長井長義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
長井長義先生像(日本薬学会長井記念館1階ロビー)
長井 長義

長井 長義(ながい ながよし、1845年7月24日弘化2年6月20日)– 1929年昭和4年)2月10日)は日本の薬学者

エフェドリンの発見者。日本薬学会初代会頭で、日本の近代薬学の開祖である。

阿波国名東郡常三島村薙刀丁出身[1](現在の 徳島県徳島市中常三島町2丁目)。

経歴と業績[編集]

明治時代における日本薬学の進展に寄与した。

漢方薬の研究と成分抽出は特筆すべき業績である。マオウ(麻黄)からのエフェドリン抽出に成功し、のちに大量合成が可能であることを証明した。これは、多くの喘息患者の苦痛を取り除くことになった。エフェドリンは、現在でも誘導体 dl-塩酸メチルエフェドリンという成分名で、気管支拡張剤として市販の感冒薬(風邪薬)にも配合されている。

日本薬学会の初代会頭に推挙され就任し、終身、心血を注いだ。また、帝国大学(現東京大学)医学部薬学科教授、大日本製薬合資会社(半官半民、後の大日本製薬株式会社、現在の大日本住友製薬株式会社)技師長を務めるなど、日本の薬学・化学の先駆者の一人である。日本薬局方の整備にも尽力し、それまで「質が悪い」と敬遠されてきた日本製医薬品の大幅な品質向上に寄与した。さらに、日本各地の薬剤師に直接指導も行った。医薬分業と薬専(薬学専門学校)の官立化にも大きく貢献した。日本薬学の父たるゆえんである。

自身の研究だけでなく、テレーゼ夫人とともに女子教育にも力を入れた。日本女子大学や雙葉会・雙葉学園への設立協力と化学教育の推進など、女子教育の向上にも貢献した。

日独協会の理事長を務めるなど、明治時代における日本社会の国際化に大きく貢献した。また、第一次世界大戦後のインフレにより危機に陥ったドイツ薬業界の救済のために義捐金を募り、200マルク(当時)を贈った。

生い立ち[編集]

1845年7月24日、阿波国名東郡常三島村に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。初名直安[1]、幼名長吉。

長井家は代々、阿波藩の初代藩主からの典医として信頼が篤く、父の長井琳章は藩主蜂須賀綱矩に仕えた本草学者だった。妻・田鶴子が25歳で早逝したため、琳章は医師としての自責の念から、ますます医薬に没頭した。このような事情から、琳章は長義を医師とするべく、小さい頃からあらゆる知識を教え込んだ。漢学塾と蘭学塾にも通わせている。藩主斉裕の小姓として父と一緒に登城する道すがら、琳章は薬草となる草木を見つけ出して長義に効能などを教えていた。

長崎留学[編集]

1866年慶応2年)11月、阿波藩主斉裕は、22歳の長井に長崎留学を命じた。鎖国のなか、外国の知識を本格的に学ぶには、長崎に留学するほかなかった。また、海外に留学するにも、まずは長崎に留学するという風潮となっていた。精得館に入学し、西洋医学をマンスフェルト (C.G. van Mansvelt) から、化学をボードウィン (Anthonius Franciscus Bauduin) から学んだ。

医学を漢方で学んできた長井だが、下宿先が(後に日本写真界の開祖となる)上野彦馬宅であったことも大きく影響し、化学に惹かれるようになった。本来はハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)のもとで学ぶ予定だったが、ちょうどハラタマが江戸に移っていたため、上野宅で化学実験を勉強することとなったのだが、このことは後にドイツで非常に役に立つこととなる。写真は当時最先端の技術であり、上野宅には名士が集まっていた。ここで長井は坂本龍馬大久保利通伊藤博文の熱弁に触れている。

ドイツ留学[編集]

1871年(明治4年)、日本政府は第一回国費留学生として、各分野から11名をアメリカ・ヨーロッパへ留学させた。長井はその1人に選ばれた。専攻分野により留学先は異なり、陸軍はフランスに、海軍はイギリスにという具合に留学先国は決まっていた。長井は医学を目指していたため、ドイツへ(当時プロイセン王国)の留学となった。

ただし、長井はいったん実家に戻っていたため、所定の出発船に遅れてしまった。このため一同とは違うルート、アメリカ経由で出発し、イギリスで先発と合流した。この時のことは長井の日記に克明に書かれている。その後、ドイツのベルリンに渡り、駐独代理公使・青木周蔵に下宿先を周旋された。

その翌年よりベルリン大学に入学した。最初の講義はヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz)の植物学であったが、幼少の頃より父から植物について教え込まれていた長井にとって、和名がすぐ思い浮かび分かりやすい授業となり、内容的にもその後の研究に大きな影響を与えることとなった。リービッヒ(Justus von Liebig)の教え子であるヴィルヘルム・ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)の化学の授業もあった。

この二つの授業が、その後の長井の方向性を決定づけることとなった。ホフマンに師事して化学・薬学を学び、化学実験などに没頭していく。しかし、医学を学ぶという名目で国費留学していることと、父を継ぐ事情があるため、化学探求への決心が鈍った。青木などに相談したところ「医師も薬も病気を治すもの」と黙認された。

ホフマンと助手のミリウスは、教室でただ一人の日本人である長井を暖かく指導した。教室の先輩であるチーマンと共同研究者となった。丁字油からオイゲノールを抽出し、さらに誘導体を作る実験を行い、バニラ豆からオイゲノールを経由してバニリン(ワニリン)を分離することに成功。その他、バニリン酸桂皮酸プロトカテク酸の誘導体などをミリウス、チーマンと連名で発表していった。

ホフマンの教授助手に選ばれた後、功績を認められ、ベルリン大学よりドクトル・デア・フィロゾフィー Doktor der Philosophie 学位(Ph.D.に相当)を授与された。

ドイツ留学中、ホフマンは長井をベルリン大学に留めておきたいと考え、ドイツ人女性との婚姻を勧めた。長井には伏せて、下宿先のラーガシュトレーム夫人に仲介を依頼した。こういった公私併せた周囲の尽力があり、ギーセン大学でのリービッヒ銅像除幕式の帰路、フランクフルトでテレーゼ・シューマッハと出会った。のちの長井テレーゼである(後述)。

エフェドリンの発見[編集]

バニリンの分離の後、日本政府は長井に帰国を要請した。日本の薬学を進展させ、大規模な製薬会社をつくるためである。日本へ帰国した長井には大きな期待がかけられていた。

  • 大日本製薬合資会社設立への参加要請
  • 帝国大学教授 理学部化学科の化学担任・医学部での薬化学専任
  • 文部省諮詢総会の会合に推挙
  • 内閣省御用係兼務
  • 衛生局東京試験局長
  • 中央衛生会委員
  • 叙勲 正六位

1885年(明治18年)に麻黄からエフェドリンを発見。その後、これが大量に合成可能であることを証明した。これは、気管支喘息患者にとって、呼吸困難から救われる福音となった。

実家に結婚についての話をした後、1887年ドイツに戻り、テレーゼの故郷アンダーナッハで盛大な結婚式を挙げた。実家から式場まで長い絨毯が敷かれたという。

東京薬学会(1878年発足、現 日本薬学会)の1885年の例会で、長井長義は演説を行い、次のように締めくくった[2]

昔、ギリシアの王が、演劇を見に行ったところ、既に観客が一杯で、王座とすべきところがなかった。座主が恐縮していたところ、王は、『席の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座なのだ』と言って、庶民の席についたという。私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希望する

この演説は、若い薬学者に希望を与えるとともに、当時の日本の薬学についての状況と、長井自身の立場と役割を明確に述べている。こののち1887年、東京薬学会の初代会頭に就任した。

1893年にはこのエフェドリンからメタンフェタミンを生み出す。

女子教育[編集]

長井はテレーゼとともに、女子教育にも力を入れた。ドイツ留学時代にベルリン大学などで、女子学生や助手などを目の当たりにした実感が、「日本においても女子教育が必須である」という信念に結びついたものである。

日本女子大学校創立の6年後、藤田伝三郎の出資により「香雪化学館」が創設されたが、長井はここに、当時最新のドイツ式実験設備を備えた。ここから丹下ウメ(農学博士)と鈴木ひでる(薬学博士)が第1号生として輩出し、丹下は東北帝国大学に合格、女性で日本初の帝国大学入学者となった。東北大学にはその旨の碑文が建てられた。

同じ頃に、雙葉会雙葉学園の創立にも尽力している。雙葉会のシンボルであるフタバアオイは、植物に精通している長井の提案が生きている。

医薬分業と旧制薬学専門学校[編集]

当時の日本では、薬学はあくまで医学の一分野であるという認識だった。しかし明治薬学専門学校(現明治薬科大学)校長の恩田重信医薬分業を主張し、ドイツ帰りの長井もこれに同調し、一部の反発を買うほど苦言と提言を強く主張した。

1923年の関東大震災では明治薬専が焼失してしまうが、長井は恩田を「財産や名誉の損失は取り返しがつくが、勇気を失ったら万事休す」というドイツのことわざで励ました。テレーゼの自発的な行動が元で、長井夫妻は明治薬専再建のための資金調達に飛び回ったが、これは当時としては画期的なことであった。

富山薬学専門学校(現 富山大学薬学部)の官立化に尽力した。これは副次的に熊本薬学専門学校(現 熊本大学薬学部)の官立化にもつながった。

長井の故郷である徳島にも、長井の進言で1922年(大正11年)、徳島高等工業学校応用化学科に製薬化学部が創設された。現在の徳島大学薬学部・大学院薬科学教育部で、ここには「長井記念ホール」がある [3]

1929年感冒に起因する急性肺炎で逝去。墓は富士霊園にある。

テレーゼ夫人と長井家[編集]

日本薬学会長井記念館新館

テレーゼ・シューマッハ1862年1924年8月29日)は、ドイツ・アンダーナッハ石材木材を扱う旧家の出身。長井とテレーゼとのロマンスについては、参考文献「長井長義とテレーゼ」に詳しい。

後に、長井と共に帰朝したテレーゼは、日本女子大学と雙葉学園で教鞭を執った。ドイツ語を生き生きと教えたという。日本女子大学の家政科では、食材の栄養価、ドイツ料理を、ドイツの風習を交えて教えるなど、長井と共に早期の女子教育に資した。テレーゼの几帳面さはこのような場面で効果的に発揮された。

1922年(大正11年)に日本を訪れたアルベルト・アインシュタインとエルザ夫人のドイツ語通訳も務めている。テレーゼはその2年後、1924年8月29日軽井沢別荘胆石症により逝去した。

長義との間に3人の子供を授かった。長男・亜歴山(アレキサンダー)、長女・エルザ、次男・維理(ウィリー)。家庭内ではドイツ語を使うように子供達にも徹底していた。

日本薬学会長井記念館新館の入口前の表示

長井家は日本薬学会に旧長井邸の敷地や軽井沢の土地を寄贈するなど貢献している。日本薬学会の事務所は、1972年竣工・1989年解体の日本薬学会長井記念館、1991年竣工の日本薬学会長井記念館新館に入っている。新館の建設に対し、長義の孫の長井貞義が寄付をしている。1階には胸像由来書がある。長井記念館新館地下2階のレストランの名は「テレーゼ」である。

論文[編集]

参考文献[編集]

  • の原博武著,この人長井長義〜ロマンと情熱に生きた薬学の父,(株)ヒューマン・クリエイティブ(2008),「首都圏人 第9号」 ISBN978-4-8354-8092-3
  • 飯沼信子著, 長井長義とテレーゼ~日本薬学の開祖, 日本薬学会 (2003) [*1]
    • ISBNコードなし。入手には、日本薬学会の「薬学会の出版物」ページを参照の上、要問い合わせ。
  • (同書付属の小冊子)渋谷雅之著, 薬学と薬理学の分野における長井の役割と重要性について-特に日本において-, 日本薬学会 (2003) [*2]
    • 出典 - 日独いしずえの歴史-長井長義(2002, Eine japanisch-deutsche Gründergeschichte)
  • 石坂哲夫著, やさしいくすりの歴史, 南山堂 (1994) ISBN 4-525-70051-3

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』1982年 聚海書院
  2. ^ 参考文献*1, *2より引用
  3. ^ 徳島大学薬学部. “長井記念ホール”. 2009年11月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]