「江本孟紀」の版間の差分
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'''江本 孟紀'''(えもと たけのり、[[1947年]][[7月22日]] - )は、[[高知県 |
'''江本 孟紀'''(えもと たけのり、[[1947年]][[7月22日]] - )は、[[高知県]][[土佐山田町]](現・[[香美市]])生まれ、同県[[高知市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]、[[政治家]]、[[タレント]]、[[俳優]]。元[[スポーツ平和党]]副代表、元[[参議院議員]](スポーツ平和党→[[無所属]]→[[民主党 (日本 1998-)|民主党]])。[[タイ王国]]ナショナルベースボールチームの総監督。 |
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愛称は「'''エモやん'''」。あるいは「エモさん」「エモ」。最終学歴は[[法政大学]]経営学部中退。 |
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株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表。[[消費者金融]]「[[武富士]]」のイメージキャラクターとしてCMや広告に登場。 |
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==来歴・人物== |
==来歴・人物== |
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===高校・大学時代=== |
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[[警察官]]の息子として生まれ、実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、[[長嶋茂雄]]に憧れ野球に打ち込んだ。[[高知市立高知商業高等学校]]時代、[[選抜高等学校野球大会]]への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたために辞退。 |
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⚫ | その後、[[西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]からドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、[[法政大学]]経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の[[浜村孝]]であった。4番でピッチャーの自分が4位指名で、3番バッターの浜村が1位指名であることに納得できなかったと江本は後に著書で語っている。法大の1年先輩には[[田淵幸一]]と[[山本浩二]]、同期には[[東京六大学野球連盟|六大学リーグ]]で史上最多の通算48勝[[山中正竹]]がいるが、山中が卒業(学業でも優秀であった)したのに対して江本は卒業していない。大学時代は一年の春からベンチ入りするも、[[松永玲一]]監督の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ半ば退部状態となった(のちに松永とは和解する)。 |
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その後、社会人野球[[熊谷組]]へ進み、[[1970年]]のドラフト外で[[日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団したが背番号は'''49'''。中継ぎしか出番がなかったが翌[[1971年]]オフに[[ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[野村克也]]監督が才能を見抜きトレードで獲得する。 |
その後、社会人野球[[熊谷組]]へ進み、[[1970年]]のドラフト外で[[日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団したが背番号は'''49'''。中継ぎしか出番がなかったが翌[[1971年]]オフに[[ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[野村克也]]監督が才能を見抜きトレードで獲得する。 |
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[[1974年]]にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。[[阪神タイガース]]の[[江夏豊]]と投げ合い、天の巡り合わせか翌[[1975年]]オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に[[島野育夫]]も放出)。この際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解している。 |
[[1974年]]にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。[[阪神タイガース]]の[[江夏豊]]と投げ合い、天の巡り合わせか翌[[1975年]]オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に[[島野育夫]]も放出)。この際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解している。 |
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==阪神タイガースへ移籍== |
===阪神タイガースへ移籍=== |
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阪神では先発として活躍するも、[[1978年]]オフに起きた[[江川事件]]で巨人からトレード移籍してきた[[小林繁]]にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人。その後、[[中西太]]監督の起用に不満を募らせ、[[1981年]][[8月26日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、'''「ベンチがアホやから野球がでけへん」'''と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。ちなみに、同じ日の巨人-[[中日ドラゴンズ|中日]]戦([[後楽園球場]])で[[宇野勝]]の[[宇野勝#伝説のヘディング事件|ヘディング事件]]が起こった |
阪神では先発として活躍するも、[[1978年]]オフに起きた[[江川事件]]で巨人からトレード移籍してきた[[小林繁]]にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人。その後、[[中西太]]監督の起用に不満を募らせ、[[1981年]][[8月26日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、'''「ベンチがアホやから野球がでけへん」'''と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。ちなみに、同じ日の巨人-[[中日ドラゴンズ|中日]]戦([[後楽園球場]])で[[宇野勝]]の[[宇野勝#伝説のヘディング事件|ヘディング事件]]が起こった。 |
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当時捕手だった[[若菜嘉晴]]と絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。 |
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上記のように現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきた江本ではあるが実際には選手会長を務めた事もあるほど人望があり決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり根は真面目であったという。 |
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[[1982年]]に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超える大[[ベストセラー]]となった。1982年からは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[ニッポン放送]]野球解説者のかたわら、[[タレント]]活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、[[1989年]]からは[[三田寛子]]とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『[[なんてったって好奇心]]』の司会を務める。 |
[[1982年]]に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超える大[[ベストセラー]]となった。1982年からは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[ニッポン放送]]野球解説者のかたわら、[[タレント]]活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、[[1989年]]からは[[三田寛子]]とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『[[なんてったって好奇心]]』の司会を務める。 |
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==政界へ== |
===政界へ=== |
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その後政界入りし、[[1992年]]7月の[[第16回参議院議員通常選挙]]で[[スポーツ平和党]]より、[[参議院]][[比例代表]]選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。[[清原和博]]が、初の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]において一塁上で号泣したことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『[[朝まで生テレビ]]』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。 |
その後政界入りし、[[1992年]]7月の[[第16回参議院議員通常選挙]]で[[スポーツ平和党]]より、[[参議院]][[比例代表]]選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。[[清原和博]]が、初の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]において一塁上で号泣したことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『[[朝まで生テレビ]]』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。 |
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⚫ | [[1995年]]スポーツ平和党を'''猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立'''し、'''党副代表を辞任'''、'''離党'''して無所属に。[[自由連合]]、[[無所属の会]]に短期間在籍(当時の無所属の会は院内[[会派]]で、政党化は[[1998年]])。[[内閣総理大臣指名選挙|総理大臣指名選]]で支持した後の[[経世会]]会長[[橋本龍太郎]]が総裁の[[自由民主党]]入党も検討したが、[[細川護熙]]らと[[1997年]][[12月26日]]、[[フロムファイブ]]、1998年の1月23日[[民政党]]、4月27日[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の結成に参加。[[1998年]]7月の[[第18回参議院議員通常選挙]]に、民主党より比例代表選出で再選 |
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⚫ | [[1995年]]スポーツ平和党を'''猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立'''し、'''党副代表を辞任'''、'''離党'''して無所属に。[[自由連合]]、[[無所属の会]]に短期間在籍(当時の無所属の会は院内[[会派]]で、政党化は[[1998年]])。[[内閣総理大臣指名選挙|総理大臣指名選]]で支持した後の[[経世会]]会長[[橋本龍太郎]]が総裁の[[自由民主党]]入党も検討したが、[[細川護熙]]らと[[1997年]][[12月26日]]、[[フロムファイブ]]、1998年の1月23日[[民政党]]、4月27日[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の結成に参加。[[1998年]]7月の[[第18回参議院議員通常選挙]]に、民主党より比例代表選出で再選。 |
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[[2004年]]に民主党を離党し、[[大阪府]][[知事]]選挙に立候補するが現職の[[太田房江]]に完敗。 |
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同年10月、[[アメリカ合衆国]]の[[独立リーグ]]である[[ノーザンリーグ]]に加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の[[三沢博明]]と[[樋口直人]]の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で[[2006年]]度からの[[日本独立リーグ]]の設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。 |
同年10月、[[アメリカ合衆国]]の[[独立リーグ]]である[[ノーザンリーグ]]に加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の[[三沢博明]]と[[樋口直人]]の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で[[2006年]]度からの[[日本独立リーグ]]の設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。 |
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[[2005年]]、[[ニッポン放送]]の株式保有問題に関して、「ニッポン放送をホリエモン([[堀江貴文]]率いる[[ライブドア]])が買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。同年11月、それまで支援してきた独立リーグ[[ゴールデンベースボールリーグ]]参加のチーム、[[ジャパン・サムライ・ベアーズ]]に代わる日本のクラブチーム、[[京都ファイヤーバーズ]]を社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。 |
[[2005年]]、[[ニッポン放送]]の株式保有問題に関して、「ニッポン放送をホリエモン([[堀江貴文]]率いる[[ライブドア]])が買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。同年11月、それまで支援してきた独立リーグ[[ゴールデンベースボールリーグ]]参加のチーム、[[ジャパン・サムライ・ベアーズ]]に代わる日本のクラブチーム、[[京都ファイヤーバーズ]]を社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。 |
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2007年7月24日に[[タイ王国]]ナショナルベースボールチームの総監督就任 |
2007年7月24日に[[タイ王国]]ナショナルベースボールチームの総監督に就任した。 |
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==年度別成績== |
==年度別成績== |
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==タイトル・表彰== |
==タイトル・表彰== |
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*最多完封 |
*最多完封1回(1977年) |
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*オールスター出場 |
*オールスター出場4回(1974年、1976年、1977年、1979年) |
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*[[荒川区|荒川]][[消防署長]]感謝状(2005年) |
*[[荒川区|荒川]][[消防署長]]感謝状(2005年) |
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==エピソード== |
==エピソード== |
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*好きな歌手は、親友でもあった[[大塚博堂]]。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演。 |
*好きな歌手は、親友でもあった[[大塚博堂]]。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演。 |
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*背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)。」とコメントしている。 |
*背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)。」とコメントしている。 |
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*近年のパ・リーグをよく知らないのか、パ・リーグの話は適当に済ませ、セ・リーグの話は熱心に語る(これは江本だけではなく、セ・リーグ出身の解説者に多い)。 |
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*あまり知られていないが実はジャイアンツの[[王貞治]]キラーで、通算対戦打率は約一割と、50打席以上の対戦がある投手の中では一位。被本塁打はわずかに一本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという。(自著「オレ、紆球曲球」) |
*あまり知られていないが実はジャイアンツの[[王貞治]]キラーで、通算対戦打率は約一割と、50打席以上の対戦がある投手の中では一位。被本塁打はわずかに一本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという。(自著「オレ、紆球曲球」) |
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*近年は特に[[中日ドラゴンズ|中日]]・[[落合博満]]監督を公然と批判することが多い。ただし、これは個人的に落合が嫌いなだけであり、力量は認めているようである。 |
*近年は特に[[中日ドラゴンズ|中日]]・[[落合博満]]監督を公然と批判することが多い。ただし、これは個人的に落合が嫌いなだけであり、力量は認めているようである。 |
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<references /> |
<references /> |
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== 著書 == |
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*プロ野球を10倍楽しく見る方法([[KKベストセラーズ]] |
*プロ野球を10倍楽しく見る方法([[KKベストセラーズ]]。[[映画]]化、続刊された) |
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*江本孟紀のプロ野球ウオッチング([[共同通信社]]) |
*江本孟紀のプロ野球ウオッチング([[共同通信社]]) |
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*ベースボールはひとつの小石から([[学習研究社]]) |
*ベースボールはひとつの小石から([[学習研究社]]) |
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*ダメ虎を猛虎に復活させる方法([[ビジネス社]]) |
*ダメ虎を猛虎に復活させる方法([[ビジネス社]]) |
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*2002年版プロ野球を10倍楽しく見る方法([[日本文芸社]]) |
*2002年版プロ野球を10倍楽しく見る方法([[日本文芸社]]) |
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==出演作品== |
==出演作品== |
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===映画・ドラマ=== |
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*[[細雪]] - 東谷([[吉永小百合]]の婚約者役) |
*[[細雪]] - 東谷([[吉永小百合]]の婚約者役) |
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*[[明石貫平35才]]([[1983年]]) |
*[[明石貫平35才]]([[1983年]]) |
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*[[ゴジラ (1984)|ゴジラ]] - 喜多川(東都日報デスク) |
*[[ゴジラ (1984)|ゴジラ]] - 喜多川(東都日報デスク) |
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==現在の出演番組== |
===現在の出演番組=== |
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*[[ハッケン!!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) |
*[[ハッケン!!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) |
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*[[BASEBALL SPECIAL~野球道]](フジテレビ) |
*[[BASEBALL SPECIAL~野球道]](フジテレビ) |
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*SUNDAY SPORTS BAR([[FMPORT]])-[[2006年]][[12月31日]]、ゲスト |
*SUNDAY SPORTS BAR([[FMPORT]])-[[2006年]][[12月31日]]、ゲスト |
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===CM出演=== |
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*味覚糖(現:[[UHA味覚糖]]) |
*味覚糖(現:[[UHA味覚糖]]) |
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*東京田辺製薬(現・[[田辺三菱製薬]]) |
*東京田辺製薬(現・[[田辺三菱製薬]]) |
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*[[武富士]] |
*[[武富士]] |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.emoyan.com/index.htm EMOYAN.COM (エモヤン.コム) 江本孟紀ウェブサイト] |
*[http://www.emoyan.com/index.htm EMOYAN.COM (エモヤン.コム) 江本孟紀ウェブサイト] |
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*[http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/list/emoto.html 江本孟紀]([http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/index.html タイガース歴史研究室]より) |
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*[http://www.dpj-kochi.jp/ 民主党高知県総支部連合会] |
*[http://www.dpj-kochi.jp/ 民主党高知県総支部連合会] |
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*[http://www.jinbutsu.org/emototakenori.html 江本孟紀講演録]([http://www.jinbutsu.org/index.html 早稲田大学 人物研究会]より) |
*[http://www.jinbutsu.org/emototakenori.html 江本孟紀講演録]([http://www.jinbutsu.org/index.html 早稲田大学 人物研究会]より) |
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{{西鉄ライオンズ1965年ドラフト指名選手}} |
{{西鉄ライオンズ1965年ドラフト指名選手}} |
2007年12月2日 (日) 01:57時点における版
江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県土佐山田町(現・香美市)生まれ、同県高知市出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者、政治家、タレント、俳優。元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(スポーツ平和党→無所属→民主党)。タイ王国ナショナルベースボールチームの総監督。
愛称は「エモやん」。あるいは「エモさん」「エモ」。最終学歴は法政大学経営学部中退。
株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表。消費者金融「武富士」のイメージキャラクターとしてCMや広告に登場。
来歴・人物
高校・大学時代
警察官の息子として生まれ、実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、長嶋茂雄に憧れ野球に打ち込んだ。高知市立高知商業高等学校時代、選抜高等学校野球大会への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたために辞退。
その後、西鉄ライオンズからドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、法政大学経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であった。4番でピッチャーの自分が4位指名で、3番バッターの浜村が1位指名であることに納得できなかったと江本は後に著書で語っている。法大の1年先輩には田淵幸一と山本浩二、同期には六大学リーグで史上最多の通算48勝山中正竹がいるが、山中が卒業(学業でも優秀であった)したのに対して江本は卒業していない。大学時代は一年の春からベンチ入りするも、松永玲一監督の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ半ば退部状態となった(のちに松永とは和解する)。
社会人野球からプロ野球へ
その後、社会人野球熊谷組へ進み、1970年のドラフト外で東映フライヤーズに入団したが背番号は49。中継ぎしか出番がなかったが翌1971年オフに南海ホークスの野村克也監督が才能を見抜きトレードで獲得する。
野村監督のもとで才能を開花させた江本は、この年背番号と同じ16勝をマーク(野村監督は期待の証に同番号与えた)。先発、中継ぎを無難にこなし、1973年のリーグ優勝に貢献した。優勝決定の試合では、最終回に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところでリリーフ、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで押さえの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。読売ジャイアンツがV9を達成する同年の日本シリーズでは大阪球場での第一戦で3失点完投勝利。
1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガースの江夏豊と投げ合い、天の巡り合わせか翌1975年オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に島野育夫も放出)。この際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解している。
阪神タイガースへ移籍
阪神では先発として活躍するも、1978年オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人。その後、中西太監督の起用に不満を募らせ、1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。ちなみに、同じ日の巨人-中日戦(後楽園球場)で宇野勝のヘディング事件が起こった。
当時捕手だった若菜嘉晴と絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。
上記のように現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきた江本ではあるが実際には選手会長を務めた事もあるほど人望があり決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり根は真面目であったという。
現役引退後
1982年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超える大ベストセラーとなった。1982年からはフジテレビ、ニッポン放送野球解説者のかたわら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会を務める。
政界へ
その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙でスポーツ平和党より、参議院比例代表選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。清原和博が、初の日本シリーズにおいて一塁上で号泣したことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『朝まで生テレビ』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。
1995年スポーツ平和党を猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立し、党副代表を辞任、離党して無所属に。自由連合、無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選で支持した後の経世会会長橋本龍太郎が総裁の自由民主党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日、フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。
2004年に民主党を離党し、大阪府知事選挙に立候補するが現職の太田房江に完敗。
- 自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補の資金管理団体として存続、したがって政界引退していない人物である。
政界引退後
同年10月、アメリカ合衆国の独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。
2005年、ニッポン放送の株式保有問題に関して、「ニッポン放送をホリエモン(堀江貴文率いるライブドア)が買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。同年11月、それまで支援してきた独立リーグゴールデンベースボールリーグ参加のチーム、ジャパン・サムライ・ベアーズに代わる日本のクラブチーム、京都ファイヤーバーズを社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。
2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任した。
年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971年 | 東映 | 26 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | - | 60.2 | 61 | 4 | 35 | 29 | 34 | 5.02 |
1972年 | 南海 | 38 | 14 | 1 | 0 | 16 | 13 | - | 237.1 | 205 | 15 | 127 | 115 | 80 | 3.04(6) |
1973年 | 34 | 12 | 5 | 0 | 12 | 14 | - | 217.1 | 167 | 17 | 96 | 95 | 66 | 2.74(5) | |
1974年 | 34 | 9 | 0 | 0 | 13 | 12 | 0 | 216.2 | 185 | 19 | 125 | 116 | 76 | 3.15(13) | |
1975年 | 31 | 13 | 3 | 0 | 11 | 14 | 0 | 207 | 185 | 18 | 83 | 109 | 68 | 2.96(11) | |
1976年 | 阪神 | 38 | 8 | 2 | 2 | 15 | 9 | 0 | 239.2 | 239 | 27 | 75 | 115 | 100 | 3.75(10) |
1977年 | 36 | 10 | 3 | 0 | 11 | 14 | 1 | 223.2 | 202 | 21 | 103 | 129 | 92 | 3.70(6) | |
1978年 | 56 | 2 | 0 | 0 | 11 | 13 | 11 | 150.2 | 124 | 16 | 79 | 103 | 52 | 3.10(2) | |
1979年 | 47 | 5 | 3 | 0 | 12 | 12 | 6 | 178.2 | 181 | 21 | 83 | 141 | 87 | 4.37(18) | |
1980年 | 31 | 4 | 0 | 0 | 8 | 15 | 0 | 160 | 168 | 28 | 73 | 108 | 85 | 4.78(19) | |
1981年 | 24 | 1 | 0 | 0 | 4 | 6 | 1 | 87 | 77 | 11 | 40 | 70 | 34 | 3.52 | |
通算成績 | 395 | 78 | 17 | 2 | 113 | 126 | 19 | 1978.2 | 1794 | 197 | 919 | 1130 | 774 | 3.52 |
タイトル・表彰
背番号
- 49(1971年)
- 16(1972年~1975年)
- 29(1976年~1981年)
エピソード
- 通算24ボーク、1イニング3ボーク(タイ記録)は日本記録。以前はシーズン10ボーク(1973年)も日本記録であったが、2003年に広島東洋カープのクリス・ブロックに11ボークで抜かれた(現在の記録所持者はエステバン・ジャンで12ボーク)。記録の背景にはパ・リーグが1973~74年の2年間、ボークの取締りを極端に強化したことが大きく影響している。
- 趣味はバロック音楽鑑賞。
- 好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演。
- 背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)。」とコメントしている。
- 近年のパ・リーグをよく知らないのか、パ・リーグの話は適当に済ませ、セ・リーグの話は熱心に語る(これは江本だけではなく、セ・リーグ出身の解説者に多い)。
- あまり知られていないが実はジャイアンツの王貞治キラーで、通算対戦打率は約一割と、50打席以上の対戦がある投手の中では一位。被本塁打はわずかに一本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという。(自著「オレ、紆球曲球」)
- 近年は特に中日・落合博満監督を公然と批判することが多い。ただし、これは個人的に落合が嫌いなだけであり、力量は認めているようである。
- 2007年の日本シリーズ第5戦で完全試合投球の山井大介投手を9回に岩瀬仁紀投手に交代させた落合監督の采配については、試合直後の『ショウアップナイター』(ニッポン放送)で「日本シリーズは個人記録を競っているわけではないので、全然おかしくはない」と語り、当然の判断であると評価したが、翌日の産経新聞[1]の記事では「他球団の監督だったら100%投げさせているだろう。投手も『行く』と言わなきゃ。あそこで続投させる監督は、プロ野球界全体のことを考えている監督。完全試合を達成していれば、野球に興味のない人まで関心を持ってくれるチャンスだった。それが野球人気につながっていくのに」とコメントしている。ところが実際には阪神の岡田彰布監督[2]、福岡ソフトバンクの王貞治監督、オリックスのコリンズ監督らはこの投手交代は当然の采配とのスタンスを示している。この様に、彼の発言自体は洞察力や責任感・倫理観に基づいている物というよりも、場の流れや空気によって変更する物が多く、そのため意見も話し相手に応じて2転3転するが、これも彼の味としてお茶の間には息づいている。
著書
- プロ野球を10倍楽しく見る方法(KKベストセラーズ。映画化、続刊された)
- 江本孟紀のプロ野球ウオッチング(共同通信社)
- ベースボールはひとつの小石から(学習研究社)
- 総理大臣 長嶋茂雄(飛鳥新社)
- ダメ虎を猛虎に復活させる方法(ビジネス社)
- 2002年版プロ野球を10倍楽しく見る方法(日本文芸社)
出演作品
映画・ドラマ
現在の出演番組
- ハッケン!!(フジテレビ)
- BASEBALL SPECIAL~野球道(フジテレビ)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビ739)
- すぽると!(フジテレビ、不定期)
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送)
- たかじんのそこまで言って委員会(読売テレビ、ほぼ月1ペース)
- ちちんぷいぷい(毎日放送) - 「ぷいぷいパネリスト」の一員としてたまに登場する。
- SUNDAY SPORTS BAR(FMPORT)-2006年12月31日、ゲスト
CM出演
ディスコグラフィー
- 霜降り橋まで(1980年)
- アカシヤの面影(1982年)