中村稔 (プロ野球審判)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知立市 |
生年月日 | 1963年12月11日(60歳) |
身長 体重 |
177 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト3位 |
初出場 | 1984年9月22日 |
最終出場 | 1984年9月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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中村 稔(なかむら みのる、1963年12月11日 - )は、愛知県知立市出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。
審判員袖番号は11(1987年採用から)。11は過去、砂川恵玄(1977年初採用~1979年引退)→飯村正樹(1981年採用~1986年退職)がつけていた。
来歴・人物
名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)在学時は工藤公康と同級生でありチームメイト。
1981年の第63回全国高等学校野球選手権大会に主将兼1番・遊撃手として出場し、三回戦の対北陽高校戦で延長12回裏に北陽・高木宣宏(のち広島→西武)からサヨナラ本塁打を放った。同年秋のドラフト3位で日本ハムファイターズに入団した。
日本ハムでは二塁手を務めたが、当時の日本ハムの二塁手は菅野光夫、岩井隆之、白井一幸、五十嵐信一がいる激戦区であり、1984年に一軍で5試合に出場した以外はほとんど出番のないまま1987年限りで引退。同年、パ・リーグ審判部に入局した。
1989年に一軍デビューし、同年10月12日の西武対近鉄のダブルヘッダー第2試合で近鉄ラルフ・ブライアントが第1試合と合わせて4打数連続ホームランの4本目のホームランを打った試合で三塁塁審を務めていた。 マスクは前方へ取って付けての感じで外し、コーナーの見極めは抜群と評価されている[要出典]。1997年の日本シリーズに33歳の若さで初出場。2004年、41歳の若さで審判部副部長に就任。 2009年5月6日の千葉ロッテマリーンズ対北海道日本ハムファイターズ第5回戦(千葉マリンスタジアム)にて球審を務め、パリーグ史上27人目の通算2000試合出場を達成、また2014年5月15日の千葉ロッテマリーンズ対福岡ソフトバンクホークス第9回戦(QVCマリンフィールド)にて球審を務め、NPB審判員史上39人目の通算2500試合出場を達成した。
2016年シーズンよりクルーチーフを解かれ一般審判員となる。
オールスターゲーム出場4回(1993年、1998年、2003年、2012年)、日本シリーズ出場13回(1997年、1999年~2010年)を数える。オールスターでは1993年第1戦で球審、日本シリーズでは、2003年・2005年・2007年に第1戦、2000年に第2戦、1997年・2001年に第3戦、1999年・2009年に第5戦、2004年・2010年に第6戦で、それぞれ球審を担当している。
日本プロ野球選手会が行った、選手を対象としたアンケート「選手が選ぶ!ベストアンパイア」パ・リーグ部門において、2004年から2006年まで3年連続第1位に選ばれている。アンケートの始まった2001年から2003年までの間も3位以内に入っており、選手からの評判は良いということになっている。 2009年、2009 ワールド・ベースボール・クラシックの審判員として良川昌美、友寄正人、渡田均らと派遣され、1次ラウンドC組の一塁、三塁塁審を務める。
なお、巨人の元投手であり投手コーチも務めた中村稔は同姓同名の別人。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1984 | 日本ハム | 5 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:1年 | 5 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号
- 32 (1982年 - 1986年)
審判出場記録
- 初出場:1989年4月15日、ロッテ対近鉄3回戦(川崎球場)、右翼外審
- 出場試合数:2633試合
- オールスターゲーム出場:4回(1993年、1998年、2003年、2012年)
- 日本シリーズ出場:13回(1997年、1999~2010年)
(記録は2015年シーズン終了時)
エピソード
- 2005年6月2日のセ・パ交流戦・日本ハム-巨人戦(札幌ドーム)で球審を務めたが、その試合の巨人の先発投手は高校時代の戦友である工藤公康。中村は新しいボールを直接工藤へ投げ渡していた。また、工藤がセ・リーグ史上最高齢勝利記録を達成した2009年5月25日のセ・パ交流戦横浜-楽天戦(横浜スタジアム)でも中村が球審を務めた。
- かつては、肌寒い時期の試合であっても半袖シャツで出場する事も多く、長袖アンダーシャツの上から半袖シャツを着るという珍しいスタイルで球審をすることもある。なお、日本シリーズで球審を務めた試合では、全試合半袖シャツで球審を務めている。だが、近年はブレザーを着用することもあり、2013年に楽天イーグルスが初優勝をした試合では塁審が半袖シャツの中、中村はブレザーで球審を務めていた。
- 球審を務めた2007年9月11日のロッテ-日本ハム戦(千葉マリン)の6回裏無死走者一塁の場面で、打者フリオ・ズレータが打ち上げた飛球を中堅手・森本稀哲が捕球し一塁へ送球、離塁していた一塁走者・早川大輔は一塁手・稲田直人が捕球する前に帰塁したが、これをアウトと判定。そのためロッテのボビー・バレンタイン監督や高橋慶彦コーチが猛抗議して約3分間の中断となった。この判定はテレビ中継の解説倉持明も異議を唱えるなどしたが、アウトのままプレー続行された。翌日、前川芳男パ・リーグ審判部長が対応のミスを認めロッテに謝罪、中村も厳重注意を受けた[1]。
- 10年連続出場となった2008年の日本シリーズ第三戦で一塁塁審を務める。3回裏の巨人・鈴木尚広のきわどい内野ゴロをセーフと判定した。翌日のスポーツ紙ではアウトだったとされている。
- フィールドシートがある球場で三塁塁審を務める際、近くに来たファウルボールをフィールドシートに投げ入れることが多い(大半の審判はボールボーイに返球する)。
- 2010年の日本シリーズ第6戦(ナゴヤドーム)で球審を務めた。小池正晃がスリーバントを試みてバットにボールを2度当ててファウルにした際、場内アナウンスで「打球が体に当たった」と説明したが責任審判の渡田均三塁塁審に間違いを指摘されて再度説明を行った。(またこの試合は延長15回引き分けとなり、日本シリーズ史上最長試合の5時間43分を記録した。)
- 球審を務める際のマスクは現在チタンマスクを使用している。
- 2014年度は自身が責任審判を担当した試合でホームランが覆る判定に立ち会うことが二度経験した。
脚注
- ^ “前川部長がロッテに謝罪/判定めぐる審判員の対応で”. 四国新聞 (2007年9月12日). 2010年6月5日閲覧。
関連項目
外部リンク
- NPB審判員 中村稔 - NPB.jp 日本野球機構