黒電話

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600形電話機(壁掛け型)
600形電話機(卓上型)(京都市大原小学校百井分校)

黒電話(くろでんわ)とは、黒い筐体と、送話器一体の受話器を特徴とした、電話機の総称である。

ダイヤルパルス方式の電話機や回転ダイヤル式電話機通称として用いられることがある。

一般には、逓信省(後の電気通信省、現 総務省)、及び1952年(昭和27年)以降日本電信電話公社(以下一部を除き「電電公社」とする)によって制式化され、一般電話加入者に提供された3号電話機4号電話機600形電話機および601形電話機を総じて呼称する。また、基本的には卓上形を指し、同形式の壁掛け型は同じ特徴を備えていても含まれないことが多い。

この項目では、同じく逓信省/電電公社によって制式化された1号・2号電話機、23号自動壁掛け式電話機についても併せて記載する。

前史[編集]

1号電話機[編集]

1号電話機は、1878年明治11年)に日本初の国産電話機として製造された。アメリカ合衆国において実用化されたばかりのベル電話機をもとに、日本で設計された国産第1号の電話機である。しかし、このモデルの電話機は長距離伝送には不向きな上、当時の日本の工業水準が低かったこともあり、実用的な性能を持たせることができなかった。1号電話機は41台で製造が打ち切られた。

その後、電池継電器(リレー)を用いて長距離通話を可能としたガワーベル電話機がイギリスから輸入され、日本の一般電話の開設はこちらによって果たされた。

この時期の電話機の筐体は木製箱型であり、黒くはない。

2号電話機[編集]

2号電話機は、1909年(明治42年)、逓信省によって制式化・提供開始された。

卓上型[編集]

スタンド型の送話器に、独立したラッパ型受話器を受け止めるフックの付いた形態をしている。第二次世界大戦後のアメリカ映画などで有名になったスタイルだが、日本でも生産・使用されていたことは、一般にはあまり知られていない。理由は後述する。なお、塗装は黒だが、一般には「黒電話」の範疇には含まれない。

壁掛け型[編集]

木製の箱型きょう体を持ち、ベル装置は上部に備え、正面に送話器を固定している。受話器は卓上型と同じく、独立したラッパ型受話器で、きょう体右側面にフックが付いている。第2次世界大戦前後で日本の電話機といえば、このスタイルであった。

共電式[編集]

ガワーベル電話機の後、局呼び出しのための手回し発電機を備えた、デルビル磁石式電話機が輸入・国産化され、日本の電話機はほぼこれに統一されていた。しかし、磁石式電話機は伝送用に直流1次電池を使用し、これを端末(電話機)側に搭載していたため、定期的に交換が必要であり、保守面で手間がかかった。

そこで、線路に局側から48Vの電源を常時給電し、これを伝送・呼び出し用の電源として使用する共電式が登場し、端末数の多い都市部から、順次転換されていった。交換方式は手動だが、局呼び出しにも共用電流が使用され、受話器をはずす(オフフック)と、局側の交換手呼び出し装置(通常はランプ)が作動する仕組みであった。共電式は端末側の保守はほぼ不要となったが、当時は絶縁技術が未熟で、特に当時の日本はまだ工業途上国であったため、導入初期においては、線路の漏電などのトラブルが多発した。2号電話機は、この共電式の採用に伴って開発、提供された。一方、共電式とならなかった地方の加入電話回線では、引き続きデルビル磁石式電話機が使用された。

自動式[編集]

都市部、特に首都である東京での電話加入者数の増加は著しかったが、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難となった。

1923年大正12年)の関東大震災からの復旧を契機として、日本でもダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、1926年(大正15年)、東京に日本初の自動交換機が導入された。

この自動交換機用の電話機端末として、2号共電式電話機にダイヤル装置を備えた2号自動式電話機が開発された。

卓上型では、その構造、また日本の工業水準から鑑みて、自動交換用の回路を全て内蔵することは現実的ではなかったため、ベル装置や一部の回路を木製の別筐体に収納した。ダイヤルは本体の正面に装備された。

壁掛け型はその点、筐体の容積に余裕があったため、全て一体の筐体内に収められた。しかし、正面面積がダイヤル取り付けに不足したため、サイズは天地方向に拡大された。

当初搭載された1号ダイヤル(5接点)では、ダイヤル中の伝送回路を完全に音声回路と切り離すことができず、大きなノイズが受話器に(当然送話器にも)流れ込んだ。また、1号ダイヤルは、従前の共電式と同じ直流48Vを基礎に設計していたが、引き続いて横浜に投入されたH型自動交換機では、有効線路長の延長を目的として局電源を60Vに上げたため[1]、絶縁不良を引き起こした。そのため、音声回路へのノイズを低減した、60・48V共用・6接点の2号ダイヤルが開発され、以降、小改良を加えつつ600形の登場まで標準形式として使用された。現在1号ダイヤル装着の電話機はほぼ一般に入手不可能だが、極まれにネットオークションなどで出品される2号電話機(壁掛け式は後述の23号も含め残存率が高い)に1号ダイヤル機が存在している場合がある。もっとも、古い機種だけに今のNTT回線網(局給電・定格電圧48V、実際には下限42V上限53V)[2]に接続すると、火を吹く危険性が非常に高い。もし電話機を入手しても絶対にNTT回線網やIP電話終端装置には接続してはならない。

イ-660形自動式壁掛け電話機[編集]

沖電気で、施設の構内電話用として製造されていた電話機で、2号相当の性能を持っている。外観は制式の2号とは異なり、金属製筐体で、ベル装置も内蔵とするなど、後の3号に共通する特徴を持っていた(ただし、送受話器は2号と同じ形態である)。日中戦争から太平洋戦争にかけて、物資が不足する事態になった際、沖電気の在庫から、代用2号電話機として電話加入者に提供した。

その後[編集]

加入電話回線が増加したとは言っても、まだ単独電話加入権を持っていたのは法人格か、商家に限られていた。そして、電話機を持つ家が、周囲の住人が電話を必要とした際に、貸し出していた。また、「電話の相手は訪問者と同じ」という考え方も根強かった。また、2号電話機の性能では、周囲に雑音の多いところでは会話が困難で、「電話室」と呼ばれる、木製の小型の個室を備えている場合も多かった。そのため、日本においては、電話機は玄関先におくものというスタイルが定着した。このスタイルでは、卓上型の利点はほとんどなく、従って、実際に使用された2号電話機のほとんどは壁掛け型であった。2号卓上型のスタイルが世間に認知されなかったのは、このためである。

しかし、このために大量に製造された2号壁掛け自動電話機は、後に問題を残すことになった。

歴代の黒電話[編集]

3号電話機[編集]

3号電話機は、1933年昭和8年)に逓信省によって日本国内で制式化・提供開始された。

もとはアメリカの電話会社AT&Tに工業デザイナーのヘンリー・ドレイファス (Henry Dreyfuss) が設計した黒い電話機のデザインを、ほぼ同じ外観のものを真似て制作した。以降、4号、600形と続く日本の「黒電話」の元祖となった。

黒いベークライトが採用され、送話器が一体となった握り手形の送受話器であり、丸みを帯びた箱に自動式機能が納められ、曲線を用いてフックとダイヤル部を突出させている。フック部分も曲線を多用して細くまとめられており、2号のヨーロピアン・デザインの面影も残る。

内部は自己の送話器から入った音声が受話器に流れ込む「側音」を防止する側音抑制回路が採用された。また、送話器には防塵・防湿器が取り付けられた。これにより、線路上の仕様はそのままでも、実際の伝送性能は2号より格段に向上した。

共電式は、自動式からダイヤルを取り除き、オフフック呼び出し用の回路を備えただけで、ほぼ同一設計である。のちの電電公社網の完全自動化の後も、着信専用の電話機として、主に構内電話に使用されていた。

壁掛け型は、本体に通話者がへばりついて会話する必要がなくなったが、硬度のあるベークライトの筐体のため、落下して破損する機体が続出した。

3号M磁石式電話機[編集]

3号電話機の採用時は、なお局給電のない加入電話回線もあり、これの質的改善を目的として、3号M磁石式電話機が採用、提供された。自動式・共電式と同じ送受話器であり、基本的な回路設計も共通である。

送受話器受けの取り付け方向により卓上・壁掛どちらでも使用できる。呼び出し用の手回し発電機と、線路用電池とを備えているため、本来のダイヤル座部分が角ばった台形の箱のような、600形に近いデザインとなっている。

代用3号電話機(国産)[編集]

太平洋戦争末期、米軍による都市無差別爆撃の結果、都市部で大量の電話機が喪失された。その復旧に際して、物資欠乏状態でもあり、制式の3号電話機のみでは、製造・供給が追いつかなくなった。そこで、旧逓信省(このときは戦時統合体制により一時的に消滅)網以外の地域電話・構内電話用として、電機メーカーが製造し、在庫させていた電話機から、3号相当の性能があるものを代用3号電話機として加入者に提供した。

その中には、沖電気イ-666形自動式壁掛け電話機や、富士形自動式壁掛け電話機など、制式の3号よりも洗練されたデザインのものもあった。その多くは、戦後も引き続き使用され、電話網復旧のためさらに提供数は増えた。

木製3号電話機[編集]

代用3号電話機と同じく、太平洋戦争末期の、無差別爆撃による電話機の大量焼失と物資欠乏状態、さらに兵役による工業技術力の低下から、筐体を国内で自給でき、かつ工作の容易な木製とした3号電話機が登場した。木製筐体は黒く塗装された。この頃になると、新たに戦時に製造された電話機は他の工業製品同様粗製濫造で、通話も困難なだけではなく、絶縁不良から発火等の危険を伴ったものも多く存在していたと思われる。しかし、この木製3号電話機も、戦後の電話機不足から、修理・補修によって使われ続けたものが多い。ただし、戦争末期のごく短期間の製造であるため、絶対数は少ない。

代用3号電話機(輸入)[編集]

太平洋戦争終結後は、同時に冷戦の始まりでもあり、アメリカ合衆国はのちの「トルーマンドクトリン」の雛形として、日本の復興を強く後押しした。その1つが、電話網の復旧と更なる増強である。しかし、日本の制式電話機である3号電話機だけでは、特に都市部の需要を満たせないことは明らかだった。そのため、連合国の電話網で使用されている電話機の中から、3号相当の性能があるとするものに、改造で2号ダイヤルを取り付け、代用3号電話として提供した。

その後[編集]

3号電話機は戦前期の採用だが、戦後復興期の大量製造により、4号登場後も、著しい加入回線数の増加により、既存の電話機の更新が滞ったため、戦後長く日本の電話の標準的スタイルとなり続けた。機能的にも、(自動式であれば)現在の交換網に接続してもほぼ問題なく使用できるため、未だ現役で使用されている個体数も、少なくないとされている。

4号電話機[編集]

4号電話機は、1950年(昭和25年)に電気通信省によって制式化され、1952年(昭和27年)に提供が開始された。1949年(昭和24年)の逓信省二分化によって生まれた電気通信省にとって、最初で最後の制式電話機となった。

岩崎通信機沖電気東芝日本電気日立製作所富士通信機(現 富士通)(50音順)の6社が約400万台製造した。筐体・送受話器・回転盤・文字盤・内部の電磁石など主要部品には製造した会社のマークが描かれている。

送話器・受話器の振動板をジュラルミン製として軽量化し、音声周波数帯での感度や均一性を改良している。この伝送特性の良さから「ハイファイ電話機」と呼ばれた。2400対の直径0.4ミリメートル芯線の紙絶縁ツイストペアケーブルを短距離ならば使用でき、回線増強をより容易にした。これが結果的に、全国自動ダイヤル化を推し進めた。

回転盤中央の紙には、黄色地に「受話器を耳に当てて、ツーという音(発信音)を確かめてからダイヤルをまわしてください。」という文字が書かれている。紙の周辺部には黒地に白抜きで0 - 9の数字が入っているように見えるが、実際には数字は紙を覆っている透明のカバーに描かれている。

木製以外では初めて黒以外の塗装が採用され、若草うすねず象牙えんじふじあおたけ、そしての8色がラインアップされた。

4号A卓上電話機[編集]

4号A卓上電話機は、世界水準よりモダンな電話機といわれていた。しかし、2号・3号までのヨーロピアン・デザインから一転した丸みを帯びた筐体のため「ダルマ」と揶揄されもした。筐体と送受話器は合成樹脂の一種であるベークライトで造られている。

3号同様、4号C共電式は4号自動式からダイヤルを廃し、オフフック呼び出し回路を取り付けた形態となっている。3号同様、完全自動化後も着信専用電話、被災地等での臨時設置電話用の端末として、使用されていた。

ボースホーン電話機[編集]

ボースホーン電話機(both phone)は、4号A自動式卓上電話機を2台背中合わせに連結し、送受話器をひとつにまとめた派生形である。ダイヤルは2基有り、前後どちらのダイヤルからでも操作できた。

机を向かい合わせに置き、その間に本電話機を設置すれば、1台の電話機と回線をそれぞれの机に座る人間で排他的に共用できる、というアイデア商品だったが、人気は上がらず、不発に終わった。

4号壁掛電話機[編集]

4号AW自動式およぴ4号CW共電式壁掛電話機は、日本電信電話公社によって1950年に制式化された。旧型壁掛電話機の置き換えのために企画され、小型軽量化と資源の節約に留意した設計となっていた。

酪酷酸セルロースを用いた中空インジェクション・モールドにより強靭・軽量となった。日本家屋の狭い廊下で通行者による送受話器の落下が少ない、上部に送受話器を水平に置く形状となった。また、通話中に送受話器を一時的に掛けておくこともできる。筐体を空けて底板を木ねじで壁に取り付けて筐体を蝶番で閉じる構造となっていたため、工事上の不良の原因となることもあった。

日本人の耳と唇の関係位置の実測により設計された4号よりも短くなった5号送受話器、アルニコ系永久磁石を用いたB-106号磁石電鈴、絶縁紙に金属を真空蒸着したものを2枚巻いたコンデンサC-5号A蓄電器、L-5号誘導線輪、ブランジャー圧力をスパイラルスプリングで受ける構造のプラスチック防塵カバーの双極接点の4号Wフックスイッチ、温度変化・日時の経過によるインパルス速度変化の少ない4号Fダイヤルなどが新規開発された。

4号M磁石式電話機[編集]

4号が採用された時期でも、まだ局給電のない交換機は多数残存しており、そうした地域でも回線数そのものは増加したこともあり、新たに磁石式電話機を製造する必要があった。

4号M磁石式電話機は、自動式・共電式とは全く異なる流線型の筐体で、送受話器まで一体感のあるデザインとなっている。

41号M磁石式電話機[編集]

41号M磁石式電話機は、日本電信電話公社によって1958年に制式化された。軽量・小型化された丸みを帯びた送受話器の幅の箱形であり、送受話器受けの取り付け方向により卓上・壁掛どちらでも使用できる。

赤電話の元祖[編集]

それまで公衆電話は全て逓信省 - 電気通信省が直接設置していたが、1951年(昭和26年)、一般の電話加入権で公衆電話サービスを提供できる、「委託公衆電話」制度が開始された。当初は一般と同じ電話機が使用されていたが、1953年(昭和28年)から、専用に赤く塗装された4号委託公衆電話機が登場し、その後の「赤電話」の元祖となった。このときは料金は「後納式」で、提供者に断って電話を使用し、使用後に料金を払うという方式であった。

加入者数増加に伴う応急策[編集]

戦後期の3号電話機の大量導入、続く4号電話機の登場により、日本の一般電話網は完全自動交換化へ大きく動き始めた。日本は戦後復興期から高度経済成長期へと移行し、電話機は「1世帯1回線」の時代に突入、もはや地方であっても手動交換に限界が生じはじめていた。しかし、そのためにいくつかの問題が発生した。

23号自動式壁掛け電話機[編集]

問題のひとつは2号自動式壁掛け電話機の存在だった。4号電話機の性能を前提に回線数増強の工事を行うと、伝送特性の悪い2号電話機は通話に支障をきたしてしまった。その2号壁掛け式電話機は首都圏を中心に当時約20万台が使用されていたが、4号電話機は新規加入者への提供でいっぱいで、2号電話機の更新用には確保できなかった。

しかし線路や交換機内部の絶縁特性の改善により、3号電話機であればこうした回線増強に耐えられた。そこで苦肉の策として、2号自動壁掛け式電話機のベル装置・受話器・筐体を流用し3号電話機の余剰部品を用いてダイヤル、送話器の交換及び側音抑制回路の追加を行う改造を施し、3号並みの伝送性能を持たせて凌ぐこととなった。

改造された電話機は23号自動壁掛け式電話機と呼ばれる。送話器が3号電話機の防塵・防湿器つきのものになっているため、未改造の2号電話機とは外観からでも容易に判別できる。

34号M磁石式電話機[編集]

一方、地方に残っていた局給電無しの交換設備も、一足飛びに自動交換化が進められることになった。しかし、その過程では、回線設備を工事しつつ、従来の回線や即時に導入される回線を捌かなければならない。また、地方では都市部ほど回線が密集していないため、交換設備から端末までの線路長が長くなりがちで、そのためにも磁石式電話機の更新は必要となった。

しかし、全ての電話機が回線事業主(電気通信省 - 電電公社)の資産であったことから、4号M磁石式電話機を製造して短期で用途廃止となるのは不経済である。そこで、3号M磁石式電話機の送受話器等を4号のものと交換し、4号相当の性能とした。34号M磁石式電話機と呼ばれる。

共電式改造自動式電話機[編集]

さらに、共電式交換設備の回線を自動化する場合、先述の通り、3号共電式・4号共電式は各々の自動式電話機と設計を共有しており、簡単な改造で自動式電話機とすることが可能だった。こうして共電式から自動式に改造された3号電話機・4号電話機が存在する。

共電式から自動式に改造するためのダイヤルユニットで「5号ダイヤル」が存在する。4号電話機本来のダイヤル機構とは全く違っている。文字盤の数字「1」の下(通常は回転盤で隠れている部分)に製造会社のマークがなく、また数字「1」と「8」の内側に文字盤押さえがないので電話機に取り付けられた状態でも4号ダイヤルとは外観で区別できる。

600形電話機[編集]

600形電話機は、1963年(昭和38年)、日本電信電話公社によって制式化され、提供が開始された。

アナログ回線による単機能電話機としては、これ以上の根本的な性能向上は望めない水準で、「完成された電話機」と言われる。製造したのは岩崎通信機・沖電気・神田通信工業・大興電機製作所(沖電気の関連会社、現 サクサホールディングス)・東芝・日通工(現 NECプラットフォームズ)・日本電気・日立・富士通(50音順)。

従来のステップ・バイ・ステップ式交換機に加え、クロスバー式交換機を用いた加入者線の大量増強が可能となり、これには20パルス/秒のパルスダイヤルが必要となった。そこで従来の10パルス/秒のダイヤルのモデルを600-A1形、20パルス/秒ダイヤルのモデルを600-A2とした。ただし、クロスバー交換機に10パルス/秒電話機を接続しても、20パルス/秒の電話機よりダイヤルの戻りが遅いだけで支障はない。さらに、クロスバー交換機の時代はステップ・バイ・ステップ方式に比べはるかに短く終わり、半導体による無接点の電子交換機の時代に突入した。

回転盤は合成樹脂製で、中央の紙には4号電話機のような注意書きはなくなり、電話番号を書き込める罫線が2本引かれているだけになった。罫線はA1が黒色で、A2が赤色。取り付けの際の位置決めのために上下2か所に切れ込みがあり、紙と同形の保護用の透明プラスチック板を重ね、回転盤の突起に合わせて取り付ける。さらにその周囲を左右に固定用の爪がある外径45mmのステンレス製で錆びにくいリング状の金具で固定している。

2号電話機以来標準として使用されてきた2号ダイヤルに別れを告げ、新たに9接点のものが設計された。ダイヤル機構部は4号電話機とは全く異なっており、4号電話機で感じられた回転盤から指を離すとわずかに空転して戻る「カツン」というショックがなく、軽い唸り音とともに滑らかに回転する。日本の電話機におけるダイヤル機構の一つの到達点と言える。1970年代前半以後に生産されたものは、ダイヤル機構のギアがそれまでの金属製から合成樹脂製に変更されており、回転盤が戻る時の音が静かになっている。

筐体や送受話器の材質は硬質塩化ビニールになり、それまでの4号よりも衝撃に対して強くなった。指穴中心に描かれた「・」や文字盤の数字は擦られても消えないよう、別の色の樹脂を字の形に注入した2色成形になっている。

色は当初黒のみだったが、1971年(昭和46年)から「グリーン」「ウオームグレー」「アイボリー」が追加された。グリーンとウオームグレーは送受話器とダイヤル文字盤の色が筐体よりも濃く、ツートンカラーになっている。また特殊色として「うすあお」(水色)「さんご」(桃色)「ベージュ」の3色が、さらに委託公衆用や災害対策用の特殊用途として「あか」(赤)、デモンストレーション用として内部機構が透けて見える無色透明もある。カラー電話機の登場と同時期からベル音の調節ができるようになった。底面のスリットから調整ダイヤルを動かしてベル音の強弱を調節する。

4号電話機では形式名やメーカー名が書かれたステッカーが底面に張られていたが、600形では形式名・製造会社のマーク・製造年が直接底面に刻印されるようになった。ベル音が調節できる物には「ベル調」、カラー電話機には「(色)」と刻印されている(色名のアルファベットの頭文字が記されているのもある。グリーンはG、ウオームグレーはW、アイボリーはI、うすあおはB、さんごはC、ベージュはV、あかはR)。

本体と送受話器をつなぐコードにはストレートとカールの2種類がある。1970年代前半からカールコードが採用された。コードの色は電話機本体と同じだが、本体が無色透明のものについては黒色や白色が使われている。

日本において、初めてプリント基板を使用した量産型電話機であり、自動生産・無調整生産を目指した構造となっていた。総組み立ての自動化のため、ねじ止めよりもリベット止めが多用された。そのため、現場での部品交換が不便となった。

4号電話機の3倍以上の感度があり、3600対・直径0.32ミリメートル芯線の通信線路が3km程度まで使用可能となり、さらに加入者線の経済的な増強が可能となった。サージ電圧による雑音の軽減対策にシリコンダイオード2個を逆接続したバリスタが受話器に並列に接続されている。

電気抵抗コンデンサによる手動3dBパッドを内蔵した600形、4個直列のシリコンダイオードを2組逆接続したバリスタが送話器に並列に接続され加入者回線と内線との回線抵抗差に対応した企業や旅館の構内交換内線用650形、150オーム以下の直流抵抗でありフックスイッチが赤色の共同電話(1つの電話回線を複数の加入者で利用)用610-A形、7 - 10dBの通信線路損失に対応した高損失用600-L形などのバリエーションがある。

型式名がいきなり3桁の「600」に飛んだのは、当時のアメリカの黒電話である「Western Electric 500型」(Western Electric model 500 telephone) の向こうを張って「600形」としたからであるという。

600-A形卓上電話機[編集]

600-A形卓上電話機は、4号をベースによりシャープにした筐体デザインで、4号のイメージは踏襲しつつも、「ダルマ」と呼ばれるようなことは少なくなった。

基本的に自動式のみだが、着信専用、専用回線や災害時の臨時設置電話用として、ダイヤルを廃した(ダイヤル部分には蓋が嵌められている)共電式の相当品も製造されている。この場合裏面の刻印は「600-C」となっている。

600-AW形壁掛電話機[編集]

600-AW形壁掛電話機は、本体筐体・フックスイッチ・本体底板・取り付け用部品・内部端子以外は卓上型と共通である。

上部に送受話器を水平に置く形状である。付属の取り付け板を単独で壁に取り付けた後、電話機をこの取り付け板に引っ掛けてねじで固定する取り付け方法となり、配線も底板に露出した端子板に直接取り付けるようになった。筐体を開かないので工事取り付け時の事故・不良が減少した。

600-A形小型電話機[編集]

600-A形小型電話機は、卓上型と共通の送話素子・受話素子・回路素子を利用した、同等の性能の小型電話機である。日本電信電話公社の自営品指定書に適合するもので、レンタル品ではなくメーカーから利用者に直接販売された。

卓上型・壁掛W型がある。送話口・送話口を対称位置にした送受話器を採用し、本体部品は全て底板に取り付けられている。

600-P形電話機[編集]

600-P形電話機は、1969年(昭和44年)年5月17日発売開始された、プッシュトーン信号を交換機呼び出しに使用する日本初の押しボタンダイヤル式電話機である。ダイヤルスイッチとトランジスタ1個からなるコイル・コンデンサ発信回路によるトーン発振器を備えている。翌年、「プッシュホン」という愛称が公募によって付けられた。

この当時、海外のプッシュホンは4×4のボタン配置だったが、日本では導入を簡素化するため、日本ではほとんど用いられないと思われるアルファベット専用ボタンの縦1列 (A - D) を省略した。

600-P形の筐体や送受話器の材質は600形と同じで硬質塩化ビニール製。内部の回路にはプリント基板が使われているのも同様。ダイヤル式の600形に比べると600-P形は押しボタンの周囲がわずかに凹面状にカーブしており、角ばった印象を与える。底板などは600形との互換性はない。内部でのベルの配置も異なっている。本体と送受話器をつなぐコードはカールのみとなっている。600-P形はすべてベル音の調節ができるので、改めて「ベル調」の表示はされていない。600形では底板は塗装されていなかったが、600-P形では筐体の色にかかわらず白色で塗装されている。

筐体の色は当初グレーのみだったが、1972年(昭和47年)9月からグリーン・コーラル・アイボリーの各色が追加された。グレーとグリーンは600形と同様に送受話器の色が筐体よりも濃く、ツートンカラーになっている。電電公社の一般向け卓上型電話機で黒色がないのはこの600-P形だけである。

1970年(昭和45年)から1982年(昭和57年)まで、プッシュホンで計算ができるサービス「DIALS」が電電公社から提供されていた。このサービスのために、電話機の押しボタンの周りに掛けておく各種の計算記号が書かれた透明のシートがあり、電話機に付属していた。

601形電話機[編集]

601形電話機は600形から2割のコストダウン・現場で内部の部品を自由に交換できる構造とする・パッド切り替えを不要とする、などを目的として開発された電話機で、1978年4月から商用試験が始まった。

製造会社は岩崎通信機・神田通信工業・大興電機製作所(現 サクサホールディングス)・田村電機製作所(現 サクサホールディングス)・東芝・ナカヨ通信機(現 ナカヨ)・日通工(現 NECプラットフォームズ)・長谷川電機製作所(現 富士通アイ・ネットワークシステムズ)・明星電気(50音順)。

オイルショック後に開発された機種であり、徹底的に製造コストの削減がなされている。それまでの600形に比べ重量は約3分の2、部品点数は約半分になっている。直流阻止コンデンサを付加抵抗で短絡し低周波数での側音平衡を改良するため、送話器・受話器ともそれぞれ感度を2dB向上させた。バリスタを多用した650形に近い回路構成となった。設計の容易化のため共同電話には用いられなかった。

ダイヤル周りでは、中心の紙にある数字が4号電話機以来復活した(数字は紙に直接印刷されている)。透明カバーと紙を押さえるリングは一体化して、無色透明の合成樹脂製になった。ダイヤル指穴中心の「・」がなくなった。ダイヤルの文字盤もなくなり、数字は直接筐体に印刷されている。ダイヤル一式やフック機構部は底板側に固定されて筐体は単なるカバーとなり、製造時の省力化が図られている。

色は黒・アイボリー・グリーン・グレーの4色で600形と基本的に変わらないが、やや淡いパステル調の色になっている。グリーン・グレーは送受話器も筐体と同色になった。材質も600形と同じ硬質塩化ビニールだが、厚みはさらに薄くなっている。

601-A形卓上電話機[編集]

601-A形卓上電話機は、600形に比べてやや小型化し、ダイヤル周辺が平面に近い印象がある。

筐体のコードの付け根部分に当たる部分は切り欠きがなくなり、コードは筐体と底板との隙間を通っている。

内部の変更点では、ベルが代々続いてきた丸いおわん形から平面の金属板になったのが特徴的である。これを鳴動装置と一体化した樹脂製の棒で打つので、それまでの600形とは明らかに音色が違って聞こえる。

601-AW形壁掛電話機[編集]

601-AW形壁掛電話機は、送受話器を本体に垂直に掛ける薄型の形態となった。本体色は白のみであるが、装飾パネルの色を変えることができる。呼び出し装置が圧電スピーカによる電子音で、音色を3種類・音量を3段階変更できる。

回路のプリント基板化により筐体設計の自由度が上がったためであり、これが現在の電話機のデザインへの布石となり、すなわち3号電話機以来40年以上続いた「黒電話」の時代に終わりが見えたのである。

601-A形小型電話機[編集]

601-A形小型電話機は、日本電信電話公社の自営品指定書に適合する600-A形小型電話機の後継である。メーカーから直接、利用者に販売された。

卓上型・壁掛W型がある。

601-P形電話機[編集]

601-P形電話機は、1980年10月に600-P形の後継として導入された。押しボタンにシリコンゴムシートによるスイッチを導入することで600-P形の弱点であった接点の劣化が解消されている。トーンを発生する回路が1チップLSIとなった。

当初からカラフルなラインナップが用意された。黒・白・グレー・アイボリー・緑・黄緑・青・水色・ワインレッド・コーラルの10色だが、1985年(昭和60年)に開かれたつくば万博記念の金色もある(つくば博のマーク入り)。

601-P形にもDIALS用の計算記号が書かれたシートがある。

601-PW形壁掛け型プッシュホンも製作された。

シルバーホンめいりょう[編集]

シルバーホンめいりょうは、通常時の最大約18倍の音圧で受話することのできる福祉電話機である[3]

601形電話機の送受話器であり、レンタルおよび販売されている。

601-M形磁石式電話機[編集]

601-M形磁石式電話機は、局給電のない電話加入区域内の相互の音声伝送専用線のために提供された。

2002年に新規販売が停止された。また、2009年10月1日レンタルによる提供が廃止され、実費による修理となった[4]

代替機器として加入者宅内設置の共電式相当の給電装置の「とるだけくん」が案内されている。

600形以降の標準電話機の形式[編集]

日本電信電話公社・日本電信電話の標準電話機の形式
一桁目
形式
二桁目
用途
三桁目
実用順
方式 形態
6 600形 0 単独 0 A1 10パルス/s 卓上 標準色
(I) ぞうげ
A2 20パルス/s W 壁掛 (B) うすあお
(G) うすみどり
7 700形
ミニプッシュホン
1 共同 1 P 押しボタン U 卓上・壁掛共用 (C) さんご
(W) ウォームグレー
(V) ベージュ
8 800形
ハウディ
5 構内交換内線 C 共電式 L 高損失用 (R) あか
(M) しろ
-RA シルバーホン
めいりょう
(DB) あお
9 900形 M 磁石式 (DG) みどり
(DR) ワインレッド

「黒電話」の凋落[編集]

一般電話網民営化と端末設備自由化[編集]

1985年(昭和60年)、日本電信電話公社は日本電信電話株式会社 (NTT) へと民営化された。また、第二電電株式会社(現KDDI)をはじめとする「新電電」の参入が可能となった。これに伴い、端末設備を1社が独占的に提供(レンタル)する従来の形態から、技術基準適合認定をクリアしているものであれば自由に端末を選べる端末自由化も同時に果たされた。電話機は電話局から送ってもらうものではなく、家電店などで買うものへと変化したのである。ただし、2002年(平成14年)までは、601形および601-P形が生産され続けていたため、新品の黒電話(601形および601-P形のみ)の設置が可能だった。

その後21世紀に入り、電話機はコードレスホン化が進み、また留守番電話ファクシミリと一体となった多機能電話が主流となった。さらに、電話機の主役そのものがこれら固定電話から携帯電話など移動体電話に移行した。1970年代まで日本の家庭を席巻した「黒電話」は端末設備自由化後、急速にその姿を消して行った。

1993年には、ダイヤルパルス・トーン兼用の900-P形標準電話機が提供開始された。局給電のみで動作するため、黒電話の後継として、応急復旧用資機材として備蓄され、大規模災害の際の臨時無料公衆電話として使用されるようになった。被災者が電話回線を復旧する際に再生品の901-P形が無償提供されることもある[5]

未だ消滅せず[編集]

それでは、「黒電話の時代は完全に幕が下ろされたのか」というと、実はそうでもない。

核家族化により、若い世帯では多機能電話機の購入が進んだものの、構成員が年配であまりそういった機能に興味がなく、また必要としない世帯においては、レンタルで使われていた600形・601形あるいは3号・4号はなお現役にとどまり続けた。

受動素子のみで構成されているため、致命的な故障を起こすことがほとんどなく、使用方法も単純で、電話線から供給される電力を利用しているため、停電が起きても電話線と電話局さえ無事なら通話が出来る。使用者に複雑な知識と配慮を必要としない点は、あらゆる電話機の中で最も優れていると言える。

また、端末自由化の結果、使用中の「黒電話」を買い取ることも可能になり、個人に売却された「黒電話」の数は相当数に上る。「日本独特のアンティークアイテム」あるいは「昭和のレトロアイテム」としてファンも根付いた。ダイヤル式回線であれば600形・601形あるいは3号や4号でも現用できることも人気の1つである。またIP電話用の終端装置も、ダイヤル電話機に対応したものがほとんどであり、一般加入回線に多機能電話を、IP電話回線の音響端末として黒電話を使用する、といった例もある。例えばADSLモデムの回線設定をパルスに設定すればIP電話回線にも接続することができる。なお、着信専用としてなら、プッシュ回線であっても使用できる。

ホテルなどの施設では今でも内線用として使われているところも多い。また、東日本大震災後の計画停電に際し、黒電話を再購入する例、あるいは眠っていた黒電話を再び使う例が報告された。

実物とは別に、電話番号のマークが「黒電話」の形を模していることや、携帯電話の通話ボタンも同様の意匠があしらわれていること、また、着信メロディにわざわざ「黒電話」のベル鳴動音がバリエーションされていることなど、「電話」としてのイメージもまだ生き続けていると言える。

一部には「黒電話は使えなくなる」などというセールストークで、多機能電話機を高額な値段で販売・リースする悪徳商法もあり、消費生活センター警察などが注意を呼びかけている[6]

脚注[編集]

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  1. ^ 関連資料:国産2号自動式卓上電話機 (PDF)
  2. ^ 60Vの局給電のH型ステップバイステップ電話交換機は、全国即時自動化のため1980年台にクロスバ交換機に置き換えられた[1]
  3. ^ シルバーホンめいりょう 東日本電信電話
  4. ^ 磁石式電話機のレンタル提供廃止について 東日本電信電話
  5. ^ NTT東日本、仮設住宅などに転居する被災者向けに固定電話機を3万台無償提供
  6. ^ こんなセールストークによる販売勧誘・訪問販売にご注意 西日本電信電話

参考文献[編集]

関連項目[編集]