四式自動小銃

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種類 半自動小銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 横須賀海軍工廠、館山砲術学校研究部、ワシノ製機、中央工業
仕様
口径 7.7mm
銃身長 590mm
使用弾薬 7.7mm 九九式実包、.303ブリティッシュ弾、四式実包
装弾数 10発(固定式弾倉)
全長 1073mm(着剣時1456mm)
重量 4097g
発射速度 10発/分
銃口初速 689m/秒
有効射程 最大照尺 1200m
歴史
関連戦争・紛争 太平洋戦争
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四式自動小銃(よんしきじどうしょうじゅう)は1944年(昭和19年 皇紀2604年)に日本軍で開発された半自動小銃である。海軍型と陸軍型があった。

日本自動小銃開発前史[編集]

第一次世界大戦後、世界各国の陸軍ではボルトアクション式小銃にかわって、自動小銃・半自動小銃の開発が行われていた。日本でもこうした流れを受けて1920年代より自動小銃開発の予備研究として自動短銃(短機関銃)の研究が先行して進められた。

日本の本格的な自動小銃開発は昭和極初期の、アメリカ、レミントン社のピダーセン自動小銃(1925年開発)の参考輸入より始まる。1930年(昭和5年)にはピダーセン式自動小銃の試作が行われた(後の試製自動小銃・甲とは別物)。

1932年(昭和7年)からは陸軍技術本部が、小倉工廠東京瓦斯電気工業日本特殊鋼南部銃製造所(後に辞退)に競争試作させ、1934年(昭和9年)10月までに、小倉工廠製の「試製自動小銃・甲」、東京瓦斯電気工業製の「試製自動小銃・乙」、日本特殊鋼製の「試製自動小銃・丙」が完成している。試製自動小銃には長銃身型と短銃身型があった。後に、日本特殊鋼では重量5.6kgの「試製超軽機関銃」という自動小銃のような軽機関銃を試作している。

甲・乙・丙は全て三八式実包を使用する口径6.5mm仕様で、甲はピダーセン自動小銃のコピー、乙はZH-29半自動小銃のコピーであった。甲は反動利用方式、乙はガス圧作動方式、丙はガス圧・反動併用方式であった。

作動不良や命中精度不良の解決のため、1937年(昭和12年)まで試験と改修が繰り返され、1935年(昭和10年)に乙が脱落し、甲と丙が採用寸前までいったが、日中戦争が勃発し、三八式歩兵銃の増産と大量配備が優先されたため、結局採用中止となった。

ボルトアクション式小銃に比べ、半自動小銃の生産価格が高かったことと、価格に見合うだけの性能差ではないと判断されたことと、当時の日本における工業力の貧弱さから半自動小銃による弾薬消費の増加に補給能力が耐えられないという理由があった。

1931年(昭和6年)には萱場製作所により、三八式歩兵銃ピダーセン・デバイス式の半自動化改修案が特許申請された。

1933年(昭和8年)には小倉工廠で四四式騎銃に似た、口径6.5mm、10発装填の、ピダーセン式自動小銃が試作された。

1941年(昭和16年)には小倉工廠で九九式小銃を改造し半自動化したピダーセン式自動小銃が試作された。

しかし、第二次世界大戦が始まり、特にアメリカが本格的に反攻を開始したガダルカナルの戦い以降は、アメリカ軍は半自動小銃M1ガーランドM1カービンなどを大量配備し、歩兵火力で日本に対して優位に立った。

また、海軍陸戦隊ではかねてより落下傘部隊用に自動小銃の導入を望んでいたこともあり、こうして新型自動小銃は、鹵獲したM1ガーランドを参考として、先ず日本海軍主導で開発が進められることになった。鹵獲したM1ガーランドは横須賀海軍工廠で徹底的に調査された。

四式自動小銃の登場[編集]

当初、補給の問題から九九式小銃用の実包が使えるよう、鹵獲したM1ガーランドを口径を7.7mmに改造し使用する計画であった。しかし、安定的な供給が見込めず、修理に必要な正規部品の調達も難しい敵国の兵器をそのまま使用するわけにはいかないという意見が軍部内から出たことから取りやめになった。

その後、海軍ではこのM1ガーランドを原型に独自の自動小銃を開発することに決まるが、開発の開始時期が昭和17年と遅く、当時の戦況の厳しさから、新型銃を一から研究・開発する余裕がなかったために、結局M1ガーランドとほとんど同じになった。試作銃の設計は海軍内の研究施設である、館山砲術学校研究部が担当し、製造は愛知県のワシノ製機が担当した。

そして1944年(昭和19年)に四式自動小銃が完成した。機関部などはM1ガーランドと比べて変更はなかったが、大きな変更点として、7.7mm口径の「九九式実包」が使用出来るように改造され、M1ガーランドで用いられたエンブロッククリップは採用せず、リー・エンフィールドのように、九九式小銃用の5発をまとめたストリッパークリップ(挿弾子)を2つ用いて、上部の機関部を開放し、実包だけを押し込んで装填した。故に装弾数は10発である。装弾数が2発増えたことで固定式弾倉が下部に突出していた。細かな点では、銃床形状や照尺を日本軍式に変更したことなどであった。

装填にやや手間がかかるが、この方式の利点は、既存のストリッパークリップを使用できることと、新規にエンブロッククリップを生産しなくて済むことと、省資源で済むことと、補給が複雑にならずにすむことであろう。また、全弾を撃ち終わらなくても途中で実包を追加装填できたり、空のエンブロッククリップが音を立てて排出されずにすむという、オリジナルのM1ガーランドより優れた点もあった。

生産は海軍廠内の機関銃生産工の一部を使用したため生産効率が非常に悪かった。また使用弾薬を7.7mm弾薬に変更したために作動不良が起こったが、海軍主体の研究だったためか関係者は歩兵用小火器の技術に乏しく、この不具合を修正することが難しかった。

陸軍による開発とその後[編集]

その後、1945年(昭和20年)初頭より陸軍でも四式自動小銃の開発が始まり、中央工業で試作と僅かながら製造も行われた。

四式自動小銃は実戦配備が間に合わず試作銃が僅か125挺(250挺説もあり)生産されたのみであった。戦後になり放置状態であった四式自動小銃を進駐軍が発見するが、殆どが装填不良・排莢不良など正常に作動しなかったという。

7.7mmの九九式実包は、オリジナルの30-06弾薬に比べ発射時のガス圧が低く(マズルエナジーは30-06弾薬の3662Jに対し九九式実包は2889J)、ボルト・アッセンブリーの後退不良を起こし、もともとガス圧の高い弾薬を使用するM1ライフルの構造には適合しなかったと津野瀬光男は証言している。

この対策に、九九式実包の装薬の燃焼特性を、四式自動小銃のガス圧作動機構用に調整し直した、「四式実包」が開発中だったとされる。九九式実包と同じ7.7mm×58ながら薬莢の形状が微妙に異なっていたともいわれている。

一般には実戦で使用されることはなかったとされるが、沖縄戦など島嶼戦で使用された可能性は拭いきれない。主に米国内であるが戦場で鹵獲されたと思しき日本製ガーランドコピー[1]が「Type5 Rfle」などの名称で流通している事実がそれを物語っている。試作銃を掻き集めて配備したものとおもわれる。その中にはピダーセン式自動小銃や試製二型機関短銃も含まれていた。終戦時に資料が散逸しており、名称からその生産実態、使用記録までもが判然としないミステリアスな銃であるため、根拠が曖昧な諸説が飛び交っている現実がある。本銃の考察にはその点を踏まえる必要がある。

「四式」・「五式」表記について[編集]

戦後、四式自動小銃は外国では「五式自動小銃」とも呼ばれることもあった。これは戦後のアメリカ軍の調査において1945年の「5」にちなみ「タイプ5」と呼び始め、その調査書の呼称が定着してしまったという説、1944年末に四式自動小銃を制定したが後に機能面での不具合が発見され、翌年の1945年に改良されたものが五式自動小銃であるという説、また四式=五式との説が根強いが、一方でそれらは形状こそ似ているが製造元が異なる別銃ではないかという説もある(四式は海軍の留式機銃用の7.7mm×56R(.303ブリティッシュ弾)仕様で、五式は九九式小銃用の7.7mm×58仕様だったという文献記録もある)が、未だはっきりしていない。しかし設計図には「四式」という表記があり、銃自身にも刻印があることから少なくとも日本での資料においては「五式」という表記は出て来てはいない。

もう一つの四式自動小銃[編集]

1944年(昭和19年)に海軍が佐世保海軍工廠で試作した、ドイツのGew43のコピー。口径7.7mmの九九式実包規格に変更されている。同じく九九式実包が原因で作動不良を起こした。装填方式には、オリジナルの着脱弾倉ではなく、エンブロッククリップを採用した。1945年(昭和20年)の佐世保大空襲で設計図と試作品ともに喪失した。全長1117mm、重量4.93kg、装弾数5発。

登場作品[編集]

ゲーム[編集]

日本軍の工兵装備として「五式」の名前で登場する。装填方式がマガジン式になっている。
日本軍の小銃兵装備として「Type 5 Semi-Automatic Rifle」の名前で登場する。
シングルプレイにのみ登場する。

漫画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [1]

関連項目[編集]