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康安2年(正平17年、[[1362年]])、清氏は細川氏の地盤である四国[[阿波国|阿波]]へ逃れ、さらに[[讃岐国|讃岐]]へ移った。清氏追討を命じられた阿波国の守護[[細川頼之]](頼春の子、清氏の従弟)に対しては、[[小豆島]]の[[飽浦信胤|佐々木信胤]]や[[塩飽諸島]]の[[水軍]]などを味方に付けて海上封鎖を行い、[[白峰城]](高屋城とも、現[[香川県]][[綾歌郡]][[宇多津町]]、[[坂出市]])に拠って宇多津の頼之勢と戦った。『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。
康安2年(正平17年、[[1362年]])、清氏は細川氏の地盤である四国[[阿波国|阿波]]へ逃れ、さらに[[讃岐国|讃岐]]へ移った。清氏追討を命じられた阿波国の守護[[細川頼之]](頼春の子、清氏の従弟)に対しては、[[小豆島]]の[[飽浦信胤|佐々木信胤]]や[[塩飽諸島]]の[[水軍]]などを味方に付けて海上封鎖を行い、[[白峰城]](高屋城とも、現[[香川県]][[綾歌郡]][[宇多津町]]、[[坂出市]])に拠って宇多津の頼之勢と戦った。『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。

坂出市には清氏はじめ[[被官]]36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。


なお、清氏の子[[細川正氏]]は、その後も南朝に属して抵抗した。
なお、清氏の子[[細川正氏]]は、その後も南朝に属して抵抗した。

== 清氏に関する史跡 ==
清氏最期の地となった香川県坂出市には清氏はじめ[[被官]]36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年2月20日 (日) 22:22時点における版

細川 清氏(ほそかわ きようじ、生年不詳 - 康安2年/正平17年7月24日1362年8月14日))は南北朝時代の武将で、室町幕府2代将軍足利義詮の執事。三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)に生まれる。名は元氏で、後に清氏と名乗る。左近将監、伊予守、相模守。父は細川和氏。子は細川正氏。兄弟に細川頼和細川将氏細川家氏がいる。

系譜

細川氏清和源氏足利氏の一族で、同族仁木氏上杉氏らとともに足利氏家臣団の主要メンバーでもあった。一族は足利尊氏に従い南北朝期に活躍する。父和氏は、後醍醐天皇建武の新政に反旗を翻した尊氏が敗れて九州へ落ちる際、四国に派遣されて足利方の地盤を築いた。和氏は、室町幕府引付頭人、侍所頭人等を歴任して重きをなしたが早くに引退し、康永元年(南朝興国3年、1342年)に阿波国で死去した。

生涯

父和氏の死後、細川氏の嫡流だがまだ若い清氏は、和氏の弟頼春の後見を受け、1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)、河内四条畷の戦いなどに従軍した。

将軍尊氏・高師直と尊氏の弟足利直義が争った観応の擾乱では四国の軍勢を率い、尊氏党として直義派と戦う。文和元年(正平7年、1352年)に伊賀国の守護となり、翌文和2年6月に直義の養子直冬京都へ侵攻した際には殿軍を務めて後光厳天皇を警固し、近江国塩津では天皇を背負って山越えをしたといわれる。文和3年(正平9年、1354年)9月には若狭国守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌文和4年の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。延文3年(正平13年、1358年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、2代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた。

清氏は、寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長斯波高経らの政敵も多かった。延文5年(正平15年、1360年)5月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという。

同年(康安元年、3月に改元)9月、ついに将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らとともに分国の若狭へ落ち延びる。これについて、『太平記』は、清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の『難太平記』では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、10月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津国天王寺に至り南朝に降った。12月には楠木正儀石塔頼房らとともに京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された。

康安2年(正平17年、1362年)、清氏は細川氏の地盤である四国阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた阿波国の守護細川頼之(頼春の子、清氏の従弟)に対しては、小豆島佐々木信胤塩飽諸島水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。

なお、清氏の子細川正氏は、その後も南朝に属して抵抗した。

清氏に関する史跡

清氏最期の地となった香川県坂出市には清氏はじめ被官36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。

関連項目