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|選手名 = ベニー・アグバヤニ
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|英語表記 = Benny Agbayani
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'''“ベニー”ベンジャミン・ピーター・アグバヤニ'''('''Benjamin Peter "Benny" Agbayani''' , [[1971年]][[12月28日]] - )は[[アメリカ合衆国]]・[[ハワイ州]]出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]])。[[千葉ロッテマリーンズ]]所属。[[背番号]]は'''50'''
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「'''ハワイアン・パンチ'''」の[[愛称]]で親しまれている。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]時代の[[登録名]]は「'''アグバヤニ'''」、現在は「'''ベニー'''」。ハワイ出身という事もあり、[[応援歌]]はハワイ民謡の『[[アロハ・オエ]]』が原曲。
「'''ハワイアン・パンチ'''」の[[愛称]]で親しまれている。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]時代の[[登録名]]は「'''アグバヤニ'''」、現在は「'''ベニー'''」。ハワイ出身という事もあり、[[応援歌]]はハワイ民謡の『[[アロハ・オエ]]』が原曲。
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* [[2007年]] :怪我の影響で前年よりさらに打撃成績を落とし、チャンスで打てない場面が目立った(しかし交流戦では最優秀打率を獲得している)。守備面では打球の目測を誤るなど目に見えない[[失策]]が多かった。不調のため右投手の登板時にはしばしばスタメン落ちも経験した(ただしこの年は右投手相手の方がよく打っていた)。[[11月17日]]、契約が更新され、[[2008年]]も千葉ロッテでプレーすることが決まった。
* [[2007年]] :怪我の影響で前年よりさらに打撃成績を落とし、チャンスで打てない場面が目立った(しかし交流戦では最優秀打率を獲得している)。守備面では打球の目測を誤るなど目に見えない[[失策]]が多かった。不調のため右投手の登板時にはしばしばスタメン落ちも経験した(ただしこの年は右投手相手の方がよく打っていた)。[[11月17日]]、契約が更新され、[[2008年]]も千葉ロッテでプレーすることが決まった。
* [[2008年]] :この年は打率2割8分台と打撃は持ち直したものの、自慢の長打力が発揮できず本塁打は来日以来最低の5本だった。怪我の影響で前年よりも出場試合が減り規定打席にも届かなかったが、翌シーズンもロッテでプレーすることになった。
* [[2008年]] :この年は打率2割8分台と打撃は持ち直したものの、自慢の長打力が発揮できず本塁打は来日以来最低の5本だった。怪我の影響で前年よりも出場試合が減り規定打席にも届かなかったが、翌シーズンもロッテでプレーすることになった。
* [[2009年]] :[[9月27日]]の対[[オリックス・バファローズ | オリックス]]戦で、2回裏に勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、[[早川大輔]]と交代。場内アナウンスで、「ベニー選手は今の打席をもってマリーンズの最終打席となります」と、唐突に退団が明かされた。関係者によると、ボビー・バレンタイン監督から場内アナウンスの要請があったという。試合後、右翼席でベニーを祝福する横断幕を掲げた一部のファンに対し、ベニーはマイクを持って「最高の6年間でした。自分の心の中の宝物になる」とあいさつした<ref>[http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/pro/news/20090928k0000m050054000c.html 2009年9月27日(日) 20時20分 毎日jp]</ref>。
* [[2009年]] :[[9月27日]]の対[[オリックス・バファローズ | オリックス]]戦で、2回裏に勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、[[早川大輔]]と交代。場内アナウンスで、「ベニー選手は今の打席をもってマリーンズの最終打席となります」と、唐突に退団が明かされた。関係者によると、ボビー・バレンタイン監督から場内アナウンスの要請があったという。試合後、右翼席でベニーを祝福する横断幕を掲げた一部のファンに対し、ベニーはマイクを持って「最高の6年間でした。自分の心の中の宝物になる」とあいさつした<ref>[http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/pro/news/20090928k0000m050054000c.html 2009年9月27日(日) 20時20分 毎日jp]</ref>。10月7日、ウェーバー公示を受けた


== 年度別打撃成績 ==
== 年度別打撃成績 ==

2009年10月7日 (水) 10:13時点における版

ベニー・アグバヤニ
Benny Agbayani
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ハワイ州
生年月日 (1971-12-28) 1971年12月28日(52歳)
身長
体重
183 cm
106 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
初出場 MLB / 1998年6月17日
NPB / 2004年3月27日
最終出場 MLB / 2002年9月29日
NPB / 2009年9月27日
年俸 7,500万円(推定)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

“ベニー”ベンジャミン・ピーター・アグバヤニBenjamin Peter "Benny" Agbayani , 1971年12月28日 - )はアメリカ合衆国ハワイ州出身の元プロ野球選手外野手)。

ハワイアン・パンチ」の愛称で親しまれている。メジャーリーグ時代の登録名は「アグバヤニ」、現在は「ベニー」。ハワイ出身という事もあり、応援歌はハワイ民謡の『アロハ・オエ』が原曲。

パワーを生かした打撃が持ち味だが、決して粗いバッティングというわけではない。選球眼も良く、出塁率が高い。2004年にはリーグ最多四球を記録。入団時は体重は重いが元アメリカンフットボール選手ということもあり足は速かった。2004年には8盗塁を記録し、西岡剛と並んでチーム最多盗塁だった。 西岡らと共に、2005年前半の千葉ロッテマリーンズの快進撃の立役者。

来歴

  • ニューヨーク・メッツ時代にボビー・バレンタイン監督の下でプレー。2000年東京ドームで行われたシカゴ・カブスとの試合にも出場し、延長10回に勝ち越しの代打満塁本塁打を放っている。
  • 2004年 :千葉ロッテに入団。開幕前の注目は韓国の主砲李承燁に集まっており、ベニーの期待は低かった。しかし3割を上回る好調な打撃を見せ、5月には不調の李から4番の座を奪う。日替わり打線の中でベニーだけはシーズン終了まで不動の4番として定着、最終的にチーム3冠となる35本塁打、打率.315に100打点の成績を残した。また守備・走塁の面でも外国人としては期待以上の動きを見せ、8月からは中堅手のレギュラーとして活躍し、チームトップの8盗塁を記録した。右投手にはあまり強くないという前評判があったが、この年は左右関係なく打ち、三振が少なく勝負強い面も見せた。
  • 2005年 :前年と同じように4番中堅手で開幕スタメンを果たし、一時は打点王も狙える勢いだったが、故障が目立ち夏場に離脱。ベニーと同じく外国人で外野を守れる選手がマット・フランコヴァル・パスクチ、李と3人もいたこともあり、シーズン終盤はレギュラーを再獲得するまでには至らなかった。しかしプレーオフ日本シリーズアジアシリーズではほとんどの試合に6番でスタメン出場し、アジアシリーズでは9打点と活躍しMVPを獲得した。
  • 2006年 :7月まで4番の座を守ったが、またこの年も夏場に離脱。里崎智也に4番を譲る形となった。足の故障から半分以上が指名打者としての出場だった。それでも打撃は衰えず、チームトップタイの17本塁打、65打点をマークした。
  • 2007年 :怪我の影響で前年よりさらに打撃成績を落とし、チャンスで打てない場面が目立った(しかし交流戦では最優秀打率を獲得している)。守備面では打球の目測を誤るなど目に見えない失策が多かった。不調のため右投手の登板時にはしばしばスタメン落ちも経験した(ただしこの年は右投手相手の方がよく打っていた)。11月17日、契約が更新され、2008年も千葉ロッテでプレーすることが決まった。
  • 2008年 :この年は打率2割8分台と打撃は持ち直したものの、自慢の長打力が発揮できず本塁打は来日以来最低の5本だった。怪我の影響で前年よりも出場試合が減り規定打席にも届かなかったが、翌シーズンもロッテでプレーすることになった。
  • 2009年9月27日の対 オリックス戦で、2回裏に勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、早川大輔と交代。場内アナウンスで、「ベニー選手は今の打席をもってマリーンズの最終打席となります」と、唐突に退団が明かされた。関係者によると、ボビー・バレンタイン監督から場内アナウンスの要請があったという。試合後、右翼席でベニーを祝福する横断幕を掲げた一部のファンに対し、ベニーはマイクを持って「最高の6年間でした。自分の心の中の宝物になる」とあいさつした[1]。10月7日、ウェーバー公示を受けた。

年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 NYM 11 16 15 1 2 0 0 0 2 0 0 2 0 0 1 0 0 5 1 .133 .188 .133 .321
1999 101 314 276 42 79 18 3 14 145 42 6 4 0 3 32 4 3 60 8 .286 .363 .525 .888
2000 119 414 350 59 101 20 1 15 168 60 5 5 0 3 54 2 7 68 6 .289 .391 .480 .871
2001 91 339 296 28 82 14 2 6 118 27 4 5 1 1 36 0 5 73 11 .277 .364 .399 .763
2002 COL 48 128 117 10 24 5 0 4 41 19 0 0 0 1 10 0 0 35 4 .205 .266 .350 .616
BOS 13 43 37 5 11 1 0 0 12 8 1 0 0 0 6 1 0 5 1 .297 .395 .324 .720
'02計 61 171 154 15 35 6 0 4 53 27 1 0 0 1 16 1 0 40 5 .227 .298 .344 .642
2004 ロッテ 130 552 457 89 144 31 1 35 282 100 8 1 0 4 86 12 5 77 10 .315 .426 .617 1.043
2005 98 389 351 49 95 22 0 13 156 71 1 1 0 3 34 0 1 51 15 .271 .334 .444 .779
2006 118 473 417 59 117 18 1 17 188 65 4 3 0 4 49 0 3 72 17 .281 .357 .451 .808
2007 122 454 390 45 106 21 0 13 166 51 7 4 0 3 53 1 8 86 12 .272 .368 .426 .793
2008 97 323 279 35 79 12 3 5 112 42 3 1 0 1 42 0 1 51 8 .283 .378 .401 .779
MLB:5年 383 1254 1091 145 299 58 6 39 486 156 16 16 1 8 139 7 15 246 31 .274 .362 .445 .807
NPB:5年 565 2191 1894 277 541 104 5 83 904 329 23 10 0 15 264 13 18 337 62 .286 .376 .477 .853
  • 2008年度シーズン終了時

日本での記録

背番号

  • 39(1998年)
  • 50(1999年 - 2009年)

その他

  • その丸っこい体型と愛らしい顔から、ファンの間ではかわいいと言われ、人気選手である。
  • 2003年ケビン・ミラーの入団を巡って中日ドラゴンズボストン・レッドソックスの間で騒動が起きていたとき、レッドソックス側がミラーの代替選手として中日に譲渡しようとしていた。
  • 背番号50は、出身地であるハワイがアメリカ合衆国50番目の州になったことに由来する。本人の希望もあり、入団当時背番号が50番だった浅間敬太から譲ってもらう。
  • 2004年大阪近鉄バファローズの存続をかけオーナー達と闘っていた礒部公一に励ましの手紙を渡していた。
  • 2004年、来日1年目にして3割30本塁打100打点を達成。なお、この年放った35本塁打は千葉移転後ではチーム史上最多であった。
  • 日本の生活環境をかなり気に入っているらしく、「“要らない”戦力外通告自由契約と言われるまでマリーンズに居たい。引退した後もコーチとして居たい」と発言している。助っ人には珍しいそのマリーンズを愛する性格にはファンから大きな支持を受けている(2004年に大活躍した後、メジャーから好条件でのオファーがあったが断ったという逸話もある)。
  • メジャーリーグのストライキの際、マイナーリーグの試合かどうか不明瞭なままメジャーリーグの試合に出場。スト破りとしてメジャーリーグ選手会からは追放されている。制裁としてベースボールカードにはブライアン・ヒラー名義にされている(先述のケビン・ミラーもベニー同様の扱いを受けている)。
  • 2005年のプレーオフ第2ステージ(対福岡ソフトバンクホークス)第5戦前に、家族で神社に行き、チームの優勝と同年限りで引退する初芝清が日本シリーズに進出することで野球を続けられるようにと祈ったというエピソードもある。
  • 守備に関しては2005年までは守備範囲、肩共にそこそこ優秀だったが、2006年以降は怪我や走力の衰えもあり緩慢な動きが目立つようになり、近年では左翼手指名打者での起用がほとんどである。
  • 性格は温厚で、頭部付近に危険球が来ても何事もなかったかのようにやり過ごす。しかし、2008年9月24日の埼玉西武ライオンズ戦の4回表、相手チーム捕手細川亨を投げ飛ばし退場処分を受ける。この回だけでチームメイト2人(里崎智也フリオ・ズレータ)が死球を受けており、その直後に今度は自身も死球を受け怒りが爆発。相手投手(許銘傑)に詰め寄ろうとしたところ、細川が止めに入る。しかし怒りは収まらず細川の首を掴むと、そのまま投げ飛ばしてしまい、細川は負傷退場してしまった。その後警告試合が宣告された。なお後日、ベニー側が謝罪した。
  • 2005年7月31日のソフトバンク戦、初回のチャンスにカウント0-3から明らかにボールとわかる低めの球を球審がストライク判定、納得がいかないベニーは猛抗議、これが仇となって退場処分に。しかしその後、橋本将のタイムリー、大塚明の3ランホームランなどで初回6点の猛攻。先制打を放った橋本は「ベニーがあんな形で退場になったのでどうしても打ちたかった」と語っており、ベニーのチームメイトからの人望の厚さが伺えた。
  • 2006年7月10日オリックス・バファローズ戦で、本柳和也がベニーにデッドボールをぶつけてしまい、あわや乱闘寸前までになった。しかしその後ベニーが一塁ベンチの裏側まで行き本柳に謝罪し握手を交わした、というエピソードがある。その試合後本柳は「ベニーはめちゃくちゃイイ選手ですね」と語っている。
  • 2006年最後の千葉マリンスタジアムでの試合で、4-4の7回裏に北海道日本ハムファイターズ岡島秀樹から試合を決める勝ち越し満塁本塁打を放った。ちなみにこの日は諸積兼司の引退試合でもあり、諸積の引退に花を添える形となった。また、5年連続2桁勝利のかかる清水直行に貴重な9勝目をつけた。また、清水の10勝目となった10月1日東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、決勝点にはならなかったものの先制本塁打を放った。
  • コナミ制作のプロ野球スピリッツ2004では、登録名は「ベニー」となっているが、実況での選手コールが名字の「アグバヤニ」になっている。また、2008年に発売されたプロ野球スピリッツ5でも実況が「アグバヤニ」になっている。
  • チームメイトのフリオ・ズレータとは、ズレータがダイエー・ソフトバンクの選手であった時代から仲が良く、ダン・セラフィニの危険球にズレータが激怒して詰め寄った際にもベニーが2人の間に入って仲介したというエピソードもある。
  • 文化放送ライオンズナイターではロッテファンで有名なかわのをとやがスタンドレポートをしている間にベニーが打つというジンクスがある。最近ではかわのがベニーの打席になるとわざとレポートを早める傾向がある。
  • 元木大介とは元木のハワイ留学時代のチームメイトである。また、同郷のタレントKONISHIKIとも親交がある。
  • 家族愛が強く、地方遠征時にはしばしば妻と子供を帯同させ、一緒の時間を作ろうと心がけている。
  • 先述の応援歌には「Benny would go!(ベニーなら行くぜ)」というコールがあるが、これはハワイ出身のサーファーエディ・アイカウの「Eddie would go(エディなら行くぜ)」が元ネタである。しかしこのエピソードの認知度が低い事もあり、「ベニーレッツゴー」や「ベニー打つぞー」など間違えて歌われることも多い。

脚注

関連項目

外部リンク