語学者の大野晋は、検察側証拠として提出された脅迫状について、東京高裁控訴審と第2次再審請求の2度にわたり筆跡鑑定を行い、脅迫状の筆跡及び文章が逮捕時の石川の稚拙な日本語能力では不可能なものであると分析し、「脅迫状は被告人が書いた物ではないと判断される」と結論づけた[12]。しかし、裁判所は大野晋、磨野久一、綾村勝次による3鑑定書について
と退けた。
有罪説
一方、有罪説の根拠として次のような事実が認定された。
- 脅迫状における「時」の字の「土」の部分は「主」の崩し字となっていた。石川による上申書でも「時」の「土」の部分が「主」と誤記されていた[11]。
- 脅迫状における以下の特徴が、石川自筆の早退届(逮捕前、東鳩東京製菓株式会社保谷工場勤務時代に書いたもの)や上申書にも表れていた。
- 脅迫状では「一分出もをくれたら」「車出いツた」「死出死まう」などと「で」が「出」と表記されていた。石川自筆の手紙でも「来て呉れなくも言い出すよ」「あつかましいお願い出すが」などと「で」が「出」と表記されていた[14]。
- 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、鎌倉街道で自動三輪車に追い越されたと供述している。この自供の後、警察が証人を探したところ、確かに同時刻に鎌倉街道を自動三輪車で通ったという証人が見つかった(犯人しか知り得ない事実)。[14]
- 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、被害者宅の近隣農家に被害者宅の場所を訊いたと供述している。その近隣農家に面通しさせたところ、石川の背丈・顔貌・頭髪の様子と一致した。[8][注釈 9]
- 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、被害者宅の2~3軒東隣の表道路に自動車が停まっているのを目撃したと供述している。調べてみると、そのころ被害者宅の2軒東隣に肥料商がライトバンを停めていた事実が判明した。[8]
- 被害者の遺体を縛る時に用いた手ぬぐいは狭山市の「五十子米穀店」が165本配布したうちの1本であり、同じくタオルは東京都江戸川区の「月島食品工業株式会社」が配った8434本(いずれも一般の顧客ではなく商店の家族や雇用人に配布され[15]、このうち狭山市内では9軒のパン屋などに配布された[16])のうちの1本だったが、追跡の結果、石川はこれらを両方とも入手し得たごく少数の1人と判明した。すなわち、前者は石川の姉婿に2本(ただし姉婿は「1本しか貰わない」と述べた)と石川の隣人に1本が渡っており、後者は石川がかつて勤務していた東鳩東京製菓株式会社保谷工場の工場野球チームに約50本が渡っていた。石川はこの野球チームの元メンバーであった。[14][8]
- 被害者の姉ならびに姉の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長(身代金受け渡しの際に犯人の声を聞いていた)が、犯人の声と石川の声を「そっくりだったです」「声全体から受ける感じがピッタリだった」と証言した。[17][14]
刑事裁判の経過
同年7月9日、当時の浦和地方裁判所(現:さいたま地方裁判所)に強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領で起訴された石川は一審で犯行を終始認め、判決の言い渡しまで否認をしなかった。
石川によると、当初罪を認めていたのは、H警視から
「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ…」「石川君 殺したと言って 呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな」[18]
と甘言で釣られたためであるというが、当のH警視はこのような発言の存在を否定しており、石川の申立の信憑性は証明されていない[19]。なお、逮捕当初の石川は被害者の父に1963年6月27日付で
「このかみをぜひよんでくださいませ○○○○(被害者の父の氏名)さん私くしわ●●●●(被害者の氏名)さんごろしの石川一夫(ママ)です」
との書き出しで、
「●●(被害者の名)さんごろしのつみをぜひいちばんのつみにしてくださいませ この一夫(ママ)はよの中のためにわなりませんからぜひおもくしてください」
「○○○○(被害者の父の氏名)さん一夫をぜひいちばんのつみにしてください ●●(被害者の名)さんごろしの一夫です ○○○○(被害者の父の氏名)さん」
と訴えた謝罪の手紙を出している[20]他、川越警察署分室の留置場の壁板にも
「じようぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください。六・二十日石川一夫(ママ)入間川」
と詫び文句を爪書している。しかし、弁護人の中田直人らは自白や物証の疑わしさを衝き、また警察による違法捜査の可能性を指摘し、無罪を主張した。ただし一審の段階では石川が犯行を認めていたため、弁護人橋本紀徳の最終弁論もまた、本事件が石川の犯行であったことを前提に、石川に前科がなかったこと、出来心による犯行[注釈 10]であったこと、意図的に殺したのではなく誤って殺したことなどを強調し情状酌量を狙う内容となっていた[21]。なお、石川家には私選弁護人の報酬を支払う能力がなかったため、中田らは自腹で石川を弁護した。
1964年3月11日に浦和地裁は石川に対し、死刑の判決を言い渡した。翌3月12日、石川は控訴した。控訴後、1964年4月20日付で浦和地裁の裁判長に
「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡された石川一雄でございます」
で始まる上申書を出しており、この段階では殺人の罪を争っていなかった。このころ拘置所で石川と同房だった者の証言によると、当時の石川は
と語り、三波春夫の歌のメロディで
「Yちゃん(被害者の名)殺しはサラリととけぬ」
という替え歌をうたっていたという[24][25]。また、この同房者によると、当時の石川は
「共犯がいる」
とも発言していたという[22][26][25][注釈 11]。
ところが、1964年9月10日に東京高裁で開かれた控訴審の第1回公判では、石川は「お手数をかけて申し訳ないが、私は●●さん(被害者の名前)を殺してはいない。このことは弁護士にも話していない」と言い放ち、執拗な取り調べや虚偽の司法取引などにより自白を強要されたことを主張し、一審で認めた犯行を全面否認した。石川が突如として無罪主張に転じた背後には、石川の補佐人として雇われていた川越出身の部落解放運動家・荻原佑介[注釈 12](自称「部落民連盟、日本監察保安隊」「同胞差別偏見撲滅部落民完全解放自由民主党」[27]代表)の示唆が関与していた。石川は、1966年11月22日付の荻原宛の手紙で
「私にかわって、内田武文(第一審の裁判長)を綿密にお調べの上、裁判をして、私同様に死刑にしてください」
「内田武文を絞首台にあげてください。また、H(警視)、S(巡査部長)の両人も死刑にしてもらいます。この二人は、私がでてからやりますから、取り調べにあたった人の写真を全部送ってもらいたいのですが、警察に頼んでみてください」
と記している。
しかし、1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の主張を斥けて「無期懲役」の判決を下した。死刑判決を選ばなかった理由について、東京高裁判決は「本件の犯行には右に述べた偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定重きに過ぎて妥当でない」と述べている。
二審判決後、弁護団は新証拠をあげて上告したが、1977年8月9日に最高裁は上告を棄却した。その結果、石川の無期懲役が確定し、1977年9月8日、千葉刑務所に下獄した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Chiba-Prison-2009.jpg/280px-Chiba-Prison-2009.jpg)
千葉刑務所での様子は、見沢知廉『囚人狂時代』、金原龍一『31年ぶりにムショを出た』に描写されている。金原によると、千葉刑務所の周辺には週に約1回の頻度で部落解放同盟や中核派や社青同解放派などの支援団体の街宣車が訪れ、「冤罪事件に巻き込まれた石川さん! 今日も頑張ってください!!」などと大音量の拡声器で激励していたのが塀の中まで明瞭に聞こえていたという。石川は
「今日は社会党の代議士が会いに来た。面会ではケーキですよ」「今日カンパが300万円届きましてね。これで私の領置金は億を超えました。あなた、出たらぜひ私のところで秘書の仕事をしてください」
などと自慢していたために反感を買い、「冤罪を訴えているが実はやってるんじゃないか」と噂されることもあったと金原は伝えている[28]。また見沢によると、千葉刑務所時代の石川は月額数百万円のカンパを貰っていたが、「いやあ、今月のカンパは少ねえなあ」と笑い、出所の翌日には700万円のオーディオ機器を買ったという[29]。
再審請求
弁護団はその後も異議申立て、再審請求を提出するが棄却・却下されている。
1994年12月21日石川が31年7ヶ月ぶりに仮出獄した。関東地方更生保護委員会はこの事実を公表したが、出所したことを公表するのは極めて異例である。他に公表したケースは、神戸連続児童殺傷事件の加害者、元少年A(犯行当時14歳)の関東医療少年院を仮退院した事例のみである。仮出獄後の石川は故郷の狭山市の実家に戻ったが、1995年12月18日に実家が全焼。その後、実家跡には部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」が建てられ、事件当時の石川宅が復元保存されている。
仮出獄2周年の1996年12月21日には支援者である徳島県の被差別部落出身の女性(狭山事件の被害者女性と同年、1947年の生まれ)と結婚し、実家付近にカンパで8階建てのマンションを建て、不動産収入で悠々自適の老後を送っている。
2005年3月16日、最高裁第一小法廷は第二次再審請求の特別抗告を棄却した。この直前の2月13日、「ザ・スクープ スペシャル」(テレビ朝日)で、「見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実」と題した特集が組まれ、冤罪説の立場から石川のロングインタビューなどが放送された。
2006年5月23日、支援者と石川が東京高等裁判所に第三次の再審を請求した。
2006年12月、石川は第18回多田謡子反権力人権賞を受賞した。石川は、現在も支援者の協力のもとに無罪を主張しつづけている。
2010年5月13日、東京高裁、東京高検および石川の弁護側と三者協議が行われ、検察側は裁判所の証拠開示勧告を受けて、確定判決で殺害現場とされた付近の畑で農作業をしていた男性の捜査報告書や、石川が犯行を自白した際の取り調べ録音テープ9本などあわせて36点の新たな証拠を開示した[30]。
狭山裁判の歴史
- 1964年3月11日 - 浦和地方裁判所、死刑判決(裁判長・内田武文)[31]。
- 1974年10月31日 - 東京高等裁判所、無期懲役判決(裁判長・寺尾正二)[32]。
- 1977年8月9日 - 最高裁判所(第2小法廷)、上告棄却決定(裁判長・吉田豊)[33]。
- 1977年8月16日 - 最高裁判所、異議申し立て却下(15日付)。原判決の無期懲役が確定。
- 1980年2月7日 - 東京高等裁判所、第1次再審請求棄却(裁判長・四ッ谷巌)。
- 1981年3月25日 - 東京高等裁判所、異議申し立て棄却。
- 1985年5月28日 - 最高裁判所(第2小法廷)、第1次再審請求の特別抗告を棄却(裁判長・大橋進)[34]。
- 1999年7月7日 - 東京高等裁判所(第4刑事部)、第2次再審請求棄却(裁判長・高木俊夫)。
- 2002年1月23日 - 東京高等裁判所(第5刑事部)、異議申し立て棄却(裁判長・高橋省吾)。
- 2005年3月16日 - 最高裁判所(第1小法廷)、第2次再審請求を棄却(裁判長・島田仁郎)[35]。
狭山裁判関連テロ事件の歴史
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
- 1969年11月14日、中核派が「狭山差別裁判糾弾」と称して浦和地裁を占拠。地裁に火炎瓶を投げ込む。
- 1974年10月29日、石川一雄有罪に抗議して社青同解放派が東京高裁長官室乱入事件を起こす。
- 1976年9月17日、石川一雄有罪に抗議して社青同解放派が東京高裁判事襲撃事件を起こす。同年9月26日、社青同解放派が集会の席上「革命的人民により、反革命裁判官寺尾に報復の鉄槌が下った」と声明を発表。
- 1977年8月23日、中核派が狭山事件担当の最高裁調査官の自宅に時限式爆燃物を仕掛け、杉並駐在所ならびに狭山市・西宮市・広島市の派出所に放火。
- 1977年9月、石川一雄在監中の東京拘置所へ無人の火炎自動車が突入。
- 1979年10月30日、革労協が10.31狭山集会の前段闘争として検察庁合同庁舎へ火炎放射器でゲリラ攻撃をおこなう。
- 1990年10月、判事として狭山事件一審を担当したことのある弁護士の自宅が放火され、雨戸などが焼かれる。
- 1994年3月4日、東京高裁判事として狭山裁判第2次再審請求の審理に関わった近藤和義の自宅に革労協狭間派が金属弾を撃ち込む。革労協狭間派の機関紙『解放』(1994年3月15日付)が「第二次再審棄却を策謀せんとすることに対しての革命的鉄槌」との犯行声明を発表。
関係者の相次ぐ変死
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。
- 1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人[注釈 13]が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
- 1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。
- 1964年7月14日 - 被害者の姉[注釈 14]が農薬を飲んで自殺。
- 1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の兄[注釈 15]が西武新宿線入曽駅近くの踏切で電車に轢かれて自殺。
- 1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。
- 1977年12月21日 - 事件を追っていたフリーライター片桐軍三が暴行死とも見られる変死を遂げる[36]。
このことから、あたかも真犯人や真相を知る者が自責の念から自殺したかのように、あるいは口封じのために関係者を殺したかのように想像し、物証と取り調べ方法に関する不審点や差別問題を背景に冤罪説と結びつける向きもあるが、一連の変死と狭山事件との関係は何ら証明されておらず、憶測の域を出ない。なお、部落解放同盟は被害者の日記における「夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい」(1963年4月27日)との記述を根拠として、財産分与をめぐる身内の犯行との説を唱え、亀井トムや殿岡駿星もこの説を踏襲しているものの、伊吹隼人は「そうだとしても、なぜ高校に入学したばかりの少女を真っ先に殺害しなければならないのかの説明がつかない」と批判している[37]。
支援活動
事件発生当時、石川の兄から相談を受けた遠藤欣一(狭山市議、日本共産党)の紹介で日本共産党系列の自由法曹団の弁護士(東京合同法律事務所の中田直人と橋本紀徳。のち同事務所の石田享が参加)が石川の弁護人となり、日本国民救援会など、日本共産党の影響下にある団体が、極貧の石川家のために自費で支援活動をしていた。一審当時の石川は罪を自供していたため、部落解放同盟中央本部からは支援を受けられなかった(ただし中央本部とは別個に埼玉県連や群馬県連などが石川の家族を励ますとともに、埼玉県警捜査本部に抗議を申し立てたことはある[38])。1964年9月に二審が始まり、石川が無罪主張に転じた時、石川の弁護士の中田直人らは部落解放同盟中央本部を訪れ、支援を要請したが顧みられなかった[1]。
その後、1965年の同和対策審議会答申に積極的な評価を与える部落解放同盟と、否定的な評価を与える日本共産党の間で軋轢が生じる。1968年10月6日、部落解放同盟は「狭山事件第1回現地調査」を行なったことを公表[39]。1969年3月、部落解放同盟は第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択し、「差別裁判」を盛んに主張するようになった。これを受け、1969年11月、被差別部落出身の学生運動家の沢山保太郎らが「狭山差別裁判糾弾」を掲げ「浦和地裁占拠闘争」を開始。これにより、一審における石川の弁護人の中田直人らは部落解放同盟から「差別弁護士」「日共系弁護士」という攻撃を受けるようになり、1973年には石川自身からも「日共系弁護士」と公然と非難され[40]、1974年4月には、中核派機関誌『武装』誌上で石川から「三月公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」と非難を受け、1974年10月の二審終了後、1975年2月には石川から解任され、
「石川君じしんが、反共・反民主主義的破壊活動をこととする「部落解放同盟」朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません」
と辞任声明を発表するに至る。なお、中田らの辞任に先立つ1970年には既に朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)の依頼で山上益朗が狭山弁護団に加わっていた。
石川は、逮捕当時はほぼ文盲だったと支援者から言われている(ただし裁判では文盲と認定されておらず、逮捕直後には既に克明な日記を書きこなし、その日記は後に『石川一雄獄中日記』として刊行された)。その後、石川は東京拘置所の看守の助けで必死で文字を学び、精力的に支援者への手紙や、短歌をしたためるようになった。1975年、第1回部落解放文学賞「短歌」部門で特別賞を受賞している。
なお、石川を積極的に支援してきた部落解放同盟では、石川の実兄を埼玉県連合会の狭山支部長に迎えている[41]。
狭山事件をめぐる日本共産党と新左翼セクト間の対立
新左翼セクトの多くは、狭山闘争を沖縄闘争や三里塚闘争と並ぶ重要な闘争と位置づけた。とりわけ解放同盟は狭山闘争を重視し、行進や署名運動などを盛んにおこなった。そして、いわゆる「解放教育」でも、狭山事件を差別裁判であるとする内容が盛り込むようになっていった。解放子ども会や一部の学校などでは「差別裁判うち砕こう」の歌[42]の授業や、「狭山同盟休校」(授業ボイコット)などが盛んに行なわれた。こういった形態での「狭山闘争」を、日本共産党などは「狭山妄動」として激しく非難した。全解連の機関紙「解放の道」によると、1970年7月、朝田善之助は水上温泉における部落解放全国青年集会(全青)で「証拠調べなぞいらん、差別性を明らかにしてやればよい」 と放言したこともあったという[43]。
その後、日本共産党は『赤旗』1975年1月11日付に論文「「一般刑事事件」民主的運動」を掲載し、
「「解同」朝田派は、この事件(狭山事件)を頭から「差別裁判」と規定したうえ、これを反共キャンペーンの材料とし、わが党にたいして、共産党は"差別裁判でないと主張、えん罪事件にわい小化した"などのひぼうをおこなっている。これは、「差別裁判」というかれらの独断的な規定をうけ入れないものは、「差別者」だとする立場からの問答無用の議論である。また、わが党中央は、狭山事件について、無実の「えん罪」であると規定したことはなく、この点からいっても、まったく見当ちがいもはなはだしい中傷である」
と発言。後に『赤旗』1977年12月2日号と3日号で、日本共産党中央部落対策委員会の田井中一郎名義で見解を発表し、「解放同盟が支援活動を混乱させてしまった」と強く非難した[44]。さらに、田井中は
「かれら(部落解放同盟)の論法でいくなら、部落住民にかんする事件は、真犯人であろうとなかろうと、すべてが「部落差別」を基礎とする「差別裁判」ということになるのである。しかも、かれらは「差別裁判」だと決めつけることによって「石川青年の即時釈放」を要求し、かれらに同調しないものや、証拠にもとづく公正な裁判を要求してたたかっていた人たちまで「差別裁判」の加担者だと攻撃した。これが、部落住民なら、どんな犯罪をおかしても裁判をうけたり、罰せられたりすべきではないとする、きわめて反社会的な主張であることはあきらかである。もともと、ある裁判の基本性格を「差別裁判」と断定するには捜査、起訴、審理、判決という訴訟の過程に、ことさら差別観念をあおったり、未解放部落住民であることを最大の理由として処罰するなどの明確な事実がなければならないが、「狭山裁判」をそうしたものと断定する根拠はないのである。
また「解同」はこの事件自体があたかも「部落解放運動」への弾圧事件だったかのようにみせかけている。だが「狭山事件」は、松川事件のような政治的背景のある謀略事件と全く性格がちがい、石川被告は、事件当時、部落解放運動とはなんのかかわりももっておらず、警察や検察当局がこの事件から部落解放運動の組織や活動の弾圧にすすむということもなかったのである。」[44]
と主張。また、「解同」が中核派、社青同解放派などのトロツキストと野合していると批判した。さらに、石川自身も解放同盟に与し、共産党を非難したとして、共産党系団体は支援活動から離れ、一審以来の弁護士も弁護団から離脱した[1]。 解放同盟らによる、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張を受け、新左翼が支援に乗り出し、中核派などが解放同盟との共闘を盛んに強めてゆく。このため、狭山闘争の集会では、「日共差別者糾弾」「反革命カクマル殲滅」といったアジテーションも盛んに行なわれてゆくようになった。また、社青同解放派による東京高裁長官室乱入事件や東京高裁判事襲撃事件が起きている。「寺尾と刺し違える覚悟」で法廷闘争に臨み、有罪判決を耳にしたときに「そんなことは聞きたくない!」と激怒した石川は、東京高裁判事襲撃事件を知ったとき、感謝感激したという。新左翼と部落解放同盟との共闘は、部落解放同盟と日本共産党との対立を激化させる原因のひとつとなった。また、新左翼陣営の内部でも中核派・ブント系・社青同解放派・民学同の間で主導権争いがおこなわれていた。ただし革マルは石川を「真犯人に酷似している石川」と呼び、石川冤罪説に対して距離をおく立場をとった。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Sayamajiken_Shukai-2005-10-30.jpg/280px-Sayamajiken_Shukai-2005-10-30.jpg)
やがて全国部落解放運動連合会(全解連)は、かつての主張[45]を翻し、狭山事件が差別裁判ではないと主張しだした。同時に、いわゆる「解放教育」について、部落解放同盟などが推し進めている同盟休校は教育権の蹂躙であり、また保育園児にまで「石川兄ちゃんかえせ」「日共粉砕」などと叫ばせているとして、解放同盟を激しく非難した[46]。
全解連の後身である全国人権連は、
との見解を示し、石川が当初は起訴事実を認めていたこと、および石川が「反共の「解同」に与した」ことを非難している[47]。また、人権連の事務局長で茨城県人権連書記長の新井直樹は日本国民救援会の見解に立ち、ブログの中で狭山事件を「えん罪事件」と呼んでいるが[48]、人権連としては狭山事件について見解をまとめたことはない。
狭山事件を題材、モデルとした作品
- 映画
- 狭山の黒い雨(1973年、監督:須藤久) - 部落解放同盟が製作した映画。
- 狭山事件(1974年) - 日本共産党系の団体が製作した映画。冤罪を主張しているが、部落解放同盟に「差別映画」と攻撃された。
- 造花の判決(1976年、監督:梅津明治郎) - 部落解放同盟が製作した映画。盛んに上映運動が行なわれたが、強姦の描写があることが問題視された。
- 狭山裁判(1976年、監督:阿部俊三)
- フィルム・レポート 狭山事件 真犯人は誰か(1976年)
- 狭山事件 18年目の新証言―悲鳴・人影はなかった―(1982年、監督:松良星二)
- 狭山事件 石川一雄・獄中27年(1991年、監督:小池征人)
- 演劇
- ビデオ
- 『わたしは無実!』(部落解放同盟全国連合会)[49]
- 歌曲
注釈
- ^ 1962年11月19日、I養豚場の雇い主の指図により建築現場から杉柱材16本を盗み出した件。ならびに、1963年1月下旬頃、農家から鶏3羽を盗んで食べた件。ならびに、1963年3月6日、農家から鶏2羽を盗んで食べた件。ならびに、1963年3月7日、作業衣1着を盗んだ件。
- ^ 1963年1月7日、I養豚場の雇い主らと共謀し、茅120束を盗んだ件。
- ^ 1962年11月23日頃、愚連隊仲間と共に17歳の少年に集団暴行を加え、全治5日間の顔面打撲傷を与えた件。
- ^ 1963年1月7日頃、愚連隊仲間と共に前出の17歳の少年に集団暴行を加えた件。ならびに、1963年2月19日頃、交通トラブルに関連して農協職員の顔面を2回殴打した件。
- ^ 割賦で買ったオートバイの代金の支払いが済まぬまま、1962年6月中旬、これを知人に売り渡した件。
- ^ この点について、事件当時の所沢警察署長・細田行義は、脅迫状の発見・届出に先立つ午後6時半過ぎ頃に埼玉県警から「女子高生行方不明、誘拐の可能性あり」との連絡を受けたと証言している(細田証言)。ただしこの証言は裁判では採用されていない。亀井トム『狭山事件 無罪の新事実』による。
- ^ 狭山事件二審第16回公判調書によると、石川一雄の兄も「みんなIのところの若い者がね、人を脅迫したり結局は暴力を振ったりするという」ので、一雄に「(I養豚場を)やめるように」言って退職させ、自分のもとで鳶の手伝いをさせた、という。
- ^ この処女膜の亀裂について、下田雄一郎『史上最大のミステリーを推理せよ!狭山事件』p.154のように「亀裂が基部に達していることから『過剰な運動や手淫、生理用具の挿入』の場合とは異なるとされた。つまり性体験があったと推測された」とする資料もある。
- ^ ただし当時、被害者宅に表札はなかったとされており、石川自身は2008年頃のインタビューで「脅迫状届けに行くのに、被害者の自転車に乗って近所の家で尋ねること自体が変でしょう。そこがもし、被害者の家だったらどうするんですか?」と反論している(伊吹隼人『狭山事件─46年目の現場と証言』p.162による)。もっともこの近隣農家は被害者宅とは別姓であり、この近隣農家に表札があった可能性については石川も伊吹も言及していない。
- ^ 石川には夢遊病的な前歴があり、18歳の夏には昼寝中に起き上がって全裸で近所をかけずり回ったことがあると狭山裁判第一審第8回公判で自ら証言している。
- ^ ただし石川はこの同房者の発言について「そのようなことを言った覚えはないんですけれども、何か聞き間違いじゃないでしょうか」「Yちゃん事件の共犯じゃなく、パイプのこと(ジョンソン基地からパイプを盗み出して売却した件。起訴されていない─引用者註)を話したのをあなたが、そういうふうに受取ったような私は気がする(ママ)んですけれども」「パイプを盗んだ時七人位共犯がいたんです。実際に盗んだのは三人ですが、一応ここでも以前述べましたが、Iさん(I養豚場経営者の兄)という人の名前だけは話すまいと思ったんです」と反論している(狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1261。伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.65)。
- ^ 1912年2月生まれの荻原は、農業のかたわら油の行商などで生計を立てつつ埼玉県の入間郡水平社に参加し、当時から一貫して反共国粋主義を掲げ、一人一党の部落解放運動を展開、1953年頃からさまざまな選挙に次々と立候補し、川越市長選挙などに落選を繰り返していた。この荻原は、被害者やその母について
云々と誹謗中傷した証拠申立書(1964年10月26日)を埼玉県警本部長の上田明に送りつけ、それによって石川の無実を証明しようと図ったのみならず、被害者が男を誘ったのだとして強姦の事実そのものを否定しようとしていた。荻原文書による。「男好きの淫奔な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が十人位いた」「被害者●●●●は(中略)体格は一人前の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた○○が十人もいたという多情多感、○○な母に似て中学一年生位の時から既に男性に積極的で」 - ^ 公明党衆院議員の沖本泰幸が1972年5月10日の衆院法務委員会で
と発言し、警察庁刑事局長の高松敬治から「現場近くに住む犯人らしい男が自殺したというような情報に対して、篠田国家公安委員長は、こんな悪質な犯人は何としても生きたままふんづかまえてやらなければと歯ぎしりをしたと、これは埼玉新聞の五月七日の記事でありますけれども、こういうふうに言っている事実があります。こういうことで、結局、****(被害者宅の元使用人)の自殺の背景や要因を十二分に捜査せずに、生きたまま逮捕するというところに全力を尽くしたという辺に問題があるのじゃないかというような点が一点あるわけです」
と反論を受けたことがある。この元使用人の血液型もB型であり、筆跡についても1963年5月7日付『東京タイムズ』に「似ている点がかなり認められる」と報じられたが、自殺の翌日、1963年5月7日の産経新聞夕刊に複数の近隣者の証言として「一日は午前中から親類、知人がなん人かお祝い品をもってきていた。午後四時ごろから、親類のひと二人をまじえてGさんは酒をのんでいた。しかしGさんは酒があまり強くないので、七時ごろはひとりで寝てしまった」とのアリバイが報じられており、捜査本部からはシロと断定された。元埼玉県警刑事部長の中勲の証言によると、この元使用人は性的不能に悩んで医師に相談していたことからも犯人の適格性を欠くと判断されたという(狭山裁判第二審第39回公判における証言)。「**という人が自殺をした。これについて何も調べないでやったというふうなお話でございますけれども、これにつきましては、当時の記録を見てみますとかなり調べております。それでこの事件に**は関係がないということの結論を出しているわけでございます。これは全然ほったらかして、単なる見込み捜査で石川に行ったということでは絶対にございません」 - ^ 彼女は日記を書き残していたが、その内容は、彼女の長兄によると「常識では考えられないことが書いてあった」という。ただし具体的な内容は公表されていない。伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.132を参照。
- ^ この人物は石川家の隣に住み、狭山事件の後には2度にわたり石川家に乱入し、「おらのことを喋ったろう」と言って戸を蹴り倒したことがある。また、この人物は、
- 狭山事件の前に石川一雄の兄から犯人と同じ9文7分の地下足袋を借りていること。
- 佐野屋の前から逃走した犯人と同じように足が速いこと。
- 佐野屋に現れた犯人の発言「おらぁ、帰るぞ」と符合するかのように「おら」という口癖があったこと。
- 被害者の遺体を縛るのに使われていた「すごき結び」という縛り方に慣れていたこと。
- 事件後にアルコール中毒で精神不安定となり、2度にわたり精神科に入院していたこと。
出典
- ^ a b c 日本国民救援会 「狭山事件と救援会所収「狭山事件の経過・問題点と我々の態度 日本国民救援会」参照(部落問題研究所『部落問題資料第3集』所収)
- ^ a b c 下田雄一郎『史上最大のミステリーを推理せよ!狭山事件』p.43。
- ^ 『週刊内外実話』1963年7月5日号。
- ^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.46。
- ^ 『埼玉新聞』1963年5月7日
- ^ 1974年の東京高裁判決(全文)
- ^ 1974年の東京高裁判決(部分)
- ^ a b c d 狭山事件第1回公判調書
- ^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.53(文春文庫)
- ^ a b 『週刊文春』1963年7月1日号。
- ^ a b 2005年の最高裁判決
- ^ 『日本語と世界』(1989年、講談社学術文庫)参照
- ^ 寺尾判決より
- ^ a b c d e f g 1977年の最高裁判決
- ^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.67
- ^ 伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.44
- ^ 狭山事件一審第2回公判調書(1)
- ^ 『石川一雄獄中日記』1963年6月23日の項。
- ^ 狭山裁判第二審第5回公判から第13回公判における警察関係者への尋問を参照。
- ^ 部落解放同盟中央本部発行「狭山事件公判調書目録」p.164
- ^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.135-136
- ^ a b 狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1255。
- ^ 狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1260-1261。
- ^ 狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1253。
- ^ a b 伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.65
- ^ 狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1257-1260。
- ^ 荻原文書
- ^ 金原龍一『31年ぶりにムショを出た』
- ^ 見沢知廉『囚人狂時代』p.96-111
- ^ “「自白」テープを初開示 狭山事件再審請求審で検察”. 47NEWS (2010年5月13日). 2010年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月16日閲覧。
- ^ 浦和地方裁判所、死刑判決(1964年)
- ^ 東京高等裁判所、無期懲役判決(1974年)
- ^ 最高裁、上告棄却決定(1977年)
- ^ 最高裁、第1次再審請求棄却(1985年)
- ^ 最高裁、第2次再審請求棄却(2005年)
- ^ 片桐軍三さんはどんな事件に巻き込まれたのか
- ^ 伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.196
- ^ 部落問題用語解説 狭山事件
- ^ 『解放新聞』1969年3月5日
- ^ 1973年1月15日付解放新聞。
- ^ 近況
- ^ 「差別裁判うちくだこう」(プロレタリアの歌)
- ^ 「解放の道」1970年7月30日。
- ^ a b 田井中一郎 (1)「公正裁判要求」といっているが、「解同」の「狭山闘争」の破たんと害悪
- ^ 『解放の道』1975年7月25日所収「狭山事件とは何か」ほか
- ^ 『解放の道』1984年7月25日
- ^ 全国人権連 『地域と人権』2009年7月15日号 (PDF) 、新井直樹「『差別と日本人』にかかわる角川書店への申し入れ」(『人権と部落問題』2010年9月号所収)
- ^ 「狭山事件」冷静に真相の追求を - 茨城人権連書記長サイトより
- ^ わたしは無実! 部落解放同盟全国連合会
- ^ 差別裁判うち砕こう うたごえ喫茶のび
参考文献
- いずれも石川が冤罪であるとの立場からのもの
- 木山茂『差別が奪った青春』(解放出版社)
- 『狭山差別裁判うち砕け』(前進社)
- 『知っていますか?狭山事件一問一答』(解放出版社)
- 亀井トム『狭山事件 権力犯人と真犯人』(三一書房)
- 亀井トム(編著)『狭山事件への告発状』(三一書房)
- 亀井トム、栗崎ゆたか『狭山事件 無罪の新事実』(三一書房)
- 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』(文春文庫、1979年)
- 野間宏『狭山裁判』(岩波新書、1976年)
- 野間宏『狭山差別裁判』(三一新書、1978年)
- 野間宏『完本 狭山裁判』(藤原書店、1997年)
- 半沢英一『狭山裁判の超論理』(解放出版社、2002年)
- 勝又進、安田聡『まんが狭山事件』(七つ森書館、2006年)
- 伊吹隼人『狭山事件-46年目の現場と証言-』(風早書林、2009年)
- 伊吹隼人『検証・狭山事件 女子高生誘拐殺人の現場と証言』(社会評論社、2010年)
- 鎌田慧『狭山事件の真実』(岩波現代文庫、2010年)