御香宮神社
御香宮神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 京都府京都市伏見区御香宮門前町 |
位置 | 北緯34度56分5.0秒 東経135度46分3.0秒 / 北緯34.934722度 東経135.767500度座標: 北緯34度56分5.0秒 東経135度46分3.0秒 / 北緯34.934722度 東経135.767500度 |
主祭神 | 神功皇后 |
社格等 | 式内社(小)・府社 |
本殿の様式 | 五間社流造 |
別名 | 御香宮、御幸宮 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道82番(京都2番) |
例祭 | 4月17日・10月9日 |
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は京都市伏見区にある神社である。式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。 また社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。
由緒
初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。実際には菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力であるが神社側は説の一つに過ぎないとして否定している。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。ボトルを持参して取水する地元民も多い。[1]。全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。
豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)。
後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。
明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、本殿等は無事であった。
昭和に入ってからはすぐ東を通る国道24号線の拡幅に伴い、境内の一部を道路用地として提供し、その際に元伏見奉行所の跡で、米軍のキャンプ地の跡である桃陵団地建設の際に発見された小堀遠州ゆかりの庭園が、造園家・中根金作の手によって、社務所の裏側に再現された。
年中行事
- 1月1日 若水神事
- 1月7日 七種神事(七草粥)
- 2月中卯日 御弓始め神事
- 4月17日 例大祭
- 7月31日15時、23時 茅の輪神事
- 9月第3土曜日 神能奉納
- 10月上旬(年によって変更有り) 神幸祭
- 最終日の神輿巡幸では、3基の神輿のほか、獅子若、猿田講社、武者行列(奴振りを伴う)、稚児行列の行列が時間差をもって氏子地域を終日、巡行する。
- 11月15日 御火焚祭
- 12月中卯日 醸造初神事
文化財
- 重要文化財
- 本殿 - 徳川家康の命令で建立 平成2年(1990年)の修理で、極彩色の彫刻が復元された。
- 表門(旧伏見城大手門) - 元和8年(1622年)徳川頼房の寄進によって建立。中国の二十四孝の蟇股がある。
- 金熨斗付太刀(きんのしつきたち) - 備前長光が作ったとされる。
- その他
- 拝殿 - 京都府指定有形文化財。寛永2年(1625年)、徳川頼宣の寄進によって建立による割拝殿の構造となっている建物。中国の登龍門の故事に基づいた極彩色彫刻が唐破風元にある。
- 算額 - 文久3年(1863年) 西岡天極斎奉納 。絵馬堂に掲額。
- 算額 - 天和3年(1683年) 山本宗信奉納(復元)、 絵馬堂に掲額。八坂神社に答えの算額がある。
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本殿
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神社周辺
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表門
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御香水
境内
- 本殿
- 拝殿
- 九社殿(能舞台)
- 表門
- 絵馬堂
- 庭園
- 摂社
- 弁天社
- 松尾社
- 御香水
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拝殿の極彩色唐破風彫刻
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庭園
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絵馬堂
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能舞台
交通
脚注
外部リンク
- 御香宮神社(公式サイト)