ノート:元寇

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集団戦法・一騎打ち[編集]

「集団戦法VS一騎打ちの戦い」を否定する為に、歪曲した記述がみられます。

第一に、当時書かれた「八幡愚童訓」を根拠なく“後世の作品”と主張しています。

第二に、集団で弓を射る絵を証拠に上げていますが、そもそも遠間での騎射戦は集団で行うのが普通です。

第三に、王惲の“結束す”の記述を根拠にしていますが、単に主と郎党の集まりを“結束す”と指しているだけとも取れます。むしろ、たった5騎で突撃した竹崎季長の存在が、集団戦法を取っていなかった証拠といえます。

第四に、「平安後期から鎌倉時代にかけて(略)のみである」と一騎打ちが二例しかないと言っていますが、とんでもない大嘘ですね。

平家物語には、一騎打ちの場面がなんぼでも出てきますが???女武者の巴ですら、二回一騎打ちをやっておりますが?

集団戦法VS一騎打ち説を否定したいが為に、あからさまな嘘(特に第四)を記述するのはどうかと思います。

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第一について、八幡愚童訓が後世の作品だという論拠は、佐藤鉄太郎教授の「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」、に指摘されている通りであり 個人的見解では無いようです。また『八幡愚童訓』菊大路本等の写本の文中に「九十四代ノ朝庭」とあり、花園天皇治世中の(1308年12月28日)- 文保2年2月26日 (1318年3月29日)間に成立したものとみられます。「菊大路本」等の写本が正しいとなれば文永の役から40年も経過しており、佐藤氏の「後世の作品」とあながち 間違いではないと思われます。

第二について、「遠間での騎射戦は集団で行うのが普通」とおっしゃられていますが、鎌倉時代の戦闘は騎射が武士の基本的な戦闘方法だったので、それを集団で行うのは 日本側が集団戦法だった以外の何物でもありません。 現に蒙古襲来絵詞において、日本側の大将の少弐景資は蒙古軍と戦う当初から軍勢を集結させ、蒙古軍が攻め寄せてきたところを一斉に騎射を仕掛ける作戦を立てています。 蒙古襲来絵詞における描写では日本側は当初から「一騎打ち」等念頭に無いのです。

第三について、王惲の「騎兵は結束す。」という記述を元側が目撃する場面を考えた場合、1・日本軍と対峙している。2.日本軍と戦っている。の2場面が考えられます。 そして実際対峙していた両軍は衝突したわけですから2であったとみる方がはるかに自然です。さらに『蒙古襲来絵詞』絵5には騎兵を密集させて戦っている場面が描かれており 元側は騎兵を密集させた武士による騎射をまともに受けていたことがわかります。 また、「たった5騎で突撃した竹崎季長の存在が、集団戦法を取っていなかった証拠」だということをおっしゃていますが、竹崎季長の場合は一騎打ちではなく、小集団による 集団戦法です。「小集団での戦闘があった」=「一騎打ち」ではありません。

第四について、本文を確認しましたが、出典が無いので2例というのは、誤情報でしょう。集団戦法・一騎打ちの節に関しては、「2例」の文だけで要出典を添付するか もしくは削除することには賛成です。ただ、その平家物語の武士による戦法においても集団戦法が基本であり、一騎打ちは物語を盛り上げるおまけ的場面にしかすぎないことには 留意すべきです。--114.144.157.197 2014年4月11日 (金) 11:17 (UTC)[返信]

鎌倉幕府は無能論について[編集]

無根拠、思い込みによる一個人の妄言を載せるべきでは無いので削除。

以下無根拠、思い込みの該当箇所。

>モンゴル帝国主導の自由貿易経済圏に日本も入れ、という要求を

モンゴル帝国が「自由貿易経済圏に日本も入れ」と主張したことはない。 あるのであれば、いったいいつどんな史料に書いてあるのか提示すべき。

>相手の要求に応じてさえいれば、国が滅ぼされるとなどということはそもそもあり得ない

そもそも「あり得ない」とする根拠が提示されていない。 根拠のない主張は妄言である。

>国難国難と騒ぎ立てて民衆はおろか天皇陛下まで欺き、外国に膝を屈するな式の排外主義を煽動し、

鎌倉幕府が「国難国難」と騒ぎ立てて排外主義を煽動し民衆、天皇を欺いたとする根拠。

根拠の無い思い込みで「鎌倉幕府は無能」と結論に至る妄言は削除する。--180.51.85.32 2015年6月25日 (木) 14:46 (UTC)[返信]

與那覇潤先生は東京大学博士号であり気鋭の歴史学者です。この書籍は各方面で評価されている新しい歴史学の見方です。與那覇先生の見解を批判したいのであれば査読論文や著書で行うべきです。--121.108.172.22 2015年6月27日 (土) 15:14 (UTC)[返信]

貴方が「各方面で評価されている」、「気鋭」と考えているかは記事に載せるのに全く関係がありません。また與那氏は中世史の専門家ではなく近代史の専門家です。専門家であるのならば、その「見解」を主張する根拠を提示するのが常識です。その工程を行っていない主張に対しては、歴史学者も一般人も変わりありません。載せるのであれば、学術的根拠に基づいた論文などを基に記事を記載すべきです。--180.51.85.32 2015年6月27日 (土) 22:51 (UTC)[返信]

出典を確認ください。学術的根拠に基いて書かれておられます。また、論文を集積した著書は出典として使えないという主張は無根拠です。--121.108.172.22 2015年6月29日 (月) 15:38 (UTC)[返信]

参考文献の原文コピー[編集]

参考文献に、引用元の原典丸写し(特に、漢文からの引用)が結構あります。必要でしょうか?文献名(とページ番号)だけで十分だと思うんですが。--Susuka会話2016年6月5日 (日) 02:42 (UTC)[返信]

Susukaさん、こんばんは。私はあってもいいと思います。出典のページ番号を書いても、そのページの内容全てが出典に当たるわけではありません。また、漢文ですので、そのページから出典を探すのにも一苦労です。それに中には出典の史料は手軽に確認できるような史料では無く、東京の一部図書館にしか置いていないような文献もあります。ページ番号を書かれていても、容易に確認出来ない史料もあります。 私も元寇の史料原文を確認するのに多様しておりますので、現状のままであるのが原文を確認する点においても手軽さの点においても、現状のままで良いように思います。

失礼致しました。記帳が抜けておりました。--震天動地会話2016年6月5日 (日) 13:34 (UTC)[返信]

英語のウィキペディアが韓国人によって悪意のある改変がされています。[編集]

英語版で、"大蒙古国皇帝は書を日本国王に奉ず。"の内容が改ざんされて↓こんな事になっていました。

↓日本の皇帝はモンゴル帝国へ手紙を送った。自らを「日本の王」と呼び「偉大なモンゴルの皇帝」にへりくだった。 In 1266, the emperor of Japan sent a letter to Kublai Khan as a gesture of good faith prior to the upcoming invasion. In the letter, the emperor of Japan referred to himself as "The King of Japan", subordinating himself from the "Great Mongol emperor":

↓天の委任によって大事にされて、大モンゴル皇帝はこの手紙を受け入れることができます。 私、日本の王は、単なる小さな国の領主です。 Cherished by the Mandate of Heaven, may the Great Mongol emperor accept this letter. I, the King of Japan, am merely the lord of a small country. The sovereigns of small countries, sharing borders with each other, have for a long time been concerned to communicate with each other and become friendly.


こんな感じで、モンゴル帝国が日本に送った手紙の一文が、日本がモンゴル帝国に送った手紙だと改変され日本を貶めるものに改ざんされていました。 編集履歴みたら,、この悪意のある改変してるのは韓国人でしたよ。 一応編集して元に戻してあるんですが、また同じような事をされるかもしあれないのでお暇な方は定期的に英語版のページを確認してください。-220.104.45.64 2019年6月13日 (木) 16:22 (UTC)[返信]

記述の分割について[編集]

あまりにも羅列列挙が多すぎて内容が冗長過多となっています。文永の役と弘安の役の記事をそれぞれ作成して内容を分割し、当記事では概要のみを記載したいと思いますが、いかがでしょうか。--2018年以降のアニメ・ドラマ・音楽つまらない会話2022年9月9日 (金) 12:44 (UTC)[返信]

方向性としては 賛成 記事名について、Wikipedia:分割提案では「元寇 文永の役 (1274年)」および「元寇 弘安の役 (1281年)」として提案されていたかと思いますが、単に「文永の役」および「弘安の役」(いずれも本項へのリダイレクト)とすべきかと思います。
また、範囲については少々難しいですが、役の名前を冠した節に加え、「第一次日本侵攻までの経緯」節中の小節「第一次日本侵攻計画」以降と、「第二次日本侵攻」節中の小節「第七回使節」あるいは「第八回使節」以降についてもそれぞれ分割対象に含め、周辺部分に関しても(役本体についてこちらに概要を残すのと同じように)概略を記述する必要があるかと思います。--YTRK会話2022年9月16日 (金) 14:01 (UTC)[返信]
記事名の後ろに西暦年は付けた方がいいと思います。Googleなどの検索エンジンで検索した人が「文永の役って何年の出来事だ?弘安の役って何年だの出来事だ?」と、混乱する率が高くなる可能性が高いです。記事名の後ろに西暦年を付けた方がパッと見ることができて余計な手間が省けます。また「元寇」とそれぞれの新記事の記事名に付け足しておかないと、元寇だとわからない人も多いと思います。そしてあまりにも細かく内容を分散すると収拾しにくくなって、また羅列的な状況が発生します。この記事と新記事である2つの役の合計3つの記事に分け、必要な事だけを記述して羅列や無駄は徹底的に除外するべきだと思います。そうしないとまた羅列列挙的な状態になって分割する意味がありません。細かすぎる作業は害しかないと思います。そこまで冗長過多・膨大な記事でなければ該当しませんが、この記事に関しては強固な決断力を以て迅速に分割が行われるべきであると判断します。--58.138.23.124 2022年9月17日 (土) 23:21 (UTC)[返信]
間が空いてしまいすみません。
まず、記事名にむやみやたらと情報を盛り込むことは行われていません。(年号が後置されていることがあるのはWikipedia:曖昧さ回避のためです。)Wikipedia:記事名の付け方や他の戦乱に関する記事の記事名をご覧になることをお勧めします。
次に、分割の跡地には概要を新たに記述するということで間違いないでしょうか。(そうでなければ賛成することはできません。)その上で、先日申し上げましたのは 1. 隣り合う節である場合と別個の記事である場合では適切な区切れ目が異なるため、それぞれ少し前の部分を分割対象に組み込む(つまり、こちらからは除去して要約の中に含める)べきであるということ、そして 2. 別個の記事となるからには前後の時系列についても多少の言及(こちらに残す概要以上に薄いもので構わないと思いますが)は必要であるだろうということです。呼称のくだりや「元寇の影響」以降の節については2つの役を一体のものとして扱っていますので、こちらについてはもちろん概要もなく{{See}}での誘導のみ(ものによってはそれさえもなし)で十分でしょう。
最後に一般論を述べます。一部の例外的なケースを除き、記述量の総和は分割によって増大することが必然です。記事の一部分にすぎなかったときには要求されなかった「記事としてのまとまり」が必要になるからです。また、どこまでを範囲とするかの見極めは繊細に行わなければなりません。分割というのは百科事典の構成を変更する、通常の編集とは別格の手術なのですから。--YTRK会話2022年9月23日 (金) 12:57 (UTC)[返信]
記事名の年表記についてはガイドラインに沿った方向で良いと思います。
物凄く過多・複雑に細分化されていらっしゃいますが、単に当記事に書かれている2役(「文永の役」「弘安の役」)を2つに分け、分割先の2つの新しい記事へとそれぞれ関連する事を選別・移動させ、当記事には概要と2つの記事に選別できなかった事を記述するべきということかと思います。分割先の記事の内容が増大するとありますが、現在の冗長過多の状態よりはマシになると思います。「どこまでを範囲とするか繊細に見極めを行わなければならない」について、そちら様の分割手順についての細分化的な説明からも見受けられますが、あまりにも無駄に細かく細分化しすぎる傾向があるようです。繊細・繊細と、あまりにも厳密に細かすぎてもキリがありませんし、それ以上に分割には決断力が必要だと考えます。ガイドライン(WP:5P5WP:BB)にもありますが「編集や移動は大胆に行え」というのがWikipediaの方針であって、繊細・慎重などといった特性を出している時点でWikipediaの基本方針に反しているわけです。それから「分割というのは百科事典の構成を変更する、通常の編集とは別格の手術なのですから。」とありますが、これに関しても方針からズレていて、そういったことは本題・要点ではありません。--JustPushIt会話2022年10月22日 (土) 19:52 (UTC)[返信]
追記。
WP:SPLIT「以下に該当すると考えられる場合は、ページの分割を検討してみて下さい。
  • ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合、または、ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」
--JustPushIt会話2022年10月22日 (土) 20:16 (UTC)[返信]

基本的には反対ですが、文量を考えると分割されるということ自体は案としては理解できます。 ただ、記事が長いとはいえ、学校においても連続性をもって教えられてますからなるべく、纏まっている方が良いと思います。

また、仮にするとしても、現状の構成だと、かなり大掛かりな整理が必要なのは、先にも言われてる方もいますし、私としても急いで変更するのではなく、慎重に方向性などを決めて編集する必要はあるかと思います。 Rp ar2525会話2022年9月26日 (月) 13:57 (UTC)[返信]

この記事は記述が異常に膨大で冗長過多・羅列に関するガイドラインに接触しています(WP:IINFOWP:PGWP:SURPLUS)。またWikipediaは名鑑ではなく(WP:NOTCATALOG)、必要最低限の内容のみを記述するのがWikipediaの基本方針です。そういった事から分割反対となる理由が存在しないと思います。またあまりにも慎重・慎重と、度が過ぎますといつまでも先延ばしになって結局編集が行われないという事が挙げられます。そこまで内容量の多くない記事であれば分割の必要はありませんが、この記事に関しては強固な決断力を以て迅速に分割が行われるべきであると判断します。ガイドライン(WP:5P5WP:BB)にもありますが「編集や移動は大胆に行え」というのがWikipediaの方針であって、繊細・慎重などといった特性を出している時点でWikipediaの基本方針に反しているわけです。--JustPushIt会話2022年10月22日 (土) 19:36 (UTC)[返信]
追記。
WP:SPLIT「以下に該当すると考えられる場合は、ページの分割を検討してみて下さい。
  • ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合、または、ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」
--JustPushIt会話2022年10月22日 (土) 20:17 (UTC)[返信]

英語版wikipediaにおける元史の引用[編集]

英語版記事によると、 Turnbull, Stephen (2010). The Mongol Invasions of Japan 1274 and 1281. Osprey. という本からの引用で、元史にこう書いてるとあります

文永の役
Occupying the heights, his generals gave command by beating drums and the troops advanced or retreated according to the beat of the drums. When the enemy had moved into the pre-arranged positions, the invaders attacked from all sides. They also used firearms and [thus] slaughtered the enemy forces in countless numbers. Thus the Japanese were put to rout
(グーグル翻訳)高台に陣取った将軍たちは太鼓をたたいて指揮をとり、軍隊は太鼓の音に合わせて進退した。敵があらかじめ定められた陣地に移動すると、侵略者は四方八方から攻撃した。 彼らはまた銃器を使用し、数え切れないほど敵軍を虐殺した。こうして日本軍は敗走した

弘安の役
Japanese war craft, being small in size, were no match [for these ships]. Those which came up to attack were all beaten off. The whole country therefore was trembling with fear. In the markets there was no rice for sale. The Japanese ruler went in person to visit the Hachiman Shrine to make supplication. He also had a royal rescript read at the shrine of the Sun Goddess, imploring that the country be saved in exchange for his own life. (グーグル翻訳)日本の軍艦はサイズが小さいため、[これらの艦艇には]太刀打ちできませんでした。攻撃しに来た者たちはことごとく打ちのめされた。そのため国全体が恐怖に震えた。 市場では米が売られていなかった。日本の統治者は自ら八幡神社を訪れ、懇願した。 彼はまた、太陽の女神の神殿で、自らの命と引き換えに国を救うよう懇願する勅書を朗読させた。

日本語版wikipediaには元史からとされるこれらの記述はありません。 文永の役の記述は八幡愚童訓の記述

・日本側武士が一騎打ちしようとして元軍に囲まれてやられた
・「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」
・てつはうの存在

に似すぎてませんか?元史に本当にこんな似た記述があるのでしょうか?あるとしたら重要な記述なので日本語版記事にも記述した方が良いのではないでしょうか? 弘安の役の記述は日本の内情に詳しすぎるような気がします。 英語版のソースがどこまで信頼できるか分かりませんが、元史に心当たりある方情報お願いします。 --Nihonshi666会話2023年12月30日 (土) 17:36 (UTC)[返信]