文藝時代
文藝時代 | |
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ジャンル | 文芸同人雑誌 |
読者対象 | 文学愛好者 |
刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
出版社 | 金星堂 |
発行人 | 福岡益雄 |
編集長 | 川端康成、片岡鉄兵(1924年10月-12月) |
副編集長 | 横光利一、中河与一(1925年1月-) |
刊行期間 | 1924年10月(大正13年10月号) - 1927年5月(昭和2年5月号) |
発行部数 | 5,000(創刊号)部(金星堂調べ) |
『文藝時代』(ぶんげいじだい)は、日本の文芸雑誌。1924年(大正13年)10月に金星堂から創刊された。誌名は、「宗教時代より文藝時代へ」という意図で、発起人の川端康成により名付けられた[1]。創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』により、同人らは「新感覚派」として注目を浴びたが[2]、主要な有力同人の個別活動の活発化や、左傾化した一部同人の脱退などにより1927年(昭和2年)5月号(第4巻第5号)をもって終刊した[3][4][5]。
第一次世界大戦後のヨーロッパに興ったダダイズム、芸術の革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義に触発されて創刊された『文藝時代』は、従来の自然主義文学や客観主義を超える独自の新主観主義的な新しい感覚表現を目指した[6][7][4][8]。主要同人の川端康成、横光利一らの作品はモダニズム文学として評価され、『文藝時代』は、青野季吉らプロレタリア文学派により創刊された『文芸戦線』と共に、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった[4][8]。
主張
『文藝時代』は、芸術意識を本源的に新たにし、「新しい生活と新しい文藝」を会得することを創刊目的とした[1]。従来「宗教」が占めていた位置を、将来「文藝」が占めることを信じつつ、「我々の子孫」が「文藝の御寺に詣でて生くべき道を知る」ための文藝への精進は、同人自身も使命感を鼓舞し生活感情を正しくする、と発起人の川端康成は掲げ[1]、以下のように主張した[9]。
傾向・特色
『文藝時代』同人の作品は、その手法や表現において、美術や音楽の感覚の働き方に近く、おもにドイツ表現主義から影響された「表現主義的認識論」「新主観主義的表現」や、ダダイストの「分らなさ」から、主観的、直観的、感覚的な新表現の暗示を見出した「ダダ主義的発想法」を基調にしている[6][10]。それらは従来の自然主義的な描き方や、見る対象と自分とが「別々にある」と考えて観察する古い客観主義の認識とは異なり[6]、例えば、「百合の内に私がある」「私の内に百合がある」という気持ちで物を書き現そうとする表現である[6]。
自分があるので天地万物が存在する、自分の主観の内に天地万物がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。ここに新しい喜びがある。また、天地万物の内に自分の主観がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の拡大であり、主観を自由に流動させることである。そして、この考へ方を進展させると、自他一如となり、万物一如となつて、天地万物は全ての境界を失つて一つの精神に融和した一元世界となる。
また一方、万物の内に主観を流入することは、万物が精霊を持つてゐると云ふ考へ、云ひ換へると多元的な万有霊魂説になる。ここに新しい救ひがある。この二つは、東洋の古い主観主義となり、客観主義となる。いや、主客一如主義となる。 — 川端康成「表現主義的認識論」(「新進作家の新傾向解説」)[6]
この表現態度は、「自然人生の新しい感じ方」、「新しい感情」であり、描写を立体的に鮮明にさせる[6]。これは、特に横光利一の諸作品(『頭ならびに腹』『日輪』『碑文』『敵』など)の擬人法的手法に見られる[6][2]。
同人メンバー
1924年(大正13年)10月の創刊号(第1巻第1号)の同人14名は以下の面々である[11][12][13]。
- 川端康成 - 第6次『新思潮』、『文藝春秋』同人
- 横光利一 - 『文藝春秋』同人
- 伊藤貴麿 - 『象徴』同人
- 石濱金作 - 第6次『新思潮』、『文藝春秋』同人
- 加宮貴一 - 『無名作家』同人
- 片岡鉄兵
- 中河与一 - 『文藝春秋』同人
- 今東光 - 第6次『新思潮』、『文藝春秋』同人
- 佐佐木茂索 - 『文藝春秋』同人
- 佐々木味津三 - 『文藝春秋』同人
- 十一谷義三郎 - 『行路』同人
- 菅忠雄 - 『文藝春秋』同人。菅虎雄の息子
- 諏訪三郎
- 鈴木彦次郎 - 第6次『新思潮』、『文藝春秋』同人
翌月11月号(第1巻第2号)からは、以下上部の3名、その後2名が加わった[11][13][5]。
金星堂や菊池寛の意見も取り入れていた川端は、牧野信一も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示し、実現しなかった[14][15][16]。横光利一は、『文藝時代』で劇団を組織することも考えていたが[17]、川端が反対して実現に至らなかった[11]。
『文藝時代』創刊をめぐる騒動
文壇内の揣摩臆測
1921年(大正10年)2月の第6次『新思潮』発刊当時から、先輩作家の菊池寛に多大な恩顧を受け続けていた川端康成は[18]、菊池が1923年(大正12年)1月に創刊した『文藝春秋』の編集同人でもあった[19]。
やがて川端は自分も新しい同人誌を創刊したいと考え、1924年(大正13年)の初夏に、菊池寛の知り合いであった金星堂の社長・福岡益雄に話を持ちかけ、菊池にも事前に了解を得て同意をとった[20][21][22][3]。菊池は、川端らが新たな同人誌で発言しやすいように配慮し、『文藝春秋』9月号で同人解散宣言を行なった[22]。同誌は菊池指揮の下に菅忠雄が編集担当になった[23]。
しかし、川端と横光の新雑誌『文藝時代』が近々創刊されるという噂を耳にしていた文壇の間では、菊池の『文藝春秋』同人解散処置を見て、若い作家(川端、横光ら)の叛乱の気配を察した菊池が彼らを切り捨てたと解釈し、両者の対立事件として様々な揣摩憶測が広まった[22][11][24]。
『文藝春秋』・菊池寛批判へ波及
それをきっかけに、以前から菊池寛との関係が芳しくはなかった今東光が新聞紙上で、以下のような勇み足の随筆を発表し[25]、その数日後にも同紙上で、『文藝時代』のような新たな雑誌がこれまで夢想されなかったのは時代の罪だったと鼻息を荒くした[26][27]。
或る有力な作家の傘下に寄集する某々等がこの挑戦の途について朋党を結んだのは、恬然として恰も恥なきものであるといふのは、明らかに事理を逸した誤解である。何人がこの里巷の小人の言辞を弄するのだ。さういふ言葉を面白がらずに聞くならば、其こそ無理慮外の憎悪が籠つてゐると解釈する。妄りに醜辞を弄するのは士君子の執らないところだ。僕達は慎戒するところと、さうでないことの区別をちやんと知つてゐるのだ。(中略)将来の日本文壇のために勇ましく巣立ちをしようといふ僕等だ。喜んでこそくれるのが然るべきのに、無遠慮にポアンダンテロガシヨンをくつつけるのは甚だ香ばしくないことだと思ふ。 — 今東光「人生を甞める舌」[25]
その空気の中、さらにアナーキスト詩人の橋爪健が、菊池の『文藝春秋』の「功罪」を追及しはじめ、「『文藝時代』が新進作家の大同団結によつて、一菊池のみならず既成文壇へのある種の挑戦を意味してゐると見られるならば、吾々は刮目してその将来を期待すべきであらう」と述べ[28]、「ともかく此の『文藝時代』の誕生によつて、文藝春秋はすでに“故”となつた」と二者の対立を煽り[28]、その後も追及を続けた[29]。
川端康成は、これらの対立を煽る醜聞や憶測に対して完全否定し、『文藝春秋』と『文藝時代』の不仲説が事実無根であることを説明しながら、事態を収拾するために菊池寛を以下のように完全擁護した[22]。その後中河与一も、川端同様に事態の収束を図った[30]。
直木三十三の悪ふざけ
しかし、同年、『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(文士採点表)をめぐり、その遊びの行き過ぎた誹謗に底意を感じた今東光と横光利一が怒り心頭した[27][31][11]。今は、「人を軽蔑するのも甚だしいもんだ。若し、これを白日の下で、天下の衆に披露して憚らないならば、菊池寛こそ怪しむべき編集者である」として、「こんな下劣で野卑な『文藝春秋』に執筆しないことだ……損傷された作家達よ。この名誉恢復のために立ち給へ」と煽動した[32]。
その採点表は、直木三十三(のち「三十五」と改名)が作成したもので[33]、各文士の〈学殖〉〈天分〉〈修養〉〈度胸〉〈風采〉〈人気〉〈資産〉〈腕力〉〈性慾〉〈好きな女〉〈未来〉を、100点満点中の何点なのか採点し、60点以上を及第、60点以下50点迄を仮及第、80点以上を優等、と判別していた[5][34]。
横光は、「俺は自分一個の腹立たしさではないのだ。こんなことを平気で文藝春秋がやつたと云ふことは第一、君(川端)と僕との顔をもうめちやくちやに踏み潰したんだ。君と俺との文藝時代の者達に対する苦境なんかも全然無視したやり方だ」と憤慨した[31]。「文壇諸家価値調査表」で、川端は〈修養〉〈性慾〉だけが優等。今東光は〈腕力〉100点、〈資産〉が「不良性」、〈修養〉〈人気〉が劣等。横光利一は〈修養〉〈度胸〉だけが優等で、〈資産〉の欄に「菊池寛」と書かれていた[34][24]。
今東光は『新潮』誌上で、この採点表掲載を許可した菊池寛と『文藝春秋』を、「日々、春秋社に寄集する大たわけ、一人で喧嘩の出来ない奴、鼻毛を読みながら生きてゐる四十男、才能のない文学狂、それらの中に坐して、恰もユーゴーを気取る菊池寛が、憂鬱にならないで嬉々としてゐるならば、余は彼の神経を疑ふのだ」と毒舌を吐き、同誌への執筆拒否宣言と憤慨声明を以下のように述べた[35]。
横光も同様に、『読売新聞』に投書原稿を速達で送るが、それを知った川端に諌められた[5]。横光はなんとか昂奮を鎮め、川端と一緒に急遽読売新聞社に出向き、その原稿を撤回した[11]。読売は返還を拒んだが、代りのものをその場で書いて渡し、事無きを得た[11][36][24][注釈 1]。
今東光脱退事件
菊池寛は、今東光の中傷に対してすぐさま反論し、今のことを「小人邪推」、「ユダ」と一刀両断に切り捨てた[33]。『文藝時代』対『文藝春秋』との問題についても菊池は言及し、『文藝春秋』の同人制を廃止した理由を、「既成文壇反対の『文藝時代』と、既成文壇肯定の『文藝春秋』の同人が、同一である不体裁を、彼等の為にも、『文藝春秋』の為にも除きたかつた」と説明した[33]。
今はこれに対して再び菊池に反論した後[38]、『文藝時代』同人からも脱退した[39][11]。今は新潮社系の『不同調』に参加し、アンチ『文藝春秋』の急先鋒として、『不同調』9月号で菊池を激しく罵倒攻撃した[40]。この今と菊池の対立は文壇で大きな反響となり、今はその後、プロレタリア系の『文党』に移籍した[41][36][24]。
川端の粘り強い説得で、『文藝春秋』との仲違いを免れた横光だったが、その時の怒りは、「いづれあんな背競べをマークされてゐて黙つてゐる奴ばかりもなからうと思ふが。もし黙つてゐる奴ばかりなら、そのときは俺一人、文壇と角力を取つて、負けても勝つてもいい、打ち死する覚悟」であった[31]。
横光が川端の説得を聞き入れ、採点表を掲載した『文藝春秋』に対する怒りを収めた理由について今東光は、「老母と若い細君を抱えた三文文士の生活では菊池寛の庇護を離れてはどうすることも出来なかったに相違ない」とし[27]、当時の横光の境遇に触れて同情を寄せた[27][5]。
なお、川端が横光だけを守り抜き、今東光の行動を止めなかったのは、今が聞く耳を持たなかったであろうことと、マイナスからプラスに転じられる今の激烈な強い性格を熟知していたから、彼を放任したのではないかと研究者諸氏は見ている[36][24]。
文学史的評価
『文藝時代』創刊以前には、既成作家の主要作品の原稿は大手出版の『中央公論』や『新潮』に行ってしまっていたため、金星堂には、新進作家による『文藝時代』創刊を機に、「既成文壇打倒」の気運があり[42]、当時の文学青年や新作家たちも、『文藝時代』創刊を歓迎していたとされる[42][43]。
高見順は、40銭の創刊号を大学前の郁文堂で購入した時の感激を以下のように述懐している[43]。
伊藤整は、『文藝時代』が発刊した時に、「日本文学が初めてヨーロッパの現在の文学と歩調を共にした」と位置づけ、第一次大戦後にヨーロッパ文学が突然変化したことを実感し、それに応じて日本文学者も「現在の文学」を作らなければならないと意識したことは偉大なことだったとして、「息せき切って、多くのものを見落し、飛び越えながら彼等(西欧作家)も追いついたと日本の作家が感じた」スタートがこの時ではないかと考察している[42]。
そして伊藤は、『文藝時代』の新感覚派文学や、それに続く新興芸術派、新心理主義系派の「モダニズム」作家たちは、新たなヨーロッパ文学への「追跡の無理」のため、同時に多くの欠点や弱点もまた持たなければならなかったとし[42]、その文学運動が長続きしなかった根本原因を、次のように解説している[42]。
しかしながら、そうした弱点を持っていたにもかかわらず、「時には外国作家の形式を模倣すること」により、新たな形式を創り出した『文藝時代』を皮切りにした新文学運動は、「そこへ生活意識をはめ込んで育てる」という逆説的な実験に、「血肉を注いだ」と評価している[42]。またその実験的操作の半分を担っていた『文藝戦線』や『戦旗』のプロレタリア派を呑み込むことによって、それに抵抗した新感覚派系の「不断の歯痛」こそが、大正文学には無かったものと伊藤は捉えている[42]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 川端康成「『文藝時代』創刊の辞――〈新しき生活と新しき文藝〉」(文藝時代 1924年10月・創刊号に掲載)。評論4 & 1982-07に所収。
- ^ a b 千葉亀雄「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号に掲載)。アルバム横光 & 1994-08, p. 38
- ^ a b 福岡益雄(金星堂社長)「創刊の前後」(『復刻版 文藝時代』別冊)(日本近代文学館、1967年5月)。進藤 & 1976-08, pp. 236に抜粋掲載。
- ^ a b c 板垣 & 1969-06
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- ^ a b c d e f g h 川端康成「新進作家の新傾向解説」(文藝時代 1925年1月号に掲載)。評論2 & 1982-06に所収。
- ^ 川端康成「新感覚派の弁」(新潮 1925年3月号に掲載)。評論4 & 1982-07に所収。
- ^ a b 羽鳥徹哉「年譜」(作家の自伝 & 1994-09)
- ^ a b 川端康成「文壇的文学論」(新潮 1925年1月号に掲載)。評論2 & 1982-06に所収。
- ^ 事典 & 1998-06, pp. 204–205
- ^ a b c d e f g h 川端康成「あとがき」(『川端康成全集第9巻 母の初恋』)(新潮社、1950年3月)。独影自命 & 1970-10, pp. 173–193に所収。
- ^ 川端康成「『文藝時代』のころ」(若草 1929年10月号に掲載)。評論5 & 1982-05に所収。
- ^ a b 保昌正夫「新感覚――『文芸時代』の出発」(アルバム川端 & 1984-03, pp. 18–31)
- ^ 片岡鉄兵「「川端康成宛ての書簡」(大正13年8月19日付)。補巻2・書簡 & 1984-05, p. 54に所収。
- ^ 川端康成「佐々木味津三宛ての書簡」(大正13年8月15日付)。補巻2・書簡 & 1984-05, pp. 51–53に所収。
- ^ 菅忠雄「川端康成宛ての書簡」(大正13年8月22日付)。補巻2・書簡 & 1984-05, p. 85に所収。
- ^ 横光利一「川端康成宛ての書簡」(大正14年7月23日付)。独影自命 & 1970-10, pp. 177–178に抜粋掲載。
- ^ 川端康成「あとがき」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』)(新潮社、1948年8月)。独影自命 & 1970-10, pp. 32–53に所収。
- ^ 川端香男里編「年譜」(雑纂2 & 1983-02)
- ^ 横光利一「川端康成宛ての書簡」(大正13年8月7日付)。独影自命 & 1970-10, p. 175に抜粋掲載。
- ^ 佐々木味津三「川端康成宛ての書簡」(大正13年8月10日付)。補巻2・書簡 & 1984-05, pp. 49–50に所収。
- ^ a b c d e 川端康成「『文藝時代』と『文藝春秋』」(読売新聞 1924年10月3日、5日、7日号に掲載)。評論2 & 1982-06に所収。
- ^ 『文藝春秋三十五年史稿』(文藝春秋新社、1959年4月)。文壇史 & 2010-07
- ^ a b c d e f 文壇史 & 2010-07
- ^ a b 今東光「人生を甞める舌」(読売新聞 1924年9月9日号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ 今東光「『文藝時代』」(読売新聞 1924年9月16日号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b c d 今東光「横光利一」(東光 & 2005-11, pp. 20–32)
- ^ a b 橋爪健「『文藝春秋』の功罪論」(読売新聞 1924年9月21日、23日号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ 橋爪健「常識文学撲滅序論」(読売新聞 1924年10月10日、12日、14日号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ 中河与一「時代の風景」(読売新聞 1924年10月29日、30日、31日号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b c 横光利一「川端康成宛ての書簡」(大正13年11月4日付)。独影自命 & 1970-10, p. 186、小谷野 & 2013-05, p. 154に抜粋掲載。
- ^ 今東光「文壇波動調」(文藝時代 1924年12月号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b c 菊池寛「小人邪推」(新潮 1925年1月号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b 直木三十三「文壇諸家価値調査表」(文藝春秋 1924年11月号に掲載)。進藤 & 1976-08, p. 233、アルバム横光 & 1994-08, pp. 42–43、文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b 今東光「文藝春秋の無礼」(新潮 1924年12月号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ a b c 進藤純孝「第二部第一章 『文藝時代』廃刊」(進藤 & 1976-08, pp. 225–239)
- ^ 横光利一「食はされた生活――新劇協会上演の『食はされたもの』」(読売新聞 1925年1月31日号に掲載)。『定本 横光利一全集第14巻 評論・随筆』(1982年12月)に所収。
- ^ 今東光「ユダの揚言」(新潮 1925年2月号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ 横光利一「川端康成宛ての書簡」(大正14年4月30日付)。独影自命 & 1970-10, pp. 176–177に抜粋掲載。
- ^ 今東光(不同調 1925年9月号に掲載)。文壇史 & 2010-07に抜粋掲載。
- ^ 今東光「川端康成」(東光 & 2005-11, pp. 86–97)
- ^ a b c d e f g h 伊藤整「解説」(『復刻版 文藝時代』別冊)(日本近代文学館、1967年5月)。進藤 & 1976-08, pp. 236–238に抜粋掲載。
- ^ a b c 高見順『昭和文学盛衰史』(講談社、1965年9月。文春文庫、1987年8月)。進藤 & 1976-08, pp. 236–238に抜粋掲載。
参考文献
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- 『川端康成全集第30巻 評論2』新潮社、1982年6月。ISBN 978-4106438301。
- 『川端康成全集第31巻 評論3』新潮社、1982年8月。ISBN 978-4106438318。
- 『川端康成全集第32巻 評論4』新潮社、1982年7月。ISBN 978-4106438325。
- 『川端康成全集第33巻 評論5』新潮社、1982年5月。ISBN 978-4106438332。
- 『川端康成全集第35巻 雑纂2』新潮社、1983年2月。ISBN 978-4106438356。
- 『川端康成全集 補巻1 日記 手帖 ノート』新潮社、1984年4月。ISBN 978-4106438363。
- 『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』新潮社、1984年5月。ISBN 978-4106438370。
- 板垣信著 著、福田清人 編『川端康成 人と作品20』センチュリーブックス/清水書院、1969年6月。ISBN 978-4389400200。
- 井上謙 編『新潮日本文学アルバム43 横光利一』新潮社、1994年8月。ISBN 978-4106206474。
- 川西政明「菊池寛『文藝春秋』を創刊」『新・日本文壇史第3巻 昭和文壇の形成』岩波書店、2010年7月。ISBN 978-4000283632。
- 小谷野敦『川端康成伝―双面の人』中央公論新社、2013年5月。ISBN 978-4120044847。
- 今東光『東光金蘭帖』中公文庫、2005年11月。ISBN 978-4122046214。 ハードカバーの原版は1959年11月(中央公論社)。
- 進藤純孝『伝記 川端康成』六興出版、1976年8月。全国書誌番号:75020871。ASIN B000J95WTG。
- 羽鳥徹哉 『作家川端の基底』教育出版センター、1979年1月。ISBN 978-4873653075。
- 羽鳥徹哉 編『作家の自伝15 川端康成』日本図書センター、1994年9月。ISBN 978-4820580164。
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- 羽鳥徹哉監修『別冊太陽 日本のこころ157 川端康成――蒐められた日本の美』平凡社、2009年2月。ISBN 978-4582921571。
- 保昌正夫 編『新潮日本文学アルバム16 川端康成』新潮社、1984年3月。ISBN 978-4106206160。
- 森本穫『魔界の住人 川端康成 上巻・下巻』勉誠出版、2014年9月。ISBN ISBN 978-4585290759 (上巻)、ISBN 978-4585290766 (下巻)。
- 山中正樹「文芸時代と川端康成」『桜花学園大学人文学部研究紀要』第11号、桜花学園大学、139-150頁、2009年3月31日 。
- 山中正樹「「文芸時代」と川端康成 : 川端康成の言語観〈二〉: (承前)」『桜花学園大学人文学部研究紀要』第13号、桜花学園大学、144-154頁、2011年3月31日 。