西園寺公経

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西園寺 公経
西園寺公経像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 承安元年(1171年
死没 寛元2年8月29日1244年10月2日
別名 一条入道太相国、西園寺
官位 従一位太政大臣
主君 高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇
氏族 西園寺家
父母 父:藤原実宗、母:持明院基家の娘
兄弟 三条公定藤原定家室、公経、公修、藤原公仲、公暁、藤原隆忠室、藤原公国
一条全子(一条能保の娘)、僧範雅の娘、
平親宗の娘、実材母源雅頼の娘
掄子実氏一条実有洞院実雄、道融、四辻実藤実材、女子、成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、三条実親室、嘉子、公子
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小倉百人一首より

西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿歌人内大臣藤原実宗の子。官位従一位太政大臣西園寺家の実質的な祖とされている。

鎌倉幕府4代将軍藤原頼経関白二条良実後嵯峨天皇中宮姞子の祖父、四条天皇後深草天皇亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曽祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。小倉百人一首では入道前太政大臣

経歴[編集]

治承3年(1179年)に従五位上養和元年(1181年)に侍従寿永2年(1183年)に正五位下文治元年(1185年)に越前権介、左少将、同2年(1186年)に備前介、同3年(1187年)に従四位下、同5年(1189年)に讃岐権介、建久元年(1190年)に正四位下、同4年(1193年)に左中将、同7年(1196年)に蔵人頭と昇進。同9年(1198年)、従三位参議に就き公卿に列する。正治2年(1200年)に兼越前権守、建仁元年(1201年)に正三位、同2年(1202年)に権中納言、同3年(1203年)に従二位、右衛門督、左衛門督、元久3年(1206年)に中納言建永2年(1207年)に正二位権大納言承元5年(1211年)に兼中宮大夫(同年辞す)、建保6年(1218年)に大納言となり、東宮大夫を兼ねる。

源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曽孫であることから、鎌倉幕府とは親しく、承久元年(1219年)に3代将軍・実朝が暗殺された後は、外孫にあたる三寅(九条頼経)を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった[注釈 1]。同年右大将、右馬寮御監。同3年(1221年)、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせその勝利に貢献した。乱後は、幕府との結びつきを強め、内大臣(51歳)、貞応元年(1222年)に太政大臣、翌貞応2年(1223年)には従一位に昇進し(同年太政大臣辞任)、婿の九条道家と共に朝廷の実権を握った。また、関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。

道家の外孫である四条天皇仁治3年(1242年)に崩御すると皇位継承の問題が持ち上がり、道家らは順徳上皇の皇子である忠成王を擁立しようとしたが、幕府は承久の乱の関係者である順徳の皇子の擁立には反対し、乱に消極的だった土御門上皇の皇子の邦仁王の擁立を支持した。公経はこの状況を見て、直ちに縁戚の四条隆親の邸宅に邦仁王を迎えて後嵯峨天皇として践祚させた(仁治三年の政変)。政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の娘婿の関白近衛兼経を辞任させて、道家と不和で公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。さらに孫娘(嫡男実氏の娘)の西園寺姞子を後嵯峨天皇の中宮とし、寛元元年(1243年)には姞子所生の久仁親王(後の後深草天皇)を皇太子とした。以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となると共に、持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。

寛元2年(1244年)8月29日に薨御。享年74[2]

多くの荘園との貿易による莫大な収入で豪華奢侈を極め、処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることも多く[3] 、その死に臨んで平経高も「世の奸臣」と日記に記している[注釈 2]

なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった。

和歌[編集]

新勅撰和歌集』に選ばれた以下の一首が『小倉百人一首』にも選ばれ広く知られている。

  • 花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけり

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし公経は建保5年(1217年)11月に後鳥羽の勘気をこうむって政治力が低下していたため、三寅下向の立役者は摂関家出身の天台座主慈円だとする説もある[1]
  2. ^ もっとも経高は順徳天皇に取り立てられた上で反北条氏であった九条家の側近として活動していた立場であり、同じ『平戸記』では北条時房の死を後鳥羽上皇の祟りと記している。
  3. ^ 『尊卑分脈』では綸子、『百錬抄』では淑子とする。また、『民経記』(貞永元年10月4日条)では倫子と書かれている。高松百香は夫である九条道家が藤原道長の正室であった源倫子にちなんで諱を定めたとする説を唱えている[4]
  4. ^ 実有の母については諸書に異同がある。ここでは『公卿補任』による。『尊卑分脈』では源雅頼の娘とする。ほかに異説として安芸権守仲経の娘がある。
  5. ^ 『公卿補任』による。『尊卑分脈』の没年齢56歳から逆算すると、1205年生となる。

出典[編集]

  1. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年
  2. ^ 森幸夫『北条重時』吉川弘文館〈人物叢書〉、2009年、87頁。 
  3. ^ 上横手雅敬『鎌倉時代 その光と影』〈歴史文化セレクション〉1994年、191-192頁。ISBN 4-642-06304-8 
  4. ^ 高松百香 著「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」、服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』明石書店、2017年、186-187頁。ISBN 978-4-7503-4481-2 
  5. ^ 角田文衞『平安の春』〈講談社学術文庫〉1999年、245頁。 
  6. ^ 『三宝院伝法血脈』