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[[元禄]]10年([[1697年]])2月25日、東山天皇に入内し、[[女御]]宣下を受ける。元禄13年([[1700年]])、第一皇女・[[秋子内親王]](のちの[[伏見宮貞建親王]]妃)を出産。[[宝永]]4年([[1707年]])5月3日に[[准后|准三后]]宣下を経て、翌宝永5年([[1708年]])2月27日、中宮に冊立される。この結婚は[[江戸幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家綱]]の斡旋で行われたもので、[[江戸幕府|幕府]]は[[中務省|中務大輔]][[本多忠国]]らを派遣して賀辞を奏している。 |
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宝永6年([[1709年]])6月、東山天皇が譲位し、自身の養子となっていた[[中御門天皇]]が践祚。同年12月に東山上皇が崩御すると、翌宝永7年([[1710年]])3月21日に女院号宣下を受け、間もなく[[出家]]する。 |
宝永6年([[1709年]])6月、東山天皇が譲位し、自身の養子となっていた[[中御門天皇]]が践祚。同年12月に東山上皇が崩御すると、翌宝永7年([[1710年]])3月21日に女院号宣下を受け、間もなく[[出家]]する。 |
2015年1月9日 (金) 04:53時点における版
幸子女王(ゆきこじょおう、延宝8年9月23日(1680年11月14日) - 享保5年2月10日(1720年3月18日))は、江戸時代の日本の皇族。東山天皇の中宮。女院号は承秋門院(しょうしゅうもんいん)。幼称は英宮。
系譜
経歴
元禄10年(1697年)2月25日、東山天皇に入内し、女御宣下を受ける。元禄13年(1700年)、第一皇女・秋子内親王(のちの伏見宮貞建親王妃)を出産。宝永4年(1707年)5月3日に准三后宣下を経て、翌宝永5年(1708年)2月27日、中宮に冊立される。この結婚は江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の斡旋で行われたもので、幕府は中務大輔本多忠国らを派遣して賀辞を奏している。
宝永6年(1709年)6月、東山天皇が譲位し、自身の養子となっていた中御門天皇が践祚。同年12月に東山上皇が崩御すると、翌宝永7年(1710年)3月21日に女院号宣下を受け、間もなく出家する。