富士氏

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富士氏
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棕櫚
本姓 和邇部氏
家祖 和邇部豊磨
種別 社家
武家
出身地 駿河国富士郡大宮
主な根拠地 駿河国
著名な人物 富士信忠
富士信通
支流、分家 米津氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

富士氏(ふじし、ふじうじ)は、日本氏族駿河国富士郡富士上方(現在の静岡県富士宮市)の領主富士山本宮浅間大社大宮司を継承した家柄であり、富士山の祭祀などを司っていた。

家伝[編集]

富士氏の居館跡に建てられる「芙蓉館碑」(市民文化会館)

始祖は孝昭天皇の後裔であり豪族の和邇部氏と伝わる[1]。代々浅間大社の大宮司を務めていた家系であるため、富士大宮司家とも称される。『臥雲日件録』の寛正6年6月18日条に「日本所謂三大宮司」とあり、厳島神主家・熱田大宮司家(千秋氏)と共に日本三大宮司に数えられていた。

富士家の初代と伝わる豊麿は、駿河国富士郡の郡司であった和邇部宿禰[2]の子孫である和邇部宿禰宗人の子とされ、富士郡大領となったことを機に浅間神社の神主となったと伝わる[3]。それにより富士姓を名乗ったことが富士氏の発祥とされ、富士郡を支配する地位にあった。

富士大宮司[編集]

「富士氏」を称していたのは、神社の神職のうち富士大宮司を筆頭に以下公文[4]・案主[5]の3つの神職のみであった[6][7]

 


慣例として富士大宮司が富士家の嫡流となって政治的な部分を執り行ない、案主・公文は庶子衆とも呼ばれていた [8]。また中世の室町時代においては、大宮司職の補任権は足利将軍家にあった[9]富士信時から信章の代では大宮司と公文・案主間で争論が生じたが[10]、幕府裁許状に「公文・案主事、大宮司同格とは不可心得」とあるように、富士大宮司は富士家の中で別格な存在であった。

(左)賽銭箱にみられる棕櫚紋
(右)受付所に見られる棕櫚紋の幕

家紋は「棕櫚(しゅろ)」であり、『長倉追罰記』に「シュロノ丸ハ富士ノ大宮司」とある。また江戸幕府の裁許状[11]の中には「棕櫚葉之紋」とある。この棕櫚紋の使用も大宮司のみの使用に拠るところであり、「公文富士能成等返答書控」「富士信安父子連署請書写」には棕櫚紋は大宮司のみが古来より使用してきたとある[12]。このように、同じ富士家でも公文富士氏・案主富士氏は棕櫚紋を容易に使用できるものではなかった。

概歴[編集]

南北朝時代以降[編集]

南北朝時代には既に武人としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年(1351年)1月18日に上杉憲将により甲斐国への通路の警護を命ぜられている[13][14]。しかし南朝北朝のどちらに組みするかは揺れていた時期もあり、最終的には北朝方に付いていたとみられている[15]

今川家当主の今川範政亡き後、千代秋丸と今川範忠両氏での家督争いが発生した。その際富士氏は興津氏とともに千代秋丸を支持しており、範忠の入国に反対する立場を取っている(『満済准后日記』)。しかし室町幕府将軍である足利義教の裁定の影響は大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた。本来であれば富士氏や興津氏は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府と鎌倉府の対立が深刻化しており、富士氏や興津氏が鎌倉公方足利持氏に内通することを危惧した義教の配慮によって宥免された。こうした事情もあり、後の享徳の乱で鎌倉公方の後身である古河公方と対抗するために伊豆国堀越公方足利政知が下向すると、伊豆に近接する富士氏や興津氏は今川範忠とは別個に室町幕府から協力を求められることになる[16]

戦国時代[編集]

戦国時代富士信忠の代に入ると、国人として今川氏に属す。大永元年(1521年)に今川方の軍が甲斐の河内に侵入した際、武田信虎が総攻撃を行った。その際富士氏は今川方の軍として戦い、信虎軍に破れている(『勝山記』)。当主が変わり今川義元の代では、駿河国富士郡小泉郷での戦いの功績に対し天文6年3月8日に富士信忠に感状が送られている[17]。その後今川氏により永禄4年7月20日に大宮城城代に任命され[18]、信忠は大宮城の城主となり、武田氏との戦いを繰り広げる。永禄9年4月には、今川氏真により富士氏の本拠である大宮の六斉市を楽市とする朱印状が信忠に送られており、氏真の政策を担う部分もあった。またこの楽市令については、富士氏側の要請によって今川氏が諸役停止を確定づけた楽市令であるという見方がある[19][20]。しかし、武田氏の駿河侵攻における大宮城の戦いにおいて、戦は本格化していくこととなる。この時期は緊張状態にあり、永禄12年2月25日の北条氏康からの書状では「昼夜御辛労令職察候」とある[21]

しかし武田信玄本隊の攻撃によりついに開城、穴山信君を通し降伏することとなる[22][23]。その後も北条氏からの援護を受けるものの、武田氏に付くことを決断し武田氏に属することとなる。信忠は大宮司職でもあったが、この動乱において大宮司職を退くこととなった。しかし、信玄により信忠の嫡子富士信通が大宮司職に任命されることとなり、富士氏による大宮司職の継承が可能となった。また降伏後、信忠は武田氏家臣の鷹野氏の能通に富士姓を与え、富士家の公文職に迎えるなどをしている[24][25]。当主が変わり武田勝頼の代では元亀4年10月14日に信通に領地を授け[26]、天正5月3月16日には改めて大宮司に任命されている[27]。しかし武田氏に属してからは、社中の法度が定められるなど武人としての活動は制限され[28]、大宮司としての活動が主となった。

富士山の祭祀[編集]

富士氏は富士山を拝礼する祭儀を司っていたことでも知られる。三代目にあたる富士國雄が「浅間社祝」を務めており(『和邇系図』)、古来より浅間大社における祭祀を行なってきた。富士山の噴火の報告として『日本三代実録』の貞観6年8月5日の条に「彼国言上、決之蓍龜云、浅間名神禰宜祝等、不勤斎敬之所致也」とあるが、この「浅間名神禰宜祝等」が浅間社祝らに該当するとされている[29]。また富士氏は富士山へ仏像類を繰り返し奉納しており、富士忠時や富士親時の奉納などが確認されている。

浅間大社には遥拝所があり、祭祀の形態が詳細に定められていた。また江戸時代以降は富士山頂の支配・管理を行っていた。例えば徳川忠長駿府藩主であった頃の寛永年間に「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」といった文面の通達が、忠長の家臣である朝倉宣正鳥居成次から地方奉行の村上吉正に出されている[30]。このように、この頃より富士山本宮浅間大社が富士山頂の支配・管理を行なっており、その代表格である大宮司の支配の地として認識されていた。他に例えば須走村の書付[31]に、3カ条の1つとして「富士山登道行合より八葉内、大宮町大宮司殿、宮内殿、民部殿、宝当院と申而四人之衆御支配二御座候」とある。これは浅間大社の四人の神職の支配する土地という認識を示していることを意味し、このように富士氏が山頂においての権限を保持していた。

歴代富士氏当主[編集]

  1. 富士豊麿
  2. 富士池守
  3. 富士國雄
  4. 富士淵魚
  5. 富士良淸
  6. 富士淸名
  7. 富士淸嗣
  8. 富士淸身
  9. 富士公淸
  10. 富士利生
  11. 富士道時
  12. 富士信淸
  13. 富士信時
  14. 富士時棟(富士氏初代大宮司)
  15. 富士直世
  16. 富士直信
  17. 富士信親
  18. 富士信直
  19. 富士直則
  20. 富士則時
  21. 富士直時
  22. 富士資時
  23. 富士成時
  24. 富士氏時
  25. 富士直氏
  26. 富士政時
  27. 富士忠時
  28. 富士親時
  29. 富士信盛
  30. 富士信忠
  31. 富士信通
  32. 富士信家
  33. 富士信公
  34. 富士信元
  35. 富士信時
  36. 富士信安
  37. 富士信章
  38. 富士信治
  39. 富士信榮
  40. 富士茂濟
  41. 富士民濟
  42. 富士茂矩
  43. 富士茂珍
  44. 富士重本

脚注[編集]

  1. ^ 例えば寛正3年(1462年)の「後花園天皇口宣案」に受給者として「右馬助和邇部忠時」とあるように、本姓として用いられていた
  2. ^ 森公章、『古代郡司制度の研究』、吉川弘文館、 2000年
  3. ^ 講演「浅間大社と富士宮の歴史」 (PDF)
  4. ^ 神職の1つで、文書を掌る
  5. ^ 神職の1つで、文書を立案する
  6. ^ 宮地・広野(1929)P534
  7. ^ 岡田米夫,『日本史小百科 神社』,近藤出版社
  8. ^ 宮地・広野(1929)P528
  9. ^ 例えば「足利義政御内書」(『戦国遺文』今川氏編28号)は、足利義政の意志で大宮司職の補任を決定する内容である
  10. ^ 幕府裁許状「大宮司富士家文書」、享保10年(1725年)11月6日
  11. ^ 幕府裁許状「大宮司富士家文書」、享保10年(1725年)11月6日
  12. ^ 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考ー富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象にー」,『絵解き研究 (18)』,2004
  13. ^ 「上杉憲将奉書」(『南北朝遺文関東編第三巻』1954号)
  14. ^ 大久保俊昭『戦国期今川氏の領域と支配』(177項)では、文書で「相催庶子等」と明示され庶子が軍事力を保持していたとし、国人領主の性格が既に認められるとしている
  15. ^ 『元富士大宮司館跡』(2000年)によると、建武4年(1337年)から明徳3年(1392年)までの富士大宮司文書5通はすべて北朝年号だという
  16. ^ 木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館、P324-325
  17. ^ 今川義元感状「大宮司富士家文書」
  18. ^ 今川氏真判物「大宮司富士家文書」
  19. ^ 池上裕子,「戦国期都市・流通の最検討」『戦国時代社会構造の研究』,校倉書房,1999
  20. ^ 安野眞幸,「富士大宮楽市令 今川権力の排除」『楽市論 初期信長の流通政策』,法政大学出版局,2009
  21. ^ 北条氏康書状「大宮司富士家文書」
  22. ^ 『諸州古文書』
  23. ^ 『武州古文書』
  24. ^ 『戦国大名武田氏の権力構造』、252項
  25. ^ 宮地・広野(1929)P614
  26. ^ 武田勝頼判物「大宮司富士家文書」
  27. ^ 武田勝頼朱印状「大宮司富士家文書」
  28. ^ 宮地・広野(1929)P591
  29. ^ 「富士郡と富士氏-古代末期の駿河国-」、5項
  30. ^ 「朝倉宣正鳥居成次連署状写」、寛永年間、『浅間文書纂』241項掲載
  31. ^ 「富士山諸役所小屋迄之書付」、享保3年(1668年)、『小山町史 7巻 近世通史編』478-479項

参考文献[編集]

  • 宮地直一、広野三郎 『浅間神社の歴史』 今古書院〈富士の研究〉、1929年
  • 浅間神社社務所編、『浅間文書纂』、名著刊行会、1973(「大宮司富士家文書」などが収録されている)
  • 関口宏行、「今川氏の国人領主─富士氏の苦悩─」、『月刊 歴史手帖』5巻6号、名著出版、1977年
  • 大石泰史「十五世紀後半の大宮司富士家」『戦国史研究』第60号、戦国史研究会、2010年
  • 丸島和洋、「武田氏の領域支配と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年
  • 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  • 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年
  • 湯山学、「富士郡と富士氏─古代末期の駿河国─」『地方史静岡』第7号、1977年
  • 大久保俊昭、「河東一乱をめぐって」「本宮の風祭神事」「今川領国における国人・土豪層の動向と存在形態」『戦国期今川氏の領域と支配』、岩田書院、2008年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]