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書誌情報
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これは新しいロングアイランド州立公園委員会と州立公園評議会設立に利用<ref>{{Cite web|author=Gutfreund|first=Owen|title=モーゼス, Robert|url=http://www.anb.org/articles/07/07-00375.html|publisher=Anb.org|accessdate=24 December 2014}}</ref>。この権力集中は、スミスにとっても連邦政府、後にフランクリン・D・ルーズベルトの[[ニューディール政策|ニューディール]]モデルとなるし、地位が選挙ではなく任命制である州務長官に、スミスはモーゼスを指名した。モーゼスは1927年から1929年まで奉仕した<ref>{{Cite news|date=December 19, 1928|title=モーゼス Resigns State Position|url=http://cdsun.library.cornell.edu/cgi-bin/cornell?a=d&d=CDS19281219.2.63.7#|newspaper=Cornell Daily Sun|loenion=Ithaca, NY|page=8}}</ref>。こうしてニューヨーク州政府の[[州務長官]]に任命されて2年を過ごすことになる。州政府機構の全面的な改組を審議する委員会のチーフ・スタッフという役割を与えられ、これがモーゼスの大成する端緒となった。どのような困難にもめげぬ人としてイギリスの詩人[[ワーズワース]]が描いた幸運の戦士を愛称として呼ばれたスミス・ニューヨーク州知事の知遇を得、その後四半世紀に及ぶ親密な交わりにより、モーゼスは大きな後ろ盾を得ることになるのである。
これは新しいロングアイランド州立公園委員会と州立公園評議会設立に利用<ref>{{Cite web|author=Gutfreund|first=Owen|title=モーゼス, Robert|url=http://www.anb.org/articles/07/07-00375.html|publisher=Anb.org|accessdate=24 December 2014}}</ref>。この権力集中は、スミスにとっても連邦政府、後にフランクリン・D・ルーズベルトの[[ニューディール政策|ニューディール]]モデルとなるし、地位が選挙ではなく任命制である州務長官に、スミスはモーゼスを指名した。モーゼスは1927年から1929年まで奉仕した<ref>{{Cite news|date=December 19, 1928|title=モーゼス Resigns State Position|url=http://cdsun.library.cornell.edu/cgi-bin/cornell?a=d&d=CDS19281219.2.63.7#|newspaper=Cornell Daily Sun|loenion=Ithaca, NY|page=8}}</ref>。こうしてニューヨーク州政府の[[州務長官]]に任命されて2年を過ごすことになる。州政府機構の全面的な改組を審議する委員会のチーフ・スタッフという役割を与えられ、これがモーゼスの大成する端緒となった。どのような困難にもめげぬ人としてイギリスの詩人[[ワーズワース]]が描いた幸運の戦士を愛称として呼ばれたスミス・ニューヨーク州知事の知遇を得、その後四半世紀に及ぶ親密な交わりにより、モーゼスは大きな後ろ盾を得ることになるのである。


直後の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]の [[就任]]する1933年に、 [[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]は、数百万ドルに及ぶ[[ニューディール政策|ニューディール]]を実行するために、州と都市がいくつかのプロジェクトを行うための予算措置準備を整えた。モーゼスはプロジェクトの準備ができていた数少ない地元当局者の一人であった。そのため、ニューヨーク市は著しい[[公共事業促進局]]{{enlink|Works Progress Administration}}(WPA)、[[市民保全部隊]]{{enlink|Civilian Conservation Corps}}(CCC)、およびその他の大恐慌時代の資金を得ることができた。モーゼスは道路、橋、遊び場、公園、そして住宅プロジェクトを建設する際に優れたスキルを発揮、優れた政治的才能をもっていた<ref>{{Cite book|last=Leonard|first=Wallock|title=The Myth of The Master Builder|year=1991|publisher=Journal of Urban History|page=339}}</ref>。その後はアル・スミスの指導で様々な公職には就き、[[ニューヨーク州]]内の州立公園を手始めに様々な建設プロジェクト、特にニューヨーク市に[[ハイウェイ]]、[[橋]]、[[トンネル]]などのプロジェクトに隠然たる影響力を発揮して、車社会へ突入し、[[マンハッタン]]およびその周りで大発展を遂げた[[ニューヨーク都市圏]]の[[インフラ]]整備に大きな貢献をした。モーゼスはまた、[[ジョーンズビーチ州立公園]]の開発など、後に非常にうまく行った多数のコミッションを引き受けている。強力な[[法 (法学)|法令]]と[[工学]]での問題解決を示したモーゼスは、法案起草における技能で知られるようになり、「[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニー]]で最高の法案起草者」と呼ばれた<ref name=":0">{{Cite news|title=Annals of Power|first=Robert A.|last=Caro|authorlink=Robert Caro|url=http://archives.newyorker.com/?i=1974-07-22#folio=032|newspaper=[[The New Yorker]]|date=July 22, 1974|accessdate=September 1, 2011}}</ref>。徐々に公共運営に慣れてきた時から[[タマニー・ホール]]の腐敗と無能追及方面で、モーゼスは政府の救世主と見られていた{{Sfn|Caro|1974}}。なお最も影響力があり最も長持ちする地位の1つは、ニューヨーク市のパークスコミッショナーであり、1934年1月18日から1960年5月23日まで務めた役割であった<ref>{{Cite web|url=https://www.nycgovparks.org/about/history/commissioners|title=New York City Parks Commissioners : NYC Parks|website=www.nycgovparks.org|language=en|accessdate=2018-03-29}}</ref>。
直後の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]の [[就任]]する1933年に、[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]は、数百万ドルに及ぶ[[ニューディール政策|ニューディール]]を実行するために、州と都市がいくつかのプロジェクトを行うための予算措置準備を整えた。モーゼスはプロジェクトの準備ができていた数少ない地元当局者の一人であった。そのため、ニューヨーク市は著しい[[公共事業促進局]]{{enlink|Works Progress Administration}}(WPA)、[[市民保全部隊]]{{enlink|Civilian Conservation Corps}}(CCC)、およびその他の大恐慌時代の資金を得ることができた。モーゼスは道路、橋、遊び場、公園、そして住宅プロジェクトを建設する際に優れたスキルを発揮、優れた政治的才能をもっていた<ref>{{Cite book|last=Leonard|first=Wallock|title=The Myth of The Master Builder|year=1991|publisher=Journal of Urban History|page=339}}</ref>。その後はアル・スミスの指導で様々な公職には就き、[[ニューヨーク州]]内の州立公園を手始めに様々な建設プロジェクト、特にニューヨーク市に[[ハイウェイ]]、[[橋]]、[[トンネル]]などのプロジェクトに隠然たる影響力を発揮して、車社会へ突入し、[[マンハッタン]]およびその周りで大発展を遂げた[[ニューヨーク都市圏]]の[[インフラ]]整備に大きな貢献をした。モーゼスはまた、[[ジョーンズビーチ州立公園]]の開発など、後に非常にうまく行った多数のコミッションを引き受けている。強力な[[法 (法学)|法令]]と[[工学]]での問題解決を示したモーゼスは、法案起草における技能で知られるようになり、「[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニー]]で最高の法案起草者」と呼ばれた<ref name=":0">{{Cite news|title=Annals of Power|first=Robert A.|last=Caro|authorlink=Robert Caro|url=http://archives.newyorker.com/?i=1974-07-22#folio=032|newspaper=[[The New Yorker]]|date=July 22, 1974|accessdate=September 1, 2011}}</ref>。徐々に公共運営に慣れてきた時から[[タマニー・ホール]]の腐敗と無能追及方面で、モーゼスは政府の救世主と見られていた{{Sfn|Caro|1974}}。なお最も影響力があり最も長持ちする地位の1つは、ニューヨーク市のパークスコミッショナーであり、1934年1月18日から1960年5月23日まで務めた役割であった<ref>{{Cite web|url=https://www.nycgovparks.org/about/history/commissioners|title=New York City Parks Commissioners : NYC Parks|website=www.nycgovparks.org|language=en|accessdate=2018-03-29}}</ref>。


==彼が就いた公職の一覧==
==彼が就いた公職の一覧==
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1920年代に、モーゼスは当時タコニック州立公園委員会の長であった[[ハドソン・バレー|ハドソン渓谷]]を通る[[公園道路]]の迅速な建設を支持した[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリンD.ルーズベルト]]を驚かせた。
1920年代に、モーゼスは当時タコニック州立公園委員会の長であった[[ハドソン・バレー|ハドソン渓谷]]を通る[[公園道路]]の迅速な建設を支持した[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリンD.ルーズベルト]]を驚かせた。
[[タコニックステートパークウェイ]]{{enlink|Taconic State Parkway}}も後に完成したが、モーゼスは彼のLong Island Parkwayプロジェクト( [[ノーザン・ステート・パークウェイ]]{{enlink|Northern State Parkway}}、[[サザン・ステート・パークウェイ]]{{enlink|Southern State Parkway}}、[[ワンター州立公園]]{{enlink|Wantagh State Parkway}})に資金を流用することに成功した<ref>{{Cite web|url=http://www.nycroads.com/roads/taconic/|title=Taconic State Parkway|website=NYCRoads.com|accessdate=May 25, 2006}}</ref>。
[[タコニックステートパークウェイ]]{{enlink|Taconic State Parkway}}も後に完成したが、モーゼスは彼のLong Island Parkwayプロジェクト( [[ノーザン・ステート・パークウェイ]]{{enlink|Northern State Parkway}}、[[サザン・ステート・パークウェイ]]{{enlink|Southern State Parkway}}、[[ワンター州立公園]]{{enlink|Wantagh State Parkway}})に資金を流用することに成功した<ref>{{Cite web|url=http://www.nycroads.com/roads/taconic/|title=Taconic State Parkway|website=NYCRoads.com|accessdate=May 25, 2006}}</ref>。
モーゼスはロングアイランドの[[メドウブルック州立公園]]の建設を手伝った。それは世界で最初の完全に分割された限定アクセス高速道路であった<ref name="Leonard 1991 3392">{{Cite book|last=Leonard|first=Wallock|title=The Myth of The Master Builder|year=1991|publisher=Journal of Urban History|page=339}}</ref>。
モーゼスはロングアイランドの[[メドウブルック州立公園]]の建設を手伝った。それは世界で最初の完全に分割された限定アクセス高速道路であった<ref name="Leonard 1991 3392">{{Cite book|last=Leonard|first=Wallock|title=The Myth of The Master Builder|year=1991|publisher=Journal of Urban History|page=339}}</ref>。


モーゼスは1920年代にニューヨーク州政府を再編した多くの改革の開始において非常に影響力のある人物であった。モーゼスが率いる「復興委員会」は、18の部門の下にある187の既存機関の統合、新しい執行予算制度、および4年間の総督任期制限を含む、大いに採用されるべき勧告を提供する非常に影響力のある報告を作成した{{Sfn|Caro|1974|pp=106, 260}}。
モーゼスは1920年代にニューヨーク州政府を再編した多くの改革の開始において非常に影響力のある人物であった。モーゼスが率いる「復興委員会」は、18の部門の下にある187の既存機関の統合、新しい執行予算制度、および4年間の総督任期制限を含む、大いに採用されるべき勧告を提供する非常に影響力のある報告を作成した{{Sfn|Caro|1974|pp=106, 260}}。
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モーゼスの影響はニューヨーク州だけに留まらなかった。1930から40年代には、全米の中小の市が彼を雇い、ハイウェイを建設した。例えば、[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド市]]は1943年に彼と契約して、彼は市の周りの環状道路とそこから市内への支線を提案した。このうち州間高速道路405号線([[:en:Interstate 405 (Oregon)|Interstate 405]])と5号線([[:en:Interstate 5 in Oregon|Interstate 5]])が着工された。<ref>[https://www.wweek.com/portland/article-23466-feb-4-1974-portland-kills-the-mount-hood-freeway.html Feb. 4, 1974: Portland kills the Mount Hood Freeway... (Willamette Week)]</ref>
モーゼスの影響はニューヨーク州だけに留まらなかった。1930から40年代には、全米の中小の市が彼を雇い、ハイウェイを建設した。例えば、[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド市]]は1943年に彼と契約して、彼は市の周りの環状道路とそこから市内への支線を提案した。このうち州間高速道路405号線([[:en:Interstate 405 (Oregon)|Interstate 405]])と5号線([[:en:Interstate 5 in Oregon|Interstate 5]])が着工された。<ref>[https://www.wweek.com/portland/article-23466-feb-4-1974-portland-kills-the-mount-hood-freeway.html Feb. 4, 1974: Portland kills the Mount Hood Freeway... (Willamette Week)]</ref>


[[世界恐慌]]後、モーゼスは[[フィオレロ・ラガーディア]]市長と共に、 [[公共事業促進局]]{{enlink|WPA}}プログラムの下で10の巨大なスイミングプールの建設を担当。合わせて66,000人の水泳選手を収容することができた<ref>{{Cite web|url=http://ny.curbed.com/archives/2013/08/29/revisiting_the_11_pools_whose_gala_openings_defined_1936.php|title=Revisiting The 11 Pools Whose Gala Openings Defined 1936|website=Curbed NY|date=2013-08-29}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Gutman|first=M.|year=2008|title=Race, Place, and Play: Robert Moses and the WPA Swimming Pools in New York City|journal=Journal of the Society of Architectural Historians|volume=67|issue=4|pages=532?561|DOI=10.1525/jsah.2008.67.4.532|JSTOR=10.1525/jsah.2008.67.4.532}}</ref>。そのようなプールの1つは[[ブルックリン区|ブルックリン]]の [[マッカレンパーク]]{{enlink|McCarren Park}}プールで、何十年もの間特別な文化イベントのためだけに使われたが、後で一般に開放されたが、モーゼスはアフリカ系アメリカ人の水泳選手をプールやビーチから遠ざけるための措置を執ったされている<ref>{{Cite web|url=http://www.nycgovparks.org/sub_about/parks_divisions/capital/parks/mc_carren_park_and_pool.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080502044351/http://www.nycgovparks.org/sub_about/parks_divisions/capital/parks/mc_carren_park_and_pool.html|archivedate=May 2, 2008|title=McCarren Park &amp; Pool|website=New York City Department of Parks & Recreation|accessdate=September 1, 2008}}</ref>。ある部下は、モーゼスがアフリカ系アメリカ人は冷たい水が好きではないと信じていたため、プールは数度の低温に保たれるべきであるといったモーゼスの事を覚えているという{{Sfn|Caro|1974|p=318-319}}。
[[世界恐慌]]後、モーゼスは[[フィオレロ・ラガーディア]]市長と共に、[[公共事業促進局]]{{enlink|WPA}}プログラムの下で10の巨大なスイミングプールの建設を担当。合わせて66,000人の水泳選手を収容することができた<ref>{{Cite web|url=http://ny.curbed.com/archives/2013/08/29/revisiting_the_11_pools_whose_gala_openings_defined_1936.php|title=Revisiting The 11 Pools Whose Gala Openings Defined 1936|website=Curbed NY|date=2013-08-29}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Gutman|first=M.|year=2008|title=Race, Place, and Play: Robert Moses and the WPA Swimming Pools in New York City|journal=Journal of the Society of Architectural Historians|volume=67|issue=4|pages=532?561|DOI=10.1525/jsah.2008.67.4.532|JSTOR=10.1525/jsah.2008.67.4.532}}</ref>。そのようなプールの1つは[[ブルックリン区|ブルックリン]]の [[マッカレンパーク]]{{enlink|McCarren Park}}プールで、何十年もの間特別な文化イベントのためだけに使われたが、後で一般に開放されたが、モーゼスはアフリカ系アメリカ人の水泳選手をプールやビーチから遠ざけるための措置を執ったされている<ref>{{Cite web|url=http://www.nycgovparks.org/sub_about/parks_divisions/capital/parks/mc_carren_park_and_pool.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080502044351/http://www.nycgovparks.org/sub_about/parks_divisions/capital/parks/mc_carren_park_and_pool.html|archivedate=May 2, 2008|title=McCarren Park &amp; Pool|website=New York City Department of Parks & Recreation|accessdate=September 1, 2008}}</ref>。ある部下は、モーゼスがアフリカ系アメリカ人は冷たい水が好きではないと信じていたため、プールは数度の低温に保たれるべきであるといったモーゼスの事を覚えているという{{Sfn|Caro|1974|p=318-319}}。


ジョーンズビーチは1930年に開業され、大好評を博し、何百万人という人で毎夏大にぎわいであった。このブロジェクトを成功させた功績で、モーゼスはそれから始まる政治的混乱のなかでも権力の座にいつづけたのである。市長はラガーディアからオドワイヤー、インペリテリそして最後はワグナーに代わったが誰一人としてモーゼスには逆らえなかった。歴代の州知事ははれ物に触るように気を遣い、そして大統領でさえも彼を追放できない状態の50年代頃には、一般の市民はいうに及ばず、もう誰もロバート・モーゼスと争いごとを起こして打ち負かすことなどできなくなっていた。
ジョーンズビーチは1930年に開業され、大好評を博し、何百万人という人で毎夏大にぎわいであった。このブロジェクトを成功させた功績で、モーゼスはそれから始まる政治的混乱のなかでも権力の座にいつづけたのである。市長はラガーディアからオドワイヤー、インペリテリそして最後はワグナーに代わったが誰一人としてモーゼスには逆らえなかった。歴代の州知事ははれ物に触るように気を遣い、そして大統領でさえも彼を追放できない状態の50年代頃には、一般の市民はいうに及ばず、もう誰もロバート・モーゼスと争いごとを起こして打ち負かすことなどできなくなっていた。
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モーゼスはニューヨーク市住宅公団公営住宅プロジェクトの建設を統括し、さらに他の多くの事業体をも統括したが、彼に最も権力を与えたのはトライボロー橋公社の長であった{{Sfn|Caro|1974}}。
モーゼスはニューヨーク市住宅公団公営住宅プロジェクトの建設を統括し、さらに他の多くの事業体をも統括したが、彼に最も権力を与えたのはトライボロー橋公社の長であった{{Sfn|Caro|1974}}。


1936年に[[トライボロー橋]](現在は正式にはロバートF.ケネディ記念橋)が開通。[[ブロンクス区|ブロンクス]] [[マンハッタン]] [[クイーンズ区|クイーンズ]]を3つの別々のスパンで結んでいる。当局の[[債券|公債]]契約および複数年にわたる総裁職任命により、市長および知事からの圧力をほとんど受けないようになった。ニューヨーク市とニューヨーク州は永久的にに資金を浪費していたが、橋の通行料収入は年間数千万ドルに達していた。[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]]当局は、債券を売って数百万ドルを調達することが可能で<ref>{{Cite book|title=Empire on the Hudson|last=Doig|first=Jameson W.|date=2002-11-15|publisher=Columbia University Press|isbn=9780231076777|language=English}}</ref>、大規模な公共建設プロジェクトに資金を提供。その後橋の交通量がすべての予測を上回ったため、通行料収入は急速に増加。債券を返済するのではなく、モーゼスはその収入を使って他の有料プロジェクトを建設していく<ref name="Nexus">{{Cite web|author=Carion|first=Carlos|title=Robert Moses|url=http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/cs3.pdf|publisher=Nexus.umn.edu|accessdate=24 December 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126180045/http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/CS3.pdf|archivedate=November 26, 2014}}</ref>。
1936年に[[トライボロー橋]](現在は正式にはロバートF.ケネディ記念橋)が開通。[[ブロンクス区|ブロンクス]]、[[マンハッタン]]、[[クイーンズ区|クイーンズ]]を3つの別々のスパンで結んでいる。当局の[[債券|公債]]契約および複数年にわたる総裁職任命により、市長および知事からの圧力をほとんど受けないようになった。ニューヨーク市とニューヨーク州は永久的にに資金を浪費していたが、橋の通行料収入は年間数千万ドルに達していた。[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]]当局は、債券を売って数百万ドルを調達することが可能で<ref>{{Cite book|title=Empire on the Hudson|last=Doig|first=Jameson W.|date=2002-11-15|publisher=Columbia University Press|isbn=9780231076777|language=English}}</ref>、大規模な公共建設プロジェクトに資金を提供。その後橋の交通量がすべての予測を上回ったため、通行料収入は急速に増加。債券を返済するのではなく、モーゼスはその収入を使って他の有料プロジェクトを建設していく<ref name="Nexus">{{Cite web|author=Carion|first=Carlos|title=Robert Moses|url=http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/cs3.pdf|publisher=Nexus.umn.edu|accessdate=24 December 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126180045/http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/CS3.pdf|archivedate=November 26, 2014}}</ref>。


==== ブルックリン - バッテリーリンク ====
==== ブルックリン - バッテリーリンク ====
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== 都市計画事業への関与と陰り ==
== 都市計画事業への関与と陰り ==
[[ファイル:Unisphere.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Unisphere.jpg|右|サムネイル|ニューヨーク州立パビリオンの展望台から見た1964年から1965年のニューヨーク万国博覧会の眺め。フェアのシンボル、 [[ユニスフィア]]は中心的なイメージです。]]
[[ファイル:Unisphere.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Unisphere.jpg|右|サムネイル|ニューヨーク州立パビリオンの展望台から見た1964年から1965年のニューヨーク万国博覧会の眺め。フェアのシンボル、[[ユニスフィア]]は中心的なイメージです。]]


=== 戦後の都市開発プロジェクトの影響 ===
=== 戦後の都市開発プロジェクトの影響 ===


[[ファイル:United_Nations_HQ_-_New_York_City.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:United_Nations_HQ_-_New_York_City.jpg|左|サムネイル|[[イースト川|イーストリバー]]から見たニューヨークの[[国際連合本部ビル|国連本部]]。[[国際連合事務局ビル|事務局棟]]は左側、 [[国際連合総会|総会]]棟は塔の右側の低い建物です。この建物群は、もう一つのモーゼスの創造物である[[フランクリン・D・ルーズベルト・イースト・リバー・ドライブ|FDRドライブ]]にまたがっている]]
[[ファイル:United_Nations_HQ_-_New_York_City.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:United_Nations_HQ_-_New_York_City.jpg|左|サムネイル|[[イースト川|イーストリバー]]から見たニューヨークの[[国際連合本部ビル|国連本部]]。[[国際連合事務局ビル|事務局棟]]は左側、[[国際連合総会|総会]]棟は塔の右側の低い建物です。この建物群は、もう一つのモーゼスの創造物である[[フランクリン・D・ルーズベルト・イースト・リバー・ドライブ|FDRドライブ]]にまたがっている]]


行政機構の問題から転じて、モーゼスがはじめて都市計画に手を染めたのは、1920年、知事の命により、ニューヨーク州の公園と道路の改良計画を作成したことである。1924年に、ニューヨーク州公園委員会が設立されると、彼はその委員長に任命された。モーゼス36歳の時である。また、ニューヨーク州の一部であるロングアイランドに州立公園が設けられ、委員会ができると、彼はその委員長を兼ねた。
行政機構の問題から転じて、モーゼスがはじめて都市計画に手を染めたのは、1920年、知事の命により、ニューヨーク州の公園と道路の改良計画を作成したことである。1924年に、ニューヨーク州公園委員会が設立されると、彼はその委員長に任命された。モーゼス36歳の時である。また、ニューヨーク州の一部であるロングアイランドに州立公園が設けられ、委員会ができると、彼はその委員長を兼ねた。
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[[第二次大戦後]]には、米国軍部の要請に応えて、ドイツの経済状態について詳細な調査を実施している。このほか、[[ピッツバーグ]]、[[ポートランド]]、[[ボルティモア]]、[[ニューオーリンズ]]、[[ハートフォード]]などの[[市政]]について、あるいは、[[都市計画]]について助言を与えている。
[[第二次大戦後]]には、米国軍部の要請に応えて、ドイツの経済状態について詳細な調査を実施している。このほか、[[ピッツバーグ]]、[[ポートランド]]、[[ボルティモア]]、[[ニューオーリンズ]]、[[ハートフォード]]などの[[市政]]について、あるいは、[[都市計画]]について助言を与えている。


[[第二次世界大戦]]後、ラガーディア市長が引退し、一連の後継者は彼の提案のほとんどすべてに同意するほど、モーゼスの力は高まった。1946年に[[ウィリアム・オドワイヤー]]市長によって市の「建設コーディネーター」に任命され、モーゼスは[[ワシントンD.C.|ワシントン]]とニューヨーク市の''事実上の''窓口代表になった。モーゼスはまた、ラガーディアの下で免れていた[[ニューヨーク市住宅公団|公営住宅]]に対する権限も与えられた。オドワイヤーが不名誉の中で辞任を余儀なくされ、ヴィンセント・R・インペリテリ{{enlink|Vincent R. Impellitteri}}が後継になったとき、モーゼスは[[インフラストラクチャー]]プロジェクトに対してさらに大きな舞台裏のコントロールをすることが可能となる{{Sfn|Caro|1974}}。モーゼスの最初のステップの一つはインペリテリが就任した後、街中に及ぶ市長のほぼ無限の力を削減して、その過程で1938年以来進行中であった市全体の総合ゾーニング計画作成を停止させた。モーゼスはまた、ニューヨーク市のプロジェクトのためにワシントンで交渉する唯一の権限を与えられた。1959年までに、彼は何百エーカーもの土地に28,000のアパートを建設する責任者にも就任。その頃は[[タワー]]化する際は[[公園の塔]]というコンセプト、高層ビルの間に草が茂るエリアを残すことが革新的で有益であると考えられていたのであるが、高層ビル建設に際して敷地を確保する際に、モーゼスは時に彼が建てたのと同じくらい多くの住宅を破壊した{{Sfn|Caro|1974}}。
[[第二次世界大戦]]後、ラガーディア市長が引退し、一連の後継者は彼の提案のほとんどすべてに同意するほど、モーゼスの力は高まった。1946年に[[ウィリアム・オドワイヤー]]市長によって市の「建設コーディネーター」に任命され、モーゼスは[[ワシントンD.C.|ワシントン]]とニューヨーク市の''事実上の''窓口代表になった。モーゼスはまた、ラガーディアの下で免れていた[[ニューヨーク市住宅公団|公営住宅]]に対する権限も与えられた。オドワイヤーが不名誉の中で辞任を余儀なくされ、ヴィンセント・R・インペリテリ{{enlink|Vincent R. Impellitteri}}が後継になったとき、モーゼスは[[インフラストラクチャー]]プロジェクトに対してさらに大きな舞台裏のコントロールをすることが可能となる{{Sfn|Caro|1974}}。モーゼスの最初のステップの一つはインペリテリが就任した後、街中に及ぶ市長のほぼ無限の力を削減して、その過程で1938年以来進行中であった市全体の総合ゾーニング計画作成を停止させた。モーゼスはまた、ニューヨーク市のプロジェクトのためにワシントンで交渉する唯一の権限を与えられた。1959年までに、彼は何百エーカーもの土地に28,000のアパートを建設する責任者にも就任。その頃は[[タワー]]化する際は[[公園の塔]]というコンセプト、高層ビルの間に草が茂るエリアを残すことが革新的で有益であると考えられていたのであるが、高層ビル建設に際して敷地を確保する際に、モーゼスは時に彼が建てたのと同じくらい多くの住宅を破壊した{{Sfn|Caro|1974}}。


1930年代から1960年代にかけて、[[スロッグスネック橋]]{{enlink|Throgs Neck}}、[[ブロンクス・ホワイトストーン橋]]、[[ヘンリー・ハドソン橋]]、そして[[ヴェラザノ=ナローズ・ブリッジ]]{{enlink|Verrazzano-Narrows}}の橋の建設を担当。彼の他のプロジェクトには [[州間高速道路278号線|ブルックリン、クイーンズ高速道路]]と[[州間高速道路278号線|スタテン島高速道路]]があり、[[州間高速道路278号線|インターステート278]] ; [[クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ|クロスブロンクス高速道路]]も含めほとんどが一緒の構成。ほかにも多くのニューヨーク州立[[パークウェイ]]そして他の高速道路も手掛ける。連邦が関心を示したパークウェイから[[高速道路|フリーウェイ]]システムへと移行し、戦前の高速道路の景観や商業交通規制に欠けていたものを、新しい道路では大部分を新しいビジョンに適合させた。彼は[[シェイ・スタジアム]]と[[リンカーン・センター]]の事業にも背後に関わり、[[国際連合本部ビル|国連本部]]誘致にも貢献{{Sfn|Caro|1974}}。
1930年代から1960年代にかけて、[[スロッグスネック橋]]{{enlink|Throgs Neck}}、[[ブロンクス・ホワイトストーン橋]]、[[ヘンリー・ハドソン橋]]、そして[[ヴェラザノ=ナローズ・ブリッジ]]{{enlink|Verrazzano-Narrows}}の橋の建設を担当。彼の他のプロジェクトには [[州間高速道路278号線|ブルックリン、クイーンズ高速道路]]と[[州間高速道路278号線|スタテン島高速道路]]があり、[[州間高速道路278号線|インターステート278]] ; [[クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ|クロスブロンクス高速道路]]も含めほとんどが一緒の構成。ほかにも多くのニューヨーク州立[[パークウェイ]]そして他の高速道路も手掛ける。連邦が関心を示したパークウェイから[[高速道路|フリーウェイ]]システムへと移行し、戦前の高速道路の景観や商業交通規制に欠けていたものを、新しい道路では大部分を新しいビジョンに適合させた。彼は[[シェイ・スタジアム]]と[[リンカーン・センター]]の事業にも背後に関わり、[[国際連合本部ビル|国連本部]]誘致にも貢献{{Sfn|Caro|1974}}。


モーゼスはニューヨーク地域以外にも影響を及ぼす。1940年代から1950年代初頭にかけて、アメリカの多くの小都市の公務員が彼を雇って高速道路網を建設した。例えば、 [[オレゴン州]] [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]は1943年にモーゼスを雇った。彼の計画は[[ダウンタウン・ポートランド|街の中心]]を一周する輪を含み、 [[拍車ルート|拍車]]が近所を走っていた。この計画のうち、 [[州間高速道路405号線(オレゴン)|I-405]] [[オレゴン州の州間高速道路5|I-5]]とのリンク、および[[フリーモントブリッジ(ポートランド)|フリーモントブリッジ]]のみが建設された<ref>{{Cite web|title=Feb. 4, 1974: Portland kills the Mount Hood Freeway|url=http://www.wweek.com/portland/article-23466-feb-4-1974-portland-kills-the-mount-hood-freeway.html|date=November 5, 2014|first=Aaron|author=Mesh|publisher=[[Willamette Week]]|quote=Every great civilization has an origin story.|accessdate=2014-11-21}}</ref>。現代のポートランドのために築いたのがロバート・モーゼズ、車通勤者、スモッグ、およびスプロールを「ビッグアップル」に連れて来たのは、高速道路と橋に関するニューヨーク市のグリッド建築請負師モーゼスである。1943年に、ポートランドの都市は、その都市の未来をデザインするために、モーゼスを雇用した。モーゼスは、地域を走り抜けている拍車高速自動車道路の網で都市のコアのまわりのハイウェーループをチャートで示した。都市と状態はその計画の多くを抱擁した。モーゼスが想像したループが、各州間で実現ことになったが、それとしての405は、フリーモント橋を横切って、北で、都心部と運転する南のI-5と結び付ける。
モーゼスはニューヨーク地域以外にも影響を及ぼす。1940年代から1950年代初頭にかけて、アメリカの多くの小都市の公務員が彼を雇って高速道路網を建設した。例えば、[[オレゴン州]] [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]は1943年にモーゼスを雇った。彼の計画は[[ダウンタウン・ポートランド|街の中心]]を一周する輪を含み、[[拍車ルート|拍車]]が近所を走っていた。この計画のうち、[[州間高速道路405号線(オレゴン)|I-405]]、[[オレゴン州の州間高速道路5|I-5]]とのリンク、および[[フリーモントブリッジ(ポートランド)|フリーモントブリッジ]]のみが建設された<ref>{{Cite web|title=Feb. 4, 1974: Portland kills the Mount Hood Freeway|url=http://www.wweek.com/portland/article-23466-feb-4-1974-portland-kills-the-mount-hood-freeway.html|date=November 5, 2014|first=Aaron|author=Mesh|publisher=[[Willamette Week]]|quote=Every great civilization has an origin story.|accessdate=2014-11-21}}</ref>。現代のポートランドのために築いたのがロバート・モーゼズ、車通勤者、スモッグ、およびスプロールを「ビッグアップル」に連れて来たのは、高速道路と橋に関するニューヨーク市のグリッド建築請負師モーゼスである。1943年に、ポートランドの都市は、その都市の未来をデザインするために、モーゼスを雇用した。モーゼスは、地域を走り抜けている拍車高速自動車道路の網で都市のコアのまわりのハイウェーループをチャートで示した。都市と状態はその計画の多くを抱擁した。モーゼスが想像したループが、各州間で実現ことになったが、それとしての405は、フリーモント橋を横切って、北で、都心部と運転する南のI-5と結び付ける。


モーゼスは自動車の運転方法を知っていたが、有効な運転免許証を所持せず<ref name="asimov">{{Cite book|last=Asimov|first=Isaac|author-link=Isaac Asimov|title=Isaac Asimov's Book of Facts|page=105|chapter=Eccentricities|isbn=978-0-448-15776-4|year=1979|publisher=Grosset & Dunlap|loenion=New York}}</ref>、代わりに彼は運転手付きリムジンに頼った。
モーゼスは自動車の運転方法を知っていたが、有効な運転免許証を所持せず<ref name="asimov">{{Cite book|last=Asimov|first=Isaac|author-link=Isaac Asimov|title=Isaac Asimov's Book of Facts|page=105|chapter=Eccentricities|isbn=978-0-448-15776-4|year=1979|publisher=Grosset & Dunlap|loenion=New York}}</ref>、代わりに彼は運転手付きリムジンに頼った。
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==== ブルックリンドジャース ====
==== ブルックリンドジャース ====


[[ブルックリン・ブライドグルームス|ブルックリン・ドジャース]]の所有者[[ウォルター・オマリー]]は[[エベッツ・フィールド]]を、時代遅れと荒廃から置き換えるように努めた。何年かにわたり彼が構築するために提案したのは、ロングアイランド鉄道駅入り口近くの、アトランティックとフラットブッシュ通りの角地を徴用し、そこをドジャースの新しい本拠地にしようと考えていた。新スタジアムの近くには[[ロングアイランド鉄道]]のアトランティック・アベニューと次にフラットブッシュ・アベニュー(の角に[[バークレイズ・センター]]、 [[NBA]] [[ブルックリン・ネッツ]]と[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]] [[ニューヨーク・アイランダース]]の本拠地)があり、オマリーはモーゼスに著名な点を考慮してこの財産を守るのを手助けするように相談した。
[[ブルックリン・ブライドグルームス|ブルックリン・ドジャース]]の所有者[[ウォルター・オマリー]]は[[エベッツ・フィールド]]を、時代遅れと荒廃から置き換えるように努めた。何年かにわたり彼が構築するために提案したのは、ロングアイランド鉄道駅入り口近くの、アトランティックとフラットブッシュ通りの角地を徴用し、そこをドジャースの新しい本拠地にしようと考えていた。新スタジアムの近くには[[ロングアイランド鉄道]]のアトランティック・アベニューと次にフラットブッシュ・アベニュー(の角に[[バークレイズ・センター]]、[[NBA]] [[ブルックリン・ネッツ]]と[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]] [[ニューヨーク・アイランダース]]の本拠地)があり、オマリーはモーゼスに著名な点を考慮してこの財産を守るのを手助けするように相談した。
[[住宅郊外化]]の動きとモーゼスのつくった道路網のおかげで、ドジャースの[[ファン]]は市中から逃れてロングアイランドの新興開発地域レビットタウンなどに居を移してしまっていたのであり、ドジャース本拠地の[[エベッツフィールド]]はロングアイランド鉄道の駅から遠く、しかも駐車場が七百台分しかないこともあって以前の活気はなくなっていた。入場者の数が顕著に落ち込み、[[野球場]]はさびれていたのである。
[[住宅郊外化]]の動きとモーゼスのつくった道路網のおかげで、ドジャースの[[ファン]]は市中から逃れてロングアイランドの新興開発地域レビットタウンなどに居を移してしまっていたのであり、ドジャース本拠地の[[エベッツフィールド]]はロングアイランド鉄道の駅から遠く、しかも駐車場が七百台分しかないこともあって以前の活気はなくなっていた。入場者の数が顕著に落ち込み、[[野球場]]はさびれていたのである。


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その年の[[ヤンキース]]とのワールドシリーズ戦でオマリーはチームを[[ロサンゼルス]]に移すと宣告、今に至るまでモーゼスはドジャースを[[ブルックリン]]から引き離した[[張本人]]として悪しざまに言われている。
その年の[[ヤンキース]]とのワールドシリーズ戦でオマリーはチームを[[ロサンゼルス]]に移すと宣告、今に至るまでモーゼスはドジャースを[[ブルックリン]]から引き離した[[張本人]]として悪しざまに言われている。
一方でオマリーは多くの有力者とつながりが深いアイルランド系実業家で、戦略的な考えの持ち主であったが、打開策は見つけられなかった。
一方でオマリーは多くの有力者とつながりが深いアイルランド系実業家で、戦略的な考えの持ち主であったが、打開策は見つけられなかった。
1957年のシーズンの後、ドジャースは[[ロサンゼルス]]へ、ニューヨークジャイアンツは[[サンフランシスコ]]へ向かった{{Sfn|Caro|1974}}。モーゼス後で55,000席の多目的構築することができた[[シェイ・スタジアム]]の敷地に、建設は1961年10月から1964年4月にその完成が遅れるまで続いた。スタジアムが破壊されて[[シティ・フィールド]]に置き換えられた2008年までシェアでプレーしていた[[ニューヨーク・メッツ]]は 、スタジアムは拡大のフランチャイズを集めた。[[ニューヨーク・ジェッツ]]のサッカーチームは1964年から1983年までシェアリングでホームゲームをプレイし、その後チームはニュージャージー州の[[メットライフ・スポーツ・コンプレックス]]にホームを移した<ref name="Murphy">{{Cite news|last=Murphy|first=Robert|title=OMalley-vs-Moses|url=http://www.huffingtonpost.com/robert-e-murphy/omalley-vs-モーゼス-a-half-c_b_219569.html|newspaper=Huffington Post|date=June 24, 2009}}</ref>。
1957年のシーズンの後、ドジャースは[[ロサンゼルス]]へ、ニューヨークジャイアンツは[[サンフランシスコ]]へ向かった{{Sfn|Caro|1974}}。モーゼス後で55,000席の多目的構築することができた[[シェイ・スタジアム]]の敷地に、建設は1961年10月から1964年4月にその完成が遅れるまで続いた。スタジアムが破壊されて[[シティ・フィールド]]に置き換えられた2008年までシェアでプレーしていた[[ニューヨーク・メッツ]]は、スタジアムは拡大のフランチャイズを集めた。[[ニューヨーク・ジェッツ]]のサッカーチームは1964年から1983年までシェアリングでホームゲームをプレイし、その後チームはニュージャージー州の[[メットライフ・スポーツ・コンプレックス]]にホームを移した<ref name="Murphy">{{Cite news|last=Murphy|first=Robert|title=OMalley-vs-Moses|url=http://www.huffingtonpost.com/robert-e-murphy/omalley-vs-モーゼス-a-half-c_b_219569.html|newspaper=Huffington Post|date=June 24, 2009}}</ref>。


=== モーゼス時代の終わり ===
=== モーゼス時代の終わり ===


しかし彼の30年代から50年代までの影響力も1960年代にはかげりりを見せ、[[:en:Pennsylvania Station (1910–1963)|旧ペンシルベニア駅]]を反対を押し切っての取り壊し、[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)]]の入場者が予想以下の低迷、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を横断する[[ロウアー・マンハッタン|下部マンハッタン]]高速道路([[:en:Lower Manhattan Expressway|Lower Manhattan Expressway]])が[[ジェイン・ジェイコブズ]]の代表を務める草の根会の反対などで取り止めなどがあった[http://www.minto.or.jp/print/urbanstudy/pdf/u53_01.pdf][http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/2400/1/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E8%AB%96%E6%96%87.pdf]<ref Name=a>フリント(2011)</ref> <ref Name=b>渡邉(2018)</ref>。
しかし彼の30年代から50年代までの影響力も1960年代にはかげりりを見せ、[[:en:Pennsylvania Station (1910–1963)|旧ペンシルベニア駅]]を反対を押し切っての取り壊し、[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)]]の入場者が予想以下の低迷、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を横断する[[ロウアー・マンハッタン|下部マンハッタン]]高速道路([[:en:Lower Manhattan Expressway|Lower Manhattan Expressway]])が[[ジェイン・ジェイコブズ]]の代表を務める草の根会の反対などで取り止めなどがあった[http://www.minto.or.jp/print/urbanstudy/pdf/u53_01.pdf][http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/2400/1/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E8%AB%96%E6%96%87.pdf]<ref Name=a>フリント(2011)</ref> <ref Name=b>渡邉(2018)</ref>。


[[ファイル:30_years_of_progress,_1934-1964_-_Department_of_Parks_-_300th_anniversary_of_the_City_of_New_York_-_New_York_World's_Fair._(1964)_(16478136350).jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:30_years_of_progress,_1934-1964_-_Department_of_Parks_-_300th_anniversary_of_the_City_of_New_York_-_New_York_World's_Fair._(1964)_(16478136350).jpg|左|サムネイル|1964年のParks Departmentのマップ。未構築の道路や部分的にしか完成していない高速道路など、モーゼスの多数のプロジェクトを示している。]]
[[ファイル:30_years_of_progress,_1934-1964_-_Department_of_Parks_-_300th_anniversary_of_the_City_of_New_York_-_New_York_World's_Fair._(1964)_(16478136350).jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:30_years_of_progress,_1934-1964_-_Department_of_Parks_-_300th_anniversary_of_the_City_of_New_York_-_New_York_World's_Fair._(1964)_(16478136350).jpg|左|サムネイル|1964年のParks Departmentのマップ。未構築の道路や部分的にしか完成していない高速道路など、モーゼスの多数のプロジェクトを示している。]]
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モーゼスの評判は1960年代の間に薄れ始めた。この頃、モーゼスの政治的洞察力をもってしてもおそらく勝つことができなかったいくつか物議をかもす政治的な戦いの道を進んだので、失敗し始めた。たとえば、無料のShakespeare in the Parkプログラムに対する彼のキャンペーンは、多くの否定的喧伝を受け、高価なTavern-on-the-Greenレストランの駐車場を確保するために[[セントラルパーク]]の日陰と化す遊び場を破壊しようとし、アッパーウエストサイドの中流階級有権者間において敵と化した。
モーゼスの評判は1960年代の間に薄れ始めた。この頃、モーゼスの政治的洞察力をもってしてもおそらく勝つことができなかったいくつか物議をかもす政治的な戦いの道を進んだので、失敗し始めた。たとえば、無料のShakespeare in the Parkプログラムに対する彼のキャンペーンは、多くの否定的喧伝を受け、高価なTavern-on-the-Greenレストランの駐車場を確保するために[[セントラルパーク]]の日陰と化す遊び場を破壊しようとし、アッパーウエストサイドの中流階級有権者間において敵と化した。


反対は[[ペンシルバニア駅]]の取り壊しでクライマックスに達するが、その多くはモーゼス「開発計画」で培った考え方に起因する<ref>{{Cite news|title=Rethinking Robert Moses|first=Phillip|last=Lopate|url=http://www.metropolismag.com/story/20070313/rethinking-robert-Moses|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090301063044/http://www.metropolismag.com/story/20070313/rethinking-robert-Moses|archivedate=March 1, 2009|newspaper=[[Metropolis (architecture magazine)|Metropolis Magazine]]|date=March 13, 2007|accessdate=October 9, 2010}}</ref>。解体は財政的に厳しかったにもかかわらず、[[ペンシルバニア鉄道]]が実際に解体を担当していたのである<ref name="The Nation">{{Cite journal|last=Kay|first=Jane Holtz|date=April 24, 1989|title=Robert Moses: The Master Builder|url=http://www.janeholtzkay.com/articles/masterbuilder.pdf|journal=The Nation|volume=248|issue=16|page=569|accessdate=October 9, 2010}}{{リンク切れ|date=December 2017}}</ref>が、この時期偶然に起きたニューヨークの最も偉大な建築物の目印の破壊は、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を通り抜けていたであろうローワーマンハッタンエクスプレスウェイと現在の[[ソーホー (ニューヨーク)|ソーホー]]を建設するというモーゼスの計画に多くの都市住民が反対するよう促すこととなった<ref>{{Cite web|url=http://greeneconomics.blogspot.com/2007/05/robert-モーゼス-new-york-citys-master.html|title=Environmental and Urban Economics: Robert Moses: New York City's Master Builder?|publisher=Greeneconomics.blogspot.com|date=May 6, 2007|accessdate=March 12, 2014}}</ref>。この計画もロングアイランド・エクスプレスウェイも政治的に失敗した。この時期の最も批評的な批評家の一人は、都市活動家の[[ジェイン・ジェイコブズ]]だった。著書''[[アメリカ大都市の死と生]]『偉大なアメリカの都市の死と生涯』''は、モーゼスの計画に反対していく方向に導くのに役立っていく。市政府は1964年に高速道路建設を辞退した<ref>{{Cite news|url=https://www.pbs.org/wnet/blueprintamerica/video/the-dig-web-video-the-master-builder-1977/925/|title=The Next American System&nbsp;? The Master Builder (1977)|publisher=[[PBS]]|date=February 3, 2010}}</ref>。
反対は[[ペンシルバニア駅]]の取り壊しでクライマックスに達するが、その多くはモーゼス「開発計画」で培った考え方に起因する<ref>{{Cite news|title=Rethinking Robert Moses|first=Phillip|last=Lopate|url=http://www.metropolismag.com/story/20070313/rethinking-robert-Moses|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090301063044/http://www.metropolismag.com/story/20070313/rethinking-robert-Moses|archivedate=March 1, 2009|newspaper=[[Metropolis (architecture magazine)|Metropolis Magazine]]|date=March 13, 2007|accessdate=October 9, 2010}}</ref>。解体は財政的に厳しかったにもかかわらず、[[ペンシルバニア鉄道]]が実際に解体を担当していたのである<ref name="The Nation">{{Cite journal|last=Kay|first=Jane Holtz|date=April 24, 1989|title=Robert Moses: The Master Builder|url=http://www.janeholtzkay.com/articles/masterbuilder.pdf|journal=The Nation|volume=248|issue=16|page=569|accessdate=October 9, 2010}}{{リンク切れ|date=December 2017}}</ref>が、この時期偶然に起きたニューヨークの最も偉大な建築物の目印の破壊は、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を通り抜けていたであろうローワーマンハッタンエクスプレスウェイと現在の[[ソーホー (ニューヨーク)|ソーホー]]を建設するというモーゼスの計画に多くの都市住民が反対するよう促すこととなった<ref>{{Cite web|url=http://greeneconomics.blogspot.com/2007/05/robert-モーゼス-new-york-citys-master.html|title=Environmental and Urban Economics: Robert Moses: New York City's Master Builder?|publisher=Greeneconomics.blogspot.com|date=May 6, 2007|accessdate=March 12, 2014}}</ref>。この計画もロングアイランド・エクスプレスウェイも政治的に失敗した。この時期の最も批評的な批評家の一人は、都市活動家の[[ジェイン・ジェイコブズ]]だった。著書''[[アメリカ大都市の死と生]]『偉大なアメリカの都市の死と生涯』''は、モーゼスの計画に反対していく方向に導くのに役立っていく。市政府は1964年に高速道路建設を辞退した<ref>{{Cite news|url=https://www.pbs.org/wnet/blueprintamerica/video/the-dig-web-video-the-master-builder-1977/925/|title=The Next American System&nbsp;? The Master Builder (1977)|publisher=[[PBS]]|date=February 3, 2010}}</ref>。


モーゼスの権力は[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|1964年のニューヨーク万国博覧会]]との関係によってさらに侵食された。このイベントに7000万人が参加するとの彼の予想は非常に楽観的であることを証明し、公正な幹部や請負業者に対する寛大な契約問題は経済的にも悪化させた。それとは反対の証拠にもかかわらず、モーゼスが公正かつ重大な財政的困難を公然と否定した結果、報道機関および政府機関による調査が引き起こされ、会計上の不正が発見された<ref name="Nexus2">{{Cite web|author=Carion|first=Carlos|title=Robert Moses|url=http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/cs3.pdf|publisher=Nexus.umn.edu|accessdate=24 December 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126180045/http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/CS3.pdf|archivedate=November 26, 2014}}</ref>。見本市では、モーゼスの評判は、過去において有利に働いていたのと同じ個人的な性格を出しかえって損なわれていた:プレスらの意見を軽視など。<!---"312"--->さらにこのようなイベントを監督する世界的機関[[博覧会国際事務局]] (BIE)によってフェアが認可されていないという事実はイベントの成功にとって計り知れない<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=zGMdyCdCT9c|title=Robert Moses: Long Island's Master Builder|website=YouTube|accessdate=December 24, 2014}}</ref>のであるが、モーゼスは出展者への地上賃料の請求に対する制限を含むBIEの要件を受け入れることを拒否し、BIEはその加盟国に参加しないように指示<ref name="learn.columbia">{{Cite web|url=http://www.learn.columbia.edu/Moses/|title=Robert Moses|publisher=Learn.columbia.edu|accessdate=December 24, 2014}}</ref>、さらにアメリカ合衆国はすでに1962年に[[シアトル]]で認可された[[シアトル万国博覧会]]を開催しており、組織の規則によると、10年間でどの国も1つ以上のフェアを開催することはできないのであったため、ヨーロッパの主要な民主主義者、そしてカナダ、オーストラリア、そしてソビエト連邦はすべてBIEのメンバーであり、彼らは参加を拒否し、代わりに[[モントリオール]]での[[モントリオール万国博覧会|エキスポ67]]のために参加準備を注入した。
モーゼスの権力は[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|1964年のニューヨーク万国博覧会]]との関係によってさらに侵食された。このイベントに7000万人が参加するとの彼の予想は非常に楽観的であることを証明し、公正な幹部や請負業者に対する寛大な契約問題は経済的にも悪化させた。それとは反対の証拠にもかかわらず、モーゼスが公正かつ重大な財政的困難を公然と否定した結果、報道機関および政府機関による調査が引き起こされ、会計上の不正が発見された<ref name="Nexus2">{{Cite web|author=Carion|first=Carlos|title=Robert Moses|url=http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/cs3.pdf|publisher=Nexus.umn.edu|accessdate=24 December 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126180045/http://nexus.umn.edu/Courses/Cases/CE5212/F2009/CS3/CS3.pdf|archivedate=November 26, 2014}}</ref>。見本市では、モーゼスの評判は、過去において有利に働いていたのと同じ個人的な性格を出しかえって損なわれていた:プレスらの意見を軽視など。<!---"312"--->さらにこのようなイベントを監督する世界的機関[[博覧会国際事務局]] (BIE)によってフェアが認可されていないという事実はイベントの成功にとって計り知れない<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=zGMdyCdCT9c|title=Robert Moses: Long Island's Master Builder|website=YouTube|accessdate=December 24, 2014}}</ref>のであるが、モーゼスは出展者への地上賃料の請求に対する制限を含むBIEの要件を受け入れることを拒否し、BIEはその加盟国に参加しないように指示<ref name="learn.columbia">{{Cite web|url=http://www.learn.columbia.edu/Moses/|title=Robert Moses|publisher=Learn.columbia.edu|accessdate=December 24, 2014}}</ref>、さらにアメリカ合衆国はすでに1962年に[[シアトル]]で認可された[[シアトル万国博覧会]]を開催しており、組織の規則によると、10年間でどの国も1つ以上のフェアを開催することはできないのであったため、ヨーロッパの主要な民主主義者、そしてカナダ、オーストラリア、そしてソビエト連邦はすべてBIEのメンバーであり、彼らは参加を拒否し、代わりに[[モントリオール]]での[[モントリオール万国博覧会|エキスポ67]]のために参加準備を注入した。
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世界博覧会の大失敗の後、ニューヨーク市長[[ジョン・リンゼイ]]は[[ネルソン・ロックフェラー]]知事と共に、[[ニューヨーク市地下鉄]]運営費など市の当時財政的に苦しんでいた機関の赤字を補うためにトライボロー・ブリッジ・アンド・トンネル・オーソリティ(TBTA)の橋とトンネルからの収入を振り分けようとした。モーゼスはこの考えに反対し、財政流入を防ぐために戦った<ref name="The Nation2">{{Cite journal|last=Kay|first=Jane Holtz|date=April 24, 1989|title=Robert Moses: The Master Builder|url=http://www.janeholtzkay.com/articles/masterbuilder.pdf|journal=The Nation|volume=248|issue=16|page=569|accessdate=October 9, 2010}}{{リンク切れ|date=December 2017}}</ref>。リンゼイは彼の着任ポストからモーゼスを外した。そして、市の最高責任者としてワシントンで連邦高速道路の利益のためにと提唱することになる。
世界博覧会の大失敗の後、ニューヨーク市長[[ジョン・リンゼイ]]は[[ネルソン・ロックフェラー]]知事と共に、[[ニューヨーク市地下鉄]]運営費など市の当時財政的に苦しんでいた機関の赤字を補うためにトライボロー・ブリッジ・アンド・トンネル・オーソリティ(TBTA)の橋とトンネルからの収入を振り分けようとした。モーゼスはこの考えに反対し、財政流入を防ぐために戦った<ref name="The Nation2">{{Cite journal|last=Kay|first=Jane Holtz|date=April 24, 1989|title=Robert Moses: The Master Builder|url=http://www.janeholtzkay.com/articles/masterbuilder.pdf|journal=The Nation|volume=248|issue=16|page=569|accessdate=October 9, 2010}}{{リンク切れ|date=December 2017}}</ref>。リンゼイは彼の着任ポストからモーゼスを外した。そして、市の最高責任者としてワシントンで連邦高速道路の利益のためにと提唱することになる。


TBTAを新たに創設された[[メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ]]{{enlink|Metropolitan Transportation Authority}}(MTA)に組み入れるという議会の投票は、TBTAの債権者による訴訟につながる可能性、債券契約は州法に記載されているので債権者がそのような訴訟に関して承認の権利を持っており、既存の契約上義務を損なうことは違憲であった。しかし、TBTA債券の最大の保有者、他のすべての代理人は知事の兄弟である[[デイヴィッド・ロックフェラー]]が率いる[[チェイスマンハッタン銀行]]であったので訴訟は提起されなかった。モーゼスはTBTAにその訴訟を起こして法廷に行くよう指示することができたかもしれないが、合併した権威の中での役割は約束されていたので、モーゼスは合併に異議を申し立てることを避けた。1968年3月1日にTBTAはMTAにまとめられ、モーゼスはTBTAの長としての地位を断念した。彼は結局MTAのコンサルタントになったがしかし、就任した新会長と知事は彼の権限を凍結。約束された役割は実現せず、そしてすべて実用的な目的に対してモーゼスは力がなかった<ref name="Murphy2">{{Cite news|last=Murphy|first=Robert|title=OMalley-vs-モーゼス|url=http://www.huffingtonpost.com/robert-e-murphy/omalley-vs-モーゼス-a-half-c_b_219569.html|newspaper=Huffington Post|date=June 24, 2009}}</ref>。
TBTAを新たに創設された[[メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ]]{{enlink|Metropolitan Transportation Authority}}(MTA)に組み入れるという議会の投票は、TBTAの債権者による訴訟につながる可能性、債券契約は州法に記載されているので債権者がそのような訴訟に関して承認の権利を持っており、既存の契約上義務を損なうことは違憲であった。しかし、TBTA債券の最大の保有者、他のすべての代理人は知事の兄弟である[[デイヴィッド・ロックフェラー]]が率いる[[チェイスマンハッタン銀行]]であったので訴訟は提起されなかった。モーゼスはTBTAにその訴訟を起こして法廷に行くよう指示することができたかもしれないが、合併した権威の中での役割は約束されていたので、モーゼスは合併に異議を申し立てることを避けた。1968年3月1日にTBTAはMTAにまとめられ、モーゼスはTBTAの長としての地位を断念した。彼は結局MTAのコンサルタントになったがしかし、就任した新会長と知事は彼の権限を凍結。約束された役割は実現せず、そしてすべて実用的な目的に対してモーゼスは力がなかった<ref name="Murphy2">{{Cite news|last=Murphy|first=Robert|title=OMalley-vs-モーゼス|url=http://www.huffingtonpost.com/robert-e-murphy/omalley-vs-モーゼス-a-half-c_b_219569.html|newspaper=Huffington Post|date=June 24, 2009}}</ref>。


モーゼスは、ネルソン・ロックフェラーが最後の偉大な橋梁プロジェクト、ライ~ロングアイランドクロッシング~オイスター・ベイまでを[[横断]]する橋の必要性を確信していると考えていた。ロックフェラーは1960年代後半から1970年代にかけてこのプロジェクトを強く求めず、郊外の共和党員も大衆の反発が自身の再選挙の見通しを妨げることを恐れていた。1972年の調査では、この橋は賢明で環境にやさしいものであることがわかったが、反開発的感情は克服できず、1973年にロックフェラーは橋の計画を取り消した。
モーゼスは、ネルソン・ロックフェラーが最後の偉大な橋梁プロジェクト、ライ~ロングアイランドクロッシング~オイスター・ベイまでを[[横断]]する橋の必要性を確信していると考えていた。ロックフェラーは1960年代後半から1970年代にかけてこのプロジェクトを強く求めず、郊外の共和党員も大衆の反発が自身の再選挙の見通しを妨げることを恐れていた。1972年の調査では、この橋は賢明で環境にやさしいものであることがわかったが、反開発的感情は克服できず、1973年にロックフェラーは橋の計画を取り消した。
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モーゼスのイメージは、1974年にロバート・A・カロによるこの[[ピューリッツァー賞]]受賞伝記の出版で、さらに打撃を受けた。カロの1,200ページの作品(3,000ページを超える長さから編集)は、モーゼスを概して否定的な見方で示した。エッセイストの[[フィリップ・ロパート]]は次のように書いている。「モーゼスの大衆に対する悪魔的な評判は、主にこの書に辿ることができる<ref>{{Cite news|title=A Town Revived, a Villain Redeemed|first=Phillip|last=Lopate|authorlink=Phillip Lopate|url=https://www.nytimes.com/2007/02/11/nyregion/thecity/11moses.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=February 11, 2007|at=Section 14, col. 1|accessdate=August 1, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。
モーゼスのイメージは、1974年にロバート・A・カロによるこの[[ピューリッツァー賞]]受賞伝記の出版で、さらに打撃を受けた。カロの1,200ページの作品(3,000ページを超える長さから編集)は、モーゼスを概して否定的な見方で示した。エッセイストの[[フィリップ・ロパート]]は次のように書いている。「モーゼスの大衆に対する悪魔的な評判は、主にこの書に辿ることができる<ref>{{Cite news|title=A Town Revived, a Villain Redeemed|first=Phillip|last=Lopate|authorlink=Phillip Lopate|url=https://www.nytimes.com/2007/02/11/nyregion/thecity/11moses.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=February 11, 2007|at=Section 14, col. 1|accessdate=August 1, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。
たとえば、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ{{enlink|Cross-Bronx Expressway}}の建設に対する感度の欠如、および[[公共交通機関]]をいかに嫌っているかについて説明している。1975年にピューリッツァーの伝記賞と[[フランシスパークマン賞]]( [[アメリカ歴史家協会]]によって授与される)の両方を受賞、さらにはモダン・ライブラリーによる20世紀の歴史においてノンフィクション最高の100冊の本の一つにも選ばれた<ref name="learn.columbia"></ref>{{Sfn|Caro|1974}}。
たとえば、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ{{enlink|Cross-Bronx Expressway}}の建設に対する感度の欠如、および[[公共交通機関]]をいかに嫌っているかについて説明している。1975年にピューリッツァーの伝記賞と[[フランシスパークマン賞]]( [[アメリカ歴史家協会]]によって授与される)の両方を受賞、さらにはモダン・ライブラリーによる20世紀の歴史においてノンフィクション最高の100冊の本の一つにも選ばれた<ref name="learn.columbia"></ref>{{Sfn|Caro|1974}}。
出版時に、モーゼスは伝記を23ページの陳述で非難し、それに対してカロは自分の作品の完璧さを守るため応酬<ref name="Boeing2017Moses">{{Cite journal|last=Boeing, G.|date=2017|title=We Live in a Motorized Civilization: Robert Moses Replies to Robert Caro|url=https://www.researchgate.net/publienion/317570292|journal=SSRN|pages=1?13|accessdate=2017-08-13|DOI=10.2139/ssrn.2934079}}</ref><ref>ボーイング、G。(2017)。"我々は電動文明に住んでいる:ロバートモーゼスはロバートカロに返答する"。SSRN:1?13。doi:10.2139 / ssrn.2934079 。2017年8月13日に取得。</ref>。カロによるモーゼスの人生描写は、初期の功績を称え、ジョーンズビーチとニューヨーク州立公園システムをどのように考案し創作したかを示すだけでなく、彼の従来の夢、モーゼスの権力願望が彼にとって人生で最も重要になっていくことを示していく。モーゼスは、ニューヨーク市全域に13の高速道路を建設し、都市の構造や人口規模をほとんど気にせずに大規模な[[都市再開発|都市の更新プロジェクト]]を推進したことで、近隣住区を幾度も破壊していったと非難している{{Sfn|Caro|1974}}。それでも作者カロは彼の中心的なふるまいにおいて、より中立的に進めている:都市はモーゼスでないなら、非常に異なる発展をしたであろうと。
出版時に、モーゼスは伝記を23ページの陳述で非難し、それに対してカロは自分の作品の完璧さを守るため応酬<ref name="Boeing2017Moses">{{Cite journal|last=Boeing, G.|date=2017|title=We Live in a Motorized Civilization: Robert Moses Replies to Robert Caro|url=https://www.researchgate.net/publienion/317570292|journal=SSRN|pages=1?13|accessdate=2017-08-13|DOI=10.2139/ssrn.2934079}}</ref><ref>ボーイング、G。(2017)。"我々は電動文明に住んでいる:ロバートモーゼスはロバートカロに返答する"。SSRN:1?13。doi:10.2139 / ssrn.2934079。2017年8月13日に取得。</ref>。カロによるモーゼスの人生描写は、初期の功績を称え、ジョーンズビーチとニューヨーク州立公園システムをどのように考案し創作したかを示すだけでなく、彼の従来の夢、モーゼスの権力願望が彼にとって人生で最も重要になっていくことを示していく。モーゼスは、ニューヨーク市全域に13の高速道路を建設し、都市の構造や人口規模をほとんど気にせずに大規模な[[都市再開発|都市の更新プロジェクト]]を推進したことで、近隣住区を幾度も破壊していったと非難している{{Sfn|Caro|1974}}。それでも作者カロは彼の中心的なふるまいにおいて、より中立的に進めている:都市はモーゼスでないなら、非常に異なる発展をしたであろうと。


実は1940年代、1950年代、および1960年代に、他の米国の都市がニューヨークと同じことをしていた。例えば、サンフランシスコ、ボストン、そしてシアトル、それぞれが繁華街内をまっすぐに通る高速道路を構築した{{Sfn|Caro|1974}}。ニューヨーク市計画と建築[[識者]]は大多数が自動車社会を信じ、1940年代と1950年代にかけての[[ル・コルビュジエ]]と[[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ|ミース・ファン・デル・ローエ]]の思想は、モーゼスを支えていた。[[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]、 [[シカゴ]]、 [[セントルイス]]などの他の多くの都市も、大規模であるが魅力のない公営住宅プロジェクトを推進した<ref>{{Cite news|title=Great Cities Need Great Builders|first=Edward|last=Glaeser|url=http://www.nysun.com/arts/great-cities-need-great-builders/47012/|newspaper=[[The New York Sun]]|date=January 19, 2007|accessdate=October 9, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。
実は1940年代、1950年代、および1960年代に、他の米国の都市がニューヨークと同じことをしていた。例えば、サンフランシスコ、ボストン、そしてシアトル、それぞれが繁華街内をまっすぐに通る高速道路を構築した{{Sfn|Caro|1974}}。ニューヨーク市計画と建築[[識者]]は大多数が自動車社会を信じ、1940年代と1950年代にかけての[[ル・コルビュジエ]]と[[ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ|ミース・ファン・デル・ローエ]]の思想は、モーゼスを支えていた。[[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]、[[シカゴ]]、[[セントルイス]]などの他の多くの都市も、大規模であるが魅力のない公営住宅プロジェクトを推進した<ref>{{Cite news|title=Great Cities Need Great Builders|first=Edward|last=Glaeser|url=http://www.nysun.com/arts/great-cities-need-great-builders/47012/|newspaper=[[The New York Sun]]|date=January 19, 2007|accessdate=October 9, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。


しかし、カロは一方、モーゼスが人種差別的傾向を示していたことをも指摘している{{Sfn|Caro|1974|pp=510, 514}}。この種の“容疑者”は特にこの種の退役軍人のために設けられた住宅団地に移住する第二次世界大戦の黒人退役軍人に対して抱いており<ref name="nyplmoses">{{Cite web|title=Wrestling with Moses: How Jane Jacobs Took on New York's Master Builder and Transformed the American City|first=Cynthia|author=Chaldekas|url=http://www.nypl.org/blog/2010/03/16/wrestling-moses-jane-jacobs|website=[[New York Public Library]]|date=March 16, 2010|accessdate=October 9, 2010}}</ref>、うわさとして、白人地域で潜在的なアフリカ系アメリカ人の住民を追い払うために、スイミングプールの水を冷たくしようというのもあったとする<ref name="nyt2cities">{{Cite news|title=A Tale of Two Cities|first=Michael|last=Powell|url=https://www.nytimes.com/2007/05/06/nyregion/thecity/06hist.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=May 6, 2007|accessdate=August 1, 2010|quote=As for the pool-cooling, Mr. Caro interviewed Moses's associates on the record ("You can pretty well keep them out of any pool if you keep the water cold enough," he quotes Sidney M. Shapiro, a close Moses aide, as saying).}}</ref>(後述)。
しかし、カロは一方、モーゼスが人種差別的傾向を示していたことをも指摘している{{Sfn|Caro|1974|pp=510, 514}}。この種の“容疑者”は特にこの種の退役軍人のために設けられた住宅団地に移住する第二次世界大戦の黒人退役軍人に対して抱いており<ref name="nyplmoses">{{Cite web|title=Wrestling with Moses: How Jane Jacobs Took on New York's Master Builder and Transformed the American City|first=Cynthia|author=Chaldekas|url=http://www.nypl.org/blog/2010/03/16/wrestling-moses-jane-jacobs|website=[[New York Public Library]]|date=March 16, 2010|accessdate=October 9, 2010}}</ref>、うわさとして、白人地域で潜在的なアフリカ系アメリカ人の住民を追い払うために、スイミングプールの水を冷たくしようというのもあったとする<ref name="nyt2cities">{{Cite news|title=A Tale of Two Cities|first=Michael|last=Powell|url=https://www.nytimes.com/2007/05/06/nyregion/thecity/06hist.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=May 6, 2007|accessdate=August 1, 2010|quote=As for the pool-cooling, Mr. Caro interviewed Moses's associates on the record ("You can pretty well keep them out of any pool if you keep the water cold enough," he quotes Sidney M. Shapiro, a close Moses aide, as saying).}}</ref>(後述)。
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== 人物 ==
== 人物 ==
[[ファイル:RobertMosesPlinth.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:RobertMosesPlinth.jpg|サムネイル|[[フォーダム大学]][[リンカーン・センター]]の[https://en.wikipedia.org/wiki/Lincoln_Center_for_the_Performing_Arts モーゼスの碑] ]]
[[ファイル:RobertMosesPlinth.jpg|リンク=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:RobertMosesPlinth.jpg|サムネイル|[[フォーダム大学]][[リンカーン・センター]]の[https://en.wikipedia.org/wiki/Lincoln_Center_for_the_Performing_Arts モーゼスの碑]]]
モーゼスは、いわゆる[[口八丁、手八丁]]である。筆も立てば弁も立つ。自身の著書としては、1939年の『Theory and Practice in Politics』
モーゼスは、いわゆる[[口八丁、手八丁]]である。筆も立てば弁も立つ。自身の著書としては、1939年の『Theory and Practice in Politics』
のや、後に刊行された『Promise and Performance in Public Service』などを挙げることができるが、元来はまとまった著書よりも、時に応じて見解を発表する小文や演説でその本領を発揮している。
のや、後に刊行された『Promise and Performance in Public Service』などを挙げることができるが、元来はまとまった著書よりも、時に応じて見解を発表する小文や演説でその本領を発揮している。
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1953年に、[[ゼネラル・モーターズ]]社が、米国の道路改善について懸賞論文を募集したが、モーゼスは4万4000の論文に伍して、首席を獲得したことは特筆すべきことである。彼は、[[プリンストン大学]]、エール、[[ハーバード大学]]など、多くの大学に講師として招かれるとともに、数々の[[名誉学位]]を授けられている。
1953年に、[[ゼネラル・モーターズ]]社が、米国の道路改善について懸賞論文を募集したが、モーゼスは4万4000の論文に伍して、首席を獲得したことは特筆すべきことである。彼は、[[プリンストン大学]]、エール、[[ハーバード大学]]など、多くの大学に講師として招かれるとともに、数々の[[名誉学位]]を授けられている。


一方でモーゼスは辛口の弁舌で、自身の州知事選に役立つことはなかったが、市の局長ならびに独立法人の長としてでは、 爆弾発言を気の向くままに投げつけることが行われた。モダンデザインのよき理解者であったにもかかわらず、建築家や都市計画家に対して特別ののしり言葉を使った。
一方でモーゼスは辛口の弁舌で、自身の州知事選に役立つことはなかったが、市の局長ならびに独立法人の長としてでは、爆弾発言を気の向くままに投げつけることが行われた。モダンデザインのよき理解者であったにもかかわらず、建築家や都市計画家に対して特別ののしり言葉を使った。


[[フランク・ロイド・ライト]]とメアリー夫人が遠い親戚だったよしみでソロモン・[[グッゲンハイム美術館]]の建設が[[暗礁]]にのりあげたとき、ニューヨーク市の職員だったためいろいろとライトに尽力したこともある。彼はライトと個人的な手紙を頻繁に交わしていて、グッグンハイム美術館の建設も応援したのに、この高名な建築家をソビエトでは、「我が国で最も大な建築家」と呼んでいる、と酷評。[[ルイス・マンフォード]]は都市計画の理論家で「[[ニューヨーカー]]」 誌専属の建築評論家でもあったが、モーゼスは彼を「歯に改着せぬ急進派」で、筆は立つが建築実績は皆無、左翼の都市計画理論家の有象無象にすぎないとけなして、各々[[共産主義]]と関連があるとほのめかしたこともある。
[[フランク・ロイド・ライト]]とメアリー夫人が遠い親戚だったよしみでソロモン・[[グッゲンハイム美術館]]の建設が[[暗礁]]にのりあげたとき、ニューヨーク市の職員だったためいろいろとライトに尽力したこともある。彼はライトと個人的な手紙を頻繁に交わしていて、グッグンハイム美術館の建設も応援したのに、この高名な建築家をソビエトでは、「我が国で最も大な建築家」と呼んでいる、と酷評。[[ルイス・マンフォード]]は都市計画の理論家で「[[ニューヨーカー]]」 誌専属の建築評論家でもあったが、モーゼスは彼を「歯に改着せぬ急進派」で、筆は立つが建築実績は皆無、左翼の都市計画理論家の有象無象にすぎないとけなして、各々[[共産主義]]と関連があるとほのめかしたこともある。
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モーゼスは、執念深く復讐心に燃えた男として当然ながら評判が悪かった。
モーゼスは、執念深く復讐心に燃えた男として当然ながら評判が悪かった。


セントラルパークの豪審な宴会場であったカジノを、ジミー・ウォーカー市長が華美なプライベートパーティに使用したので取り壊し、最も親しいアル・スミスを怒らせてしまった。 また、86丁目の端にあったコロンビアヨットクラブも、そこの支配人が彼に対して礼を欠いたという理由で取り壊してしまったということもある。
セントラルパークの豪審な宴会場であったカジノを、ジミー・ウォーカー市長が華美なプライベートパーティに使用したので取り壊し、最も親しいアル・スミスを怒らせてしまった。また、86丁目の端にあったコロンビアヨットクラブも、そこの支配人が彼に対して礼を欠いたという理由で取り壊してしまったということもある。


==== 批評と''パワーブローカー'' ====
==== 批評と''パワーブローカー'' ====


モーゼスはカロが1974年に受賞した伝記『''The Power Broker''』で大いに批判されることとなった。この本は、ニューヨーク州議会で承認された資金をはるかに超えて大規模プロジェクトを開始するというモーゼスの慣行を強調している(''偽の共犯者''として)。また、北部州立公園の計画ルートをひそかにシフトした場合を含んでいた、政治的権力側で利便性を旨とし「工学的配慮」のみによって、土地を失い、時には生計を失った家族農場の所有者に伝えながら、金持ちの土地にかかるのを避けるため大きく距離を迂回させる、モーゼスに反旗した役人たちを[[名誉毀損]]とし、 [[赤狩り|レッドスケア]]時代の[[共産主義|共産主義者]]たち呼ばわりしたと紹介{{Sfn|Caro|1974}}。伝記はさらにモーゼスが郊外公園建設など自身の好みを反映して学校教育および他の公共事業の必要性に対して抗戦したことに留意している{{Sfn|Caro|1974}}。
モーゼスはカロが1974年に受賞した伝記『''The Power Broker''』で大いに批判されることとなった。この本は、ニューヨーク州議会で承認された資金をはるかに超えて大規模プロジェクトを開始するというモーゼスの慣行を強調している(''偽の共犯者''として)。また、北部州立公園の計画ルートをひそかにシフトした場合を含んでいた、政治的権力側で利便性を旨とし「工学的配慮」のみによって、土地を失い、時には生計を失った家族農場の所有者に伝えながら、金持ちの土地にかかるのを避けるため大きく距離を迂回させる、モーゼスに反旗した役人たちを[[名誉毀損]]とし、[[赤狩り|レッドスケア]]時代の[[共産主義|共産主義者]]たち呼ばわりしたと紹介{{Sfn|Caro|1974}}。伝記はさらにモーゼスが郊外公園建設など自身の好みを反映して学校教育および他の公共事業の必要性に対して抗戦したことに留意している{{Sfn|Caro|1974}}。


モーゼスの批評家は、彼が市民生活よりも自動車交通を好んだと非難している。ニューヨークに住む何十万もの住民追い出しを通して複数の高速道路建設することによって元あった近隣を破壊したと指摘している。これらのプロジェクトは[[サウス・ブロンクス]]と[[コニーアイランド]]の[[アミューズメントパーク]]壊滅に貢献、ブルックリン・ドジャースとニューヨークジャイアンツといったメジャーリーグの野球チーム移転を引き起こし、そして失業と放置による公共交通機関の衰退を早めた{{Sfn|Caro|1974}}とした。高速道路が建設されたためニューヨーク市地下鉄の拡張計画が妨げられた。1930年代から1960年代にかけて建設された公園道路や高速道路が、少なくともある程度は計画されていた地下鉄路線に取って代わっただけである。1968年の[[行政計画|行政行動計画]]は達成しなかったが、これに対抗することが望まれていた{{Sfn|Caro|1974}}。
モーゼスの批評家は、彼が市民生活よりも自動車交通を好んだと非難している。ニューヨークに住む何十万もの住民追い出しを通して複数の高速道路建設することによって元あった近隣を破壊したと指摘している。これらのプロジェクトは[[サウス・ブロンクス]]と[[コニーアイランド]]の[[アミューズメントパーク]]壊滅に貢献、ブルックリン・ドジャースとニューヨークジャイアンツといったメジャーリーグの野球チーム移転を引き起こし、そして失業と放置による公共交通機関の衰退を早めた{{Sfn|Caro|1974}}とした。高速道路が建設されたためニューヨーク市地下鉄の拡張計画が妨げられた。1930年代から1960年代にかけて建設された公園道路や高速道路が、少なくともある程度は計画されていた地下鉄路線に取って代わっただけである。1968年の[[行政計画|行政行動計画]]は達成しなかったが、これに対抗することが望まれていた{{Sfn|Caro|1974}}。
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==== 人種差別 ====
==== 人種差別 ====


カロの『''The Power Broker''』はモーゼスの対処を指摘。車を所有しておらずバスで到着するであろう「貧困層や中流階級の家族による州立公園の利用を制限する」ためと黒人を落胆させるため特にロングアイランド州立公園システムの中心的存在であるジョーンズビーチを訪れても、たとえ彼らがとにかく来たとしても(他の道で)バスを駐車する許可自体もブラックグループが得ることを困難にするような措置、代わりに、黒のライフガードを「遠く離れた、発展の遅れて人けのないビーチ」に割り当てる、プール内の水温を低く保つ{{Sfn|Caro|1974|pp=318-319}}、商用車の排除など。低架橋は審美的な理由でならば適切な処置として採用されていたので、初期のパークウェイでは標準的であったが、ここでは将来の立法者までが商用車を許認可する場合により困難にするために、低架橋をより多く利用させたようであるとしている{{Sfn|Caro|1974|pp=952}}<ref name="Campanella">{{Cite web|author=Campanella|first=Thomas|title=How Low Did He Go?|url=https://www.citylab.com/transportation/2017/07/how-low-did-he-go/533019/|website=Citylab|accessdate=25 July 2018}}</ref>。カロはモーゼスが張り巡らしたパークウェイは立体交差する陸橋を意図的に低く設計することでバスやトラックの通行を妨げることで、自動車を保有できない貧しい黒人たちから公園での娯楽を奪ったと非難した。また、プールの水温を低くして、冷水に弱いとされる黒人を排除したとも攻撃、人種差別者だと決めつけている。ただ、これをモーゼスの意図的な仕業だとするカロの根拠は、必ずしも堅固だとはいえない。彼はモーゼスの権威失墜後かつての彼の部下との面談からこれらのことを引き出しているのである。アフリカ系アメリカ人が主に白人の人口が多い地域でプールを冷たくすることによってプールを使うのを妨げることができると主張したのは、モーゼスの親しい仲間たちの証言である<ref name="nyt2cities2">{{Cite news|title=A Tale of Two Cities|first=Michael|last=Powell|url=https://www.nytimes.com/2007/05/06/nyregion/thecity/06hist.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=May 6, 2007|accessdate=August 1, 2010|quote=As for the pool-cooling, Mr. Caro interviewed Moses's associates on the record ("You can pretty well keep them out of any pool if you keep the water cold enough," he quotes Sidney M. Shapiro, a close Moses aide, as saying).}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}[https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/19/12/19_12_70/_pdf]。
カロの『''The Power Broker''』はモーゼスの対処を指摘。車を所有しておらずバスで到着するであろう「貧困層や中流階級の家族による州立公園の利用を制限する」ためと黒人を落胆させるため特にロングアイランド州立公園システムの中心的存在であるジョーンズビーチを訪れても、たとえ彼らがとにかく来たとしても(他の道で)バスを駐車する許可自体もブラックグループが得ることを困難にするような措置、代わりに、黒のライフガードを「遠く離れた、発展の遅れて人けのないビーチ」に割り当てる、プール内の水温を低く保つ{{Sfn|Caro|1974|pp=318-319}}、商用車の排除など。低架橋は審美的な理由でならば適切な処置として採用されていたので、初期のパークウェイでは標準的であったが、ここでは将来の立法者までが商用車を許認可する場合により困難にするために、低架橋をより多く利用させたようであるとしている{{Sfn|Caro|1974|pp=952}}<ref name="Campanella">{{Cite web|author=Campanella|first=Thomas|title=How Low Did He Go?|url=https://www.citylab.com/transportation/2017/07/how-low-did-he-go/533019/|website=Citylab|accessdate=25 July 2018}}</ref>。カロはモーゼスが張り巡らしたパークウェイは立体交差する陸橋を意図的に低く設計することでバスやトラックの通行を妨げることで、自動車を保有できない貧しい黒人たちから公園での娯楽を奪ったと非難した。また、プールの水温を低くして、冷水に弱いとされる黒人を排除したとも攻撃、人種差別者だと決めつけている。ただ、これをモーゼスの意図的な仕業だとするカロの根拠は、必ずしも堅固だとはいえない。彼はモーゼスの権威失墜後かつての彼の部下との面談からこれらのことを引き出しているのである。アフリカ系アメリカ人が主に白人の人口が多い地域でプールを冷たくすることによってプールを使うのを妨げることができると主張したのは、モーゼスの親しい仲間たちの証言である<ref name="nyt2cities2">{{Cite news|title=A Tale of Two Cities|first=Michael|last=Powell|url=https://www.nytimes.com/2007/05/06/nyregion/thecity/06hist.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=May 6, 2007|accessdate=August 1, 2010|quote=As for the pool-cooling, Mr. Caro interviewed Moses's associates on the record ("You can pretty well keep them out of any pool if you keep the water cold enough," he quotes Sidney M. Shapiro, a close Moses aide, as saying).}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。<ref>藤垣裕子、「[https://doi.org/10.5363/tits.19.12_70 科学という事業におけるジェンダー関与]」 『学術の動向』 2014年 19巻 12号 p.12_70-12_71, {{doi|10.5363/tits.19.12_70}}</ref>


そしてモーゼスは、後に裁判沙汰になった、第二次世界大戦の退役軍人を収容するために造られ、メトロポリタン生命保険が事業参加したマンハッタンの住宅団地であるスタイヴサント(Stuyvesant)に黒人の戦争退役軍人を入居拒絶することに反対する<ref name="nyplmoses2">{{Cite web|title=Wrestling with Moses: How Jane Jacobs Took on New York's Master Builder and Transformed the American City|first=Cynthia|author=Chaldekas|url=http://www.nypl.org/blog/2010/03/16/wrestling-moses-jane-jacobs|website=[[New York Public Library]]|date=March 16, 2010|accessdate=October 9, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。メトロポリタン生命が白人と黒人を混住させることで不動産価値が損なわれると考えたのは1950年代当時のアメリカの一般的風潮であった。
そしてモーゼスは、後に裁判沙汰になった、第二次世界大戦の退役軍人を収容するために造られ、メトロポリタン生命保険が事業参加したマンハッタンの住宅団地であるスタイヴサント(Stuyvesant)に黒人の戦争退役軍人を入居拒絶することに反対する<ref name="nyplmoses2">{{Cite web|title=Wrestling with Moses: How Jane Jacobs Took on New York's Master Builder and Transformed the American City|first=Cynthia|author=Chaldekas|url=http://www.nypl.org/blog/2010/03/16/wrestling-moses-jane-jacobs|website=[[New York Public Library]]|date=March 16, 2010|accessdate=October 9, 2010}}</ref>{{Sfn|Caro|1974}}。メトロポリタン生命が白人と黒人を混住させることで不動産価値が損なわれると考えたのは1950年代当時のアメリカの一般的風潮であった。


モーゼスの人種差別について、ケネス・ジャクソン教授はモーゼスの活躍した20世紀初頭あたりは当然のこと、パークウェイ建設時に至るまで肌の色による差別は合衆国では一般的だったとしている。その上で縁のリボンとも調われるパークウェイではすべての立体交差橋は美しい石造りのアーチ型をしていて、商業車の走行さえも一切禁止されていたから、ことさら極貧層、黒人層のバス行楽を狙ったものではないはずで、彼の建造した一般高速道は当然ながら商業車走行が自由だったから、カロの指摘はあまり意味を持たないこと、またモーゼスは黒人居住地にも小規模の遊び場、公園さらには大規模ブールを多数つくっていて、むしろ彼らの娯楽、福祉に関心を持っていたという。彼以前に、こんな配慮をした人物は誰もいず、もちろんモーゼス自身バークウェイについても、プールの水温についても、批判に対して、 強く否定している。コロンビア大学のアフリカ系アメリカ人研究家 マーサ・ビオンディ教授は、1943年8月1日付け「ニューヨーク・タイムズ·マガジン」 に載ったモーゼスの小論「どうした? ニューヨーク」でモーゼスは州の公民権法修正案制定の動きに水を差したとして、白身の関与を明らかにした。ジムクロウ法にみられる人種隔離思想に染まっていたのだとビオンディ教授は指摘している。行政官が、おおやけの場で州公民権法修正に水を差したと自ら唱えることの是非はあるにせよ、当時そのような風潮はモーゼスに限ったことではなく、たとえば、1949年の連邦住宅法タイトル1の法案審議に際して、リベラル派の議員たちでさえも人種差別禁止条項の挿入について反対する者が多数みられた。彼らは、 南部の民主党に気を遺い、機嫌を損ねて法案事態が廃案になるのを恐れていたという。
モーゼスの人種差別について、ケネス・ジャクソン教授はモーゼスの活躍した20世紀初頭あたりは当然のこと、パークウェイ建設時に至るまで肌の色による差別は合衆国では一般的だったとしている。その上で縁のリボンとも調われるパークウェイではすべての立体交差橋は美しい石造りのアーチ型をしていて、商業車の走行さえも一切禁止されていたから、ことさら極貧層、黒人層のバス行楽を狙ったものではないはずで、彼の建造した一般高速道は当然ながら商業車走行が自由だったから、カロの指摘はあまり意味を持たないこと、またモーゼスは黒人居住地にも小規模の遊び場、公園さらには大規模ブールを多数つくっていて、むしろ彼らの娯楽、福祉に関心を持っていたという。彼以前に、こんな配慮をした人物は誰もいず、もちろんモーゼス自身バークウェイについても、プールの水温についても、批判に対して、強く否定している。コロンビア大学のアフリカ系アメリカ人研究家 マーサ・ビオンディ教授は、1943年8月1日付け「ニューヨーク・タイムズ·マガジン」 に載ったモーゼスの小論「どうした? ニューヨーク」でモーゼスは州の公民権法修正案制定の動きに水を差したとして、白身の関与を明らかにした。ジムクロウ法にみられる人種隔離思想に染まっていたのだとビオンディ教授は指摘している。行政官が、おおやけの場で州公民権法修正に水を差したと自ら唱えることの是非はあるにせよ、当時そのような風潮はモーゼスに限ったことではなく、たとえば、1949年の連邦住宅法タイトル1の法案審議に際して、リベラル派の議員たちでさえも人種差別禁止条項の挿入について反対する者が多数みられた。彼らは、南部の民主党に気を遺い、機嫌を損ねて法案事態が廃案になるのを恐れていたという。
金融関係、不動産関係そして連邦のいくつかの部局さえもあからさまに時に陰で、差別禁止条項の導入を妨害していた事実もあった。当時は黒人が地域に流入すれば不動産相場は急落したから連邦住宅公社でさえも地図上で黒人地域を赤線で囲って周辺と区分していたし、またあるプールでは黒人の子供が遊んだからという理由で、水が入れ替えられることまで起こるそのような時代だった。公民権法が削定されたのはリンドン・ジョンソン大統領治世下の1964年7月2日で、かなり先のことである。
金融関係、不動産関係そして連邦のいくつかの部局さえもあからさまに時に陰で、差別禁止条項の導入を妨害していた事実もあった。当時は黒人が地域に流入すれば不動産相場は急落したから連邦住宅公社でさえも地図上で黒人地域を赤線で囲って周辺と区分していたし、またあるプールでは黒人の子供が遊んだからという理由で、水が入れ替えられることまで起こるそのような時代だった。公民権法が削定されたのはリンドン・ジョンソン大統領治世下の1964年7月2日で、かなり先のことである。


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* ニューヨークタイムズ 1981年7月30日号
* ニューヨークタイムズ 1981年7月30日号
* アンソニー・フリント 『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』 渡邉泰彦訳、鹿島出版会、2011年
* アンソニー・フリント 『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』 渡邉泰彦訳、鹿島出版会、2011年
* 渡邉泰彦『評伝ロバート・モーゼス 世界都市ニューヨークの創造主』 鹿島出版会、2018年
* 渡邉泰彦『評伝ロバート・モーゼス 世界都市ニューヨークの創造主』 鹿島出版会、2018年
* CurrentBiography1954
* CurrentBiography1954
* Brief History of New York、 by George J. Lanke-vich and Howard B. Furer
* Brief History of New York、by George J. Lanke-vich and Howard B. Furer
* Theory and Practice in Politics、 1939 by Robert Moses
* Theory and Practice in Politics、1939 by Robert Moses
* 松浦正浩(2003)[https://www.mmatsuura.com/research/pdfs/2002nagoya.pdf 米国における市民参加の発展と最近の事情]『アーバンアドバンス』名古屋都市センター刊
* 松浦正浩(2003)[https://www.mmatsuura.com/research/pdfs/2002nagoya.pdf 米国における市民参加の発展と最近の事情]『アーバンアドバンス』名古屋都市センター刊
* [[Marshall Berman|Berman, Marshall]], ''[[All That Is Solid Melts Into Air|すべてが空気中に溶け込む:近代の経験]'', New York: Viking Penguin, 1988. {{ISBN|1844676447}}
* [[Marshall Berman|Berman, Marshall]], ''[[All That Is Solid Melts Into Air|すべてが空気中に溶け込む:近代の経験]'', New York: Viking Penguin, 1988. {{ISBN|1844676447}}
* Ballon, Hilary, ''Robert Moses and the Modern City: ニューヨークの変容(The Transformation of New York)'' (NY: Norton, 2007). {{ISBN|9780393732436}}
* Ballon, Hilary, ''Robert Moses and the Modern City: ニューヨークの変容(The Transformation of New York)'' (NY: Norton, 2007). {{ISBN|9780393732436}}
* [[Robert Caro|Caro, Robert A.]], ''パワーブローカー:ロバート・モーゼスとニューヨーク、ニューヨークの崩壊(The Power Broker: Robert Moses and the fall of New York)'', New York: Knopf, 1974年ハードカバー: {{ISBN|0-394-48076-7}}, ビンテージ文庫Vintage paperback: {{ISBN|0-394-72024-5}}, {{OCLC|1087489248}}
* [[Robert Caro|Caro, Robert A.]], ''パワーブローカー:ロバート・モーゼスとニューヨーク、ニューヨークの崩壊(The Power Broker: Robert Moses and the fall of New York)'', New York: Knopf, 1974年ハードカバー: {{ISBN|0-394-48076-7}}, ビンテージ文庫Vintage paperback: {{ISBN|0-394-72024-5}}, {{OCLC|1087489248}}
* Christin, Pierre, and Olivier Balez. ''Robert Moses: The Master Builder of New York City'' (2014). {{ISBN|1907704965}}
* Christin, Pierre, and Olivier Balez. ''Robert Moses: The Master Builder of New York City'' (2014). {{ISBN|1907704965}}
* Doig, Jameson W. 「ニューヨーク大都市における地域紛争:ロバート・モーゼスの伝説と港湾当局の権力」("Regional Conflict in the New York Metropolis: The Legend of Robert Moses and the Power of the Port Authority," ''Urban Studies''都市研究 第27巻、第2号/ 1990年4月、pp.201-232)
* Doig, Jameson W. 「ニューヨーク大都市における地域紛争:ロバート・モーゼスの伝説と港湾当局の権力」("Regional Conflict in the New York Metropolis: The Legend of Robert Moses and the Power of the Port Authority," ''Urban Studies''都市研究 第27巻、第2号/ 1990年4月、pp.201-232)
* Jackson, Kenneth T. and Hillary Ballon, eds. ''Robert Moses and the Modern City: The Transformation of New York'' (W. W. Norton, 2007年)
* Jackson, Kenneth T. and Hillary Ballon, eds. ''Robert Moses and the Modern City: The Transformation of New York'' (W. W. Norton, 2007年)
* Krieg, Joann P. ''Robert Moses: Single-Minded Genius'', Interlaken, New York: Heart of the Lakes Publishing, 1989年
* Krieg, Joann P. ''Robert Moses: Single-Minded Genius'', Interlaken, New York: Heart of the Lakes Publishing, 1989年
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* Rodgers, Cleveland, [https://www.theatlantic.com/past/docs/issues/39feb/0239rodgers.htm ロバートモーゼス:大西洋の肖像画("Robert Moses: An Atlantic Portrait")], ''The Atlantic'', 1939年2月
* Rodgers, Cleveland, [https://www.theatlantic.com/past/docs/issues/39feb/0239rodgers.htm ロバートモーゼス:大西洋の肖像画("Robert Moses: An Atlantic Portrait")], ''The Atlantic'', 1939年2月
* Rodgers, Cleveland, ロバート・モーゼス、民主主義のための建築者(''Robert Moses, Builder for Democracy''), New York: Holt, 1952年.
* Rodgers, Cleveland, ロバート・モーゼス、民主主義のための建築者(''Robert Moses, Builder for Democracy''), New York: Holt, 1952年.
* Vidal, Gore. 「Robert Mosesがニューヨーク市に行ったこと」("What Robert Moses Did to New York City") 1974年10月17日、本のニューヨークレビュー。また、 "アメリカ合衆国:エッセイ1952年 - 1992年" Gore Vidal、ランダムハウス、1993年
* Vidal, Gore. 「Robert Mosesがニューヨーク市に行ったこと」("What Robert Moses Did to New York City") 1974年10月17日、本のニューヨークレビュー。また、"アメリカ合衆国:エッセイ1952年 - 1992年" Gore Vidal、ランダムハウス、1993年
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==参照項目==
==関連項目==
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* [[車の文化]]
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* [[モダニズム建築|モダニスト建築]]
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==外部リンク==
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* {{Internet Archive film clip|id=gov.archives.arc.95822|description=「ロバート・モーゼスとロンジンクロノスコープ(1953年2月11日)」}}
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2019年7月12日 (金) 06:15時点における版

ニューヨーク市バッテリー橋計画のモデルと共に(1939年)
ロバート・モーゼスが建設にかかわったトライボロー橋(左)とアストリアパーク(中央)

ロバート・モーゼス(1888年12月18日 – 1981年7月29日、英語: Robert Moses)はアメリカ都市建設者政治家で、特に20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される。1981年7月29日、92歳の高齢でニューヨークに逝ったとき、米国を代表する新聞ニューヨーク・タイムズは、その大紙面ニページを割いて、故人の生涯を詳しく伝えた。同紙の追悼文においても、その第一ページのトップの見出しに、「マスター・ビルダー、ロバート・モーゼス」の文字を掲げている。

この表現にはきわめてはっきりした意味が込められている。それは、彼の生涯を通してさまざまな機会に繰り返して引用されたいわば、公認の呼称であったというべきであるが、その意味は、彼は、マスター・ビルダーであって、職業的なプランナーとして教育を受けたわけではないし、建築家でもないし、法律家でもないし、厳密な意味では職業的政治家でもないということである。 ニューヨーク大都市圏を、一人の人間がどうやって変貌させたのかというこの問いかけは、モーゼスが、大学を卒業してから、公職を終えるまでの45年間に数々のいわゆるビッグ・プロジェクトをこの地域に実現したインフラストラクチャーを中心とする実績により、マスター・ビルダーという呼び方がつくり出されたと考えるべきである。

モーゼスの経歴

一体、このようなマスター・ビルダーが、どのような経緯で出現したのか。若い頃からモーゼスは特異な衝動、野心、そして特権階級としての育ちのよさからくる並外れた信念の持ち主だったという。

モーゼスは、ニューヨークと北のボストンの中間に位置する、コネチカット州ニューヘイブンで百貨店を経営するエマヌエル・モーゼスの次男として生まれた。父エマヌエルは一九世紀ババリア地方の反ユダヤ政策から逃れて移民し、百貨店を創立して成功を収め、また不動産投機家でもあった[1]。 家系的には、ドイツ系ユダヤ人で、母イサベラ・シルバーマン・コーヘンは活動的で強い意志を持った上流家庭出身の婦人で、裕福なドイツ系ユダヤ人移民の集まり「アワー・クラウド」に属していた[2]。 モーゼスの家族はイェール大学の所在地として名高くニューヨークに近いニューへイブンの大学から2ブロック先のドウェイトストリートに住んでいた。彼の人生の最初の9年間をこの地で過ごしたが、母たっての願いで1897年に、ニューヨークに定住するようになったといわれる。こうして彼の家族はニューヨーク市マンハッタン5番街へ引っ越し、彼女の父親が遺してくれた東46丁目の五階建てのブラウンストーンに移り住んだ[3]。家族がニューヨークに引っ越すために父は保有不動産や店を売却、残りの人生のためビジネスから引退[3]。モーゼスの母親はセツルメント運動に彼女自身の愛をもって活躍。ロバートと兄ポールは中等教育を陸軍士官学校の近くのいくつかの学校に通い、ピークスキルをドワイトスクールとモヒガンレイクスクールで修めた[4]

若い頃からモーゼスは特注べッドに寝て、コックが料理し、召使いが給仕するタ食をシャンデリアと陶器が飾られた食堂で食べ、一家は夏にはヨーロッパに旅行するか、またはアディロンダックスの農場にこもるのを常としたという。移動はいつも運転手付きでこの習慣は彼の生涯を通じて変わることがなく、決して自分で運転を習おうとはしなかった。

モーゼスは若い頃からのアグレッシブな思考はモーゼス一家の女性側に伝わった気質、特に祖母と母親の気質を受け継いだもので、父工マヌエルは謙虚で柔和だったがべラは頑固で微慢、祖母コーヘンは切符売り場で人を肘で払いのけながら先頭に出ることで有名だったという。

プレップスクール時代、抜きん出た存在ですぐに彼は教師の間で最優秀という評価をとる一方、仲間の人気も高かったという、スポーッマンとしても優れ、チームワークより個人成績が尊重される水泳と陸上競技を好んだという。

1905年、17歳で故郷にある名門校イエール大学に入学する。一般の学生より2年若かった。

イエールではユダヤ教徒という宗教が邪魔し、格上の社交クラブや生徒会に入会できないことがわかったためやむを得ずイエール・リテラリーの代わりに格下団体などに参加。

イエール時代、知的好奇心はきわめて強く、仲間は彼がほとんど毎晩のように遅くまで読書しているの見て感心していたという。友人は本が肌に山積みで、そのどれもが彼のとっている教科とは関係ないものだったという。 このほか文芸志向の学生やサミュエル・ジョンソンの信奉者の集まりであったキットカットクラブの会長に就任、同級生とともに学生の詩文選集を出している。

二年生になって水泳部に入ったが、泳ぎは達者だったという。また、学校予算をアメフトから水泳などのいわゆるマイナースポーッへ転用することを主張。しかし間もなく、水泳部の資金集めの策を思いついたが、キャプテンが首を縦に振らず、これに応酬した彼は、退部を口にし、辞任はその場で即刻受理される。

他方、詩作のグループに属し、学内誌の発行にも意欲を燃やす学生で、文芸の分野でも高い評価をとった。最終学年で文学、芸術サークルで名を上げ、ラテン語に精通し、韻文の長い句を引用することもでき、友人にも恵まれ、フラタニティの学生によって自主運営される学生自治団体のシニアカウンセラーに選任された。1909年に、ファイ・ベータ・カッパで卒業(学士号を取得)。

続いてイギリスに渡る。オックスフォード大学Wadhamカレッジで、イギリスの公務員制度の研究に打ちこみ(1911年に学士号、1913年に修士号)、これが後に、ニューヨークにあるコロンビア大学政治学博士号取得の基礎となり、また、同時に、公務員生活を志す原動力となった。

モーゼスは、ニューヨーク市の改革政治に惹かれるようになった。1912年、六年前にニューヨーク市役所に設けられた調査局の職員として、実生活のスタートを切った。当時、アメリカ全土で市役所の機構の改革や見直しが行われており、モーゼスの与えられた仕事は極めて時流に適うものであったが、その背景として、ニューヨーク市議会において腐敗を極めたタマニー・ホールのグループの影響も、時代をへだてたとはいえ、考慮にいれなければなるまい。公務員制度や市政に関する機構の改革は、米国全土に広がった一つの課題であった。モーゼスの提案を認めたミッチェル市長は、市政の改革を旗印として登場したが、1917年の市長選に敗れ、モーゼスは有力な支持者を失った。

しかし、幸運は思わぬところから現れる。翌年行われたニューヨーク州知事選挙で、のちに名知事と謳われたアルフレッド・スミスが州知事に当選。 一方モーゼスは献身的な理想主義者として、ニューヨーク州政府を再編するため、1919年に改革提案の主執筆など、後援の雇用慣行からニューヨークを改革するため、いくつかの計画案を策定している。どれも改革には非常に遠く行かないが、彼の知性に、アル・スミス知事の友人キャッチベル・モスコウィッツ[5]の目に留まる。こうして彼の聡明さを聞き及んでアル・スミス州知事のアドバイザーを勤めたその側近もモーゼスの才幹を認める。モーゼスは1922年に選出されたスミスと共に権力を握り、ニューヨーク州政府の広範な統合を開始。その間、モーゼスはスミスの政治的権力を利用して法律を制定しながら、大規模な公共事業イニシアチブへの最初の進出を始めた。 これは新しいロングアイランド州立公園委員会と州立公園評議会設立に利用[6]。この権力集中は、スミスにとっても連邦政府、後にフランクリン・D・ルーズベルトのニューディールモデルとなるし、地位が選挙ではなく任命制である州務長官に、スミスはモーゼスを指名した。モーゼスは1927年から1929年まで奉仕した[7]。こうしてニューヨーク州政府の州務長官に任命されて2年を過ごすことになる。州政府機構の全面的な改組を審議する委員会のチーフ・スタッフという役割を与えられ、これがモーゼスの大成する端緒となった。どのような困難にもめげぬ人としてイギリスの詩人ワーズワースが描いた幸運の戦士を愛称として呼ばれたスミス・ニューヨーク州知事の知遇を得、その後四半世紀に及ぶ親密な交わりにより、モーゼスは大きな後ろ盾を得ることになるのである。

直後の大統領フランクリン・D・ルーズベルト就任する1933年に、連邦政府は、数百万ドルに及ぶニューディールを実行するために、州と都市がいくつかのプロジェクトを行うための予算措置準備を整えた。モーゼスはプロジェクトの準備ができていた数少ない地元当局者の一人であった。そのため、ニューヨーク市は著しい公共事業促進局 (Works Progress Administration(WPA)、市民保全部隊 (Civilian Conservation Corps(CCC)、およびその他の大恐慌時代の資金を得ることができた。モーゼスは道路、橋、遊び場、公園、そして住宅プロジェクトを建設する際に優れたスキルを発揮、優れた政治的才能をもっていた[8]。その後はアル・スミスの指導で様々な公職には就き、ニューヨーク州内の州立公園を手始めに様々な建設プロジェクト、特にニューヨーク市にハイウェイトンネルなどのプロジェクトに隠然たる影響力を発揮して、車社会へ突入し、マンハッタンおよびその周りで大発展を遂げたニューヨーク都市圏インフラ整備に大きな貢献をした。モーゼスはまた、ジョーンズビーチ州立公園の開発など、後に非常にうまく行った多数のコミッションを引き受けている。強力な法令工学での問題解決を示したモーゼスは、法案起草における技能で知られるようになり、「オールバニーで最高の法案起草者」と呼ばれた[9]。徐々に公共運営に慣れてきた時からタマニー・ホールの腐敗と無能追及方面で、モーゼスは政府の救世主と見られていた[5]。なお最も影響力があり最も長持ちする地位の1つは、ニューヨーク市のパークスコミッショナーであり、1934年1月18日から1960年5月23日まで務めた役割であった[10]

彼が就いた公職の一覧

モーゼスは様々な建設プロジェクトの委員会の会長の職について、権力を行使した。

開設された事務所と称号

モーゼスが保有した多くの事務所と職業上の称号は、彼にニューヨークの首都圏の都市開発を形作るために異常に広い力を与えることになった。これらは、ニューヨーク保存アーカイブプロジェクトによれば[11]以下のとおり(かっこ内が在籍期間)。

  • ロングアイランド州立公園委員会・委員長(1924年 - 1963年)
  • ニューヨーク州立公園評議会・会長(1924年 - 1963年)
  • ニューヨーク州州務長官(1927年 - 1928年)
  • ベスページ州立公園局・局長(1933年から1963年)
  • 緊急公共事業委員会・委員長(1933年 - 1934年)
  • ジョーンズビーチパークウェイ公社・総裁(1933年から1963年に)
  • ニューヨーク市立公園局・コミッショナー(1934年 - 1960年)
  • トライボローブリッジ・アンド・トンネル公社・総裁(1934年から1981年まで)
  • ニューヨーク市計画委員会・委員長(1942 - 1960)
  • ニューヨーク州電力庁・会長(1954 - 1962)
  • ニューヨーク万国博覧会・会長(1960 - 1966)
  • ニューヨーク州知事室・住宅特別顧問(1974年 - 1975年)

幾つかの役職を同時にこなしてはいるが、さりとてどれも選挙で選ばれたのではなかった。ラガーディアの場合、彼には公園の仕事以外に、州が設立した橋梁や道路建設の公社の市側の代表委員にも指名。またモーゼスはヘンリーハドソンパークウェイ公社とマリンパークウェイ公社の総裁を兼ねていたが、ここの委員はモーゼスだけでほかには誰もいなかった。のちに、このふたつは合併しニューヨーク市パークウェイ公社となった。このほか準公的独立法人、トライボローブリッジ&トンネル公社の総裁でもあったが、そこの職務権限付与法は彼の自作で、お手盛りだった。彼はまた新設された州の公園委員会の委員長でもあり、ロングアイランド 州立公園局長でもあった。一時期12もの役職を兼務していたことさえあって、強い影響力を持つ地位に数多く任命される。同僚や選挙で選出された役職員からは「生涯局長」と呼ばれたほどである。 新設して間もない政府機関の場合は、職務規定を巧みな表現で自分の都合に合わせて 法制化してしまって簡単に罷免されないように最大限の配慮をしていた。

モーゼスの実績

モーゼスは、その任期中に、11の大橋梁を建設し、760㎞の道路の建設、658の運動場、75の州立公園を実現し、その建設費は、270億ドルに達するといわれる。モーゼスのこの事業の進め方、そしてその実例が全米の建設事業に強い刺激を与えたことはいうまでもない。

試みに、ニューヨークのランドマークといわれる有名な施設、例えば国連本部の誘致、リンカーン・センター、ニューヨーク・コロシアム・シェー野球場、1964年から翌年の万博会場、ニューヨークの湾口にかかるナロー吊橋、各地の大規模住宅団地、ジョーンズビーチをはじめとする多数の州立または市立大公園、そして、これらを支える高速道路、大橋梁、水底トンネル等はすべて彼の努力によって実現したものである。

彼が推進したプロジェクトにはアイウエオ順で、イースト・リバー・パークヴェラザノ=ナローズ・ブリッジシェイ・スタジアムスロッグスネック橋トライボロー橋ナイアガラ・フォールズ州立公園ニューヨーク万国博覧会 (1939年)ニューヨーク万国博覧会 (1964年)パリセード州間公園道路フラッシング・メドウズ・コロナ・パークブルックリン-バッテリートンネルランドールズ島とワーズ島リンカーン・センターなどがある。

1920年代に、モーゼスは当時タコニック州立公園委員会の長であったハドソン渓谷を通る公園道路の迅速な建設を支持したフランクリンD.ルーズベルトを驚かせた。 タコニックステートパークウェイ (Taconic State Parkwayも後に完成したが、モーゼスは彼のLong Island Parkwayプロジェクト( ノーザン・ステート・パークウェイ (Northern State Parkwayサザン・ステート・パークウェイ (Southern State Parkwayワンター州立公園 (Wantagh State Parkway)に資金を流用することに成功した[12]。 モーゼスはロングアイランドのメドウブルック州立公園の建設を手伝った。それは世界で最初の完全に分割された限定アクセス高速道路であった[13]

モーゼスは1920年代にニューヨーク州政府を再編した多くの改革の開始において非常に影響力のある人物であった。モーゼスが率いる「復興委員会」は、18の部門の下にある187の既存機関の統合、新しい執行予算制度、および4年間の総督任期制限を含む、大いに採用されるべき勧告を提供する非常に影響力のある報告を作成した[14]

モーゼスの影響はニューヨーク州だけに留まらなかった。1930から40年代には、全米の中小の市が彼を雇い、ハイウェイを建設した。例えば、オレゴン州ポートランド市は1943年に彼と契約して、彼は市の周りの環状道路とそこから市内への支線を提案した。このうち州間高速道路405号線(Interstate 405)と5号線(Interstate 5)が着工された。[15]

世界恐慌後、モーゼスはフィオレロ・ラガーディア市長と共に、公共事業促進局 (WPAプログラムの下で10の巨大なスイミングプールの建設を担当。合わせて66,000人の水泳選手を収容することができた[16][17]。そのようなプールの1つはブルックリンマッカレンパーク (McCarren Parkプールで、何十年もの間特別な文化イベントのためだけに使われたが、後で一般に開放されたが、モーゼスはアフリカ系アメリカ人の水泳選手をプールやビーチから遠ざけるための措置を執ったされている[18]。ある部下は、モーゼスがアフリカ系アメリカ人は冷たい水が好きではないと信じていたため、プールは数度の低温に保たれるべきであるといったモーゼスの事を覚えているという[19]

ジョーンズビーチは1930年に開業され、大好評を博し、何百万人という人で毎夏大にぎわいであった。このブロジェクトを成功させた功績で、モーゼスはそれから始まる政治的混乱のなかでも権力の座にいつづけたのである。市長はラガーディアからオドワイヤー、インペリテリそして最後はワグナーに代わったが誰一人としてモーゼスには逆らえなかった。歴代の州知事ははれ物に触るように気を遣い、そして大統領でさえも彼を追放できない状態の50年代頃には、一般の市民はいうに及ばず、もう誰もロバート・モーゼスと争いごとを起こして打ち負かすことなどできなくなっていた。

功績

ニューヨーク州のさまざまな場所や道路にモーゼスの名前が付けられている。これらは、ニューヨーク州マセナで2つの公園、サウザンド諸島-ロバートモーゼス州立公園、そしてニューヨーク・ロバートモーゼス州立公園やロバート・モーゼス・コーズウェイ(以上ロングアイランド)、そしてロバート・モーゼス水力発電ダム(ニューヨーク・ルイストン)など。ナイアガラ・シーニック・パークウェイでのナイアガラの滝・ニューヨークエリアは、彼の名誉に際しロバートモーゼス州立パークウェイに選ばれた。マセナの水力発電ダムにもモーゼスの名前が付けられている。モーゼスには、ニューヨーク州ノースバビロンにもロングアイランドにも彼の名前がついた学校がある。ニューヨークにはRobert Moses Playgroundもある。公衆の輪によって保持されて生き残った感謝の兆しが他にもあり、モーゼスの銅像は2003年に長年の故郷、ニューヨーク州バビロンビレッジにあるビレッジホールの隣にいったん建立されたがその後展示から排除され、現在はフォーダム大学リンカーン・センターキャンパスで保存展示されている。

州立公園システムのチーフとしての在職期間中に、州の公園は約260万エーカー(1,100,000ヘクタール)に増えた。彼は退職までにニューヨークだけで658の遊び場、さらに416マイル(669 km)の公園と13の橋を建設した[20]。一方ニューヨークの公益企業を率いての、他のどの米国の州よりも大きい州であるそのニューヨークでのインフラ整備やメンテナンスのプライムモード作りは、国家債務の90%を占めていた[21]

河川横断構造物

トライボローブリッジ

アストリア・パーク (Astoria Parkとその中心にあるプールがあるTriborough Bridgeの一部(左)

モーゼスはニューヨーク市住宅公団公営住宅プロジェクトの建設を統括し、さらに他の多くの事業体をも統括したが、彼に最も権力を与えたのはトライボロー橋公社の長であった[5]

1936年にトライボロー橋(現在は正式にはロバートF.ケネディ記念橋)が開通。ブロンクスマンハッタンクイーンズを3つの別々のスパンで結んでいる。当局の公債契約および複数年にわたる総裁職任命により、市長および知事からの圧力をほとんど受けないようになった。ニューヨーク市とニューヨーク州は永久的にに資金を浪費していたが、橋の通行料収入は年間数千万ドルに達していた。ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社当局は、債券を売って数百万ドルを調達することが可能で[22]、大規模な公共建設プロジェクトに資金を提供。その後橋の交通量がすべての予測を上回ったため、通行料収入は急速に増加。債券を返済するのではなく、モーゼスはその収入を使って他の有料プロジェクトを建設していく[23]

ブルックリン - バッテリーリンク

1930年代後半、ブルックリンとロウアー・マンハッタンの間に設ける追加の車両交通リンクを橋梁とトンネルのどちらとして構築するべきかについて、市当局内でも激しく論争がなされた。橋はなにより安価に造ることができるが、構造の背高がより高架でさらにスパンが長くなる橋梁であると、トンネルよりも上陸時により多くの傾斜路空間を必要とする[5]。すると 「ブルックリン・バッテリー橋」はバッテリー・パークを間引いて物理的に金融街にまで侵入したであろう、そのために橋梁案はアメリカ地域計画協会、歴史保存主義者、ウォール街の金融利益、財産所有者、様々なハイソサエティによって、さらに建設労働組合、マンハッタン自治区首長フィオレッロ・ラガーディア市長、そして知事ハーバート・H・リーマン [5]らからも反対されていた。にもかかわらず、モーゼスはより自動車のトラフィック性を有し、トンネルよりも高い視認性モニュメントとして役立つ可能性があるブリッジ案を支持。より多くなる交通はより多くの通行料収入を意味し、それはモーゼスにとって公共の改善のためにより多くのお金を得られることを意味した[5]。ラガーディアとリーマンはいつものように世界恐慌のせいにして支出を拒み、公共に回すお金がほとんどなかった。連邦政府は当時クイーンズ-ミッドタウントンネルと他の地域に1億500万ドル(2016年に18億ドル)を費やしていたが、後の資金が不足していた市はニューヨークへの追加資金の投入を拒否していた[24]。トライボロー橋の通行料からの資金に驚いたモーゼスは、お金は橋にしか費やせないと考えた。彼はまた、プロジェクトのチーフエンジニアであるオーレ・シングスタッド (Ole Singstadと衝突。彼は橋の代わりにトンネル案を選択していた [5]

橋梁計画を妨害したのは主要な連邦政府承認だけであった。ルーズベルト大統領は、その場所で橋を構築すると戦略爆撃されることでイースト川ブルックリン海軍工廠上流アクセスが妨げられると主張するように戦争局に命じた。こうして橋梁案が阻止される。一方でモーゼスはキャッスル・クリントンにあったニューヨーク水族館を解体、はるかに広大なブルックリンのコニーアイランドに移転。提案されたトンネル出口構築がキャッスル・クリントンの基礎を損なうという特別な主張に基づいてであるが、これは明らかに報復策であった。彼はまたキャッスル・クリントン自体も破壊しようとした。歴史的な砦は、連邦政府に譲渡された後にのみ生き残るのである[5]。結局モーゼスはこのとき、トンネル建設以外での川をまたぐ横断手段を選ぶことは許されなかったのである。彼はブルックリンとロウアー・マンハッタンを結ぶトンネルであるブルックリン-バッテリートンネル (現在正式にはヒューL.キャリートンネル)を委託。トライボロー・ブリッジ&トンネル・オーソリティからの1941年の出版物によれば、工学研究では認識がなされていないが、政府は「コストの2倍、運営費の2倍、エンジニアの難易度の2倍、トラフィックの半分」でトンネル建設を余儀なくされたとした。これらの結論からトンネルは、モーゼスが公に橋の選択肢に付け込もうとしたことよりもさらに多くの利点を持っていたのかもしれない[5]

モーゼスが渡河手段をトンネルより橋梁案を推すのはこれが初めてではなかった。彼は同様のことをクイーンズ-ミッドタウントンネルが計画されていたときにトンネル公社を舞台に展開するが[25]彼は政治的基盤の欠如で失敗したときの同じ議論を提起していたのである[25]

都市計画事業への関与と陰り

ニューヨーク州立パビリオンの展望台から見た1964年から1965年のニューヨーク万国博覧会の眺め。フェアのシンボル、ユニスフィアは中心的なイメージです。

戦後の都市開発プロジェクトの影響

イーストリバーから見たニューヨークの国連本部事務局棟は左側、総会棟は塔の右側の低い建物です。この建物群は、もう一つのモーゼスの創造物であるFDRドライブにまたがっている

行政機構の問題から転じて、モーゼスがはじめて都市計画に手を染めたのは、1920年、知事の命により、ニューヨーク州の公園と道路の改良計画を作成したことである。1924年に、ニューヨーク州公園委員会が設立されると、彼はその委員長に任命された。モーゼス36歳の時である。また、ニューヨーク州の一部であるロングアイランドに州立公園が設けられ、委員会ができると、彼はその委員長を兼ねた。

ニューヨーク州は、別名をエンパイヤ・ステートと呼び、米国50州の筆頭で、歴代の知事はいずれも米国政界の大立者。その民主党と共和党を問わず、党派を超越して、モーゼスは、歴代の知事に重んぜられた。彼の生涯の経歴は、公園行政が出発点となったと見るべきである。

ニューヨーク州職員のモーゼスを、ニューヨーク市にも迎えたのは、名市長として謳われたラガーディアで、1934年、モーゼス47歳の時であった。その時与えられた公園管理者(パークコミッショナー)の地位を、彼はその後20数年間にわたって独占している。先に述べたようなさまざまな地位を兼務していながら、そのすべては無給で、俸給は、この公園管理者、として受け取っている。このほか有給職は州立電力公社の総裁職で、それらの税引き後の収入では二万二千ドル程度にすぎなかった。懐事情に関しては生涯、公私混同を嫌う潔癖さで、蓄えも乏しかったとされる。

モーゼスのニューヨーク市での最初の任務は、ニューヨーク市の公園と沿道(パークウエイ)の系統を、州の計画を考慮しながら、すでに市域外にまで発展している大都市ニューヨークの公園行政に一貫した政策を打ち出すことにあった。複雑な事情の錯綜する市の公園の再検討がなされたことは、モーゼスの手がけた人によって現実の計画をまとめる一例であったということができる。それは、マスタープランを作成する性質の総合計画ではなかった。相反する要素を巧みに調整する困難な仕事に彼が手を染めたことは、次第に、彼に独自の任務を課する素因となり、余人をもって代えがたい地位を少しずつ築いていった。モーゼスが、そのような影響力を持ち得た理由を考えるにあたっては、州政府や市政府のなかにおける行政的な実績だけではなく、その立場を離れて頼まれた多数の業績を無視するわけにはいかない。長い公務員の生活の間に、モーゼスは頼まれて、さまざまな仕事に力を貸している。大統領フーバーによる有名な米国政府機関の改革を点検する調査が発足したとき、モーゼスは、公共事業に関する顧問団を主宰している。これは、1948年のフーバー報告書の一部に織りこまれている。

第二次大戦後には、米国軍部の要請に応えて、ドイツの経済状態について詳細な調査を実施している。このほか、ピッツバーグポートランドボルティモアニューオーリンズハートフォードなどの市政について、あるいは、都市計画について助言を与えている。

第二次世界大戦後、ラガーディア市長が引退し、一連の後継者は彼の提案のほとんどすべてに同意するほど、モーゼスの力は高まった。1946年にウィリアム・オドワイヤー市長によって市の「建設コーディネーター」に任命され、モーゼスはワシントンとニューヨーク市の事実上の窓口代表になった。モーゼスはまた、ラガーディアの下で免れていた公営住宅に対する権限も与えられた。オドワイヤーが不名誉の中で辞任を余儀なくされ、ヴィンセント・R・インペリテリ (Vincent R. Impellitteriが後継になったとき、モーゼスはインフラストラクチャープロジェクトに対してさらに大きな舞台裏のコントロールをすることが可能となる[5]。モーゼスの最初のステップの一つはインペリテリが就任した後、街中に及ぶ市長のほぼ無限の力を削減して、その過程で1938年以来進行中であった市全体の総合ゾーニング計画作成を停止させた。モーゼスはまた、ニューヨーク市のプロジェクトのためにワシントンで交渉する唯一の権限を与えられた。1959年までに、彼は何百エーカーもの土地に28,000のアパートを建設する責任者にも就任。その頃はタワー化する際は公園の塔というコンセプト、高層ビルの間に草が茂るエリアを残すことが革新的で有益であると考えられていたのであるが、高層ビル建設に際して敷地を確保する際に、モーゼスは時に彼が建てたのと同じくらい多くの住宅を破壊した[5]

1930年代から1960年代にかけて、スロッグスネック橋 (Throgs Neckブロンクス・ホワイトストーン橋ヘンリー・ハドソン橋、そしてヴェラザノ=ナローズ・ブリッジ (Verrazzano-Narrowsの橋の建設を担当。彼の他のプロジェクトには ブルックリン、クイーンズ高速道路スタテン島高速道路があり、インターステート278 ; クロスブロンクス高速道路も含めほとんどが一緒の構成。ほかにも多くのニューヨーク州立パークウェイそして他の高速道路も手掛ける。連邦が関心を示したパークウェイからフリーウェイシステムへと移行し、戦前の高速道路の景観や商業交通規制に欠けていたものを、新しい道路では大部分を新しいビジョンに適合させた。彼はシェイ・スタジアムリンカーン・センターの事業にも背後に関わり、国連本部誘致にも貢献[5]

モーゼスはニューヨーク地域以外にも影響を及ぼす。1940年代から1950年代初頭にかけて、アメリカの多くの小都市の公務員が彼を雇って高速道路網を建設した。例えば、オレゴン州 ポートランドは1943年にモーゼスを雇った。彼の計画は街の中心を一周する輪を含み、拍車が近所を走っていた。この計画のうち、I-405I-5とのリンク、およびフリーモントブリッジのみが建設された[26]。現代のポートランドのために築いたのがロバート・モーゼズ、車通勤者、スモッグ、およびスプロールを「ビッグアップル」に連れて来たのは、高速道路と橋に関するニューヨーク市のグリッド建築請負師モーゼスである。1943年に、ポートランドの都市は、その都市の未来をデザインするために、モーゼスを雇用した。モーゼスは、地域を走り抜けている拍車高速自動車道路の網で都市のコアのまわりのハイウェーループをチャートで示した。都市と状態はその計画の多くを抱擁した。モーゼスが想像したループが、各州間で実現ことになったが、それとしての405は、フリーモント橋を横切って、北で、都心部と運転する南のI-5と結び付ける。

モーゼスは自動車の運転方法を知っていたが、有効な運転免許証を所持せず[27]、代わりに彼は運転手付きリムジンに頼った。

モーゼスの自動車に対する見方は1920年代には固まっていた。そのとき自動車はビジネスよりも人生の喜びのための自動車として見られていた。20世紀の前半にモーゼスの高速道路の理念、「都市の肺」であると同時に、移動する喜びであることを意図したパークウェイ-湾、手入れの行き届いた「リボンパーク」から第二次世界大戦後の経済的拡張といった自動車社会の理念は、とりわけ潤沢に連邦が資金提供する州間高速道路網の形で、高速道路交通をもたらした[5]

知才のなさでも、押しの強さでもモーゼスにかなう者はいなかった。

ブルックリンドジャース

ブルックリン・ドジャースの所有者ウォルター・オマリーエベッツ・フィールドを、時代遅れと荒廃から置き換えるように努めた。何年かにわたり彼が構築するために提案したのは、ロングアイランド鉄道駅入り口近くの、アトランティックとフラットブッシュ通りの角地を徴用し、そこをドジャースの新しい本拠地にしようと考えていた。新スタジアムの近くにはロングアイランド鉄道のアトランティック・アベニューと次にフラットブッシュ・アベニュー(の角にバークレイズ・センターNBA ブルックリン・ネッツNHL ニューヨーク・アイランダースの本拠地)があり、オマリーはモーゼスに著名な点を考慮してこの財産を守るのを手助けするように相談した。 住宅郊外化の動きとモーゼスのつくった道路網のおかげで、ドジャースのファンは市中から逃れてロングアイランドの新興開発地域レビットタウンなどに居を移してしまっていたのであり、ドジャース本拠地のエベッツフィールドはロングアイランド鉄道の駅から遠く、しかも駐車場が七百台分しかないこともあって以前の活気はなくなっていた。入場者の数が顕著に落ち込み、野球場はさびれていたのである。

オマリーは、新たなドーム球場を民間資金で賄う計画を立てていたが、球場予定地には食肉市場工場建物倉庫などが建ち並んでいて、市の力を借りて整理する必要があった。モーゼスは以前ほかでプログラムの適合基準を甘くしたことは、ままあったのである。しかしモーゼスは要請を拒絶、球場予定地を「タイトル1」の対象プロジェクトにさせるわけにはいかないと主張。とはいうものの新しい野球場をモーゼスも望んではいたが、彼はブルックリンではなく、モーゼスはニューヨークの最新のスタジアムが世界の見本市の前の(そして結局のところ将来の)場所クイーンズフラッシング・メドウズ・コロナパーク万博の跡地で、のちにシェイ・スタジアムが建った場所を考えていた。こうしてすでに敷地内に駐車場を建設することを決めたことで拒否した。さらに、オマリーの提案 - 元々支払っていたと言っていた金額の何倍もの間、市にその資産を取得させるという - 民間企業に対する政府補助金は、モーゼス賛成派および反対派の関係者、新聞、そして一般大衆によって受け入れられなかった。[28]。オマリーは、チームのブルックリンのアイデンティティを挙げて、この計画に熱心に反対した。モーゼスはそのオマリーの決心を拒否。

オマリーと彼の考えは相いれず、モーゼスは一歩たりとも譲ろうとしなかった。新たに市長に選出されたロバート・ワグナーは、ドジャースがニューヨークを見捨てるのではないかと懸念し、オマリーとモーゼスの会合を呼びかけ、1955年になってグレイシーマンションのベランダでそれが実現。CBSニュースのクルーが録画していたその会合で、モーゼスはオマリーを金太りしたスポーツチームのオーナーが市を脅迫していると責めたてた。オマリーはつまるところ遊びをやめて自分のビー玉を拾い集めて家に帰りたいと勝手を言っているにすぎないとモーゼスは切り捨てた。モーゼスとてオマリー同様、野球場の今の窮状を憂いており、そのような言い回しのほうが一般の人の心に響くと思ったらしい。

その年のヤンキースとのワールドシリーズ戦でオマリーはチームをロサンゼルスに移すと宣告、今に至るまでモーゼスはドジャースをブルックリンから引き離した張本人として悪しざまに言われている。 一方でオマリーは多くの有力者とつながりが深いアイルランド系実業家で、戦略的な考えの持ち主であったが、打開策は見つけられなかった。 1957年のシーズンの後、ドジャースはロサンゼルスへ、ニューヨークジャイアンツはサンフランシスコへ向かった[5]。モーゼス後で55,000席の多目的構築することができたシェイ・スタジアムの敷地に、建設は1961年10月から1964年4月にその完成が遅れるまで続いた。スタジアムが破壊されてシティ・フィールドに置き換えられた2008年までシェアでプレーしていたニューヨーク・メッツは、スタジアムは拡大のフランチャイズを集めた。ニューヨーク・ジェッツのサッカーチームは1964年から1983年までシェアリングでホームゲームをプレイし、その後チームはニュージャージー州のメットライフ・スポーツ・コンプレックスにホームを移した[29]

モーゼス時代の終わり

しかし彼の30年代から50年代までの影響力も1960年代にはかげりりを見せ、旧ペンシルベニア駅を反対を押し切っての取り壊し、ニューヨーク万国博覧会 (1964年)の入場者が予想以下の低迷、グリニッジ・ヴィレッジを横断する下部マンハッタン高速道路(Lower Manhattan Expressway)がジェイン・ジェイコブズの代表を務める草の根会の反対などで取り止めなどがあった[1][2][30] [31]

1964年のParks Departmentのマップ。未構築の道路や部分的にしか完成していない高速道路など、モーゼスの多数のプロジェクトを示している。

モーゼスの評判は1960年代の間に薄れ始めた。この頃、モーゼスの政治的洞察力をもってしてもおそらく勝つことができなかったいくつか物議をかもす政治的な戦いの道を進んだので、失敗し始めた。たとえば、無料のShakespeare in the Parkプログラムに対する彼のキャンペーンは、多くの否定的喧伝を受け、高価なTavern-on-the-Greenレストランの駐車場を確保するためにセントラルパークの日陰と化す遊び場を破壊しようとし、アッパーウエストサイドの中流階級有権者間において敵と化した。

反対はペンシルバニア駅の取り壊しでクライマックスに達するが、その多くはモーゼス「開発計画」で培った考え方に起因する[32]。解体は財政的に厳しかったにもかかわらず、ペンシルバニア鉄道が実際に解体を担当していたのである[33]が、この時期偶然に起きたニューヨークの最も偉大な建築物の目印の破壊は、グリニッジ・ヴィレッジを通り抜けていたであろうローワーマンハッタンエクスプレスウェイと現在のソーホーを建設するというモーゼスの計画に多くの都市住民が反対するよう促すこととなった[34]。この計画もロングアイランド・エクスプレスウェイも政治的に失敗した。この時期の最も批評的な批評家の一人は、都市活動家のジェイン・ジェイコブズだった。著書アメリカ大都市の死と生『偉大なアメリカの都市の死と生涯』は、モーゼスの計画に反対していく方向に導くのに役立っていく。市政府は1964年に高速道路建設を辞退した[35]

モーゼスの権力は1964年のニューヨーク万国博覧会との関係によってさらに侵食された。このイベントに7000万人が参加するとの彼の予想は非常に楽観的であることを証明し、公正な幹部や請負業者に対する寛大な契約問題は経済的にも悪化させた。それとは反対の証拠にもかかわらず、モーゼスが公正かつ重大な財政的困難を公然と否定した結果、報道機関および政府機関による調査が引き起こされ、会計上の不正が発見された[36]。見本市では、モーゼスの評判は、過去において有利に働いていたのと同じ個人的な性格を出しかえって損なわれていた:プレスらの意見を軽視など。さらにこのようなイベントを監督する世界的機関博覧会国際事務局 (BIE)によってフェアが認可されていないという事実はイベントの成功にとって計り知れない[37]のであるが、モーゼスは出展者への地上賃料の請求に対する制限を含むBIEの要件を受け入れることを拒否し、BIEはその加盟国に参加しないように指示[38]、さらにアメリカ合衆国はすでに1962年にシアトルで認可されたシアトル万国博覧会を開催しており、組織の規則によると、10年間でどの国も1つ以上のフェアを開催することはできないのであったため、ヨーロッパの主要な民主主義者、そしてカナダ、オーストラリア、そしてソビエト連邦はすべてBIEのメンバーであり、彼らは参加を拒否し、代わりにモントリオールでのエキスポ67のために参加準備を注入した。

世界博覧会の大失敗の後、ニューヨーク市長ジョン・リンゼイネルソン・ロックフェラー知事と共に、ニューヨーク市地下鉄運営費など市の当時財政的に苦しんでいた機関の赤字を補うためにトライボロー・ブリッジ・アンド・トンネル・オーソリティ(TBTA)の橋とトンネルからの収入を振り分けようとした。モーゼスはこの考えに反対し、財政流入を防ぐために戦った[39]。リンゼイは彼の着任ポストからモーゼスを外した。そして、市の最高責任者としてワシントンで連邦高速道路の利益のためにと提唱することになる。

TBTAを新たに創設されたメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ (Metropolitan Transportation Authority(MTA)に組み入れるという議会の投票は、TBTAの債権者による訴訟につながる可能性、債券契約は州法に記載されているので債権者がそのような訴訟に関して承認の権利を持っており、既存の契約上義務を損なうことは違憲であった。しかし、TBTA債券の最大の保有者、他のすべての代理人は知事の兄弟であるデイヴィッド・ロックフェラーが率いるチェイスマンハッタン銀行であったので訴訟は提起されなかった。モーゼスはTBTAにその訴訟を起こして法廷に行くよう指示することができたかもしれないが、合併した権威の中での役割は約束されていたので、モーゼスは合併に異議を申し立てることを避けた。1968年3月1日にTBTAはMTAにまとめられ、モーゼスはTBTAの長としての地位を断念した。彼は結局MTAのコンサルタントになったがしかし、就任した新会長と知事は彼の権限を凍結。約束された役割は実現せず、そしてすべて実用的な目的に対してモーゼスは力がなかった[40]

モーゼスは、ネルソン・ロックフェラーが最後の偉大な橋梁プロジェクト、ライ~ロングアイランドクロッシング~オイスター・ベイまでを横断する橋の必要性を確信していると考えていた。ロックフェラーは1960年代後半から1970年代にかけてこのプロジェクトを強く求めず、郊外の共和党員も大衆の反発が自身の再選挙の見通しを妨げることを恐れていた。1972年の調査では、この橋は賢明で環境にやさしいものであることがわかったが、反開発的感情は克服できず、1973年にロックフェラーは橋の計画を取り消した。

パワーブローカー

映像外部リンク
1998年9月28日、Brookings InstitutionでのRobert Mosesと都市開発に関するRobert Caroによるプレゼンテーション、C-SPAN

主な記事:パワーブローカー

極め付けは、ロバート・カロ著『ザ・パワーブローカー』[41]の出版で、これはモーゼスの生涯を詳しく調べて否定的に捉えた本で、ピューリッツァー賞 伝記部門(1974年)を貰い、今では20世紀の伝記分野の代表な作品になっている。

モーゼスのイメージは、1974年にロバート・A・カロによるこのピューリッツァー賞受賞伝記の出版で、さらに打撃を受けた。カロの1,200ページの作品(3,000ページを超える長さから編集)は、モーゼスを概して否定的な見方で示した。エッセイストのフィリップ・ロパートは次のように書いている。「モーゼスの大衆に対する悪魔的な評判は、主にこの書に辿ることができる[42][5]。 たとえば、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ (Cross-Bronx Expresswayの建設に対する感度の欠如、および公共交通機関をいかに嫌っているかについて説明している。1975年にピューリッツァーの伝記賞とフランシスパークマン賞アメリカ歴史家協会によって授与される)の両方を受賞、さらにはモダン・ライブラリーによる20世紀の歴史においてノンフィクション最高の100冊の本の一つにも選ばれた[38][5]。 出版時に、モーゼスは伝記を23ページの陳述で非難し、それに対してカロは自分の作品の完璧さを守るため応酬[43][44]。カロによるモーゼスの人生描写は、初期の功績を称え、ジョーンズビーチとニューヨーク州立公園システムをどのように考案し創作したかを示すだけでなく、彼の従来の夢、モーゼスの権力願望が彼にとって人生で最も重要になっていくことを示していく。モーゼスは、ニューヨーク市全域に13の高速道路を建設し、都市の構造や人口規模をほとんど気にせずに大規模な都市の更新プロジェクトを推進したことで、近隣住区を幾度も破壊していったと非難している[5]。それでも作者カロは彼の中心的なふるまいにおいて、より中立的に進めている:都市はモーゼスでないなら、非常に異なる発展をしたであろうと。

実は1940年代、1950年代、および1960年代に、他の米国の都市がニューヨークと同じことをしていた。例えば、サンフランシスコ、ボストン、そしてシアトル、それぞれが繁華街内をまっすぐに通る高速道路を構築した[5]。ニューヨーク市計画と建築識者は大多数が自動車社会を信じ、1940年代と1950年代にかけてのル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエの思想は、モーゼスを支えていた。ニューアークシカゴセントルイスなどの他の多くの都市も、大規模であるが魅力のない公営住宅プロジェクトを推進した[45][5]

しかし、カロは一方、モーゼスが人種差別的傾向を示していたことをも指摘している[46]。この種の“容疑者”は特にこの種の退役軍人のために設けられた住宅団地に移住する第二次世界大戦の黒人退役軍人に対して抱いており[47]、うわさとして、白人地域で潜在的なアフリカ系アメリカ人の住民を追い払うために、スイミングプールの水を冷たくしようというのもあったとする[48](後述)。

この書で一般市民はモーゼスを世論を無視するいじめっ子と見なすようになったが、カロの本が出版されるまでは、彼の私生活についての詳細自体あまり知られていなかった。例えば、彼の兄ポールは貧しい生活に見舞われた。カロが母親の死の直前にポールにインタビューした際、母の死に際にロバートの好意で仲直りさせるために母親に過度の影響を及ぼしたと語った[5]。カロは、兄ポールが長期に渡り母親と疎遠状態で、彼女は自分と仲を取り戻したいという希望があってのことであったが、ロバートによるその後のポールへのふるまいは、合法的には正当なのかもしれないが道徳的には疑わしいと示唆した[5]

モーゼスは水泳については生涯にわたり愛好し、そしてコロニーヒルヘルスクラブの熱心な会員であった。

ロバート&メアリー・モーゼス夫妻の墓碑

モーゼスは1981年7月29日、ニューヨーク州ウェストアイスリップのグッドサマリタン病院で92歳で心臓病で亡くなった。最初の夫人は50年代後半から夫への世間の声に精神を蝕み、寝たきりになって1966年に亡くなっている。それ以降モーゼスは27歳年下の秘書と再婚していた。

モーゼスはユダヤの出自で、19世紀後半の倫理文化運動に触発された世俗主義的に育てられたが、後にキリスト教へ回心者となる[49]。ニューヨークのベイショアにあるアメリカ聖公会セントピーターの海上司教教会で礼拝後、ニューヨークのブロンクスウッドローン墓地にある野外霊廟の地下室に埋葬された。

人物

フォーダム大学リンカーン・センターの[https://en.wikipedia.org/wiki/Lincoln_Center_for_the_Performing_Arts モーゼスの碑

]

モーゼスは、いわゆる口八丁、手八丁である。筆も立てば弁も立つ。自身の著書としては、1939年の『Theory and Practice in Politics』 のや、後に刊行された『Promise and Performance in Public Service』などを挙げることができるが、元来はまとまった著書よりも、時に応じて見解を発表する小文や演説でその本領を発揮している。

モーゼスとともにニューヨークの都市計画委員をつとめたロジャース(Cleveland Rodgers)の書いたモーゼスの伝記でも、その文才を誉め、統計的な数字よりもすぐれた詩情を盛った名文だと評されている。

1953年に、ゼネラル・モーターズ社が、米国の道路改善について懸賞論文を募集したが、モーゼスは4万4000の論文に伍して、首席を獲得したことは特筆すべきことである。彼は、プリンストン大学、エール、ハーバード大学など、多くの大学に講師として招かれるとともに、数々の名誉学位を授けられている。

一方でモーゼスは辛口の弁舌で、自身の州知事選に役立つことはなかったが、市の局長ならびに独立法人の長としてでは、爆弾発言を気の向くままに投げつけることが行われた。モダンデザインのよき理解者であったにもかかわらず、建築家や都市計画家に対して特別ののしり言葉を使った。

フランク・ロイド・ライトとメアリー夫人が遠い親戚だったよしみでソロモン・グッゲンハイム美術館の建設が暗礁にのりあげたとき、ニューヨーク市の職員だったためいろいろとライトに尽力したこともある。彼はライトと個人的な手紙を頻繁に交わしていて、グッグンハイム美術館の建設も応援したのに、この高名な建築家をソビエトでは、「我が国で最も大な建築家」と呼んでいる、と酷評。ルイス・マンフォードは都市計画の理論家で「ニューヨーカー」 誌専属の建築評論家でもあったが、モーゼスは彼を「歯に改着せぬ急進派」で、筆は立つが建築実績は皆無、左翼の都市計画理論家の有象無象にすぎないとけなして、各々共産主義と関連があるとほのめかしたこともある。

人物評伝によれば、モーゼスは共和党を支持し、最も好きな文学作品は、アナトール・フランスの「ユダの大守」であると記されているが、これは数あるアナトール・フランスの小品のひとつである。

20世紀のロバート・モーゼスは、文字通り、巨大都市ニューヨークの隅々にまで、その建設力を誇示している。ニューヨークの町並みを見渡す写真で、彼の息のかかっている建設物の見当たらないものはあるまいといわれるくらい、彼の足跡は、ニューヨークに行きわたっている。その行き方が総合的でないにしても、その建設力の大きさに一驚を喫しないわけにはゆくまいし、ニューヨークそのものが、彼の記念碑と化している。

しばしば、モーゼスは、ロシアの皇帝の称号ツアー(専制君主の意味がある)と呼ばれることがあった。それは、モーゼスの成し遂げた事業の実績、そしてその過程におけるさまざまな仕事の進め方から来た称号らしいが、必ずしも、独断専制を意味するものではない。

人間が計画する道路はヒエラルキーを持っていることから上位の道路がコネクターとなり、そこに交通が集中するため、渋滞を緩和するために道路を建設すれば、結局は交通渋滞を誘発するという誘発論は、「ロバート・モーゼスのパラドクス」などと呼ばれた。このモーゼスのパラドクスは、アメリカの交通工学や建築・都市を扱った専門書で取り扱われることが多い。

評価

モーゼスは、執念深く復讐心に燃えた男として当然ながら評判が悪かった。

セントラルパークの豪審な宴会場であったカジノを、ジミー・ウォーカー市長が華美なプライベートパーティに使用したので取り壊し、最も親しいアル・スミスを怒らせてしまった。また、86丁目の端にあったコロンビアヨットクラブも、そこの支配人が彼に対して礼を欠いたという理由で取り壊してしまったということもある。

批評とパワーブローカー

モーゼスはカロが1974年に受賞した伝記『The Power Broker』で大いに批判されることとなった。この本は、ニューヨーク州議会で承認された資金をはるかに超えて大規模プロジェクトを開始するというモーゼスの慣行を強調している(偽の共犯者として)。また、北部州立公園の計画ルートをひそかにシフトした場合を含んでいた、政治的権力側で利便性を旨とし「工学的配慮」のみによって、土地を失い、時には生計を失った家族農場の所有者に伝えながら、金持ちの土地にかかるのを避けるため大きく距離を迂回させる、モーゼスに反旗した役人たちを名誉毀損とし、レッドスケア時代の共産主義者たち呼ばわりしたと紹介[5]。伝記はさらにモーゼスが郊外公園建設など自身の好みを反映して学校教育および他の公共事業の必要性に対して抗戦したことに留意している[5]

モーゼスの批評家は、彼が市民生活よりも自動車交通を好んだと非難している。ニューヨークに住む何十万もの住民追い出しを通して複数の高速道路建設することによって元あった近隣を破壊したと指摘している。これらのプロジェクトはサウス・ブロンクスコニーアイランドアミューズメントパーク壊滅に貢献、ブルックリン・ドジャースとニューヨークジャイアンツといったメジャーリーグの野球チーム移転を引き起こし、そして失業と放置による公共交通機関の衰退を早めた[5]とした。高速道路が建設されたためニューヨーク市地下鉄の拡張計画が妨げられた。1930年代から1960年代にかけて建設された公園道路や高速道路が、少なくともある程度は計画されていた地下鉄路線に取って代わっただけである。1968年の行政行動計画は達成しなかったが、これに対抗することが望まれていた[5]


人種差別

カロの『The Power Broker』はモーゼスの対処を指摘。車を所有しておらずバスで到着するであろう「貧困層や中流階級の家族による州立公園の利用を制限する」ためと黒人を落胆させるため特にロングアイランド州立公園システムの中心的存在であるジョーンズビーチを訪れても、たとえ彼らがとにかく来たとしても(他の道で)バスを駐車する許可自体もブラックグループが得ることを困難にするような措置、代わりに、黒のライフガードを「遠く離れた、発展の遅れて人けのないビーチ」に割り当てる、プール内の水温を低く保つ[50]、商用車の排除など。低架橋は審美的な理由でならば適切な処置として採用されていたので、初期のパークウェイでは標準的であったが、ここでは将来の立法者までが商用車を許認可する場合により困難にするために、低架橋をより多く利用させたようであるとしている[51][52]。カロはモーゼスが張り巡らしたパークウェイは立体交差する陸橋を意図的に低く設計することでバスやトラックの通行を妨げることで、自動車を保有できない貧しい黒人たちから公園での娯楽を奪ったと非難した。また、プールの水温を低くして、冷水に弱いとされる黒人を排除したとも攻撃、人種差別者だと決めつけている。ただ、これをモーゼスの意図的な仕業だとするカロの根拠は、必ずしも堅固だとはいえない。彼はモーゼスの権威失墜後かつての彼の部下との面談からこれらのことを引き出しているのである。アフリカ系アメリカ人が主に白人の人口が多い地域でプールを冷たくすることによってプールを使うのを妨げることができると主張したのは、モーゼスの親しい仲間たちの証言である[53][5][54]

そしてモーゼスは、後に裁判沙汰になった、第二次世界大戦の退役軍人を収容するために造られ、メトロポリタン生命保険が事業参加したマンハッタンの住宅団地であるスタイヴサント(Stuyvesant)に黒人の戦争退役軍人を入居拒絶することに反対する[55][5]。メトロポリタン生命が白人と黒人を混住させることで不動産価値が損なわれると考えたのは1950年代当時のアメリカの一般的風潮であった。

モーゼスの人種差別について、ケネス・ジャクソン教授はモーゼスの活躍した20世紀初頭あたりは当然のこと、パークウェイ建設時に至るまで肌の色による差別は合衆国では一般的だったとしている。その上で縁のリボンとも調われるパークウェイではすべての立体交差橋は美しい石造りのアーチ型をしていて、商業車の走行さえも一切禁止されていたから、ことさら極貧層、黒人層のバス行楽を狙ったものではないはずで、彼の建造した一般高速道は当然ながら商業車走行が自由だったから、カロの指摘はあまり意味を持たないこと、またモーゼスは黒人居住地にも小規模の遊び場、公園さらには大規模ブールを多数つくっていて、むしろ彼らの娯楽、福祉に関心を持っていたという。彼以前に、こんな配慮をした人物は誰もいず、もちろんモーゼス自身バークウェイについても、プールの水温についても、批判に対して、強く否定している。コロンビア大学のアフリカ系アメリカ人研究家 マーサ・ビオンディ教授は、1943年8月1日付け「ニューヨーク・タイムズ·マガジン」 に載ったモーゼスの小論「どうした? ニューヨーク」でモーゼスは州の公民権法修正案制定の動きに水を差したとして、白身の関与を明らかにした。ジムクロウ法にみられる人種隔離思想に染まっていたのだとビオンディ教授は指摘している。行政官が、おおやけの場で州公民権法修正に水を差したと自ら唱えることの是非はあるにせよ、当時そのような風潮はモーゼスに限ったことではなく、たとえば、1949年の連邦住宅法タイトル1の法案審議に際して、リベラル派の議員たちでさえも人種差別禁止条項の挿入について反対する者が多数みられた。彼らは、南部の民主党に気を遺い、機嫌を損ねて法案事態が廃案になるのを恐れていたという。 金融関係、不動産関係そして連邦のいくつかの部局さえもあからさまに時に陰で、差別禁止条項の導入を妨害していた事実もあった。当時は黒人が地域に流入すれば不動産相場は急落したから連邦住宅公社でさえも地図上で黒人地域を赤線で囲って周辺と区分していたし、またあるプールでは黒人の子供が遊んだからという理由で、水が入れ替えられることまで起こるそのような時代だった。公民権法が削定されたのはリンドン・ジョンソン大統領治世下の1964年7月2日で、かなり先のことである。

ニューヨーク市の五行政区で見ると、現在でこそ黒人の人口比率は25バーセントを超えているが、1920から40年当時は5パーセント程度の圧倒的マイノリティであった。そうした世相を考慮すると、とりわけモーゼスが人種差別主義者だと非難するのは行きすぎで、ましてや、公共事業における彼の偉大な功績はいささかも損なわれないとビオンディ教授は主張。

モーゼスは伝記に応じて、都市再生で「私が削除することが、ビルダーに自分のジョッキを上げる」旨と援護、貧困と少数派コミュニティの強制移転は必然的に伴う事項の一部としており、そうせず「ゲットーを撤去できる建築家がいたら乾杯しよう、のように住民を動かすことなくを割らずにオムレツを作ることができるシェフに万歳」[56]という余裕のある表現で、豊富な経験とゆるぎなき実績と自信がうかがえる。

賛美

モーゼスのプロジェクトの多くの全体的な影響については議論が続いているが、都市と造園事業全体にわたる莫大な規模の成果は疑いの余地がない。モーゼス建設事業のピークは、世界恐慌という経済恐慌のさなかに起こり、そしてその時代必然的に起こる苦悩にもかかわらず、モーゼスのプロジェクトはタイムリーに完成し、以来信頼絶大な公共事業であった。以前のワールドトレードセンターグラウンド・ゼロサイト、またはボストンのビッグ・ディッグプロジェクトを取り巻く技術的な問題をも再開発で解決していた[57]

2007年に開催された3つの主要展示で、功績の大きさについて高く評価されており、何人かの知識人の間では彼のイメージの再検討を促している。コロンビア大学建築史家 ヒラリー・バロン(Hilary Ballon)や同僚らによれば、彼の都市に残した遺産はこれまで以上に重要であり、市民はモーゼスが築いた公園、遊び場、そして住宅を手に入れるようになったと主張している。その上、モーゼスの公共インフラストラクチャーとより多くのスペースを切り開いていくという決心がなかったならば、ニューヨークは1970年代と80年代に衰退と低空飛行成長から回復することができず、今日の経済的な磁石になることができなかったとしている[58]

ニューヨークの歴史家、ケネス・T・ジャクソンは次のように述べている。「The Power Brokerがその時代を反映していたのかもしれません。ニューヨークは問題を抱えていて15年間衰退していた。今では、たくさんの理由から、ニューヨークは新しい時代に突入している。半世紀の間には見られなかった成長と復活。そしてそれが私たちのみているインフラです」とジャクソンは述べる。「多くの大きなプロジェクトが再び表に出ている、そしてそれは、そのようなものがモーゼスのいないモーゼス時代を示唆している」と彼は付け加えた[59]。 政治家らもまた、モーゼスのこの地のレガシーを再考している。2006年の州計画協会の演説で、低所得者の交通ニーズについて今日書かれたモーゼスの伝記は、少なくともそれができたと言われるかもしれないと著した:「それが今日我々が必要としているものです。物事を成し遂げるための本当の約束」[60]

大衆文化の中で

参考文献

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その他の情報源

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関連項目

外部リンク