富士山本宮浅間大社

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富士山本宮浅間大社

本宮 拝殿・本殿
所在地 (本宮)静岡県富士宮市宮町1-1
(奥宮)富士山頂上
位置 (本宮)北緯35度13分38.48秒 東経138度36分36.35秒 / 北緯35.2273556度 東経138.6100972度 / 35.2273556; 138.6100972
(奥宮)北緯35度21分35.64秒 東経138度43分53.13秒 / 北緯35.3599000度 東経138.7314250度 / 35.3599000; 138.7314250
主祭神 木花之佐久夜毘売命
(別称:浅間大神)
社格 式内社名神大
駿河国一宮
官幣大社
別表神社
創建 (伝)垂仁天皇3年(紀元前27年
本殿の様式 浅間造
例祭 (本宮)11月3日-5日
(奥宮)8月15日
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富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社式内社名神大社)、駿河国一宮旧社格官幣大社で、現在は別表神社

全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。

社名について

浅間大社の略称が多くで用いられる。古来は「富士の宮」や「富士浅間宮」、「富士浅間本宮」(「本宮」という名称は16世紀には既に用いられている)などの社号があった。

新勅撰和歌集』には「駿河国に神拝し侍りけるに、ふじの宮にてよみて奉りける」などとある。

概要

楼門(徳川家康造営)

富士山神体山として祀る神社で、古来より富士信仰の中心地として知られる。大同元年(806年)建立で東海地方では最古の社である。

境内は、富士山南麓(富士宮市街地)に位置する本宮と、富士山頂上に位置する奥宮の大きく2つがある。境内は広大であり、本宮で約17,000㎡のほか、富士山の8合目以上の約385万㎡が浅間大社の境内である[1][注釈 1]

本宮の本殿は徳川家康による造営。浅間造という独特の神社建築様式で、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出している湧玉池があり、国の特別天然記念物に指定されている。

『富嶽之記』(1733年)では、浅間大社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。このように木花之佐久夜毘売命を祭神とし、富士氏が当神社の大宮司を務めていた。社僧や垢離場などが存在し、神仏習合の形態があった。

祭神の木花之佐久夜毘売命にちなんでを御神木とし、境内には約500本もの桜樹が奉納されている。

祭神

主祭神
木花咲耶姫とも表記。別称として浅間大神 (あさまのおおかみ)とも[2]
配神

元々の祭神は富士山の神霊「浅間大神」であるが、いつの時代からか、神話に登場する木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになり江戸時代に定着した。現在でも一般的な認識では浅間大神と木花之佐久夜毘売命は明確に区別されてはおらずほぼ習合した状態である。

歴史

徳川家康造営 浅間造本殿(国重文)
信玄桜(武田信玄公手植え枝垂桜2世)

創建

社伝によると、第7代孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、第11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと伝える。

当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の時代に現在地の北東6kmの場所の山宮(現 山宮浅間神社)に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀ったという。

古代

『富士本宮浅間社記』によると、大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座したという。この地に遷座することとなった理由については、富士山の湧水からなる湧玉池が湧く地を神聖な地として考えたためと言われている[3]。またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきた[3]。それが現在も行われる御田植祭である。

以降、朝廷の崇敬を受け『延喜式神名帳』では名神大社に列した。また、駿河国一宮としても崇敬された。駿河国国府の近くには、当社より勧請を受けて「浅間神社」(現 静岡浅間神社の一社)が創建された。「本宮」の当社に対し、そちらは「新宮」と呼ばれる。

中世・近世

源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では毎年流鏑馬祭りが行われている。公家武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進や後奈良天皇の奉納の他、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営、南北朝時代には足利尊氏足利直義による社領の寄進、今川範氏今川泰範らの土地の安堵や寄進などが行われた。その後武田信玄勝頼親子が社殿の修造を行い、豊臣秀吉も社領を寄進している。

特に徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得ている[4]。その後の歴代将軍も、祈祷料・修理料の寄進を行った。安永8年(1779年)には三奉行による裁許により富士山の8合目以上が当神社へ寄進されている(「富士山を巡る争い」を参照)。

近代・現代

  • 1871年(明治4年)5月14日、近代社格制度のもと浅間神社として国幣中社に列した。
  • 1896年(明治29年)7月8日、官幣大社に昇格。
  • 1907年(明治40年)5月27日、古社寺保存法により特別保護建造物に指定された。
  • 1934年(昭和9年)6月15日、王子製紙によって、富士宮駅前に大鳥居が奉献された。その後は富士宮の象徴的存在となり多くの市民に親しまれた。
  • 第二次世界大戦後は神社本庁別表神社に加列。
  • 1981年(昭和56年)3月27日、岳南地域都市計画の名目で富士宮駅前の浅間大社の大鳥居が撤去された。[5]
  • 1982年(昭和57年)3月11日、全国の浅間神社の総本宮にふさわしい名称とするため、それまでの「富士山本宮浅間神社」から現行の富士山本宮浅間大社へと改名。
  • 2006年(平成18年)10月29日、御鎮座1200年祭が催された。開催にあわせ大鳥居が再建された[注釈 2]。また、鎮座1200年記念歌「思えば千と二百年」が発売された。
皇族の御参拝
年代 内容 注記
1896年(明治29年)3月 大正天皇が浅間大社に参拝される[6]
1896年(明治29年)4月 小松宮彰仁親王が参拝される[6]
1923年(大正12年)7月 昭和天皇が奥宮を参拝される[6] 富士登山の折
1923年(大正12年)8月 秩父宮雍仁親王が奥宮を参拝される[6] 富士登山の折

本宮境内

建築物

社殿は慶長9年(1604年)に徳川家康の造営によるものである。寛永地震や安政の大地震などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。 本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。

各所に葵紋と神社の定紋である棕櫚の紋が刻まれ、また蟇股には菊花紋葵紋などが附されている。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。

屋根は檜皮葺であり、この本殿の特徴的な形態は浅間造と称される。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。この造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料には「慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社残らず御再建成させられ、其後散銭等は修理に致すべき旨…」とある。またこの造営における正遷宮の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという[6]

社叢

本殿の裏手に広がる。『続後撰和歌集』における隆弁の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く存在していたとされる。

また『富士本宮雑記』には武田勝頼による社殿の造営の際に、社中に多くの木々が植えられたことが記されている。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『甲陽軍鑑』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる[6]。また『駿河国新風土記』にはこの萬年杉が枯死したことが記されている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという[6]。現在、それらの二代目とされる「信玄櫻」が境内に存在する。

その他

楼門前には、東西へ伸びる「桜の馬場」があり、神事流鏑馬式などに用いられる。また眼鏡池とも称される鏡池がある。

東側には湧玉池があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった溶岩の間から湧出しており、特別天然記念物に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。

近年は発掘調査などが進み、2008年(平成20年)の発掘調査により、1670年に作成されたと考えられている社殿配置図にある護摩堂の建物跡が湧玉池北側で確認された。神仏習合の1つの資料となるとされ、位置関係としては富士山の登山者が護摩堂を見降ろせられる位置にあったとの調査結果が出ている。[7]他に青磁碗・白磁壺・青白磁関連のものが出土し、護摩堂跡の道にあたる石畳、中世の集石遺構が確認されている[8]

奥宮

奥宮
富士山頂 奥宮(中央、赤い屋根)と三島岳(左)と剣ヶ峰(右)

富士山頂上奥宮は富士宮口登山道頂上に鎮座する。元は富士山興法寺を形成する大日堂であったが、神仏分離令により仏像を取り除かれ跡地を浅間大社奥宮として管理されることとなった[3]。『本朝世紀』には1149年(久安5年)に「富士上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日堂と称し、写経を埋奉納下した」とあるという[3]。奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、1つのシンボルとなっている。また山頂には薬師堂があり山役銭の徴収場などの役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり久須志神社(東北奥宮)として管理されることとなった[3]

御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に開山祭を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。

奥宮の朱印等

本宮と奥宮では朱印も異なり、御朱印で付けられる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押されている。

高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上に限られる)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は1960年から行われている[注釈 3]。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る。[9]

摂末社

摂末社
画像 名称 社格 祭神
三之宮浅間神社 摂社 浅間第三御子神
七之宮浅間神社 摂社 浅間第七御子神
水屋神社 末社 御井神
鳴雷神
稲荷神社 末社 宇迦之御魂神
大宮能売神
猿田毘古神
厳島神社 末社 市杵嶋姫神
天神社 末社 菅原道真
久須志神社 奥宮末社 大名牟遅命
少彦名命

富士山との関わり

土地の経緯

徳川家康による庇護の下で、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになる[4]。1779年には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ[4]、現在に至る。この浅間大社に寄進されていた土地は一時国有化された時期がある。

国有財産法における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため他寺社のように適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、国有化されたのである。

しかし徳川家康と江戸幕府が同大社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠から、これらの土地が当社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった[注釈 4]。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった[4]。 但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。

山頂信仰遺跡

古来は山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと考えられてきた[4]。そのため山頂に対して寄進・奉納が繰り返され、それが現在の山頂信仰遺跡となる[4]。山頂における最初の宗教的施設は、末代上人が建立した施設(後の大日堂)が最初とされ[4]、経典や仏像などが奉納などされた。また内院(噴火口)への散銭は、内院に鎮座するとされた神仏を拝する行為であった[4]

このように奉納などが繰り返され、元々山頂には信仰遺跡の一部である仏像などが多く存在した。しかし廃仏毀釈により多くが撤去され、現在は一部しか残されていない。

大宮道者坊

大宮・村山口登山道の起点である浅間大社には道者坊が存在し、浅間大社の社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供した。これが大宮道者坊である。道者坊は16世紀には30軒以上存在したが次第に統合されるようになり、17世紀には7坊、19世紀には5坊まで減少していった[10]。春長坊・清長坊・御炊坊・鎖是内記・同式部を五坊と称したという[11]

浅間大社が大宮・村山口登山道の起点であるという位置づけに至ったのは、道者がすぐさま村山にいかずに自社へと向かわせるために、湧玉池での水垢離を儀式化することで成り立ったと言われている。

祭事

年間祭事


山宮御神幸

鉾立石

山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という行事が行われていた。これは浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事であり、文献上では1577年には既に行われていたことが分かっているが(『冨士大宮御神事帳』)、詳しい開始年などは不明である。1874年まで継続して行われていた。

この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされている[4]。山宮御神幸にて使用された経路を「御神幸道」といい、起点は湧玉池南にある神幸橋である。御神幸道の首標が1984年(昭和59年)に境内の土中から見つかり現在池湖畔に立てられている[3]

文化財

湧玉池 (特別天然記念物)

重要文化財(国指定)

(建造物)

  • 本殿 - 慶長9年

(絵画)

  • 絹本著色富士曼荼羅図 - 室町時代
  • 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光 - 室町時代
  • 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国 - 応永4年

特別天然記念物(国指定)

その他


写真

現地情報

本宮

(所在地)

(交通アクセス)

奥宮

(所在地)

  • 静岡県富士宮市粟倉地先
富士山山頂。富士宮口からの登山道の終着点に所在

脚注

注釈

  1. ^ 8合目以上は約400万㎡であり、そのうち登山道や旧富士山測候所などを除くことによる。しかし静岡県・山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
  2. ^ 日頃から大鳥居の復活を望む強い要望があったことから、場所を富士宮駅前から500mほど西の浅間大社から湧き出る「神田川」沿いに移動し高さ16メートルの大鳥居を再建
  3. ^ 記帳は午前4時頃から午後5時頃
  4. ^ 1,2審とも神社側の勝訴。最終的に最高裁で当時の法律に沿う形で神社側の土地として認められた

出典

  1. ^ 山梨日日新聞 2004年12月18日
  2. ^ 祭神については、公式サイトに準拠。
  3. ^ a b c d e f 第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資料(旧・「富士山」推薦書原案) (PDF) 、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2010.07.14
  4. ^ a b c d e f g h i 「富士山」推薦書原案 (PDF) 、富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議、2011.07.27
  5. ^ 市のあゆみ
  6. ^ a b c d e f g 富士の研究『浅間神社の歴史』宮地直一著
  7. ^ 護摩堂の建物跡確認 富士山本宮浅間大社境内地 発掘現場を公開(静岡新聞)2008/07/16
  8. ^ 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所刊行の発掘調査報告書一覧より
  9. ^ 朝日新聞 2010年10月26日付
  10. ^ 久保田淳『富士山 信仰と芸術の源』小学館、2009年、40頁頁。ISBN 978-4-09682-027-8 
  11. ^ 井野辺茂雄『富士の歴史』名著出版。 
  12. ^ 第七次南極観測船ふじ」の乗り組み員で、地元富士宮市出身の赤池稔によって奉納された南極の石。歴代の南極観測船「宗谷」・「ふじ」・「しらせ」に神棚が設けられており、浅間大社の参拝・祈祷を受けている

関連項目

外部リンク