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元寇

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元寇・文永の役

蒙古襲来絵詞』より、文永の役の鳥飼潟の戦い
戦争:元寇
年月日1274年11月4日19日文永11年10月5日20日
場所九州北部
結果:日本勝利、モンゴル帝国軍の撤退
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら(異国警固番役など九州各地から) 蒙古(大元ウルス)・高麗連合軍
指導者・指揮官
鎮西奉行 少弐資能[1]

鎮西奉行 少弐経資
鎮西西方奉行?/鎮西西方守護?[2] 少弐景資
鎮西東方奉行?/鎮西東方守護?[3] 大友頼康
肥後御家人 菊池武房
肥後御家人 竹崎季長
肥前御家人 白石通泰
肥前御家人 福田兼重
豊後御家人 都甲惟親
不詳 三井資長

対馬

対馬守護代 宗資国

壱岐

壱岐守護代 平景隆

肥前沿岸

松浦党 佐志房
松浦党 佐志直
松浦党 佐志留
松浦党 佐志勇
松浦党 石志兼
松浦党 石志二郎
松浦党 山代階

総司令官

征東都元帥 忻都(ヒンドゥー)→忽敦(クドゥン)

蒙古・漢軍

征東右副都元帥 洪茶丘
征東左副都元帥 劉復亨
昭勇大将軍 阿剌帖木兒(アラチムル)[4]

高麗軍(三翼軍)

以下三翼軍内訳

中軍

都督使 金方慶

左翼軍

左軍使 金侁

右翼軍

右軍使 金文庇

戦力
不明
  • 大将の少弐景資の手勢が500余騎[6]
  • 地頭の白石通泰菊池武房の手勢が各100余騎[7][8]
  • 『元史』によると10万[9]
  • 八幡愚童訓には大将軍1万2千、総数10万とある[10](ほかの写本では将軍数が10万2千、都合数は何千万騎か知れずとある[11])

  • 戦艦900余艘

蒙古・漢軍15,000[12]~25,000人[13]
高麗軍5,300~8,000人[14]
高麗水夫6,700人
元水夫 人数不詳[15]
計27,000~39,700人[16]及び元水夫(人数不詳)

損害
不明
  • 対馬守護代 宗資国以下戦死[17]
  • 壱岐守護代 平景隆(平経高)以下自害[18]
  • 松浦党 佐志房、同子息、佐志直・佐志留・佐志勇 等戦死
不帰還者13,500余人[19]
元寇・弘安の役

蒙古襲来絵詞』より、弘安の役の御厨海上合戦
戦争:元寇
年月日1281年6月9日8月21日弘安5月21日閏7月7日
場所九州北部
結果:日本勝利、モンゴル帝国軍の壊滅・一部逃亡
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら(異国警固番役など主に九州各地から) 蒙古(大元ウルス)・高麗連合軍
(東路軍および江南軍)
指導者・指揮官
総司令官

鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政
諸将
鎮西奉行 少弐資能
鎮西奉行 少弐経資
関東御使・軍奉行 合田遠俊
豊後守護 大友頼康[20]
肥後守護 安達盛宗
薩摩守護 島津久経
肥後守護代 少弐景資
筑後地頭 香西度景
豊後御家人 都甲惟親
豊後御家人 都甲惟遠
肥後御家人 少弐資時
肥後御家人 竹崎季長
肥後御家人 菊池武房
肥前御家人 福田兼重
肥前御家人 福田兼光
肥前御家人 山代栄
肥前御家人 龍造寺家清
肥前御家人 藤原資門
薩摩御家人 島津長久
薩摩御家人 比志島時範
伊予御家人 河野通有
草野七郎(北条実政の将)

  • 六波羅派遣軍

引付衆 宇都宮貞綱(到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加)

総司令官

日本行省右丞相 阿剌罕(アラハン) → 阿塔海(アタハイ)

  • 東路軍

東征都元帥 忻都(ヒンドゥー)
東征都元帥 洪茶丘
征日本都元帥 金方慶
東征左副都元帥 阿剌帖木兒(アラチムル)[4]
密直司副使 朴球
高麗国征日本軍万戸 金周鼎
管軍万戸 也速䚟兒(イェスダル)
管軍上百戸 張成
郎将 康彦
郎将 康師子

  • 江南軍

日本行省右丞 范文虎
日本行省左丞 李庭
都元帥 囊加歹(ナンギャダイ)
都元帥 哈剌䚟(ハラダ)[21]
都元帥 張禧
管軍万戸 葛剌歹(カラダイ)
管軍万戸 厲徳彪
管軍総管 楚鼎
招討使 王国佐
水手総管 陸文政

  • 所属不詳

招討使 忽都哈思(クドゥーハス)[22]

戦力
不明

(江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎[23]。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある[24]。)


東路軍約40,000[27][28]~56,989人[29]
(蒙古・漢軍30,000、高麗軍9,960、水夫17,029)[30]

  • 戦艦3,500艘

江南軍100,000人以上[31]
計、戦艦4,400艘
140,000~156,989人

損害
不明 不帰還者 84,000~126,000人[32][33][34][35][36]
  • 高麗兵及び東路軍水夫の不帰還者約7,592人/生還者19,397人[30][37]

元寇(げんこう)とは、日本鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に渡り行われた対日本侵攻の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。主に九州北部が戦場となった。

名称

侵攻の呼称

鎌倉時代・室町時代の呼称

モンゴル帝国大元朝)・高麗連合軍による二度の日本侵攻について、鎌倉時代や室町時代の日本での文献中では、蒙古襲来異賊襲来蒙古合戦異國合戦などと表記していた。「異賊」という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、『八幡愚童訓』等鎌倉時代前後の年代記文献では、刀伊の入寇や上代の神功皇后による三韓征伐についても用いられている。ほか、「凶徒」という呼称も用いられた。

また、1274年の第1回目の侵攻は文永合戦1281年の第2回目の侵攻は弘安合戦などと表記されていた。遠征軍の侵攻についての表現も、『八幡愚童訓』や『勘仲記』『鎌倉年代記』裏書といった鎌倉室町時代までの資料では、「寄来る」「責入る(攻入る)」「合戦す」といった表現をしている。

同時期の大元朝や高麗では、遠征軍派遣にあたって「征東」「日本を征す」と表現し、遠征固有の名称は特につけられていない。

江戸時代以降の呼称

江戸時代に「元寇」という呼称が一般化するが(後述)1720年(享保5年)の馬渡俊継『北肥戦誌』でも「斯くて五月廿一日より軍始り、六七月の間に、總て海陸七十四度の合戦あり」[38]と記されている。

「文永合戦・弘安合戦」の言い換えである「文永の役・弘安の役」という呼称は、江戸時代に水戸学をはじめとする国学、漢学によって使用され、明治時代に入って定着したもので、江戸初期までには無かったものである。[要出典]なお「」の原義は「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味しており(賦役などと同様)、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称が生まれたとされる[39]

「元寇」という呼称

「元寇」という呼称は徳川光圀編纂『大日本史』が最初期の用例である。以後、18世紀の長村鑒『蒙古寇紀』、小宮山昌秀『元寇始末』、19世紀の大橋訥庵『元寇紀略』など、「寇」を用いた題の史書が現れ、江戸時代後期・末期には「元寇」という呼称が一般的になって行った。

幕末に流行した頼山陽日本外史』では、弘安の役について「元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚(ふんい)して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、茫文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現されている[40]

「元寇」という表現は、大陸側で用いられた「倭寇」に対抗する意味で使用されたともいわれる[要出典]。「寇」は「他人の家に入り込んで棒で打つ」様を表した文字で、「外敵」「(外敵が)かすめ取る」という意味で、侵略者の野蛮さや不当さを非難する感情が込められた表現である。川添昭二は、この表現が江戸後期に出現した背景としては、アヘン戦争や、日本近海にオランダ以外のヨーロッパの船舶の来航などの出来事があり、当時の日本の知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識」昂揚があり、過去の「蒙古襲来」についてもその文脈で見るようになったと指摘している[41]。こうした議論を経て近年の歴史研究では「元寇」の他にも「蒙古襲来」また「モンゴル襲来」なども使用される[42]

この他、「文永の役」「弘安の役」についても、中国側や高麗側資料とも共通の名称をはかるため、1274年と1281年の干支にちなんで「甲戌・辛巳の役」という呼称が提案されている[43]が、一般的ではない。

蒙古・元の呼称

至元3年8月(文永3年、1266年9月)付日本宛国書である「蒙古國牒状[44]」の冒頭に「大蒙古國皇帝奉書」とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称は文永5年(1268年)正月に、クビライ命によって高麗から派遣された使者・潘阜が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時の日記類にも「蒙古」の呼称が用いられている。

なお、1271年12月18日(至元8年11月乙亥)、モンゴル皇帝クビライは国号を漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、すでに先の国書で蒙古と記されていたこともあり、「元・大元」等の呼称は同時期の鎌倉・室町時代の日本では知られることは殆どなかった。

江戸時代に入ると『元史』などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である「元」という呼称、また、クビライを指して「胡主」「胡元」といった遊牧勢力に対する貶称も日本においても用いられるようになる。

第一次日本侵攻までの経緯

ユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦宣明暦の長暦による。

高麗併合と懐柔策への方針転換

1259年に高麗では、モンゴル帝国への抵抗勢力であった崔氏政権が倒れて、モンゴル帝国に降伏した。翌1260年にモンゴル帝国の第5代皇帝(カアン、大ハーン)に即位した後のいわゆる「」(大元ウルス、大元朝、元朝)[45]の皇帝クビライ・カアン(世祖)は、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する[46]。高麗への懐柔策の採用は、日本遠征に高麗を協力させるためだったとされる[46]

モンゴル帝国の樺太侵攻

1264年至元元年)には、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、すでにモンゴルに服属していたギリヤーク(ニヴフ)族の吉里迷(ギレミ)の要請を受けて[47]、モンゴルは、アイヌ族の骨嵬(クイ)を攻撃している[48]

クビライの日本招諭と高麗の対応

宗性筆の「蒙古國牒状」『調伏異朝怨敵抄』東大寺尊勝院所蔵

1265年には、クビライに対して、高麗人の元朝官吏趙彝(ちょうい)が日本との通交を進言した[49]。趙彝は朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)[50]出身で、日本の情報も持っていたといわれる[51]

1266年((文永3年)9月(至元3年8月)付で日本宛国書である「蒙古皇帝国書[52]」が作成され、同年9月、正使・兵部侍郎の黒的と副使・礼部侍郎の殷弘の使節が発遣された[53]。使節らは高麗を経由して、そこから高麗の吏僚に案内される予定であった。

同1266年11月、黒的らモンゴル使節は高麗に到着し、11月25日には高麗国王元宗に、趙彝の進言と日本への通和の要請を仲介することを命じた[54][55]

しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻のために軍事費を負担することをおそれた[53]。そのため翌1267年、高麗の枢密院副使宋君斐・侍御史金賛らは、黒的らのモンゴル使節を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内し、対馬をのぞみ、海の荒れ方などを見せて、日本までの航海の危険と困難を訴えた。また、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた[56][53]。使節らは、高麗の官吏とともに元に帰朝した。

しかし、報告を受けたクビライは予め「風濤の険阻を以って辞となすなかれ」と日本側への国書の手交を元宗に厳命していたことや[57]、元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓いて報効せんと欲す」と絶対的忠誠を誓っていながら、その「風濤の険阻」を理由にクビライの意に反して使者の両名を渡海もさせずに引き返させたことに憤慨した[58]

怒ったクビライは今度は高麗の使節が高麗の責任において日本へ使節を派遣するよう命じ[53]、再び黒的らを高麗へ送り、日本への通使で要領を得た返答を得てくることを約束させた[59]

クビライの命令に逆らうことのできない高麗王の元宗はこの命令を受け入れ、使節として元宗の側近であった起居舎人潘阜[60]と書状官李挺を日本へ派遣することにした[53][61][62]

第一回使節

1267年、高麗使節潘阜らは対馬を経由し、11月には博多へ到着した[53]。そして翌1268年(文永5年)正月、潘阜らは大宰府に到着した[53]

大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)と高麗王書状[63]、および潘阜自身による添え状の三種の文書[64]を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。


蒙古国書

wikisource:蒙古皇帝国書も参照。

蒙古國牒状
上天眷命大蒙古國皇帝、奉書日本國王

朕惟自古小國之君、境土相接、尚務 講信修睦
況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數
朕即位之初、以高麗无辜之 民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝
義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦 已知之、高麗朕之東藩也
日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚 恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意
冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣
至元三年八月日

宗性筆蒙古國牒状『調伏異朝怨敵抄』、南都東大寺尊勝院所蔵


蒙古国書[65]の内容は、次の通りであった[66][67]。「いにしえより小国の君(日本)は隣国であり、わが祖宗は天命により「区夏」(中原)をことごとく領土とした。高麗の民は戦争(鋒鏑)に疲れたので出兵をやめたところ高麗の君臣は感謝した。義は君臣なりというが、その歓びは父子のようである。このことは日本国王も知っていることだろう。高麗は蒙古の東藩である。日本は古来より中国と通交しているが、朕が即位したことを日本は未だ知らないゆえに、使節を送る。願わくはこれ以降、通交と親睦を深めたい。かつ、聖人は四海をもって家となす。通交せざるは、あに一家の理ならんや。兵を用いることは誰も好まない。」

このクビライが最初に送った蒙古国書は日本に服属ではなく通好を求めたものであったが、場合によっては武力を用いることを仄めかしたものであった。この蒙古国書の内容については諸説あるが、末尾の「不宣」という語は、友人に対して用いられるものであり、日本国王を「臣」とする、すなわち服属の要請ではないなど[66]、蒙古皇帝が他国の君主に与える文書としては前例のないほど鄭重なものともされる[68]。これに対して高圧的とする見解も一部ある[69]

なお、モンゴルによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったともされる[70]。モンゴルは海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったとされる[71]

1268年日本文永5年・至元5年)に大元朝は第2代皇帝オゴデイ以来の懸案であった南宋攻略を開始している。

蒙古国書を巡る日本側の対応

鎌倉幕府は5代執権北条時頼没後、その嫡男北条時宗が若年のため、傍系の6代北条長時、ついで7代北条政村が執政し、これを漸く成年に達した連署北条時宗らが補佐する体制が敷かれていたが、この危機を前に1268年3月には時宗が8代執権に就任していた。

当時の外交担当は朝廷であったため、鎌倉幕府は、朝廷に蒙古国書を回送した[66]関東申次西園寺実氏は幕府からの国書を受理すると、院に「異国のこと」として提出した[53]。朝廷では亀山天皇がたてられたが、実際に政務を担当したのは後嵯峨上皇であった[66]。御所における評定は2月から連日続けられた。

幕府では「蒙古人が凶心を挿んで本朝をうかがう」ので用心せよと御家人に通達した[72]。また建長寺などには宋より禅僧が渡来しており、これらの僧侶による進言や、中国大陸におけるモンゴルの暴虐などの報告もあったとされる[72]

日本側からの返牒の気配がなかったためか、太宰府来着から7ヶ月後に潘阜は高麗へ帰還しており、高麗は同年10月には潘阜の遣使が不首尾に終わった旨を元朝に報告した。

第二回使節

1269年3月、再び知門下省事・申思佺、侍郎・陳子厚および潘阜ら高麗使臣が正使・黒的、副使・殷弘を伴って派遣され、第2回目の使節60名[72]が日本の対馬へ上陸した。朝廷は返牒の草案を幕府に伝えたが、幕府は1270年には「返牒遣わさるべからずの旨」を京都に通告した[72]

蒙古の使節らは対馬に着いたのみで太宰府へは至らなかったが、同島で住民らと諍いを起こし、対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を捕らえて、これらとともに帰還した[73]


第三回使節

1269年7月、国王元宗の廃位事件の最中であった高麗を経由し、大都から弥二郎らを護送する使者として金有成高柔らの使節が江都を経て、9月に対馬へ到着した。この時、使節はクビライ皇帝本人の書状でなく、中書省からの牒状と高麗国書を携えて再び来た[74]

中書省牒

2回目の国書が「中書省牒」だったことについて、クビライ政権側も「皇帝」の国書では日本側からの返書はし難かったと判断し皇帝本人からの書状よりも下部機関である「中書省」からの書状にすれば返書し易いと考えたのではないかとされる。この中書省牒はクビライ国書と異なり、蒙古皇帝に明確に服属を勧める内容だったとされる[74]

朝廷による太政官牒案草案

大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送した。朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の服属の要求を拒否する事に決し、拒絶の返牒を出す事にし、文書博士・菅原長成に文案を起草させ、中書省牒に対して返書「太政官牒案」草案を作った。草案には「蒙古という国はいままで知られず、何ら因縁もないのに武力をもって臣従を迫ることは非常に無礼である。日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」と自国の独立性を主張した内容だった[75]。また、高麗国王にも返書案を作成しており、そこでは拘束されていた弥二郎らの送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。

しかし、鎌倉幕府側はこの拒否の返牒も出すことも取り止めて使節を追い返すよう上奏した。朝廷は幕府の提案を受け入れ、蒙古・高麗からの使節は三度返牒を得られず帰還した。

三別抄の援助要請

一方、1271年9月、これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[76]が来訪した。このとき三別抄は自らを高麗王朝と称していた。日本の朝廷や幕府は、既に高麗宮廷からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状が蒙古側を非難し珍島への遷都を告げ、さらには蒙古と対抗するため兵力や兵糧の援助を請う内容であったため、非常に不可解と感じられてこれも黙殺された[77]

第五回使節

1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元朝皇帝使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を再び黙殺する事になった。

クビライは日本に未到着のものも含めると、合計6回[78]、日本へ使節を派遣したが、全て日本からの返書はなく、服従させる目的が達成できなかったので最終的に武力侵攻を決定する。

文永8年(1271年)10月25日に、後深草上皇石清水八幡宮行幸して異国の事について祈願している。

日本征服計画

元朝では日本侵攻に関して3つの案が検討された[79]

  1. 日本は島国で攻略が難しいので、高麗に兵を置き、国書により属国にする。この案では損害も出ず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
  2. まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき、蒙古人高官が支持していた。
  3. 高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。

『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本への遠征が決定されたとされる[80][81]

クビライは高麗に命じて日本へ派兵する艦船を作らせ、半島南部を中心に兵站基地となる采邑・奥魯(アウルク)を設けて食糧などを供給させた。この時の艦船の建造費は高麗が負担し、当初は南宋遠征に用いるはずであったものや耽羅島遠征にも使われた分も合わせて、大小900艘と言われる船をわずか半年で段階的な突貫工事で完成させた。

異国警固番役の設置

鎌倉幕府もこれらの動向を察知していたようで、1272年異国警固番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じた。

また、幕府は後嵯峨上皇没の直後の文永9年(1272年)2月の二月騒動で時宗の庶兄北条時輔等を粛清し統制を強化、さらに諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。

元は1273年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。なお1269年より足掛け4年にわたる三別抄の抵抗運動によって、日本は抗戦準備を整える時間を得たとする見解もある。

1273年11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前筑前肥前壱岐対馬の御家人領の把握をするために、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した[82]

文永の役

「敵國降伏」筥崎宮伏敵門。文永の役後の社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆扁額と伝えられる。

元・高麗・女真連合軍の出航

日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、都元帥・忻都(忽敦[83])、右副元帥・洪茶丘、左副元帥・劉復亨らの率いる蒙漢軍1万5千~2万5千と、都督使・金方慶らが率いる高麗軍5千3百~8千、操船要員を含む2万7千~4万人を乗せた大小900余艘の船団が女真軍の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[16]

蒙漢軍について

なお、蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、 1269年(至元6年)10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とする高麗領の北半分が東寧府として元朝の直轄領となって接収された。これに伴い東寧府内の鳳州など各地に屯田軍が設置されている。文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本遠征に派遣された。「蒙漢軍二万五千」とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はテュルク・モンゴル系軍人、契丹人、女真人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。

対馬侵攻

遠征軍は10月5日午後四時頃に対馬小茂田浜に上陸する。対馬守護代宗資国[84]は八十余騎で応戦するが戦死し[17]、遠征軍は対馬全土を制圧して人々を多く殺害したという[85]。同日、対馬守護の宗資国は蒙古勢の襲来を伝達するため、対馬佐須浦から小太郎・兵衛次郎を出航させ博多へ知らせた。この時の対馬の状況について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞を伝えている[86]


(前略)去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし):「一谷入道御書」


この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話しを伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。

この時代、戦争捕虜は概して各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は戦利品として遠征軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵のあいだで下賜や贈答、献上したりされていた[87]。高麗の将軍・金方慶は文永の役での遠征から帰還後、文永の役で捕虜とした子供男女200人を高麗王忠烈王と妃のクビライ公主、クトゥルクケルミシュに献上した、という記録が高麗側に残っている[88]。この時の戦闘では日蓮書簡以外でも対馬や壱岐等の住民の一部が捕囚され連行されたことが日本側の資料でも伝えられており、金方慶が高麗国王・王妃に献上したこれらの捕虜もその一部と考えられる。

壱岐侵攻

次に10月14日、元軍は壱岐を襲撃、壱岐守護代の平景隆は百余騎で応戦するがかなわず、翌日樋詰城で自害し、元軍は同島を制圧する。

日蓮の建治元年8月の書簡では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》[89]とある。

対馬、壱岐を侵した後、元軍は鷹島へ向かった。

平戸島・鷹島・能古島侵攻

さらに元軍は16日から17日にかけて平戸島鷹島能古島松浦党の基地に襲来。松浦党の佐志房とその息子の佐志直(嫡男)・佐志留(二男)・佐志勇(三男)や石志兼とその息子の石志二郎[90]などが応戦したものの松浦党の基地は壊滅した[91]。この戦闘で佐志房及び息子の直・留・勇はみな戦死した[92]

室町時代の日澄によれば[93]、松浦党は数百人が伐たれ、あるいは捕虜となり、松浦党管轄基地の惨状は壱岐や対馬のようであった[94]

日本側の迎撃態勢

対馬壱岐の状況が大宰府に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏大友氏を始め、九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。

ところが、薩摩日向大隅など南九州の御家人たちは大宰府に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋を渡らなければならず、元軍の上陸までに大宰府に到着することは難しかった。これに対して、筑後神代良忠は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員した。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして幕府から感状を与えられている[95]

こうして集結した日本側の様子を、『八幡愚童訓』では少弐・大友氏、臼杵、戸次、松浦党、菊池、原田、小玉党、神社仏寺の司まで馳せ集まり、大将クラスの人物が十万二千余騎、一般兵と合わせると、「何千万騎と云うことを知らず」とあり、相当な誇張で伝えている。

一方で自らの所領を守るとして大宰府に赴かない武士や戦場に臨んでも進んで戦おうとしない武士も多数おり、必ずしも日本側全体の士気は高くはなかった[96]

博多湾上陸

元軍は10月19日夕刻に博多湾に現れ、博多湾西端の今津に停泊した。10月20日未明、船団は東に進み、早良郡の百道浜に襲来[97]。なお、元軍の上陸地点については諸説ある[98]

赤坂の戦いで蒙古軍を破り、多くの蒙古兵の首を打ち取って帰陣する菊池武房の手勢。墨書に「(菊池武房)てのものふんとりあまたす」。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵4・第15紙)

赤坂の戦い

博多の息の浜に陣を布く少弐景資とその手勢。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵2・第9.10紙)

百道浜から上陸した元軍は、松浦党や原田一族を蹴散らして百道浜より3キロ東の赤坂を占領し陣を布いた。博多の西部に位置する赤坂は丘陵となっており、古代には大津城が築かれ、近世に至っては福岡城が築かれるなど博多攻防の戦略上の重要拠点であった[99]

一方、日本軍は総大将少弐景資のもと博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた[100]。博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった[101]

ところが、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍に対して肥後の御家人・菊池武房の軍勢がこれを襲撃し、赤坂の戦いで元軍を撃破し、上陸地点の百道浜に近い麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[102]

菊池方は赤坂の戦闘で100騎ほどの手勢を二手に分けて奮戦し一族郎党の多くが戦死したものの、辛くも討ち死にを免れた菊池武房は戦死者たちの遺骸から這い出して、討取った首を多数つけて帰陣した[103]。なお竹崎季長一党は元軍との会敵を求めて西へ移動中に、赤坂での戦闘で勝利した菊池武房方100余騎と遭遇している[104]

鳥飼潟の戦い

麁原に陣を布く蒙古軍。詞四に「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝのはたをたてならへて、らんしうやうひまなくして、ひしめきあふ。」とある。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵8・第27紙)
別府の塚原から麁原の蒙古軍に合流しようとする蒙古軍小勢を追撃する三井資長[105]。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵6・第20紙)
鳥飼潟の戦いで蒙古軍に突撃する竹崎季長。応戦、敗走する蒙古兵と炸裂する「てつはう」。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)
鳥飼潟の戦いで竹崎季長の後方より駆け、蒙古軍に弓を射る肥前国御家人・白石通泰の手勢。墨書に「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5・第17紙)

赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は小高い丘である麁原山へと向かい、小勢は別府(べふ)の塚原に逃れた[106]。塚原に逃れた一部の元軍は麁原山の元軍本隊に合流しようと鳥飼潟(とりかいがた)を通って逃れようとしたが、肥後の御家人・竹崎季長ら日本軍がそれを追撃した[107]。そこで、麁原一帯に陣を布いていた元軍の本隊が救援に駆け付け、鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した[108]

竹崎季長主従は元軍を追撃する後続の日本軍の到着を待たずに元軍主力に先駆けを行い、竹崎季長自身と季長一党の三井資長、若党一人が矢を受けて負傷するなど危機的状況に陥ったが、後続の肥前の御家人白石通泰率いる100余騎が元軍に突撃を敢行したため元軍は引き退いた[108]

同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人・福田兼重の文書によると、福田兼重らは元軍を破り元軍を百道原へと駆け落とした[97]。さらに敗走する元軍を追撃した福田兼重は激しい矢戦の中、三本の矢を受けて負傷した[97]。また、豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)も鳥飼潟の戦いで奮戦し、その功績により豊後守護・大友頼康から書下を与えられている[109]。この鳥飼潟の戦いの後、元軍は麁原山の陣地へと撤退していった[110]

『少貳武藤系図』の少弐景資の伝では、この百道原での矢戦の際に左副元帥・劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止められたとしており[111]、また、中華民国期に編纂された『新元史』によると百道原で少弐景資により劉復亨が射倒されたため元軍は撤退したとあり[112]、左副元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷したのはこの戦いであったとも考えられる。

この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将少弐景資大友頼泰が参加していたものとみられ[113]、この戦闘に参加した武士も豊後肥前肥後筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されることから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた文永の役における一大決戦であったという見解がある[114]。なお、文永の役の戦闘で、現存している当時の古文書で記録があるのは、この鳥飼潟の戦いのみであり[115]、合戦に参加した竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘だったとみられる[114]

寺社縁起『八幡愚童訓』による戦況

八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である『八幡愚童訓』によると開戦にあたり、日本軍はしきたりに則って音の出る鏑矢を放ったが、元軍はこれを馬鹿にして笑い、さらに日本の武士が名乗りを上げての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため、てつはうで威嚇し毒矢を使用して集団で攻める元軍相手に一方的な損害を受けて敗走したが、殿軍の少弐景資が追撃してきた左副元帥・劉復亨を射倒すなどして追撃を阻止したとされる[116][117][118]。この戦いの最中、鎌倉武士団が迎撃の拠点として加護を祈った筥崎八幡宮から兵火によるものか出火し、社殿は焼け落ちたものの御神体その他は唐櫃に納めて運び出し、辛くも避難出来たという。また夜中、炎上する筥崎八幡宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)、我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄界灘で遭難した、という。ただし、この「白装束の者」たちは「白装束」という甚だしく「異形の者」たちであるため、鎌倉武士団その他の実際の軍勢では無く、「筥崎宮の八幡神による神威の顕現」の類いを描写したものと考えられる。 実録ではない八幡神の霊験を宣伝するための『八幡愚童訓』はここでいわゆる神風が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとしている。詳しくは後述の神風参照。戦法、「てつはう」などについては軍事面参照。

『高麗史』・『元史』による戦況

高麗史』金方慶伝には、文永の役における高麗軍の奮戦の様子が以下のように記されている。高麗を出航した元軍は、対馬を屠り続いて壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗の将である朴之亮及び金方慶の婿の趙卞はこれを蹴散らすと敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し日本兵を1千余り討ち取り、三郎浦に船を捨てて、道を分れて多くの日本兵を打ち取りながら進軍した。そこに日本軍が金方慶率いる高麗軍中軍に攻撃を仕掛けてきたが、金方慶は少しも退かず、一本のかぶら矢を抜き厲声大喝すると日本兵は辟易して敗走した。追撃する高麗軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・李唐公・金天禄・辛奕等が奮戦したため、日本軍は大敗を喫し戦場には日本兵の死体が麻の如く散っていたという。元軍の総司令官・忽敦(クドゥン)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍の働きに比べて何をもって加えることができるだろう」と高麗軍の奮戦に感心した[119]。後日、高麗軍は元軍諸軍とともに日本軍と終日、戦闘を行った。しかし、元軍は激戦により次第に兵士が疲弊し、左副元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた。やがて、日が暮れるに及んで元軍は戦闘を解して帰陣した[120][121]

『元史』では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。『元史』日本伝によると、元軍は日本軍を破ったものの終日の激戦で軍の編成が崩れ、また矢が尽きたため、四境を略奪して捕虜を得ただけで撤退したとしている[122]

また、左副元帥・劉復亨の伝では「倭兵(日本兵)10万と遇い、これを戦い敗った[9]」とのみ記載し、劉復亨が戦闘で負傷するまでの戦闘過程は一切記されておらず、右副元帥・洪茶丘の伝では、文永の役における元軍の戦果を対馬、壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、博多湾上陸以後の状況については触れられていない[123]。その他、世祖本紀などでは文永の役を「征日本」とのみ記し、戦闘の内容などには一切触れていない[12]

元・高麗連合軍軍議と撤退

高麗史金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と派遣軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)や右副元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。

金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり[124]、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるが、これは穆公の孟明の『焚船』や韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」
忽敦孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって[125]、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増えるであろう敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[120][121]
モンゴル型兜
元寇資料館」所蔵
モンゴル型皮鎧。重量はわずか7kgに過ぎない「元寇史料館」蔵
元軍の弓
元寇資料館」所蔵

このような議論があり、また左副元帥・劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。このような条件の下、撤退を強行した元軍は海上で暴風雨に遭遇し、多くの軍船が崖に接触して沈没し左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出しながらも11月27日に合浦(がっぽ)まで帰還した[120][126]

元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」と記している。

なお、『高麗史』表では「十月、金方慶、元の元帥の忽敦(クドゥン)・ 洪茶丘等と与(とも)に、日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は、一萬三千五百餘人[127]。」と文永の役を総評している。

元・高麗連合軍撤退後の状況

翌21日、元の船団は日本から撤退し姿を消しており[128]、一部の元軍の軍船が陸上に座礁していた。

公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によると、陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が大友頼泰の手勢に捕えられ、京都に連行されてくるという伝聞を載せている[129]。また、『八幡愚童訓』によると志賀島に軍船一艘が座礁していた[130]。兵船の大将は入水自殺し、他の兵たちは武器を捨てて船から投降し生け捕られ、水木岸にて220人(120人とも)程が斬殺された[128]

遅れて11月、対馬・壱岐に元軍が襲来した報せに接した執権北条時宗は、中国・九州の守護に対して国中の地頭御家人並びに本所領家一円の住人等を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発したが、この頃既に日本側は防衛に成功し元軍は撤退した後であった[131][132][133][134]大宰府鎌倉間は飛脚でも早くて12日半ほどは掛かった[135]。 このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、本所・領家一円地への幕府の影響力は増大した。

元・高麗の損害・状況

モンゴル型兜
元寇資料館」所蔵
モンゴル型兜
元寇資料館」所蔵
蒙古軍戎衣
元寇資料館」所蔵

文永の役で元軍が被った人的損害は1万3500余人にも上った[127]。さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った。僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、使用に堪られるものではなかった[136]

また、文永の役において戦艦・兵糧などを支給した高麗は、国力を極度に悪化させ疲弊した。高麗からクビライのもとへ派遣された金方慶印公秀は、その上表のなかで、民は日本征討(文永の役)のために戦艦を修造し、働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、戦闘に赴いた兵士たちは傷つき、帰還中の暴風雨により多くの溺死者を出し、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであり、さらに日照りが続いて民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐものがあるといった高麗の疲弊した様子を伝えている。そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は戦艦・兵糧の支給には耐えられないとクビライに訴えている[137]

元は撤退後、対南宋戦争が佳境に入ったことから、主力は江南に向けられる事になった。

「神風」について

元軍は合戦を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に神風を受けて壊滅したという言説が教科書等では記載されているが、元側と日本側の史料ともに博多湾で元軍が暴風雨を受けたという記載はなく事実ではない。

元側の史料『高麗史』の記載によると日本軍との戦闘で苦戦を強いられた元軍は撤退を決め、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている[120]。この暴風雨について気象学的には過去の統計から、この時期に台風の渡来記録が無いことから台風以外の気象現象という見解もとられている[138]

また、元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他、日本側の史料でも確認でき符合している。日本側の史料『五檀法記』では、19日と20日の2日に渡って武士と元軍との間で戦闘があり、結果、元軍兵は退散したとしており[139]、『帝王編年記』においても、20日に武士と元軍とで合戦があり、日本軍は元軍軍船一艘を取り志賀島に押し留め、その他の元軍をすべて追い返したとしている[140]。また、他の史料と日にちに差異はあるが『関東評定伝』でも「(文永十一年 甲戌)十月五日 蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日 寄來太宰府與官軍合戰。異賊敗北。」と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できる。

これらの戦いを経た翌日の21日、『八幡愚童訓』には一夜明けると元軍船が消えていたことが記されている[128]。また、公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、俄かに逆風が吹き来たり、本国に吹き帰った」ことが記されている[129]。以上のように元軍の敗退要因は神風とは関係なく、撤退中に暴風雨に遭ったのであり、勝敗要因とは直接関係のない事象である。

文永の役において元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布した背景として、当時の日本国内では、元寇を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識され(天人相関思想)、元軍を撃退できた要因は神風であると考える者も多くいた。
例えば、公家の広橋兼仲はその日記『勘仲記』の中で「逆風の事は、神明のご加護[129]」と神に感謝している。また、1276年建治2年)の官宣旨の文言の中にも「蒙古の凶賊等が鎮西に来着し、合戦をしたのだが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない[141]。」とあり、当時から元軍を襲った暴風雨を神風とする認識が存在していたことが伺える。この観念は戦時中の神風特別攻撃隊などにまで到ったといわれる。

また、戦前や現代の教科書等においても文永の役において元軍は神風で壊滅したという言説が以前として改められなかった背景としては、戦前は「神国思想の原点」ゆえに批判が憚られたこと、戦後は敗戦により日本の「軍事的勝利」をためらう風潮が生まれたことにより、文永の役における日本の勝因を「神風」ゆえによる勝利であるという傾向で収まってしまったのではないか、という見解がある[142]

大宰府決戦説

文永11年10月20日に赤坂・鳥飼で合戦があったが、翌21日朝には元軍が姿を消したと最近まで教科書に書かれていた(東京書籍日本史Bなど)。現在このように記す教科書はない。一日で帰ったという記事は『八幡愚童訓』にしかない。「武士が逃げて誰もいなくなったその夜、社殿から出てきた白衣の神(筥崎八幡神)が、海上の敵に矢を射かけた。」「蒙古兵はパニックとなった。燃える箱崎の街が海に映ったのを海が燃え出したと勘違いし、おびえた。」「恐れおののいた蒙古兵は1日で引き上げていった。」とある。神を恐れぬ敵の行為に神が報いたという創作である。史実ではない。3日後、10月24日大宰府で合戦があり、今度は日本側が勝利した。『関東評定伝』(嘉元三年(1305年)成立)に、「(文永十一年 甲戌)十月五日 蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日 寄來太宰府與官軍合戰。異賊敗北。」とある。藤原兼仲(勘解由小路兼仲)の日記『勘仲記』[143](同29日条)は「異国賊徒責来之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也」と元軍が「興盛」とする[144]。しかし24日の敗戦(大宰府制圧の失敗)に加え、嵐(「逆風」「大風雨」)もあり、10月末に蒙古軍は退却した。京都の公家・広橋兼仲日記、すなわち『勘仲記』をみると、博多発の情報が京都にいる日記の記主、広橋兼仲に届くまでにおよそ9日を要している。蒙古の帰国を記している『勘仲記』11月6日条の記事から時間差を逆算すれば、退却は実際には十月末である。[145][146]

第ニ次日本侵攻までの経緯

元側の動向

元による使節の再派遣

1275年(日本の建治元年・元の至元12年)、クビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使者を日本に送る。北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場(江ノ島付近)で杜世忠以下5名を斬首に処した(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる)。

1279年(日本の弘安2年・元の至元16年)、元は江南軍司令官である南宋の旧臣范文虎の進言により、使者が殺されたことを知らないまま周福を正使とする使者を再度送ったが、大宰府にて全員斬首に処される(総計、5名という説が有力)。

征東行省の設置

この1279年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった(後項参照)上、クビライは逃げ出した水夫より使者の処刑の報を知り、特に、通常の使者よりも高位(礼部侍郎)であった杜世忠の処刑に腹を立てた理由等により、日本への再度の遠征を計画し、1280年(日本の弘安3年・元の至元17年)には遠征軍派遣の準備のため征東行省を設置している。

日本側の動向

第一次高麗征伐計画

元・高麗連合軍の侵攻を撃退した鎌倉幕府は、高麗へ侵攻して逆襲することを計画した[147][148][149]。高麗出兵計画は再度の元の襲来に備えるための石築地(元寇防塁)の築造と同時に進められ、高麗出兵に動員される者を除いた鎮西の地頭に石築地の築造にあたらせた[150]

幕府は1276年3月に高麗出兵を行うことを明言し、少弐経資が中心となって鎮西諸国などに動員令を掛けて博多に軍勢や船舶を集結させた。梶取りや水手は鎮西諸国を中心に召集され、不足の場合は山陰山陽南海各道からも召集した[151]。幕府は動員催促した武士に水手、梶取りなどの年齢や動員数、兵具、船数などを注進させ、逃亡者には厳罰を科すなどして着々と出兵準備を進めたが[152][153][154][155][156][157]、同時に進められていた石築地の築造に多大な費用と人員を要したことと、兵船の不備不足などの理由により計画は実行されることはなかった[158]

無学祖元による進言

1281年弘安4年)弘安の役の一月前に元軍の再来を予知した中国からの渡来僧無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」[煩い悩む莫(な)かれ]と書を与え[159]、さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[159]。これはのち「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は「神風」によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟によって精神を支えたといわれる[159]。なお無学祖元はまだ南宋温州能仁寺にいた頃の1275年に元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[159]

弘安の役

ファイル:Genkou ishigaki.JPG
史跡元寇防塁
東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する(2004年8月撮影)。
元寇防塁

東路軍の出航

  • 1281年(日本の弘安4年・元の至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約4~5万・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とした江南軍約10万・軍船3500艘、合計、約14~15万・軍船4400艘の軍が日本に向けて出発した。東路軍と江南軍は6月15日までに壱岐島で合流し両軍で大宰府を攻める計画を立てていた[160][161]。まず先に東路軍が出発した。
  • 5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥー)・洪茶丘率いる蒙古・漢軍と管領高麗軍都元帥・金方慶率いる高麗軍[162]から成る東路軍が合浦(がっぽ)を出航[163]

対馬侵攻

  • 5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、世界村大明浦に上陸[164]。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦康師子等が戦死した[165]

壱岐侵攻

  • 5月26日、東路軍は壱岐に上陸。なお、東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すという事態に遭遇している[166]。一部の軍は長門にも襲来[167]

博多湾進入

「元寇防塁」と思しき石築地とその上に陣取る御家人たち。真ん中の赤い扇を仰ぐ人物は菊池武房。石築地の前を竹崎季長一行が移動する(『蒙古襲来絵詞』後巻・絵12・第7紙)

東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した[168]

対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃とうとする者もいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された[169]。この石築地は最も頑強な部分で高さ3メートル、幅2メートル以上ともされている。

志賀島の戦い

志賀島を占領し、海上(恐らく日本軍)の様子を窺う蒙古軍将兵。詞書は失われ詳細不明。(『蒙古襲来絵詞』後巻・絵20・第35紙)
志賀島の戦いの場面[170]。東路軍目指して進軍する関東御使の合田遠俊や筑後の草野経永、筑前の秋月種宗、肥後の大矢野種保・種村らの兵船。(『蒙古襲来絵詞』後巻・絵14・第17紙)
  • 6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした[171]

東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった[171]

  • 6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、海と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行した[172][173][174][175]

海の中道を通って陸から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦[171]。志賀島の東路軍は日本軍に3百ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走する。東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬に乗って敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた。しかし、王万戸の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛けたため洪茶丘は僅かに逃れることができた[172][176]

海上から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は蒙古兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って敵船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てた[177]。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長[173]肥前御家人の福田兼重福田兼光父子らも参加し活躍した[175]

  • 6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した[171]。しかし、この日も日本軍が勝利して東路軍は敗戦を重ねた[172]

この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。

東路軍軍議

ところが江南軍は壱岐島で合流する期限である6月15日を過ぎても現れず[160]、さらに東路軍内では疫病が蔓延して3千余人もの死者を出すなどして進退極まった[178]。そこで、戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・忻都(ヒンドゥー)、洪茶丘と管領高麗軍都元帥・金方慶が以下のように撤退するか何度か議論した。

忻都洪茶丘「皇帝(クビライ)の命令では『江南軍をして、東路軍と必ず6月15日までに壱岐島に合流させよ』とおっしゃった。今だに江南軍は壱岐島に到着していない。我が軍(東路軍)は、先に日本に到着して数戦し、船は腐れ兵糧は尽きた。このような事態に到って、いったいどうしたものだ」

この時、金方慶は黙ったまま反論しなかった。十日余り後、同じ様な議論が繰り返された時、今度は以下のように反論した。

金方慶「皇帝の命令を奉じて、三ヶ月の兵糧を用意した。今、後一ヶ月の兵糧が尚ある。江南軍が来るのを待って、両軍合わせて攻めれば、必ず日本軍を滅ぼすことができるだろう」

忻都(ヒンドゥー)、洪茶丘は敢えて反論せず、江南軍を待ってから反撃にでるという金方慶の主張が通った[160]

江南軍の出航

蒙古軍軍船の様子。(『蒙古襲来絵詞』後巻・絵19・第33・34紙)
  • なお、江南軍の正確な出航時期は不明。唯一確認できるのは管軍万戸・葛剌歹(カラダイ)率いる軍船が6月18日に出航したことがわかるのみである。管軍万戸・葛剌歹(カラダイ)率いる軍船が6月18日に江南軍全軍と共に出航したかは明らかではない[180]
  • 出航した江南軍は、東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した[27]。江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである[181]
  • 先立って江南軍は、東路軍へ平戸島沖での合流を促す先遣隊を派遣した。先遣隊が対馬に到着し、壱岐島で東路軍と合流した[27]
  • 6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島近海に到着した[35]。平戸島に上陸した張禧率いる4千の軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた[182]

壱岐島の戦い

  • 6月29日、一方、日本軍は壱岐の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した[183]

この戦闘で薩摩の御家人・島津長久比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄らが奮戦し活躍した[184][185]。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている[186]

  • 7月2日、肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦で東路軍と激戦が展開された。この瀬戸浦での戦いの功績により龍造寺家清も肥前守護・北条時定から書下を与えられている[187]。 一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている[188]

壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍に合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの鎮西奉行・少弐経資少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、経資の息子少弐資時が戦死するなどの損害を出している。

東路軍・江南軍合流

  • 平戸島に向けて移動した東路軍は江南軍と合流し平戸島に上陸した[27]
  • 7月中旬[189]~7月27日[190]、合流を完了させ平戸島周辺にしばらく停泊していた元軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢4千に守らせ、続いて鷹島へと主力を移動させた[191]。新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画[181]を実行に移すための行動と思われる。

鷹島沖海戦

  • 7月27日夜半、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が夜襲を敢行し、夜明けとともに日本軍は引揚げていった[190]

この鷹島沖海戦については日本側に史料は残っておらず、戦闘の詳細については詳らかではない。 元軍はこれまでの戦闘により招討使・忽都哈思(クドゥーハス)が戦死するなどの損害を出していた[192]。 そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、突如、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した[35]。鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた[189]

一方、日本側は六波羅探題から派遣された引付衆・宇都宮貞綱率いる6万余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった[193][194]

台風

  • 7月30日夜半[189][195]台風が襲来し[196]、海上は五日間荒れ、元軍の軍船は多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

『元史』には台風を受けた元軍の将校たちの様子が以下のように記されている。

江南軍の司令官で左丞の李庭は台風により自身の乗船する軍船が沈没し、壊れた船体の破片に掴まりながらも、岸に辿り着いた[33]。また、江南軍の1千余人の兵を率いた管軍総管・楚鼎も船が壊れ、三昼夜漂流した末に江南軍の最高指揮官の右丞・范文虎に合流している[197]。将校の中には実際に溺死する者もいた。大元朝に人質に出されていた高麗国王の子息・王綧の子で東路軍の左副元帥・阿剌帖木兒(アラチムル)は台風を受けて溺死している[4]。なお、溺死が確認できる将校は、阿剌帖木兒(アラチムル)のみである。

范文虎や李庭率いる軍船が大損害を被ったのとは対照的に、一方で台風の被害を受けなかった部隊もあった。

平戸島に在陣していた江南軍の都元帥・張禧の軍勢は、艦船同士距離を空けて停泊させるなど風浪対策を施していたため、被害を受けなかったとされる[198]。また、『元史』囊加歹伝によると江南軍の都元帥・囊加歹(ナンギャダイ)率いる戦艦群は、至らずして帰ったとだけあり台風の被害は確認されない[199]。東路軍の管軍万戸・也速䚟兒(イェスダル)率いる江淮戦艦数百艘も台風の圏外にいたか何らかの理由により被害を受けず、後に全軍撤退した。也速䚟兒(イェスダル)は、その功績により帰還後、恩賞を与えられている[200][201]。このように諸将によって台風の被害が異なることから、約4,400艘の大船団は平戸島・鷹島周辺だけでなく、海域広く散開していたものと思われる。

東路軍も台風により大損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった[30][34]。その理由を『高麗史』に登場する高麗人の言によると高麗で造船された戦艦に比べて、江南の船は脆弱であったとしている[202]

元軍軍議と撤退

  • 閏7月5日、江南軍の司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか議論があった[203]

張禧は溺死を免れた者たちは精鋭であり、失った食糧は日本軍と戦闘を続行して奪いとることを主張したが、范文虎らは責任は自分がとるとして撤退を主張した。結局、范文虎の主張が通り、張禧は頑丈な船を軍船を失っていた范文虎に与えて撤退させることにした[203]。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した[204][205]平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4千を軍船に収容して帰還した。帰還後、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから敗戦を罰せられることはなかった[206]

この時の元軍諸将の逃亡の様子を『蒙古襲来絵詞』の閏7月5日の記事の肥後の御家人・竹崎季長、幕府から派遣された関東御使・軍奉行の合田遠俊と同席した肥前国御家人・某の言葉の中に「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」とある[204]

御厨海上合戦

御厨海上合戦。弘安4年閏7月5日、撤退する蒙古軍船の追撃。竹崎季長、蒙古の軍船に乗り込み敵兵の首を取る。(『蒙古襲来絵詞』後巻・絵16・第26、27紙)
  • 閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。

午後6時頃、御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け[207]筑後の地頭香西度景らは元軍の軍船三艘の内の大船一艘を追い掛け乗り移って元兵の首を挙げた[208]。また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した[209]

日本軍は、この厨子(みくりや)海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。

鷹島掃蕩戦

厨子海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した[210]。一方、台風の後、鷹島には元軍の兵士10余万が籠っていたが、諸将が逃亡していた為、張百戸なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした[211]

  • 閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。

文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した[212]。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を二人生け捕るなどした[209]。また、鷹島陸上の戦闘では、薩摩の御家人・島津長久比志島時範らも奮戦し活躍した[213][214]

一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った[215]

これら竹崎季長、福田兼重・都甲惟親ら日本軍による鷹島攻撃で10余万の元軍は壊滅し、日本軍は2、3万の元の兵士を捕虜とした[216]

南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。

「辛巳六月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩七千隻、七月半ばごろ倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか四百餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう[189]。」

戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。

元・高麗連合軍の損害

  • 『元史』によると元軍で帰還できた兵士は、後に解放された捕虜を含めて全体の1~4割と格差が見受けられる[32][33][34][35]。帰還できた兵士の正確な数は不明なものの『元史』日本伝に「十万の衆、還ることの得る者、三人のみ[217]」とあり、誇張的とはいえ、帰還できた者が少なかったことが窺い知れる。高麗兵及び東路軍水夫の生存者は2万6989名の内、1万9397名[30][37]
  • 『元史』によると日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという[218]。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。他方、『高麗史』では命を助けられた捕虜は、工匠及び農事に知識のある者となっている[219]。この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。

以後の動向

鎌倉幕府による第二次高麗征伐計画

元軍に大勝した鎌倉幕府は、直ちに高麗出兵計画を発表した [220]。『東大寺文書』によると、幕府は少弐経資大友頼康を大将軍として、三ヵ国の御家人を主力に大和山城の諸寺の悪徒(僧兵)をも動員して高麗への出兵を計画した[221]。しかし第二次高麗出兵計画も御家人の困窮などの理由により中止となり、実行されることはなかった[222]

元による第三次日本侵攻計画

  • 1287年クビライは本格的に三度目の日本侵攻を計画し、一旦解散した征東行省を再度開設し、翌年の1288年には高麗国王である忠烈王が征東行尚書省左丞相に就任した。
  • 同年の1287年、高麗北方の遼陽行省を中心にクビライ政権の支柱のひとつである東方三王家の首班ナヤンが反乱を起こした。クビライの親征により反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、この戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族カダアンが蜂起。1290年代にはカダアン一派が高麗領に侵入し、いくつかの城塞が占拠され、一部は開城より南の忠州まで侵入された。カダアン一派の反乱軍も大元朝からの援軍もあって鎮圧されたが、ナヤンの反乱の時には西方のカイドゥカラコルムを目指して進撃しており、1280年代後半から1290年代初めにかけて、大元朝の東部全域から北部、特に高麗内外では騒乱が続いた(ナヤン・カダアンの乱)。
  • またモンケの時代に服属していたベトナム陳朝大越国でもチャンパー遠征軍に対して過剰な物資徴発に抗議して太上皇となった陳聖宗が中心となって反乱を起こした。特にベトナムでの反乱では両軍激しい消耗戦となり、最後に大元朝軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている。

これらの南方での軍事的な失敗などもあって日本へ軍が出せる状態ではなくなったともされるが、クビライはナヤンの反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝やチャンパー、また1290年代に遠征があったジャワ(シンガサリ朝マジャパヒト朝)でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、このため、クビライ治世末期には南方への大元朝からの軍事的脅威はほぼ解消した。

  • クビライは晩年まで三度目の日本遠征を計画していたようだが、1294年1月に没する。なおクビライの後を継いだテムルは、1298年(大徳二年)、日本遠征計画を取り止める意向を述べており[223]、実質上クビライの死と共に日本への遠征計画は潰えた。

瑠求侵攻と正安の蒙古襲来

  • 1291年9月、元は6000の大軍で瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画をたて[224]、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻[225]。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおこの「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説ある[226]
  • 正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり[227] 、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある[228]

元寇の影響

元側における影響と日本脅威論の形成

浙江大学教授の王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた[229]。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする[229]

1292年に日本の商船が貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、検査で船内から武具を隠し持っていたことが発覚した。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官哈剌帯に海防を固めさせた[230]1303年には江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ[231]1304年市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した[232]。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする[229]。さらに、弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している[233]

例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠(はなはだ)死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし[234]。」と述べ、また呉莱は「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない[235]。」と述べ、日本征服は無益としている。

日本側の状況と影響

文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にした。竹崎季長鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。

弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、全国から九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。

伝承

その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。

また元寇への復讐や、元や高麗によって連行された日本人を取り返すために倭寇の活動がおこったと言う説がある。

軍事面

かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。また元軍は『八幡愚童訓』によれば毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われていた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、実際は日本側も集団戦術を取っていたと考えられている。

集団戦法・一騎打ち

『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎打ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の神徳によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある[236]。一騎討ちに関しても、『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように日本の武士たちが密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、また、平安後期から鎌倉時代にかけて武士に関する文献で一騎打ちの記述があるのは、『今昔物語集』の源充と平良文との騎射による一騎打ちの場面と『前九年合戦絵巻』の一騎打ち直前の絵のみである。このように、特別な場合を除いて一騎打ちは行われておらず、一騎打ちは日本の武士の通常の戦闘方法ではない[236]

また、『元史』に記載されている日本の特性について「日本は土地が広く人も多い。日本に上陸した場合、彼の兵(日本兵)は四方より集まり、我が軍(元軍)は孤立無援になる[237]」とあり、一騎打ち戦法ではなく、上陸した元軍に日本軍が集団で襲い掛かることに、元朝政府が警戒している様子が記されている。

てつはう

正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20cm、総重量は4~10kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。

2001年、鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 山形欣哉氏によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばす事ができず、射程の長い長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。

「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、投石機がある。しかし、山形欣哉氏は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている[238]

日本の弓と蒙古弓

日本の弓の第一の特徴は、弓が約2.2mもあり世界最大の長弓であったことにある。長弓であることは矢を引く長さ(矢尺)を伸ばし弓矢の威力が増大することを意味し、現存している鎌倉時代の矢から80~90cm前後の矢尺を引いたと推測される。 第二の特徴は弓を握る位置にある。日本以外の弓では握りの位置が弓の中央であるのに対して、日本の弓は上から三分の二の中央より下の方を握るようになっており、短下長上という構造になっていた。これは弥生時代には確認できる日本独特の弓の特徴であった。中央より下方を握ることで以下の利点があった。同一の弓でも弓力(弓が矢を放つ力)が増大すること。短下長上という構造上、矢の角度が仰角となり、結果、射程距離をより長くできた。さらに弓幹の振動がこの握りの近辺では少なく、操作しやすいことなどが挙げられる。

第三の特徴としては「弓返(ゆがえ)り」といわれるものがある。これは、矢が発射された直後に、弓を握る左手の中で、弓が反時計回りにほぼ一回転することをいう。これも日本独特のものであり、鎌倉期~南北朝期の射術の進歩、弓の改良によって新しく起こった現象である。この「弓返り」により、弓の復元力(弓が矢を発射する前の本来の形状に戻ろうとする力)は速さを増し、矢はさらに加速され威力を増した。ただし、実戦では矢の連射性を重視したため、復元に手間がかかる「弓返り」はさせなかった。

一方、蒙古軍の弓は、長さが1.5m~1.6mで短弓である。弓は牛の角と腱と木を組み合わせて作られている。弓全体の芯となっているのは木であり、弓の弦側には圧縮に強い牛の角を加工したものを張り付け、その反対側には伸張に対して強度のある腱を張り付けてある。そして、弓全体を接着力強化のため樹皮で巻き、また湿気予防のために塗料が塗られた。また、弓は弦を外すと反対側に大きく反る形に作られており、矢の速度及び飛距離が増すよう工夫されている。矢の先には鏃がつけられ、その形状には各種ある。弓の弦は鹿(アンテロープ)の首の皮で作られ、丈夫にできている。

筑波大学体育科学系助教授・森俊男氏によると日本の弓と蒙古弓を比較した場合、日本の弓の方が射程距離、威力は優っているとしている。 まず、矢の比較だが、日本の弓と蒙古弓とも矢の長さは80~90cmとほぼ同じ長さである。しかし、日本の矢は竹製の矢柄を材料として、それを火で焼き、まっすぐに矯めると同時に矢柄の硬度を高め、竹の肉厚が均一になるよう削って作られている。そのため、矢の重量や重心位置が一定となる。また、「箆張り(のばり)」といわれる、矢の中央部を押した時の反発力が、蒙古軍の使用する矢よりも強い。できあがった矢柄に鷲・鷹類の羽が三枚付けられ、鉄製の鏃を矢先に差し込んで戦闘用の矢(征矢)となる。一方、蒙古弓の矢は日本の矢のような複雑な製作過程は無く、矢は木を削って作られた。矢の飛行を安定させるため、飛行中に矢が回転するように三枚の羽が付けられている。矢を同じように発射した場合、使用する矢の重量、重心位置、箆張りなどの規格が均一でなければ、矢の着点や飛行状態は異なってくる。着点は命中と密接な関係があり、その飛行状態は矢が命中した際の威力の大小に関係する。これらの理由により、森俊男氏は日本の矢の方が性能は良かったと指摘している。

次に弦の比較であるが、日本のは麻を材料とし、それを縒り合わせて松脂(まつやに)をしみ込ませ、絹糸を全体に巻き締めて、その上に漆を塗って作られている。現在、通常使用されている弦の重さはニ匁(7.5g)くらいである。糸を巻いて漆を塗り、重さが三倍になったとしても22.3gである。一方、蒙古弓の弦は動物の皮を使用し、重さは46gと日本の弦の2倍以上の重さがあった。したがって、矢が発射され弦が復元する過程では、弦の重さや空気抵抗などから、同じ強さの弓だとしても、矢の速度に差が生じるため、日本の弦の方が性能が優っているとしている。

鏃及び矢柄の重量は発射される矢の飛行速度に大きく関係するが、両軍の使用する矢の重量はほとんど差はなかった。矢の速射性に関しても、引く矢の長さが同じため、運動量も同じであり、差はなかったものとみられる。以上の点から射程距離、威力に関しては日本の弓が若干優位であったと森俊男氏は結論付けている[239]

騎馬兵

文永の役で蒙古側が馬を博多周辺の戦場で使用したことは『八幡愚童訓』や『蒙古襲来絵詞』にも描写されており、『高麗史』にも高麗南部に遠征に用いる軍馬のための糧抹を配給する奥魯が設置されていた事からも、軍馬が舶載され海上を渡航したことは間違いないが、文永の役や弘安の役で、テュルク・モンゴル的な騎馬兵の部隊がどれだけ派遣されたかについては不明な点が多い。なお、1272年の耽羅遠征に際して中書省の回奏はクビライに「船中に馬を載せると力を費すので、蒙古軍は少なくすべき」と提言している[240]

元軍船

また、暴風雨によって元船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に作らせたことにあるという説がある。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせていたので、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたとしている。ただし、手抜きを裏付ける史料はない。

また、文永の役において高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船[241]にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている[242]

研究と評価

日本侵攻理由の諸説

文永の役は領土獲得・征服を目的とした侵攻というより、威力偵察であり、高麗史にみられる撤退のやり取りも当初からの撤退予定を見越したものではなかったかとの説もある[243]。根拠として、本来モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜1万規模での敵地への威力偵察を数度段階的に行った後、本格的な侵攻を行う場合が多く、また『元史』「日本伝」には元軍の矢がすぐに尽きたという記述が見られることと、3万人程度(中には非戦闘員もいる)という少ない兵力からこの説も根強い。本格的に侵攻し領土とする、または服属させるには、3万人程の人数で、当時の主力武器である弓の矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくい。モンゴル帝国の外交交渉では、例えばチンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金朝遠征では、数度に渡って「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し」服属を呼び掛けていたことが知られており、遠征において侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、戦勝しても領土征服をせずに軍が撤退する場合もままあった[244]。あるいは元軍は大陸での野戦でも、騎馬兵の機動力を生かし、敵と一定の距離を保って馬上からの騎射で相手を損耗させる事を主な戦法の一つにしている。水上戦においても、つまりこの準備不足の侵攻作戦が、日本を見くびっていた故の判断ミスではなく、はじめからおり込まれていたという説である。 ただし、偵察目的であることを裏付ける史料はない。

一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。

近年有力視されている意見としては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある[245]。旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。旧南宋軍の新たな雇用先としてほとんどを元軍に受け入れたことも元朝にとって負担であった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである[要出典]

海底調査

近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている[246]。『元史』日本伝 至元十八年正月および二月(1281年1月22日 - 3月20日)条によると、クビライは遠征に先立って大都に遠征軍の指揮官である阿剌罕范文虎、忻都、洪茶丘らを召集し勅を下しているが、その中で「朕、漢人の言に聞くに、『人の家、国を取るには百姓土地を得んと欲す。もし尽く百姓を殺さば徒に地を得るも何に用いん』」とも述べており[247]、このため、弘安の役で戦争に勝利した暁には屯田を目的として長期的な日本の占領・支配することを意図していたのではないかと考えられている。これをもって日本への領土的支配を意図とした遠征と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、旧南宋の兵員からなる江南軍10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている[248]

2011年10月24日、琉球大学の池田栄史教授の研究チームが、伊万里湾の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇の時の船と判定したと発表した。

日本の軍事力

今谷明[249]岡田幹彦によると、日本は神風によって勝ったのではなく、日本が独立国として存在し続けるために朝廷鎌倉幕府が協力し、挙国一致体制をもって蒙古軍と戦い、蒙古軍に大きな損害を与えたことが日本の勝因であるという[250]。また今谷明は、かりに台風がなかったとしても、元軍による長期占領は不可能であったともし、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備に求めた[249]今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝[251]神聖ローマ帝国[252]と日本の三つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘し[249]中央集権では中枢部への恫喝や制圧で全体を降伏させることが可能であるが、封建制の場合力関係が複雑な並立する諸侯を全て同時に屈服させる必要があったことなどを指摘している[249]

高麗の関与

高麗史』によると1272年に、高麗王世子の諶(しん、後の忠烈王[253]が、大元朝クビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」[254]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた[要検証]」との記述がある[81]。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた[255]。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の3策のうち、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる[要出典]

日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」についての解釈

日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている[256]。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、日朝の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した円明院日澄1441年1510年)『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった[257]。『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる[258]

『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における蒙古襲来関係の研究書では、津田元貫(1734-1815)『参考蒙古入寇記』や群書類従の編者でもある塙保己一1746年-1821年)の『螢蠅抄』、橘守部1781年-1849年)『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている[259]。本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては(日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように)二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、橘守部が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった[260]。『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、明治24年(1891年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない[261][262]。明治期に入り、小倉と同じ1891年11月に山田安栄は日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した『伏敵編』を著した[263]。『伏敵編』は『善隣国宝記』や『異称日本伝』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、大橋訥庵『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く蒙古襲来史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件1886年)を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった[264]

山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『太平記』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている[265]。さらに山田は、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで[265]、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。

翻って、日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している[266]

しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたものという推測がされている[267]

元使殺害

文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」とある[268]。『元史』の記録でも、趙良弼はほぼ1年間太宰府に留まっていたが、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗、産物」などの情報収拾を行い[269]、帰還して後にクビライに報告した。ただし、趙良弼は日本遠征については、住人の風俗や性格は悪く、地勢も山水が多く耕作が困難であるため富みを得られず、渡海も困難であるため、遠征は無益である旨を奏上した[270]

こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、「大日本史」や頼山陽らは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。

神国思想

異国調伏祈祷

文永の役に先立つ文永8年(1271年)10月25日に、後深草上皇石清水八幡宮行幸して異国の事について祈願しており、文永の役の時には11月6日に「異賊の艦船が大颶風にあって悉く漂没した」との知らせが京都にもたらされると、翌々日の8日には亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。

弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿殿上人、北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。

朝廷や幕府は、蒙古からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮住吉大社厳島神社諏訪大社東大寺延暦寺東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。

また一方、当時の日本に「蒙古に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏祈祷による結果である」との認識が広く存在していた。実際に弘安4年から翌5年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ 返還するよう命じられている。

史料

以下、一次資料を記す。

元朝側資料

  • 元史
  • 『元高麗紀事』

高麗側資料

日本側資料

参考文献

  • 山田安栄 編『伏敵篇』1891年
  • 福岡日日新聞社 編『元寇史蹟の新研究』丸善、1915年3月
  • 池内宏『元寇の新研究』全2巻(正巻+附録)、東洋文庫、1931年
  • 相田二郎『蒙古襲来の研究』吉川弘文館 1958年
  • 旗田巍『元寇 --蒙古帝国の内部事情』(中公新書 80)、中央公論社、1965年9月
  • 黒田俊雄『蒙古襲来』(日本の歴史 8)中央公論社、1965年
  • 川添昭二『元寇防塁編年史料 : 注解 : 異国警固番役史料の研究』福岡市教育委員会、1971年
  • 網野善彦『蒙古襲来』(日本の歴史 10)小学館、1974年9月
  • 川添昭二『蒙古襲来研究史論』雄山閣出版〈中世史選書, 1〉、1977年。 NCID BN00376952 
  • 石井正敏「文永八年来日の高麗使について --三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年
  • 山口修『蒙古襲来』桃源社、1979年
  • 魏栄吉『元・日関係史の研究』教育出版センター、1985年
  • 村井章介『東アジア往還 --漢詩と外交--』 朝日新聞社、1995年3月
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書) 1307、1996年6月20日
  • 太田弘毅『蒙古襲来 --その軍事史的研究--』(錦正社史学叢書)錦正社、1997年1月
  • 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月
  • 奥富敬之『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年
  • 村井章介『北条時宗と蒙古襲来――時代・世界・個人を読む』(日本放送出版協会[NHKブックス], 2001年)
  • 筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(日本の歴史 ; 10)講談社、2001年
  • 川添昭二『日蓮と鎌倉文化』 平楽寺書店 2002.4
  • 佐伯弘次『モンゴル襲来の衝撃』(日本の中世 9:網野善彦、石井進編集)中央公論新社、2003年1月
  • 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』 (錦正社史学叢書)錦正社、2005年4月
  • 大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年1月
  • 新井孝重『蒙古襲来』(戦争の日本史 7)、吉川弘文館、2007年4月
  • 服部英雄『歴史を読み解く・さまざまな史料と視角』「文永十一年・冬の嵐」http://hdl.handle.net/2324/17117
  • 松浦市教育委員会 編『松浦市鷹島海底遺跡 --平成13・14年度鷹島町神崎港改修工事に伴う緊急調査報告書』(第2集)長崎県松浦市教育委員会、2008年
  • 外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社、2008年。ISBN 9784404035165 
  • 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(世界史リブレット 99)山川出版社、2011年5月
  • 舩田善之「日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の展開--冒頭定型句の過渡期的表現を中心に」『史淵』第146巻、九州大学大学院人文科学研究院、2009年3月、1-23頁、NAID 120001164451 
  • 張東翼「一二六九年「大蒙古国」中書省の牒と日本側の対応」『史學雜誌』第114巻第8号、財団法人史学会、2005年8月20日、一三八七-一四〇八、NAID 110002366418 
  • 佐藤鉄太郎「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、57-73頁、NAID 40005736731 
  • 佐藤和夫「元寇軍事史の再検証--勝利の方程式 (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、4-22頁、NAID 40005736728 
  • 山形欣哉「元寇時の蒙古船(江南船)についての一考察 (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、74-85頁、NAID 40005736732 
  • 荒川秀俊「文永の役の終りを告げたのは台風ではない」『日本歴史』第120巻、吉川弘文館、1958年6月、41-45頁、NAID 40003063598 

元寇を題材にした創作作品

戦後

元寇に関する資料・史跡

脚注

  1. ^ 長崎県史編集委員会 編『長崎県史』中世編、1980年、266頁
  2. ^ 外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社、2008年3月、63頁
  3. ^ 外山幹夫『肥前松浦一族』、63頁
  4. ^ a b c 大元朝に人質に出された高麗国王の子息・王綧の子。『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王綧「十一年、進昭勇大将軍、従都元帥忽都征日本国、預有戦功、十五年、加鎭国上将軍、安撫使、高麗軍民総管、尋陞輔国上将軍、東征左副都元帥、十八年、復征日本、遇風涛、遂没于軍、」
  5. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一「(元宗十五年)冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
  6. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵二の墨書「太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎」
  7. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵三の墨書「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」
  8. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」
  9. ^ a b 『元史』巻一百五十二 列傳第三十九 劉通「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
  10. ^ 外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社 (2008)65頁。 「九国ニ馳集ル軍兵ハ誰々ソ、少弐・大友・菊池・原田・紀伊一類・臼杵・戸次・松浦党・児玉以下、神社・仏寺之司及モ我モ々々ト打立ケル、大将軍一万二千余騎、都合其勢十万騎ト云ヘ共、数ヲ不知」。八幡愚童記筑紫本。八幡愚童記#諸本研究と記載の異同も参照。
  11. ^ 菊大路本、東大寺上生院本、文明本。
  12. ^ a b 『元史』世祖本紀八 至元十一年三月庚寅の条「庚寅、敕鳳州経略使忻都、高麗軍民総管洪茶丘等将屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戦船大小合九百艘、征日本、」
  13. ^ 池内 宏氏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していた忻都(ヒンドゥー)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本派遣軍の増派されたことが確認できるため、忻都(ヒンドゥー)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。他方、大葉 昇一氏は『元史』世祖本紀八 至元十一年三月庚寅の条「合万五千人、戦船大小合九百艘、征日本」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本派遣軍は『元史』世祖本紀八 至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。(大葉 昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成ー耽羅(濟州島)征討から元寇へー』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年ニ月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年五月己丑(十四日)の条「元征東兵萬五千人來。」
  14. ^ 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300(『高麗史』 巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、5,458(『高麗史』 巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、5,600(『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、8,000(『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶、巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。なお、池内宏氏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍約6,000という見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額、」、巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。」、巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」、『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、僉軍五千六百人、助征日本、」
  15. ^ 大葉 昇一氏によると、『高麗史』に記載されている「梢工引海水手六千七百」とは高麗側の水夫のことで、それとは別に大元朝から派遣された水夫の存在を指摘している。大葉氏によると大元朝から派遣された水夫に高麗水夫6,700を足した水夫の合計は20,000~30,000ほどと推定しており、『元史』劉復亨伝の「統軍四萬」とは数字の記載がある元朝派遣軍・高麗軍・高麗水夫、計27,000の軍勢に大元朝から派遣された水夫を足した数字であり、元軍の総計は40,000以上に達する、という見解を示している。(大葉 昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成ー耽羅(濟州島)征討から元寇へー』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)
  16. ^ a b 『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女真軍、女真後期、乃發船」
  17. ^ a b 八幡愚童訓』文永11年10月5-6日条に「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」とある(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)。 萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183。
  18. ^ 同じく『八幡愚童訓』文永11年10月14-15日条に「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。(中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。(中略)異敵ハ大勢也。可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」とある。 萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183-184。
  19. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一「(元宗十五年、冬十一月)己亥、東征師還合浦。遣同樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
  20. ^ 長崎県史古代中世編、266-267頁
  21. ^ 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、值颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」
  22. ^ 『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思「十八年、以招討使将兵征日本、死於敵、」
  23. ^ 外山幹夫 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。
  24. ^ 歴代鎮西要略「弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。夏六月。元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。忻都洪茶丘爲次将。遣數千之舟師。以伐我國。其兵不知幾百萬。」 なお、同書は文永の役においても日本軍「10万余騎」に対して元軍を「数百万」と記載している。「文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來(中略)(日本側)都合十万余騎。至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。十月二十日。合戦於筑前赤坂數回。於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。破堅碎強。」(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之ニ30頁、巻之四35頁)
  25. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年六月辛丑(二十五日)の条「忠烈王五年 東征元帥府承省旨、令造戦艦九百艘。」
  26. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」
  27. ^ a b c d e 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬「十八年、與右丞欣都、将舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎、将兵十萬、由慶元・定海等処渡海、期至日本一岐・平戸等島合兵登岸」
  28. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
  29. ^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。『元史』世祖本紀八、至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して高麗国王が元に3万の軍勢を要請したとあり、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したとあり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。『元史』世祖本紀八、至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王睶来朝、且言将益兵三万征日本。」及び『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 八月乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏」 大葉 昇一 『軍事史学-弘安の役における東路軍の編成』第38巻第4号 軍事史学会編集 2003年 25頁
  30. ^ a b c d 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年十一月)壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工引海水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。」
  31. ^ a b 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月丙辰(二十二日)の条「范文虎亦以戦艦三千五百艘、蛮軍十餘萬来」
  32. ^ a b c 『元史』世祖本紀八 至元十八年八月甲子朔の条「忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。」
  33. ^ a b c 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 李庭「十八年、軍次竹島、遇風、船尽壊、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師。士卒存者十一二。」
  34. ^ a b c 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。」
  35. ^ a b c d 『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭。七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合。欲先攻太宰府、遲疑不發。八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」
  36. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年)閏(八)月(中略)忻都(洪)茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」
  37. ^ a b 東征軍九千九百六十名とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」
  38. ^ 巻之一:異賊襲来之事
  39. ^ 安田元久『日本史小百科18 戦乱』近藤出版社、1984年,302頁
  40. ^ 同書では文永の役について「(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。」とある。
  41. ^ 川添昭二 1977.
  42. ^ 佐伯弘次(2003)他。またNHK高校講座「日本史」も「モンゴル襲来」としている。
  43. ^ 舩田善之 2009.
  44. ^ wikisource:ja:蒙古皇帝国書参照。東大寺宗性が筆写した「調伏異朝怨敵抄」にある。
  45. ^ 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号を漢語で「大元」と改められた。「元」とは後世の略称。
  46. ^ a b 『日本歴史大系2 中世』山川出版社、1985年,269頁。
  47. ^ 中村和之「北からの蒙古襲来」をめぐる諸問題」(『北東アジアの歴史と文化』(菊池俊彦編、北海道大学出版、2010、414-415頁)。『元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝。
  48. ^ 元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(1264年11月25日)条。
  49. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「元世祖之至元二年、以高麗人赵彝等言日本国可通、擇可奉使者」。黒田俊雄(1973),56頁。国史大辞典、吉川弘文館「文永・弘安の役」川添昭二記事。[1]も参照。
  50. ^ 現・慶尚南道咸安郡
  51. ^ 黒田俊雄(1973),56頁。
  52. ^ wikisource:ja:蒙古皇帝国書参照。東大寺宗性が筆写した「調伏異朝怨敵抄」にある。
  53. ^ a b c d e f g h 新井2007「蒙古襲来」,21-22頁
  54. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二「元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)、蒙古遣黒的殷弘来、詔曰、今爾國人趙彝来告、日本與爾國為、近隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故今遣黒的等往日本、欲與通和」武田幸男編訳『高麗史日本伝―朝鮮正史日本伝(上)』岩波文庫,2005年。
  55. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)丙辰(二十八日)の条「丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。」
  56. ^ 「元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。」
  57. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
  58. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丙辰(一日)の条「八月丙辰朔、黑的殷弘及宋君斐等復來、帝喩曰、向者遣使招懷日本、委卿嚮導、不意、卿以辭爲解、遂令徒還、意者日本既通好、則必盡知爾國虛實、故托以他辭、然爾國人在京師者不少、卿之計亦疎矣、且天命難諶、人道貴誠、卿先後食言多矣、宣自省焉、今日本之事、一委於卿、卿其體眹此意、通喩日本、以必得要領爲期、卿嘗有言、聖恩天大、誓欲報効、此非報效而何。」
  59. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「四年六月、帝謂王植以辭爲解、令去使徒還。復遣黑的等至高麗喩植、委以日本事、以必得其要領爲期。」
  60. ^ 元宗から忠烈王の時代に活躍した高麗の官人。高麗の中書門下省の舎人で従五品である起居舎人であった。主に高麗国王の身の回りの庶務を担当した。クビライ宮廷から派遣された黒的・殷弘らが高麗へ来着した折に彼らを饗応していた人物。
  61. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑(二十三日)の条「遣起居舎人潘阜、齎蒙古書及國書如日本、」
  62. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「植以爲、海道險阻、不可辱天使。九月、遣其起居舎人潘阜等持書往日本。留六月、亦不得其要領而歸。」
  63. ^ 東大寺宗性筆の『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古國牒状」に続いて記載されている。「高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」『鎌倉遺文』9770号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年(1265)-至文永5年(1268)、東京堂出版、1985年、285頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図2-4、(下)1-2頁。
  64. ^ 東大寺宗性によって『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古國牒状」、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。
  65. ^ 南都東大寺尊勝院所蔵で東大寺宗性筆の蒙古國牒状『調伏異朝怨敵抄』(奥書に国書が京都に送達された直後の文永5年2月(22日)に亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に書き留めた旨が書かれている)。なお同一の記載が「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」にもある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。『鎌倉遺文』9564号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年(1265)-至文永5年(1268)、東京堂出版、1985年、199頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図1-2、(下)1-2頁。
  66. ^ a b c d 山口修「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社1974年,195頁
  67. ^ 前掲山口論文を参考に作成
  68. ^ 山口修、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。田中健夫、岩波講座世界歴史9,1970年。杉山正明もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。他、村井章介奥富敬之など。
  69. ^ 歴史小説家陳舜臣は、冒頭の「朕惟自古小國之君…」の「小国」は日本を指し、最後に「用兵夫孰所好」と武力で脅すなど、歴代中国王朝国書と比較しても格段に無礼としている。
  70. ^ 新井2007,pp.20-23
  71. ^ 新井2007,pp.20-23
  72. ^ a b c d 新井2007,p25
  73. ^ この「塔二郎」と「弥二郎」という人物たちは、この後黒的らとともに大都に送られ、クビライから甚だ歓待を受けて多くの下賜品とともに日本へ帰されている。
  74. ^ a b 張東翼 2005.
  75. ^ 大元朝中書省宛ての文永七年正月付太政官牒案。『鎌倉遺文』 古文書編 第14巻 自文永六年(1269年)至文永九年(1272年)、東京堂出版、1983年、(『鎌倉遺文』10571号 「日本國太政官牒 贈蒙古國中書省牒」)pp.117-118。
  76. ^ 高麗史節要』巻18、元宗11年5月丙寅条に「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」とある。(『東国通鑑』巻35では元宗11年6月条に同文を載せる)
  77. ^ この文永8年の「高麗牒状」については『吉続記』文永8年9月2日条、その対応を伝える同9月4日条の記述しか知られていなかったが、その「牒状」についての不審点を箇条書きしたメモ「高麗牒状不審条々」が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。「牒状」本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この時の「高麗牒状」は江都(江華島)・開京の高麗国王・元宗政権からのものではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出したものであるとほぼ確実視されている。 石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。
  78. ^ 三池純正「モンゴル襲来と神国日本」洋泉書新書、2010年,38頁ほか。
  79. ^ 『元史』高麗伝による
  80. ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。…(中略)…用本國船様督造。」
  81. ^ a b 『元史』 巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
  82. ^ 『肥前松浦家文書』少弐資能施行状「今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、(文永十年)十一月十六日 沙彌(少弐資能)(花押)山代孫三郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号)
  83. ^ 文永弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「忻都」としているが、『高麗史』『高麗史節要』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の遠征軍全体を指揮していた人物(都元帥)は、忻都ではなく「忽敦」という人物であった。『元朝秘史』及び『華夷訳語』「韃靼館訳語」雑文などによると、「忻都」という単語は、『元朝秘史』巻11・261段に「忻都(Hindus)」と見え、「インド」を意味するペルシア語の”Hind”ないし”Hindū”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記のひとつであるという。至元11年3月庚寅(1274年4月21日)条に「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等,將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,戰船大小合九百艘,征日本。」とあり、忻都が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』元宗世家によると同年(元宗15年)の8月己酉(1274年9月7日)条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。」とあって、高麗に遠征軍全体の都元帥として着任して来たのは「忽敦」であった。『元史』での洪茶丘の列伝である巻154・列伝第41・洪福源 子・俊奇 条に「(至元11年)八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の遠征軍内の軍議の件で金方慶とやり取りしている人物も「忽敦」と書かれている。『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、遠征から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「忽敦」であり、「忻都」とは書かれていない。上述のように、「忻都」と「忽敦」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、「忻都」と「忽敦」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。
  84. ^ 江戸時代に対馬藩で編纂された『十九公実録』『宗氏家譜』などの資料では「宗国」としているが、日蓮書簡や『八幡愚童訓』などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、「宗国」と書かれる。
  85. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」
  86. ^ 『鎌倉遺文』110905号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第16巻 自文永十二年(1275)至建治二年(1276)、東京堂出版、1983年、37-38頁。
  87. ^ 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月
  88. ^ 『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」、『高麗史節要』巻19、元宗15年12月条「侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女」。
  89. ^ 同建治元年8月の「乙御前御消息」『鎌倉遺文』11980号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第16巻 自文永十二年(1275)至建治二年(1276)、東京堂出版、1983年、93頁。
  90. ^ 『石志文書』源兼譲状案「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志(肥前松浦郡)土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、(裏書)又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号)
  91. ^ 八幡愚童訓』では「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。なお、『八幡愚童訓』の現存諸本のうち、対馬・壱岐攻撃について記述があるもの(甲種一類)とほとんどないもの(同二類)などが存在するが、多くの場合(甲種一類でも)、「同十六日、十七日」に続く、平戸、能古、鷹島などでの捕虜、松浦党の敗北について、菊大路本(鎌倉時代末期)、東大寺上生院本(文明12年)、文明本(愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)など、主要な諸本では記述がない。『八幡愚童訓』諸本のうち、橘守部が『八幡愚童訓』の文永・弘安の役部分の原本と看做している『八幡ノ蒙古記』には「同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す、」とある。小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 --論考と資料』「二 橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について--付・翻訳--」三弥井書店、2002年、194頁
  92. ^ 『有浦文書』関東裁許状「(前略)蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、(後略)」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百三十号)
  93. ^ 円明院日澄(1441年 - 1510年)撰『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』。日蓮の書簡や『八幡愚童訓』に依拠しつつ執筆されている。
  94. ^ 「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」『類纂高祖遺文録』、改題「類纂日蓮聖人遺文集平成版」)
  95. ^ 『築後高良神社文書』将軍家政所下文案「将軍家政所於博多津、去文永十一年蒙古襲來之刻、肥後・薩摩・日州・隅州之諸軍馳參之砌、筑後河神代浮橋、九州第一之難處之處、神代良忠以調略、諸軍轍打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥慮、扶桑永代爲安利之由、所仰如件、 建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣(北条時宗)判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二〇七八号)ただし、『鎌倉遺文』の編者である竹内理三氏はこの書状を稍疑うべしとしている。
  96. ^ 『大友文書』関東御教書案「異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、 建治元年七月十七日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)同 大友兵庫入道(頼泰)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号)
  97. ^ a b c 『福田文書』福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 334頁)
  98. ^ 相田二郎は元軍の着岸地点は、今津、百道原、箱崎の三箇所であったとする。「蒙古襲来の研究」。外山前掲書64頁
  99. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 58.
  100. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞四「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ(少弐三郎左衛門景資)、はかた(博多)のおき(息)のハま(浜)をあひかた(固)めて、一とう(一同)にかせん(合戦)候へしと」
  101. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞一「あかさか(赤坂)はむま(馬)のあしたち(足立ち)わろく候。これにひか(控)へ候ハゝ、さためてよ(寄)せきたり候ハんすらん。一とう(一同)にかけてをものい(追物射)にい(射)るへきよし申さるゝにつきて、けんしち(言質)のやくそく(約束)をたか(違)へしとて、をのをの(各々)ひか(控)へしあいた」
  102. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞四「たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をか(駆)けお(落)とされ」
  103. ^ 東大寺上生院本『八幡愚童記』「蒙古ハ、次第ニ、勝ニ乗(ノリ)テ責入テ、赤坂マテ乱入ル、松原ノ中ニ陣ヲトル、(中略)爰ニ菊地ノ次郎ハ、思切テ、百騎計ヲ二手ニ分テ押寄セ、散々ニ、カケ散シ、取重ナリテ勝負ヲス、蒙古ニ、郎等多ク打セテ、イカゝシタリケン、菊池計ハ死人ノ中ヨリ、ヲキ挙リ、頸共アマタ取テ、 城内ヘ入シコソ、名ヲ後代ニ留ケレ」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.442.)/橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、松原の中に陣を取てそ居たりける、(中略)こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかり を二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、 家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、 死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、 御方の陣に入しこそ、いさましけれ」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.196)
  104. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「はかた(博多)のちん(陣)をう(討)ちいて、ひこ(肥後)のくに(国)[ ]一はん(番)とそん(存)し、すみよし(住吉)のとりゐ(鳥居)の[ ]す(過)き、こまつはら(小松原)をう(討)ちとを(通)りて、あかさか(赤坂)には[ ]かふところに、あしけ(芦毛)なるむま(馬)に、むらさきさかおもたか(紫逆沢潟)のよろひ(鎧)に、くれなゐ(紅)のほろ(母衣)をか(懸)けたるむしや(武者)、そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、けうと(凶徒)のちん(陣)を[ ]り、そくと(賊徒)を(追)ひお(落)として、くひ(首)二たち(太刀)となきなた(長刀)のさき(先)につら(貫)ぬきて、さう(左右)にも(持)たせてま[ ]とゆゝしくみ(見)へしに、たれ(誰)にてわたらせ給候そ、すゝ(涼)しくこそみ(見)え候へと申に、ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)の二郎たけふさ(武房)と申すもの(者)に候、かくおほせられ候ハたれ(誰)そとと(問)ふ、をな(同)しきうち(内)たけさき(竹崎)の五郎ひやうへすゑなか(兵衛季長)、か(駆)け候、御らん(覧)候へと申ては(馳)せむか(向)ふ。」
  105. ^ 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁 
  106. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞四「ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)にむ(向)きてひ(退)く。こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く」
  107. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞四「つかハら(塚原)よりとりかひ(鳥飼)のしほ[ひ]かた(汐干潟)を、おほせい(大勢)になりあハむとひ(退)くをお(追)かくるに」
  108. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞四「きうせん(弓箭)のみち(道)さき(先)をも(以)てしやう(賞)とす、たゝか(駆)けよとて、をめいてか(駆)く、けうと(凶徒)すそはら(麁原)より、とりかいかた(鳥飼潟)のしほや(塩屋)のまつ(松)のもと(下)にむ(向)けあハせてかせんす。一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られては(跳)ねを(落)とさる。すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られては(跳)ねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきてすそはら(麁原)にあ(上)かる、むま(馬)もい(射)られすして、ゐてき(異敵)のなか(中)にか(駆)けい(入)り、みちやす(通泰)つゝ(続)かさりせハ、し(死)ぬへかりしみなり」
  109. ^ 『都甲文書』大友頼泰勘状写 「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、 文永十一年十二月七日 (大友)頼泰 都甲左衛五郎(惟親)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七七一号)
  110. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞四「ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきてすそはら(麁原)にあ(上)かる」
  111. ^ 『武藤系圖』 少弐景資の伝「弘安(文永カ)蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル」(『続群書類従』巻百四十九 系図部)
  112. ^ 『新元史』 巻一百三十六 列傳第四十 劉復亨「战于百道原,复亨披赤甲,纵横指挥,锋锐甚。日本将三郎景资射复亨坠马、乃引军还。」
  113. ^ 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付(参陣・戦功を記録すること)を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。佐藤鉄太郎 2003, p. 61
  114. ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 61.
  115. ^ 『福田兼重申状』及び『大友頼泰勘状写 都甲文書』(『鎌倉遺文』一一七七一号) (佐藤鉄太郎 2003, p. 61)
  116. ^ 『高麗史』金方慶伝に「(劉復)亨、中流矢、先登舟」とある。『八幡愚童訓』甲種本に「少弐入道ガ子三郎右衛門景資、(中略)究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。(中略)葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ」(「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.185)とあり、この『八幡愚童訓』のいう「流将公」は「劉復亨(劉将公?)」の訛伝であろうと考えられている
  117. ^ ただし、『八幡愚童訓』の文永・弘安の役の部分の原本とみられる『八幡ノ蒙古記』では、劉復亨を射倒したのは、少弐景資ではなく、蒙古の大将をみとめた少弐景資が弓の名手である馬廻に命を下して射倒したとなっている。『八幡ノ蒙古記』「究竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ」(小野尚志「橘守部旧蔵の『八幡ノ蒙古記(八幡愚童訓)について』」『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.197-198)
  118. ^ 明治時代以前に指摘されている「流将公=劉復亨」説の一例としては、大橋訥庵『元寇紀略』では『東国通鑑』の「劉復亨中流矢」という記述を引用して、『八幡愚童訓』で少弐景資が射倒したという「賊将」は劉復亨のことであり、『八幡愚童訓』が「流将公」としているのは「国音」が近いための誤りである、としている。
  119. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
  120. ^ a b c d 高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦触岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
  121. ^ a b また、『高麗史節要』巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条にも「諸軍終日戰、及暮乃解、方慶、謂忽敦茶丘曰、『我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰』。忽敦曰、『小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也』而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、」とあり、ほぼ同じ内容があるが、『高麗史』とは若干の相違がある。
  122. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
  123. ^ 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源「(至元11年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島」
  124. ^ 該当部分の出典不明。『旧唐書』などに近似した文言が見られる。『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」
  125. ^ 孫子』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也」
  126. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一「元宗十五年 (十一月)己亥、東征師還合浦、(中略)軍不還者無慮萬三千五百餘人」、『高麗史節要』巻十九 二十七頁 十一月条にも同一の記述がある。
  127. ^ a b 『高麗史』 巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
  128. ^ a b c 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「廿一日なり、あしたに松原を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもてを見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへまて、いねもらやれす、(中略)よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝりて、逃のこれるも見えにけり、さりけれと、あまり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにもゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名かほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見きゝて、蒙古退散しにけり(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.200.)
  129. ^ a b c 文永11年11月6日条に「(文永11年11月6日)晴、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫(大友頼泰)郎從等凶賊五十餘人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、(裏書)六日下、召具之。可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々」とある。(藤原兼仲著『勘仲記』(『史料纂集 古記録編 149』、高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂)、八木書店、2008年5月、p. 85.)
  130. ^ 東大寺上生院本『八幡愚童記』「廿一日ノ朝、海ノ面ヲ見遣ニ、蒙古ノ舩、一艘モ无、皆馳モトリケリ、是ヲ見テコハイカニ、此方(コナタ)ハ此方ヘ、彼方(カナタ)ハ彼方ヘ、後合ニ落ル事ソ、心得ネ、(中略)異賊ノ舩一艘、鹿ノ嶋ニ懸テ、迯ヤラテ有シモ、余ニヲチテ、左右ナク、向者无、蒙古カ方ヨリ手ヲ合テ、助ヨト云ケレトモ、我レ行カントハ、云ハサリケリ、助舩ヲ寄ヌハ、降ヲユルサヌニコソト思テ、大将(ハ)、海ニ入テ失ニケリ、歩兵共ハ、此方(コナタ)ノ地ニ渡リ付、弓矢ヲ捨テ、甲ヲヌク、其時ニ當テ、我モゝゝト寄合セ、高名容(カホ)ニ生取ケリ、ミツキ岸ノ前ニテ引並テ、首ヲ切者、百二廿人ト聞ヘケリ、蒙古ノ已ニ退散シヌト云シカハ(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.444.)
  131. ^ 『東寺文書』関東御教書案「蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵所注申也、早来廿日以前下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人並本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、 文永十一年十一月一日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号)
  132. ^ 『大友文書』関東御教書案「蒙古人襲来対馬壱岐、致合戦之間、所被差遣軍兵也、 且九州住人等、其身縦雖不御家人、有致軍功之輩者、可被抽賞之由、普可令告知之状、依仰執達如件、 文永十一年十一月一日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四二号)
  133. ^ 『長府毛利家文書』関東御教書案「蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵所注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、 文永十一年十一月三日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号)
  134. ^ 『諸家文書纂十一』関東御教書案「蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、 文永十一年十一月三日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号)
  135. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 64頁
  136. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、」
  137. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元年正月庚辰(八日)の条「庚辰、遣侍中金方慶大将軍印公秀如元、上表曰、小邦近因掃除逆族(三別抄)、惟大軍之糧餉、既連歳而戸収、加以征討倭、民修造戦艦、丁壮悉赴工役、老弱僅得耕種、早旱晩水、禾不登場、軍國之需、斂於貧民、至於斗升、罄倒以給、已有採木實草葉而食者、民之凋弊、莫甚此時、而況兵傷水溺不返者多、雖有遺噍、不可以歳月期其蘇息也、若復擧事於日本則其戦艦兵糧、實非小邦所能支也、」
  138. ^ 荒川秀俊 1958.
  139. ^ 『五檀法記』「十一月六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦、廿日蒙古軍兵船退散畢。」(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之ニ50頁)
  140. ^ 『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之ニ50頁)
  141. ^ 『薩藩旧記 前編巻五 国分寺文書』大宰府庁下文「就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二一二号)
  142. ^ 佐藤和夫 2003, p. 14.
  143. ^ 高橋秀樹校訂『史料纂集』2008。写本をもとにしていた『史料大成』本の誤記は修正。
  144. ^ ただし、この『勘仲記』同29日条の「興盛之由風聞」とは九州本土での戦闘ではなく対馬、壱岐での戦闘で元軍が「興盛」であったことを述べているものと思われる。20日に九州本土で合戦があり、その戦況が大宰府から鎌倉へと伝わるには早くても12日半はかかり、さらにそれを受けての鎌倉幕府の対応の伝聞が京都の『勘仲記』の著者・藤原兼仲の下に伝わるには、九州本土での合戦の9日後のこの29日条の日記では早すぎる。よって、元軍の「興盛」とは対馬、壱岐での戦況を述べているにすぎないことがわかる。『勘仲記』文永十一年十月二十九日条「廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、」(『史料纂集 古記録編 149』、高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂 八木書店 2008年5月 )
  145. ^ 服部英雄「文永十一年・冬の嵐」『歴史を読み解く さまざまな史料と視角』2003
  146. ^ 大野城市史「中世」『歴史はくり返す・蒙古襲来と大野城市域』九州大学学術情報リポジトリ・QIR
  147. ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月五日 (島津)久時在判 大隅五郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号)
  148. ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月五日 (島津)久時在判 吉富次郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号)
  149. ^ 『肥前武雄神社文書』少弐経資書状案「爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月廿一日 (少弐)經資在判 武雄大宮司殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号)
  150. ^ 『肥前深江文書』少弐経資石築地役催促状「異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、 建治二年三月十日 少貳(少弐経資)(花押) 深江村地頭殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号)
  151. ^ 『東寺文書』関東御教案「明年三月比、可被征伐異國也、梶取・水手等、鎭西若令不足者、可省充山陰・山陽・南海道等之由、被仰太宰少貳經資了、仰安安藝國邊知行之地頭御家人・本所一圓地等、兼日催儲梶取・水手等、經資令相觸者、守彼配分之員數、早速可令送遣博多也者、依仰執達如件、 建治元年十二月八日 武蔵守(北条義政)相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二一七〇号)
  152. ^ 『野上文書』大友頼泰書下「異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、 一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、 建治二年三月五日 前出羽守(大友頼泰)(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号)
  153. ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉請文「爲異國征伐、可注申勢幷兵具・乘馬等之由事、今月廿五日當所御施行、同廿九日至來、謹以令拝見候畢、仰任被先度仰下候旨、愚身勢幷兵具員數、去十日既雖令付于押領使河□□(尻兵カ)衛尉之候、今重任被仰下候旨、所令注進之候也、以此旨、可有御被露候哉、定愉恐惶謹言、 建治二年三月卅日 窪田庄(肥後飽田郡)預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七一号)
  154. ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉注進状「肥後國窪田庄(飽田郡)預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、 建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号)
  155. ^ 『石清水文書』井芹秀重西向請文「(前略)一 人勢弓箭兵杖乘馬事 西向年八十五、仍不能行歩、嫡子越前房永秀年六十五在弓箭兵杖、同子息彌五郎經秀年三十八弓箭兵杖、腹卷一□(領カ)、乘馬一疋、親類又二郎秀尚 年十九弓箭兵杖、所從二人、 一 孫二郎高秀 年樠四十弓箭兵杖、腹卷一領、乘馬一疋、所從一人、 右、任御下知状、可致忠勤也、仍粗注進状言□(上カ)如件、 建治二年壬三月七日 沙彌西向(裏花押)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九七号)
  156. ^ 『石清水文書』尼眞阿請文「建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、 (建治二年)閏三月三日 北山室地頭尼眞阿(裏)「花押」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号)
  157. ^ 『石清水文書』持蓮請文「異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳(経資)殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎(肥後守護代城盛宗)殿御使鎌倉(へ脱カ)まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、 (建治二年)三月十一日 持蓮(花押) 進上 惣公文殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号)
  158. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 61頁
  159. ^ a b c d 『禅の世界』世界文化社,ほたるの本シリーズ,2006
  160. ^ a b c 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「忻都茶丘等、以累戦不利、且范文虎過期不至、議回軍曰、聖旨令江南軍、與東路軍、必及是月望、会一岐島、今南軍不至、我軍先至数戦、船腐糧尽、其将奈何、方慶黙然、旬余又議如初、方慶曰、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来、合攻必滅之、諸将不敢復言」
  161. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
  162. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年十二月辛卯(二十三日)の条「帝冊王爲開府儀同三司中書左丞相行中書省事、賜印信、又以金方慶爲中奉大夫管領高麗軍都元帥知密直司事、」
  163. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。」
  164. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦」 武田 幸男(翻訳)『高麗史日本伝(下)』(岩波文庫、2005年)によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。
  165. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之」
  166. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥(二十八日)の条「是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、」
  167. ^ 外山幹夫 2008.
  168. ^ 『元史』世祖本紀八 至元十八年六月壬午の条「日本行省臣遣使来言、大軍駐巨済島、至対馬島、獲島人言、太宰府西六十里、旧有戌軍、已調出戦、宜乗虚擣之、詔曰、軍事、卿等当自権衡之」
  169. ^ 『予陽河野家譜』「日本兵者博多箱崎二三十里海岸高築地附乱杭逆茂木雖然当家陣者、海面者幕一重而後設築地、是輒引入敵兵、可決一戦勝負、後背有道則士卒必有怠慢之気、却而可失(致)利雖為一騎不得引退謀也、自爾謂河野後築地」
  170. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 66.
  171. ^ a b c d 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(至元)十八年、樞密院檄君、仍管新附□□(軍百?)率所統、堦千戸岳公琇、往征倭、四月□(發?)合浦登海州、以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□來襲、君與所部據艦戦、至暁、賊船廻退、八日、賊遵陸復來、君率纏弓弩、先登岸迎敵、奪占其□要、賊弗能前、日晡、賊軍復集、又返敗之、明日、倭大會兵來戦、君統所部、入陣奮戦、賊不能□(支?)殺傷過□(當?)賊敗去。」(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 229頁)
  172. ^ a b c 『高麗史節要』巻二十 十四葉 忠烈王七年六月壬申(八日)「六月壬申(八日)、金方慶金周鼎朴球朴之亮荊萬戸等、與日本兵力戰、斬首三百餘級、官軍潰、茶丘乗馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戦敗績」
  173. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞十四「陣にをしよせて合戦をいたしきすをかふり候事、ひさなか(久長)のて(手)の物信濃國御家人ありさかのいや(弥)二郎・ひさなか(久長)のをい(甥)しきふ(式部)の三郎「のて(手)の物いはや(岩谷)四郎さゑもんかねふさ(左衛門兼房)、これをせう(証)人にた(立)つ」頼承てお(手負)ひてのち(後)、ゆみ(弓)をす(捨)てなきなた(長刀)をと(取)りてを(押)しよ(寄)せよ、の(乗)りうつ(移)らむ、とはや(逸)りしかとも、これも水手ろ(櫓)をす(捨)てを(押)さゝりしほとに、ちからなくのりうつ(移)らさりし物なり。同日むま(午)の時、季長なら(並)ひにて(手)の物、きす(疵)をかふ(被)るものとも、き(生)のまつはら(松原)にて、守護のけさむ(見参)にい(入)りて、當國一番にひきつ(引付)けにつ(付)く。鹿嶋にさ(差)しつか(遣)はすて(手)の物、同日巳剋に合戦をいた(致)し、親類野中太郎なかすゑ(長季)郎従藤源太すけミつ(資光)いたて(痛手)をかふ(被)り、の(乗)りむま(馬)二疋ゐころ(射殺)されし證人に、豊後國御家人はしつめ(橋詰)の兵衛次郎をた(立)つ。土佐房道戒うちし(討死)にの證人にハ、盛宗の御て(手)の人たまむら(玉村)の三郎盛清をた(立)てけさむ(見参)に入て、同御ひきつ(引付)けにつ(付)く。」
  174. ^ 『筑前右田家文書』大友頼泰書下案「豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号)
  175. ^ a b 『福田文書』平国澄起請文写「以去年六月八日押寄于志賀嶋、抽合戦之忠、国澄被二疵候之時、兼重子息兼光類船令致合戦候之刻、下人云、被疵子細云、被射折弓子細如申状無相違候、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 335頁)
  176. ^ なお『高麗史』では洪茶丘は馬を捨てて敗走したことになっている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免」
  177. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。佐藤 鉄太郎『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』櫂歌書房 1994年 171-177頁
  178. ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「軍中又大疫、死者三千餘」
  179. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事」
  180. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑(一日)の条「本明州人、至元十八年六月十八日、従葛剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗」
  181. ^ a b 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「今年三月、有日本船為風水漂至者。令其水工畫地圖。因見近太宰府西有平戸島者、周圍皆水、可屯軍船。此島非其所防、若徑往據此島、使人乘船往一岐、呼忻都・茶丘來會、進討為利」
  182. ^ 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、約束戦艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃、」
  183. ^ 『歴代鎮西要略』外山幹夫 2008, p. 70
  184. ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
  185. ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
  186. ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、 弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)
  187. ^ 『肥前龍造寺文書』肥前守護北条時定書状「去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、 弘安五年九月九日 時定(花押) 龍造寺小三郎左衛門尉(家清)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号)
  188. ^ 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「行中書[省]賜賞有差、賜君幣帛二、軍還至一岐島、六月晦(二十九日)、七月二日、賊舟兩至、皆戰敗之、獲器仗無□(算?)」(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 290頁)
  189. ^ a b c d 『心史』・中興集[元韃攻日本敗北歌]「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。山上素無人居、唯多巨蛇。相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。故曰白骨山。又曰枯髏山。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 212頁
  190. ^ a b 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(七月)二十七日、移軍至打可島(鷹島)、賊舟復集、君整艦、與所部、日以繼夜、鏖戰至明、賊舟始退、」(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 308頁)
  191. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島のことか)。八月一日、風破舟」とある。「五龍山」が鷹島のことであるかは不明。ただし、台風の後、元軍の兵士の大半が鷹島に籠ったことから鷹島に上陸し占領していたことは確かである。
  192. ^ 忽都哈思(クドゥーハス)がどの戦闘で戦死したかは定かではない。『伏敵編』の著者山田安栄は、江南軍が到着した後から台風以前の間の鷹島沖海戦と思われる戦いで忽都哈思(クドゥーハス)が戦死したとしているが、根拠は挙げていない。(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之四5頁)『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思「十八年、以招討使将兵征日本、死於敵、」
  193. ^ 『宇都宮系図』「貞綱。弘安四年五月。蒙古以十萬兵爲攻日本。兵船六萬艘著肥州平戸島。于時自六波羅爲大將引率中國之勢赴筑紫。蒙古既殲聞敗亡。猶至九州。異賊襲來爲防戰之備。而歸洛。」(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
  194. ^ 『深堀系図証文記録』「弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。」(山田安栄 編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)
  195. ^ 元史による。また外山幹夫 2008, p. 68参照
  196. ^ 翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮しても台風であったと比定されている。
  197. ^ 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎「十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、」
  198. ^ 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「八月、颶風大作、文虎、庭戦艦悉壊、禧所部獨完。」
  199. ^ 『元史』巻一百三十一 列傳第十八 囊加歹「召為都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還。」
  200. ^ 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒「江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戶。領江淮戦艦數百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戶、衣服・弓矢、鞍轡、有加。」
  201. ^ 『高麗史』によると也速䚟兒(イェスダル)は高麗の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯(二十九日)の条「丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。」
  202. ^ 『高麗史』巻二十九 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(八月)丁未(十九日)の条「忠烈王十八年 丁未、世子謁帝于紫檀殿、鄭可臣柳庇等随入、有丁右丞者奏、江南戦船、大則大矣、偶觸則毀、此前所以失利也、如使高麗造船、而再征之、日本可取、帝問征日本事、洪君祥進言曰、軍事至大、宣先遣使問諸高麗、然後行之、帝然之。」
  203. ^ a b 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「文虎等議還、禧曰「士卒溺死者半、其脱死者、皆壮士也、曷若乗其無回顧心、因糧於敵以進戦。」文虎等不従、曰「還朝問罪、我輩当之、公不與也。」禧乃分船與之。」
  204. ^ a b 「たかしまのにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候をはらいのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候、と申に…」(『蒙古襲来絵詞』後巻・詞11・第9紙:大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年 145頁)
  205. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「八月一日、風破舟。五日、文虎等諸将各自択堅好船之、棄士卒十余万于山下。」
  206. ^ 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「遂悉棄舟中所有馬七十匹、以済其還。至京師、文虎等皆獲罪、禧獨免」
  207. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞十一「閏七月五日、御くりや(御厨)のかいしやうかつせん(海上合戦)は、とりのとき(酉の刻)にをしむかて、かつせん(合戦)をいたす」
  208. ^ 『筑後五條文書』少貳景資書状写「筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申、□弘安四年閏七月五日於肥前国御厨子崎海上、蒙古賊船三艘内、追懸大船致合戦、乗移敵船、度景令分取、舎弟廣度異賊入海中、親類□被□被疵、郎従或令打死、或負手、令分取候子細、致見知候由、所立申證人也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一五一五〇号)
  209. ^ a b 『肥前武雄神社文書』黒尾社大宮司藤原経門申状「肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上 欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞去弘安四年遺賊合戦事、 右、遺賊襲来之時、於千崎息乗移于賊船、資門乍被疵、生虜一人分取一人了、将又攻上鷹嶋棟原、致合戦忠之刻、生慮二人了、此等子細、於鎮西談議所、被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、到越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩、皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞、空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場、或自身被疵、或分取生慮之条、証人等状幷宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、 永仁四年八月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十五巻 東京堂出版 一九一三〇号)
  210. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 71.
  211. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「八月一日、風破舟。五日、文虎等諸将各自択堅好船之、棄士卒十余万于山下。衆議推張百戸者為主帥、号之曰張総管、聴其約束。方伐木作舟欲還」
  212. ^ 『豊後都甲文書』大神惟親軍忠状「豊後国御家人都甲左衛門五郎大神惟親法師法名寂妙謹言上、欲早任傍例、預御注進、蒙抽賞、去弘安四年後七月七日、肥前国鷹嶋蒙古合戦事、 右、蒙古凶徒、着岸肥前国鷹嶋之間、馳向当国星鹿、彼七日、寂妙渡当嶋、於東浜、依致合戦忠、寂妙子息四郎惟遠、令分取畢、其上、郎従三郎二郎重遠被疵旗差下人一人弥六末守被疵畢、此次第、同国志手筑後房円範、上総三郎入道所令見知也、早預御注進、為蒙抽賞、恐々言 上如件、 弘安九年三月 日 「(自著)沙弥寂妙(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十一巻 東京堂出版 一五八六七号)
  213. ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「次月七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事、爰時範依合戦之忠勤、爲預御裁許、粗言上如件、 弘安五年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
  214. ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「同閏七月七日鷹嶋合戦之時、五郎次郎自陸地馳向候之条、令見知候了、若此條僞申候者、日本國中大少神罸可罷蒙長久之身候、恐惶謹言、 弘安五年四月十五日 大炊助長久」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
  215. ^ 『福田文書』丹治重茂起請文写「以去年後七月七日押寄于鷹嶋之賊船、抽合戦之忠候之時、兼重同押寄于彼所致合戦、令焼払賊船候之条、令見知候畢、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 336頁)
  216. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「七日日本人来戦、盡死。余二三萬為其虜去」
  217. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十萬之衆得還者三人」
  218. ^ 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「九日、至八角島、 盡殺蒙古、 高麗、 漢人、 謂新附 軍為唐人、 不殺而奴之。 閶輩是也。 」
  219. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑(一日)の条「擇留工匠及知田者、餘皆之殺、」
  220. ^ 『兼仲卿記弘安五年七月・九月巻裏文書』某事書「爲異國征伐、大和國寺僧國民被召之間、可蒙免許事、副衆徒申状(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四六〇号)
  221. ^ 『東大寺文書』聖守書状「可被征伐高麗之由、自關東其沙汰候歟、少貳乎大友乎爲大将軍、三ヶ國御家人、悉被催立、幷大和・山城惡徒五十六人、今月中可向鎭西之由、其沙汰候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四二二号)
  222. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 63頁
  223. ^ 「成宗大徳二年、江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。帝曰:『今非其時、朕徐思之。』」(『元史』卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國)
  224. ^ 『元史』巻211・列傳第97・外夷3瑠求「世祖至元二十八年九月、海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。」
  225. ^ 『元史』巻211・列傳第97・外夷3瑠求「(至元)二十九年三月二十九日、自汀路尾澳舟行、至是日巳時、海洋中正東望見有山長而低者、約去五十里。祥稱是瑠求國、鑒稱不知的否。祥乘小舟至低山下、以其人衆、不親上、令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘、載軍器、領三嶼人陳煇者登岸。岸上人衆不曉三嶼人語、為其殺死者三人、遂還。」
  226. ^ 海津一郎「神風と悪党の世紀」講談社現代新書1995年、19頁
  227. ^ 海津一郎による。同「神風と悪党の世紀」講談社現代新書1995年。
  228. ^ 海津一郎「神風と悪党の世紀」講談社現代新書1995年
  229. ^ a b c 王勇「中国史の中の日本像」第六章第二節(人間選書、2000年)
  230. ^ 『元史』巻十七 世祖紀 至元二十九年十月条「日本舟至四明,求互市,舟中甲仗皆具,恐有異圖,詔立都元帥府,令哈剌帶將之,以防海道。」
  231. ^ 『元史』巻二一 成宗紀 大徳八年夏四月丙戌条「夏四月丙戌,置千戶所,戍定海,以防歲至倭船。」
  232. ^ 『元史』巻九十四 食貨志「以禁商下海罷之」
  233. ^ 王勇「中国史の中の日本像」第六章第三節(人間選書、2000年)
  234. ^ 『心史』・中興集[元韃攻日本敗北歌]「倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。不戦死帰、亦為倭王主所殺。倭婦甚烈不可犯。幼歳取犀角、刔小珠種額上。善水不溺、倭刀極利。地高嶮難入、可為戦守計。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 213頁
  235. ^ 『隣交徴書』二篇巻一[論倭]「今之倭奴、非昔之倭奴也。昔雖到弱、猶敢拒中国之兵。況今之恃険、且十此者乎。郷自慶元、航海而来、艨艟数千、戈矛剣戟、莫不畢具。銛鋒淬鍔、天下無利鉄。出其重貨、公然貿易、即不満所欲、燔炳城郭、抄掠居民、海道之兵、猝無以応、(中略)喪士気弱国体、莫大於此。然取其地不能以益国、掠其人不可以強兵、」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 216頁
  236. ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 63.
  237. ^ 『元史』巻一百六十六 列傳第五十五 劉宣「今次出帥、動衆履険、縦不遇風、可到彼岸、倭国地広、徒衆猥多、彼兵四集、我帥無援、万一不利、欲発救兵、其能飛渡耶、」
  238. ^ 山形欣哉 2003, p. 14.
  239. ^ 森 俊男『歴史群像シリーズ64 北条時宗 蒙古襲来と若き執権の果断ー比較検証 日本の弓VS蒙古の弓』 学研出版 2000年 48~51頁
  240. ^ 1331年に文宗トグス・テムルによって編纂された官庁文書集『経世大典』由来の資料、『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条「囘奏、『臣等約量本處屯田軍可摘二千。復於漢軍選三二千人。船中載馬費力。蒙古軍可少。差高麗國合僉五六千。共一萬餘軍可矣』。上曰、『武衞軍差二千。卿等更議餘者』」
  241. ^ 竜骨を持ち、隔壁構造の船。『高麗史』金方慶伝
  242. ^ 『高麗史』巻百四 列伝巻十七 金方慶伝 元宗十五年条「造船若依蛮様、則工費多将不及期。(中略)用本國船様督造」NDLJP:991070/125
  243. ^ 杉山正明「モンゴル帝国、アジア征服の猛威(総力特集 北条時宗と蒙古襲来)」『歴史と旅』Vol.28、2001年2月号、秋田書店、30-35頁。奥富敬之『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年、178-189頁などを参照。
  244. ^ 例えば、1214年尾金朝の旧都・中都陥落と接収以前のモンゴル帝国軍の軍事行動の場合、「もともとモンゴルは、軍事行動を行ってきた金朝領の漢地において、一度戦勝しあるいは降伏させて占領しても、一時的に人と者を収奪すれば、あとは放置して立ち去り、長期的に領有・統治するという意思を示していなかった」。(海老沢哲雄「モンゴルの対金朝外交」『駒澤史学』52号、1998年6月、p.203-204.)
  245. ^ 杉山正明の一連の著作。『中国史3』P449など(山川出版社
  246. ^ 八幡愚童訓 下』(甲種)「降伏事」の弘安四年夏条に「今度ハ一定可勝、可居住料トテ世路ノ具足。耕作ノ為トテ鋤鍬マデモ持セタリケリ」とあり、文献上からも確認出来る。萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.190.などを参照。
  247. ^ 「(至元十八年)二月、諸將陛辭。帝敕曰:『始因彼國使來、故朝廷亦遣使往、彼遂留我使不還、故使卿輩為此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地、若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀。如出一口答之』」『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本 至元十八年二月条より。
  248. ^ 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書 1307、1996年6月20日、pp.129-135。
  249. ^ a b c d 今谷明「封建制の文明史観」(PHP新書)
  250. ^ 岡田幹彦【元気のでる歴史人物講座】(91)元寇に対した人々 国難に戦い抜く覚悟」『産経ニュース > ニュース:文化』2010.10.6 08:05、産経ニュース、2010.10.6 08:05、2010年10月6日(水)閲覧 
  251. ^ マムルーク朝は1260年、現パレスチナのアイン・ジャールートの戦い、および弘安の役と同年の1281年のダマスコの近郊ヒムスでの戦闘のいずれにおいても、蒙古軍を破った。当時、マムルーク朝軍は、世界最強であったといわれる。今谷同書
  252. ^ 神聖ローマ帝国は、1241年4月のワールシュタットの戦いで蒙古軍に敗北するが、6月のオルミュッツ城での攻防戦で、蒙古軍を撤退させた。今谷同書
  253. ^ 『元史』では「愖」「賰」など。研究者によっては「たん」と読む場合も。
  254. ^ 『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の中書省が発送したにある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 NDLJP:991068/217
  255. ^ 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。
  256. ^ 関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54-(1)、2005年12月、219頁
  257. ^ 新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月
  258. ^ 新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁
  259. ^ 川添昭二 1977, p. 70, 82, 89.
  260. ^ 川添昭二 1977, p. 89.
  261. ^ 川添昭二 1977, pp. 134–135.
  262. ^ 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年
  263. ^ 川添昭二 1977, pp. 111–122.
  264. ^ 川添昭二 1977, pp. 121–122.
  265. ^ a b 「〔按〕本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。)太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。)トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。(百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。)トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。」山田安栄編『伏敵編』巻二、1891年6月、11-12頁。
  266. ^ 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し。」(建治二年閏三月五日筆「妙密上人御消息」:『鎌倉遺文』12295号、『鎌倉遺文』 古文書編 第16巻 、239頁)
  267. ^ 若江賢三「蒙古襲来の伝聞を巡って-日蓮遺文の系年研究」『人文学論叢』8、愛媛大学人文学会、2006年。
  268. ^ 『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.181。
  269. ^ 『元史』世祖本紀 至元十年六月戊申(1273年7月13日)条「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上。」
  270. ^ 『元史』巻一百五十九 列伝第四十六 趙良弼伝 至元十年五月条「(趙)良弼言:『臣居日本歲餘、覩其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。』 帝從之。」
  271. ^ 近代デジタルライブラリー[2]、朝日日本歴史人物事典、諏訪春雄記事。伊原敏郎『明治演劇史』

関連項目

外部リンク