前田重靖
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保20年11月8日(1735年12月31日) |
死没 | 宝暦3年9月29日(1753年10月25日) |
改名 | 嘉三郎(幼名)→利見→重靖 |
戒名 | 天珠院殿嘯月仁勇大居士 |
官位 | 従五位下、上総介、正四位下、左近衛権少将、加賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 加賀藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田吉徳、母:側室・縫(奥泉(石川)氏・善良院) |
兄弟 | 宗辰、重煕、利和、重靖、重教、治脩、他 |
妻 | 婚約者:徳川宗直の娘・賢姫 |
子 | 養子:前田重教 |
前田 重靖(まえだ しげのぶ)は、加賀藩の第8代藩主。加賀前田家9代。第5代藩主・前田吉徳の五男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち3番目の藩主である。
来歴
[編集]享保20年、金沢で生まれる。[1]幼名は嘉三郎。延享4年(1747年)、諱を利見(としちか)とする。寛延元年(1748年)の加賀騒動により、翌寛延2年(1749年)3月、異母兄・利和と入れ替わる形で江戸に上り、藩主・重煕の仮養子となる。宝暦元年(1751年)11月、松平の名字を与えられる。[2]同年12月、将軍徳川家重に謁し、従五位下に叙されて上総介を称する。
宝暦3年(1753年)5月18日、異母兄・重煕の死により、末期養子として家督を継いだ。6月、重煕と同じく将軍徳川家重より偏諱を授かって重靖に改名する。また正四位下・左近衛権少将となり、加賀守を称する。同年7月28日、藩主として初めて帰国の許可を幕府より得る。8月16日出立するが、道中で麻疹を患い、金沢に到着するものの、9月29日に19歳で病死した。同年10月5日に至り、加賀藩は重靖の死亡を公表した。家督は異母弟の利篤(重教)が継いだ。