漢文

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漢文(かんぶん)とは、古代中国文語体文章のこと。または近代中国人日本人朝鮮人ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、中国語で書かれたものをいう[1]

概説

定義と範囲

漢文は中国語で書かれた文章のことであり、漢字で書かれていても中国語でなければ漢文ではない。またその中国語の文章は文言と白話に大別されるが、口語文である白話は漢文ではなく、訓読で適用し得る文章語の文言のみを漢文と呼ぶ。ゆえに通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指す。もし白話文を強いて訓読すると、たいへん奇妙な日本語となるため、白話文は訓読の対象とならず、直接口語訳するのがよりよい方法であり、より原文の語気に近いといえる。

現存する白話の文献としては以後の禅家語録(『碧巌録』など)が最初であり、つづいて宋代儒家の語録、元代演劇脚本明代以降の白話小説が現れる。20世紀初めまで中国における文章は、その白話が5%、文言が95%という比率であったが、現在では逆に白話が95%、文言が5%となっている。これは1910年代に行われた白話運動胡適による理論と魯迅による実践)という変革の結果であり、白話文が近代文学の文体となっている[2]

特徴

漢文の特徴、ことにその美しさについて一般的に言われることは、簡潔ということである。漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである。そしてこの文体の志すところはその簡潔ののみではなく、もう一つの重要なものとして、リズムの美があった。

簡潔さの例として、まず漢文では時制が省略される。ゆえに現在未来過去かは読者の判断にゆだねられる。またと句、と語の間の関係が、条件結果であるとき、順接であるとき、逆接であるとき、いずれも概ね語順によってのみ示され、これも読者の判断にまかされる。ゆえに漢文の文法は簡単であるが、常識によって理解されるという特徴がある。さらに助字(而・之・于・者・焉の類)も省略される。中国語には助字を添加してもしなくても文章が成立するという性質がある。よってこれを日本語に訓読する場合は、「てにをは」を添加する必要がある。

このような簡潔を追求した原因は、その表記法として漢字が用いられたことにある。その表意文字である漢字のみを使用する中国では、口頭の語としては発生し存在しても、それを表記すべき漢字がまだ用意されていないということが起こり得る。現在の中国では口語をそのまま表記する方法はほぼ完備されているが、古代では多くの語が表記すべき漢字を持たないことがあった。したがって古代の記載法は、漢字として表記できる語だけを口語の中から抜き出して書くという方法をとった。中国語にはそれを許容する性質がある。このようにして文章語が口語よりもより簡潔な形であると意識されたとき、文章語は意識的に簡潔な上にも簡潔な方向へと自らを練り上げて行った。『論語』の文章はすでにその段階にあり、当時の口語とは相当の違いがあったと推察される。

一方、漢文はリズムに敏感なのような性質を常に保持し、そのリズムの基礎は四字句が中心になっていることが多い。こうしたリズムの組成のために助字がしばしば作用する。助字は、あってもなくてもよい語であるという性質を利用して、簡潔とは逆行するが、助字を添加することによってリズムを完成させ、文章を完成させる。よってこのようなリズムの充足のために添えられた助字は、はっきりした意味を追求しにくいことがよくある。またこの四字句などは、しばしば対句的な修辞となる。つまり同じ文法的条件の語を同じ場所におく、繰り返しのリズムである。この対句は中国語の性質から成立しやすいものであり、その萌芽が『老子』をはじめとする古代の文章にしばしば見える。これがやがて律詩を生み、中世の美文・四六駢儷文を生んだ[3]

分類

以下のものに分かれる[4]

純漢文
古代中国の古典文語文法で書かれたもの。純粋漢文、正則漢文とも。現代中国では「文言文」と呼ぶ。
変体漢文
それ以外の変則的な文法の漢字文章。普通話國語といった現代中国語文(現代中国では「漢文」〔簡体字: 汉文〕と呼ぶ)やその諸方言文、白話体、日本独自の和習万葉仮名を含んだ漢文および漢字のみの日本語文、新羅高句麗の語習を多く含んだ碑文など。

文法

漢文の文法を参照。

語順

基本的な語順は以下の通りである。

主語-修飾語-述語-目的語
子曰,學而時習之,不亦說乎。
(書き下し)子曰く、學びて時に之を習う,亦た說ばしからずや。《論語
主語-修飾語-述語−補語
其劍自舟中墜於水。
(書き下し)其の劍、舟中より水に墜つ。《呂氏春秋》
主語-修飾語-述語-目的語-補語
王之臣有託其妻子於其友而之楚遊者。
(書き下し)王の臣に其の妻子を其の友に託し楚に之きて遊ぶ者有り。《孟子
主語-修飾語-述語-補語-目的語   
主語-修飾語-述語−補語−補語
然不自意、能先入關破秦、得復見將軍於此。
(書き下し)然れども自から意はざりき、能く先ず関に入りて秦を破り、復た將軍に此に見ゆることを得んとは。《史記

中国語との相違点

  1. 疑問代名詞が目的語として用いられた時、目的語が述語或は接置詞の前に置かれる。
  2. 否定文中で、代名詞が目的語として用いられた時、目的語が述語或は接置詞の前に置かれる。
  3. 中国語のように、「把」を用いて目的語を前に出すことは正則としては無い。

中国

黄河流域に発生した黄河文明は、言語を筆記する文字として漢字を生み、漢字で文字記録を行う文化を発達させた。ところが、漢字は異なる言語を用いる複数の文化集団によって受容されたため、漢字による文章を取り交わす圏内で共通の文語が形成されていった。これが、漢文の誕生であると言え、漢文を共通文語として用いる文化圏が、正に後の政治的統一中国の原型となった。最初の長期安定統一政権たる漢代には中央と地方との文書のやり取りの中で漢文法が確立し、以降中国ではこの漢代の伝統的な文法に従って、文章が書かれていくことになり、時代や地域によって口語は多様だったにもかかわらず、文語である漢文の文法上の変化は少なかった。普通「漢文」というと、このような伝統的な文法に従っているもの(正則漢文)を指す。

また、漢文で書かれた中国の書物は漢籍(かんせき)と言う。そこには現代中国の書籍は含まない。

もちろん話し言葉のレベルでは変化が大きく、また地域差もあったが、このような変化が書き言葉に影響を及ぼすことはなく、むしろ様々な口語を話す東アジア諸民族は共通文語である漢文によって結び付けられていた。逆に各地域の口語こそ漢文から強い影響を受けてきた。中国語(普通話)・ベトナム語広東語日本語台湾語朝鮮語などは著しい地域差を持ちながらも、漢文によって一定の共通項を持った言語群の形成につながったと考えられる。近世に入ると、中国でも民衆文化が花開くようになり、民衆の話し言葉(白話)を取り入れた小説なども編まれていく。しかし、決して官僚の政論や上流階級の文学作品のようなものに取り入れられることはなかった。

20世紀初頭には、中国では魯迅らの働きによって、正則漢文を捨てて話し言葉の文体が試みられた。ここに、現代中国語文が確立した。現代中国語文も、漢字を並べて書くという点では従来の漢文と異ならないが、一種の変体漢文であり、文法的には漢文と大きく異なるようになった。それゆえ、現代中国語文を漢文と呼ぶことはまずない。なお、現代中国では「漢文」は日本で言うところの漢文のほか、白話文、現代中国語文など漢民族の書記言語の総称として用いられ、日本語の「漢文」に相当する語は文言文(単に文言とも)である。これはちょうと日本人が変体漢文を正則漢文と区別しないのと似ている。日中いずれの場合も漢文を自己の属する文化のものと見なしている。日本の高等学校の漢文も国語科の一つである。

中華人民共和国成立以降は、正則漢文で文章が書かれることは、滅多になくなった。たとえ正則漢文を真似る場合でも、口語の影響で崩れた漢文がほとんどである。

中国以外の諸国

日本朝鮮ベトナム及び中国などの国家民族は、漢字および漢文を取り入れて俗語の文字記録を開始した。これらの国では、はじめ漢文文明の共通体として書かれているような文法(純粋漢文)で記していたが、漢文とは全く体系の違う自国語の表記にも漢字を利用しようとした。ここで、漢文と自民族語が混交した変体漢文が生まれた。さらに、日本・朝鮮・ベトナムではそれぞれ仮名ハングル字喃と呼ばれる自国語の新しい文字を開発し、また中国では宋代ごろから口語専用の新俗字が作られ、これらの新文字と漢字を組み合わせて自国語を表記するようになった。この段階に入った文はもはや「漢文」とは呼ばれない。

日本

日本に初めて漢文が入ってきたのがいつかということをはっきり定めることはできない。しかし、『後漢書』には、57年の奴国が後漢光武帝に使して、光武帝により、奴国の君主が倭奴国王に冊封され金印を綬与されたという記事があり、江戸時代に発見された金印には「漢委奴国王」という漢字が刻まれていた。この記事からすると、当時の倭国の人々が全く漢文が分からなかったとは考え難い。

また、現存する日本最古の歴史書である『古事記』の応神記には、

原文
故受命以貢上人、名和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進。
現代語訳
(百済は、応神天皇の)命令を受けて和邇吉師という名の人を奉った。そして、論語10巻・千字文1巻のあわせて11巻(の書物)をこの人に付けて献上した。

という記述があり、さらに『古事記』と同時代の歴史書である『日本書紀』の応神紀の記事には、

原文
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐。(中略)阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、「如勝汝博士亦有耶。」對曰、「有王仁者、是秀也。」(中略)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。
現代語訳
(応神天皇)15年(西暦284年)の8月6日、百済王が阿直岐を遣わした。
阿直岐は(儒教の)経典も読むことができた。そこで、皇太子である菟道稚郎子の先生にした。ここにおいて、天皇は阿直岐に「お前より優れているような博士はまだいるか」と訊ねた。(阿直岐は)「王仁という者がいまして、この者は優れています」と答えた。
(応神天皇)16年(西暦285年)の2月、王仁が来た。ただちに王仁を皇太子である菟道稚郎子の先生にした。(皇太子は)諸々の典籍を王仁に習い、理解しないものはなかった。

という記述がある。この2つの記事が、日本の歴史書において、文字が伝来した最初の記録である。もっとも、この記事に書かれている事件が本当におきたわけではない。「千字文」は、6世紀前半に作られたものであり、5世紀前後の大王であったと考えられている応神天皇が手に入れられるはずがない。まして『日本書紀』で述べられているような3世紀後半ではなおさらである。しかし、この記事が全くの作り話かというとそうではない。

まず、当時の渡来人達が様々な技術を日本にもたらした事実に関しては疑いのないところであり、そうした技術をもたらした人々全てが非識字者であったとは考えにくい。名前が今日伝わらなくても、文字を読解し筆記するだけの知識を有した人が日本へ移り住んだ人の中には当然に存在し、その知識が一種の技術として日本側に受け入れられていったと考えた方がより適切である。

この記事は、漢文が入ってきたころは、渡来系の氏族が書記の任務にあたっていたということ、倭国土着の豪族たちは、渡来人たちに書記の仕事をさせていたということを示しているのである。また、『日本書紀』の記事で菟道稚郎子が漢文を習ったと書かれているように、非渡来系の豪族も、渡来系氏族から漢字・漢文を学んでいったと考えられている。このような導入されたばかりの時期の漢文は、中国本土の正則漢文の文法に従い、声調なども用いた中国語の発音に従って読んでいたと考えられている。

しかし、時代が下るにつれて、日本語を記すために漢字を用いようという動きや、外国語として漢文を読むのではなく、日本語として読めるようにしようという動きが出てきた。たとえば、春という漢字をそれまで中国語風にシュンと発音していたが、この「シュン」と意味が近いやまと言葉である「はる」と発音するようになった。[要出典]さらに漢字も、書かれている順(中国語の文法に沿った順)にではなく、日本語の文法に沿った順に読むようになっていく。

子曰、吾十有五而志於學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲不踰矩。(『論語』巻一・為政第二)

といった文章をそれまでは、中国語音で読むだけであったが、

しの いはく(のたまはく)、われ とを あまり いつつ にして まなぶに こころざす。 みそぢ にして たつ。 よそぢ にして まどはず。 いそぢ にして あめの みことを しる。 むそぢ にして みみ したがふ。 ななそぢ にして こころの ほる ところに したがひて のりを こえず。

といったように、純然たるやまと言葉として読むようになった。このように、漢文を日本語ふうに読むことを訓読という。このことは、日本語を記すために漢字を用いるという動きにつながっていく。

漢文訓読体は奈良時代頃の言葉を基本にした独特の文体であり、日本語の書き言葉・話し言葉にも大きな影響を与えた。またその後長きに渡り日本の公用語として用いられ、特に上流階級知識人文化人)の教養として嗜まれ一種のステータスシンボルとしての側面を持っていた。江戸時代には武士公家の子弟は漢文の教育をうけるようになっていた。戦前の法律にも仮名交じりではあるが漢文訓読体的な文体が用いられた。

漢字を用いた日本語の記し方には大きく2つあり、漢字の音を借りて表記する方法と、漢字の意味を借りて表記する方法がある。

漢字の音を借りて表記する方法()
下のやまと言葉を、

やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる やまとしうるはし

このように、漢字の音を借りて表記する(万葉仮名)。

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯(『古事記』景行記)

漢字の意味を借りて表記する方法()
この方法では、純粋漢文のように書き、それをやまと言葉として読む。しかし、やまと言葉として分かりやすいように純粋漢文の文法に反する文となることがある。こういった文を変体漢文という。
例えば、下の変体漢文を

悉言向和平山河荒神及不伏人等。(『古事記』景行記)

次のように訓読する。

やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。

「言向和平」といった用法は本来の漢文の文法に従えば、ありえない。しかし、「ことむけやはす」というやまと言葉を表現するために、変体漢文にしているのである。
2つの方法の併用
以上で述べた2つの用法を混用することも可能であり、これが和漢混淆体へとつながっていく。

新年乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(『万葉集』20巻)

太字の部分が、訓で、それ以外のところが音で読む。

あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと

日本の高等学校などでは、漢文を日本語の古典文章語に属するものとし、漢文教育国語教育の一部分としてきた[5]。現在では、主に古代中国の古典が学習されている。高等学校学習指導要領では、1961年の改訂以降は、国語の教科のうちの古典科目(「古典」や「古典講読」など)の中で学習することとなった[6]。また、これまで翻訳されなかった漢籍も「外国語文献」として現代語訳が進められている。しかし、戦前に制定された法令の一部(商法など)は現在も漢文訓読文のため、法学を学ぶにあたってはそれらを理解する能力が必要である[7]。また、漢文訓読文は漢文に使用されている文字をなるべく維持した翻訳方法のために、漢文で書かれた史料を日本語で翻訳される際には、漢文訓読される(例「井真成墓誌」)。

韓国

1948年ハングル専用法制定以降の韓国では、日本で言う漢字教育漢文教育と呼ぶ。韓国の学校教育においては必ずしも日本の中等教育における漢文とは一致せず、「漢文」と名の付いたワークブックが単なる漢字練習帳であることもある。これは漢字が韓国の国字ではなく、中国伝来の外国文字であるとの認識に基づく。韓国の漢字復活派は漢字教育との呼称を用いるのに対し、ハングル専用派は漢文教育との呼称を用いる。

ベトナム

ベトナムでは、韓国と同様、公式な書き言葉としては、20世紀に至るまで漢文が用いられてきた。19世紀後半からのフランス植民地化後、インドシナ総督府により、ベトナム語のローマ字表記であるクォック・グー教育を推進したことで、これまでの文字環境に変化が生じ始める。都市部では、1900年代から1930年代にかけて新興のエリート層を中心にクォック・グーによる教育を受けた若年層が増え、伝統的な漢文・チュノム識字層を少しずつ圧倒していく形になった一方、地方では依然として漢学教育が権威をもっており科挙受験生の私塾などに子を通わせる家庭も多かった。この時期には、識字率は低かったものの、クォック・グーと漢文・チュノムの両方を使いこなせるトップエリート層、漢文・チュノムしか読めない伝統的な知識人層や、クォック・グーしか使いこなせない新興の知識人層が併存し、雑誌、書籍なども複数の文字により刊行されていた。このような状況に終止符を打ったのが、1945年ベトナム民主共和国の独立であり、識字率の向上を意図して、クォック・グーがベトナム語の公式な表記文字であることを定めた。1950年の暫定教育改革により、中等教育における漢文教育は廃止され、北ベトナムにおける漢文教育の歴史は絶たれた。南ベトナムでは1975年の崩壊まで漢文教育が存続していた。ただし、大学などでの専門教育の場では、現在でも漢文、チュノムの研究は行われている。

参考文献

  1. ^ 吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、新版1971年(初版1962年))p.37
  2. ^ 吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、新版1971年(初版1962年))pp..37,217-226
  3. ^ 吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、新版1971年(初版1962年))pp..32-74,177
  4. ^ 峰岸明『変体漢文』東京堂出版〈国語学叢書11〉、1986年。ISBN 9784490201048 
  5. ^ 文部省「第七章 国語科における漢文の学習指導」『中学校 高等学校 学習指導要領 国語科編 (試案)』1951年http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s27jhj2/ 
  6. ^ 高等学校学習指導要領では「第2款 各教科・科目及び単位数等」で、国語教科を、国語表現1、国語表現2、国語総合、現代文、古典、古典講読の6科目に分けている。
  7. ^ 民法は明治時代の制定以来多くの部分が漢文訓読文であったが、2005年の改正で全面的に口語化された。刑法も明治時代の制定以来漢文訓読文であったが、1995年の改正で全面的に口語化された。

関連項目

外部リンク

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