民主友愛太陽国民連合

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民主友愛太陽国民連合(みんしゅゆうあいたいようこくみんれんごう)は、日本にかつて存在した国会における院内会派である。

概要

1997年(平成9年)、新進党の解散により国会議員が100名以上所属する政党は自民党のみとなった。一方、野党第一党となった民主党は衆議院でわずか50を超える議席に過ぎなかった。

1998年(平成10年)1月、新進党から分裂した国民の声新党友愛の各党が結成と同時に、民主党、太陽党フロム・ファイブ民主改革連合の野党共闘を目指す勢力と院内会派「民主友愛太陽国民連合」を結成した。会派名はそれぞれの政党の一部を取り入れたものであった。略称は「民友連」で、その後民政党結党に伴い正式な会派名として変更された。参議院では結成当初から「民友連」の名称を使用していた。代表には左藤恵が就任した。

しかし、第18回参院選を臨むには統一会派ではやはり限界があり、統一新党の結成を目指す動きが活発になった。そのため細川護煕が新党準備委員会議長に就任して各党と折衝を行った。

結成過程において民主党内の旧社会党出身議員の存在を嫌う一部保守系議員が新党に参加せず、自民党へ入党する事態が発生したが、「新党名は民主党、民主党以外の各党が解散して民主党に合流する」方式で統一新党を結成することが決定した。

自民党・清和研代議士新井将敬の死に伴う1998年3月に実施された東京4区補選において、松原仁を民友連統一候補として擁立したが、無所属のハンディも災いして東京都選挙区選出参院議員から鞍替え出馬した森田健作に敗北した。


4月27日新・民主党が結成し、旧民主党代表の菅直人が代表に就任した。

沿革

  • 1998年1月5日:民主党・新党友愛・国民の声・太陽党・フロムファイブ・民主改革連合の党首が会談、12日から始まる通常国会に向けて、出来るだけ早い時期に衆院の統一会派を汲むことで合意。
  • 1998年1月7日:統一会派結成に合意した野党6党の党首と幹事長が会談、会派結成の正式決定(統一会派結成宣言)と「当面する政策課題についての合意」とりまとめと、会派名称を「民主友愛太陽国民連合」とすることを決定。
  • 1998年1月8日:野党6党、統一会派「民主友愛太陽国民連合」(略称:民友連)の会派結成届を衆院事務局に提出。参院でも「民友連」の会派結成届を参院事務局に提出。また幹事長と政策責任者会議座長、国対委員長会議座長は3グループ(①民主党、②友愛と民改連、③国民・太陽・フロムファイブ)から二カ月ごとに輪番で出すことを決定。衆院民友連は97名、参院民友連は41名。
  • 1998年1月9日:衆院の民友連に旧・日本新党で無所属の伊藤達也衆議院議員が参加、会派議席数は98名に。
  • 1998年1月13日:無所属の木幡弘道衆議院議員(旧・新進党)が衆院民友連に参加、会派議席数は99名に。
  • 1998年1月23日:国民の声と太陽党及びフロムファイブが合併して「民政党」を結成。
  • 1998年2月15日:民主党を除籍された井上一成衆議院議員の会派離脱届を衆院事務局に提出、会派議席数は98名に。
  • 1998年3月9日:政権戦略会議議長の細川元首相が「新党の党名は民主党とし、民主党を存続政党として残す」提案を民友連を構成する各党に示す。
  • 1998年3月12日:民友連を構成する民主・民政・友愛・民改連の代表、民主党以外の各党が解散して民主党に合流する形での新党結成に合意。
  • 1998年4月13日:民友連、会派名を衆院は「民主党」、参院は「民主党・新緑風会」に変更。民政党代議士の小坂憲次が民主党への不参加を表明。
  • 1998年4月21日:民政党代議士の伊藤達也、民主党への不参加を表明。
  • 1998年4月23日:民政党代議士の左藤恵・粟屋敏信が民主党への不参加を表明。

参考文献