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ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ

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ジエゴ
名前
本名 ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ
愛称 ジエギーニョ
ラテン文字 DIEGO Ribas da Cunha
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1985-02-28) 1985年2月28日(39歳)
出身地 サンパウロ州リベイラン・プレト
身長 173cm
体重 75kg
選手情報
在籍チーム スペインの旗 アトレティコ・マドリード
ポジション MF (OH)
背番号 22
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2001-2004
2004-2006
2006-2009
2009-2010
2010-
→2011-
ブラジルの旗 サントスFC
ポルトガルの旗 FCポルト
ドイツの旗 ブレーメン
イタリアの旗 ユヴェントスFC
ドイツの旗 ヴォルフスブルク
スペインの旗 アトレティコ・マドリード
064 (21)
049 (4)
084 (38)
033 (5)
30 (6)
00 (0)
代表歴2
2003- ブラジルの旗 ブラジル 38 (7)
獲得メダル
男子競技サッカー
2008 男子競技サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。2011年9月1日現在。
2. 2010年9月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ(Diego Ribas da Cunha, 1985年2月28日 - )はブラジルサンパウロ州リベイラン・プレト出身、リーガ・エスパニョーラアトレティコ・マドリード所属のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー

経歴

サントスFCで17歳の時にキャリアをスタートさせ、程なくして頭角を現した。すぐにクラブでのレギュラーを確保し、一歳年長のロビーニョとともに大活躍。翌年には18歳にしてA代表に招集され、2003年、4月30日メキシコ戦でフル代表デビューを果たす。2004年8月にはFCバルセロナへ移籍したデコの後釜としてスーペル・リーガの名門FCポルトに引き抜かれる。その年の冬にはFCポルトの一員として来日、トヨタカップに出場し、優勝に貢献した。しかし、FCポルトで過ごした2シーズンをトータルで見ると、初の国外挑戦ということもあってか、適応に苦しみ前評判通りの活躍を見せることは出来なかった。

2006年8月にはドイツ・ブンデスリーガヴェルダー・ブレーメンに移籍した。移籍金は推定約600万ユーロ。2005-06シーズンまで所属していたヨアン・ミクーの後継者として期待された。2006-07シーズンはリーグ開幕からチームの攻撃陣の中心として、ブレーメンを前半戦冬の王者(ヘルプスト・マイスター)に導いた。自身もブレーメンでのプレーが評価されセレソン復帰を果たした。シーズン終了時にドイツ年間最優秀選手に選ばれた。

2009年5月、イタリアのユヴェントスFCに移籍することが発表された。移籍金は2450万ユーロで、向こう5年間のユヴェントスの成績により最高250万ユーロが追加される。しかしシーズン序盤からセリエAへの対応に苦しみ不調が続いていた。

ジュゼッペ・マロッタGMとの確執が昂じ、2010年8月26日にドイツのVfLヴォルフスブルクへ移籍した。移籍金は1550万ユーロで4年契約である。2月のハノーファー96戦でパトリック・ヘルメスをキッカーとしたスティーヴ・マクラーレン監督の指示に逆らってPKを蹴り失敗し、クラブからは10万ユーロの罰金を課された。チームの成績不振により監督がフェリックス・マガトへ交代した後の、残留争いの大一番であった5月14日のホッフェンハイム戦ではベンチスタートなったことに激怒し帰宅してしまい、チームはベンチメンバーが一人かけた状態での戦いを強いられた。[1]クラブとマガト監督は、次シーズンに彼を起用しないことを決めておりジエゴの移籍を模索していたが[2]、夏の移籍期間最終日である2011年8月31日にアトレティコ・マドリードへ2012年6月までの期限付きで移籍した[3]

人物・エピソード

  • 背番号は10を好む。ユヴェントスに移籍した際、10番はすでにチームの顔でありキャプテンであるアレッサンドロ・デル・ピエロがつけていたため、28番を選択した。これは2+8=10であることと、自身の誕生日が2月28日であることに由来する[4]
  • ポルト時代に、トヨタカップにてPK戦の最中に退場処分を受けた(キック成功後に相手GKに暴言を吐いたため)。
  • 2010年からユヴェントスを指揮するルイジ・デル・ネーリ監督は新シーズンにジエゴをセカンドトップで使用することを明言し、ジエゴのヴォルフスブルクへの移籍を拒んでいた[5]。また、2009-2010シーズンにユヴェントスを指揮したチロ・フェラーラはジエゴの移籍について「私ならジエゴを売らない」と言及している。
  • 規律より個を重視するブラジル人選手の気質が強く、2010年2月に監督代行のピエール・リトバルスキーはPKのキッカーに別の選手を指名したが、ジエゴはこれを無視しPKを外している。本人曰く「自ら獲得したPKを俺が蹴って何が悪い?」と主張している。リトバルスキーは罰金制裁も考えていたが1試合の出場停止にとどめた[6]
  • 2004年6月、アテネ五輪の出場権を争っていた南米予選では、カカとアドリアーノがクラブの供出拒否により招集できず、ジエゴとロビーニョにかかる期待が大きかった。 地元のチリ戦では勝利したがアルゼンチンに敗れ、引き分け以上で2位が確定する試合でもパラグアイに敗れ1992年以来、3大会ぶりに五輪出場をのがす結果となり、ブラジル国内でジエゴに批判が集中した。この予選でジエゴは、ダニエル・カルバーリョ、ダゴベルト、ロビーニョ、ドゥドゥ・セアレンセと中盤を形成する核となっていたが、大会で使用される公式写真の撮影中にふざけて短パンを降ろしあっていた様子などがそのまま公式ホームページに掲載されたことをきっかけに、精神面での未熟さが指摘され批判の的にされ、事態を重く見たCBFがメディア規制に踏み切ったほどだった。 予選敗退をきっかけに、リカルド・ゴメス監督の「U-22の実態はU-19」と揶揄される若手中心の選手招集が問題となり、選手への批判から監督への責任追及へと世論が動き、U-23監督の交代という結果へ結びついた。

所属クラブ

個人成績

トレーニング中のジエゴ
国内大会個人成績
クラブ シーズン リーグ カップ 欧州カップ戦 Total
App Goals App Goals App  Goals App Goals
サントスFC 2002 22 8 22 8
2003 33 9 33 9
2004 9 4 9 4
Total 64 21 64 21
FCポルト 2004-05 30 3 6 1 36 4
2005-06 18 1 4 1 22 2
Total 48 4 10 2 58 6
ヴェルダー・ブレーメン 2006-07 33 13 1 0 14 2 48 15
2007-08 30 13 3 1 8 2 41 16
2008-09 21 12 4 2 13 7 38 21
Total 84 38 8 3 35 11 127 52
ユヴェントスFC 2009-10 33 5 2 2 9 0 44 7
2010-11 0 0 0 0 3 0 3 0
Total 33 5 2 2 12 0 47 7
VfLヴォルフスブルク 2010-11 30 6 2 0 0 0 32 6
Total 30 6 2 0 0 0 32 6
Career Totals 260 74 12 5 57 13 329 94

タイトル

サントスFC
FCポルト
ヴェルダー・ブレーメン
ブラジル代表
個人
  • ドイツ年間最優秀選手 : 2007

脚注・出典

外部リンク



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