四條畷の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四条畷の戦いから転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
四条畷の戦い
四條畷神社
四條畷市四條畷神社(戦死した楠木正行を主祭神とする。ただし、戦場ではない)
戦争:南朝と室町幕府(北朝)の戦い
年月日正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日
場所河内国讃良郡北四条(現在の大阪府大東市北条)
結果:室町幕府の決定的勝利、南朝の没落
交戦勢力
室町幕府軍(北朝 楠木党南朝
指導者・指揮官
Hanawa001.jpg高師直
Hanawa001.jpg高師泰
Japanese crest Yotumeyui.svg佐々木導誉(道誉、高氏)
松笠菱(細川向かい松).jpg 細川頼春
松笠菱(細川向かい松).jpg細川頼行 
松笠菱(細川向かい松).jpg細川義春 
Japanese Crest mitu Tomoe 2.svg佐野氏綱
上山高元 
諏訪部扶直
Kikusui.jpg楠木正行 
Kikusui.jpg楠木正時 
和田賢快(新発、賢秀) 
和田行忠(新兵衛尉) 
Kikusui.jpg大塚惟正戦傷
和田助氏
開住良円 
開住良円の息子 
青屋刑部 
戦力
10,000 500–1,000?
損害
不明 戦死者:数百人(うち将校27人)
南北朝の内乱

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、河内国讃良郡北四条(現在の大阪府大東市北条)で発生した、南朝総大将楠木正行・実弟正時と、北朝室町幕府執事高師直師泰兄弟・引付方頭人佐々木導誉との間の戦い[1] 。圧倒的に兵力で勝る師直軍に対し、正行が奇襲を仕掛け熾烈な戦いとなったが、結果としては南朝側は正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。これにより、南朝側は同月末に臨時首都吉野行宮を喪失した。なお、史実での戦闘発生地に基づけば「北四条の戦い」(あるいは正字で「北四條の戦い」)となるはずだが、軍記物太平記』での創作が有名なため普通「四條畷の戦い」(現在の四條畷市という自治体名に基づく表記)あるいは「四條縄手の戦い」(『太平記』流布本による表記)と呼称される。

背景[編集]

水野年方画『教導立志基』より『楠正行』。出征直前の楠木正行

延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日)、楠木氏の棟梁楠木正成湊川の戦いで敗死したため、しばらく楠木氏は宗家ではなく同族大塚氏の和泉守護代大塚惟正(楠木惟正)らが指揮をとって南朝方として戦っていた。

やがて、正成の子楠木正行が成長して延元5年/暦応3年(1340年)ごろから棟梁としての活動を始め、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺まで神出鬼没に戦い、足利方を脅かすようになった。正平2年/貞和3年(1347年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。

戦闘準備[編集]

騎馬武者像。高師直かその親族説がある。

正行の怒涛の攻勢に、室町幕府は本格的な南朝攻撃を決意し、執事高師直を総大将、その弟の高師泰を第二軍の大将とする大軍を編成して河内に派遣することを決定した。

正平2年/貞和3年(1347年)12月14日、まずは第二軍の高師泰(執事高師直の弟)が先に出陣し(『師守記』『田代文書』[2])、和泉国堺浦(現在の大阪府堺市)に向かい、同地で待機(『淡輪文書』[3])。11月から幕将淡輪助重が南朝からの攻撃に対し和泉井山城(現在の大阪府阪南市箱作に所在)に立てこもっていたが、師泰の出陣を待って合流した(『淡輪文書』[2])。

総大将高師直の出発は初め18日夜と噂されていたが(『園太暦[4])、なぜかそれより遅れ、25日(『東金堂細々要記』『建武三年以来期』[4])もしくは26日(『師守記』[4])に京を立ち、八幡に到着、諸国の兵の到着を待った。

この月、南朝・北朝・幕府の三勢力とも国家の存亡を決める決戦の気配を感じたのか、盛んに戦勝祈願を行った。例を挙げれば、17日、南朝の後村上天皇は、東寺に対し、後宇多天皇後醍醐天皇の遺志を継いで「天下一統」を達成できた暁には、この寺を取り立てると約束して、戦勝祈願をさせた(『東寺文書』[5])。24日、北朝の光厳上皇院宣を発して、醍醐寺に天下静謐を祈らせた(『醍醐地蔵院日記[6])。26日、幕府の将軍弟足利直義は、天下静謐のため、東寺神護寺大般若経を37日間転読するように要請した(『東寺文書』『神護寺文書』[7])。

経過[編集]

尾形月耕画『楠正行 四條畷忠戦之圖』

年が明けて正平3年/貞和4年1月1日、諏訪部扶直ら幕府の諸将が八幡に到着(『三刀屋文書』[8])。他の有力武将としては、引付方頭人でバサラ大名として著名な佐々木導誉や(『三刀屋文書』[8])、足利氏支流佐野氏の武将佐野氏綱がいた(『古今消息集』[8])。

1月2日、高師直は八幡を出発し、河内国讃良郡野崎(現在の大阪府大東市野崎)に逗留(『園太暦』[8])。

5日、師直は野崎を出て、正行の本拠地である東条(現在の大阪府富田林市東条)に向けて進軍し、讃良郡北四条(現在の大阪府大東市北条)に差し掛かったところで、待ち伏せしていた正行ら南朝軍から攻撃を受け、熾烈な戦いとなった(『園太暦』[1])。しかし、ついには圧倒的な兵数差によって決着が付き、幕府方が大勝した。

南朝では楠木正行とその弟(楠木正時)、そして和田新発(わだしんぼち。和田賢快とも。正行の従兄弟)が自害(『園太暦』[1])。その他、和田新発の弟の新兵衛尉(和田行忠)(『薩摩旧記』[1])、開住良円(『阿蘇文書』『東金堂細々要記』[1])、良円の息子(『東金堂細々要記』[1])、吉野の衆徒である青屋刑部(『阿蘇文書』[1])らも討死。正行も含めて27人もの武将が死亡した(『阿蘇文書』[1])。楠木氏宗家に次ぐ重鎮の武将大塚惟正(楠木惟正)は、南朝内の文書である『阿蘇文書』に戦死報告がされていないため[1]、おそらく死んではいないと考えられるが、これ以降史料から姿を消すため、再起不能なほどの重症を負ったとも考えられる。楠木党側で生き残ってこの後も歴史に登場する武将は、後に和泉和田氏の棟梁となる和田助氏(みきたすけうじ、和田賢快兄弟とは別族)がいるが(『和田文書』[1])、逆に言えば他には知られないほどの惨状だった。戦死者は数百人を数えた(『薩摩旧記』『東金堂細々要記』[1])。

一方、幕府側の損害もゼロではなく、上山修理亮高元(『常楽記』[1])、細川頼種細川遠州家の祖)の長子細川頼行と頼種の従兄弟細川義春(『尊卑分脈』所収『細川系図』[9][注釈 1]ら数人の武将が討死した。とはいえ、南朝が受けた損害と比べれば圧勝だった。

その後[編集]

月岡芳年画『演劇改良』より『吉野拾遺四條縄手 楠正行討死之圖 楠帯刀正行 市川団十郎』。「劇聖」九代目市川團十郎が演じる正行の死を描いたもの。

翌6日、楠木正行らの首級は京都六条河原で晒された(『建武三年以来記[1])。同6日、北朝の左大臣洞院公賢は、新年早々めでたいことだと喝采した(『園太暦』[1])。同6日、南朝の宮将軍興良親王陸良親王?)と准大臣北畠親房は、和田助氏ら生き残りの武将を集め、北朝に寝返らず南朝に残れば多大な恩賞があると激励した(『和田文書』[11])。

正行・正時の幼少の弟楠木正儀が南朝大将と楠木氏棟梁の地位を継いで戦った(楠木正儀#初陣)。1月8日に堺から無傷のまま進撃した第二軍の高師泰軍を正儀が食い止めている間に、師直によって1月24日から28日の攻撃で南朝首都首都吉野行宮が陥落するが、正儀は2月8日の戦いで幕府に一矢報い、2月12日に高兄弟を撤退させることにかろうじて成功した(楠木正儀#吉野行宮陥落)。それからも幕府は直義の養子(将軍尊氏の非嫡出子)である若き勇将足利直冬を起用し大攻勢を仕掛けるなど、南朝には綱渡りの状態が続くが、翌年に足利将軍家の内紛である観応の擾乱が起こって、ようやく息を吹き返すことになった。

考察[編集]

兵数[編集]

師直軍の兵数については、停戦後、2月12日に撤退する師直軍の兵数が、醍醐寺の僧房玄から「正確には不明だが仮に一万騎程度だろうか?」と大雑把に推測されており(『醍醐地蔵院日記』[12])、これは佐々木道誉ら大きい損害を受けた部隊が抜けて代わりに武田信武らが補充に入った後の分だから、開戦前とそこまで大差はないと考えられる。

楠木軍の兵数については、『太平記』流布本では幕府軍と楠木軍の兵力差は20:1のため[13]、これをそのまま当てはめると楠木軍の戦力は500人となる。新井孝重によれば、鎌倉時代最末期元弘の乱の頃の御家人は、平均20人程度の戦闘員と、馬丁・荷物持ち等2–3人の非戦闘員を連れていたという(ただし大雑把な平均であって、御家人によって数人から100人以上と幅は大きい)[14]。正行軍には最低29人の軍事指揮官(死亡27人、大塚惟正、和田助氏)がいたから、指揮官自身も含めると兵数は29 * (1 + 20 + 2.5)=約682人で、500人とはそれほど外れていない。実際は現在まで名が伝わらない生き残りの指揮官もいたと考えると、1,000人程度になる。

合戦の場所[編集]

軍記物(フィクション)である『太平記』により「四條畷(四條縄手)」の戦場名が有名だが(「畷」は農地と農地を繋ぐ間道のこと)、史実で戦闘が起こった場所は河内国佐良々(さらら、讃良郡)の「北四条」という場所である(『薩摩旧記』足利直義書状および『古今消息通』佐野氏綱軍忠状[1])。 中世での北四条がどこだったか厳密には不明だが、少なくとも江戸時代には讃良郡北条村に「北」「四条」「辻」の3つの集落が存在し、実際、『河内志』(享保12年(1727年)開板)所収『讃良郡古蹟志』でも「四条畦戦場〈在北四条邑、/邑属北条邑〉」と、北条村の中での「北四条」が四條畷の戦いの古戦場だったことを記している[15]明治時代になってから、北条村が四条村(現在の大東市東部)と改称され、北四条が大字北条になるという、地名の逆転現象が起きた[15]。現在の大阪府大東市北条に当たる。

かつては大阪府東大阪市の四条(縄手)ではないかという説もあったが、ここは旧郡名でいえば河内郡四条村であって、讃良郡でも北四条でもないから、明らかに誤りである[15]。ただ、長野という人物が、明治19年(1886年)に「楠の井手」なる場所を掘ったら人馬の遺骨や武具が出てきたと主張したが、長野は供養のためにそれらの遺骨・遺品をまた埋め直したと述べ、そのため証拠品は現存せず、事実かどうか不明である[15]

現在の大阪府四條畷市は、小楠公御墓所という伝説がある場所に、明治23年(1890年)、四條畷神社が建立されたことから発展して市名になったもので、史実として四條畷の戦いと関係があるかは不明。ただ、貝原益軒元禄2年(1689年)に旅行した時は、既に正行・正時の墓と称される墓があったという(『南遊紀行』)[16]

『太平記』での描写[編集]

史実では、戦闘内容については、進軍中の師直軍を正行軍が強襲し「熾烈な戦いになった」(『園太暦』「合戦頗火出程事成」[1])という以外のことは全く不明だが、軍記物太平記』『太平記』流布本巻26[13]では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれた。『太平記』では、南朝方で四条隆資楠木正家三輪西阿、幕府方で細川頼春細川清氏今川範国なども参戦しているが史実かは不明。史実では討死したか不明な大塚惟正(楠木惟正)も戦死したことにされてしまっている。日付も細かい部分が違う(師直が八幡から出陣したのが1月3日になっているなど)。

また、楠木正行の本陣は往生院だったと描かれる。

両軍の兵数は幕府軍60,000(に待機する師泰軍と合わせると80,000)、南朝軍3,000と、『太平記』特有の大幅な誇張表現がなされている。ただ、討死した武将の数については、「和田・楠が兄弟4人と一族23人」[17]と書かれており、これは史実と一致するため(一族と言っていいか不明な武将も含まれるとはいえ)、著者らがそれなりに取材を行った上で、話を面白くするためにあえて雑兵の数を誇張した事情は伺われる。

関連画像[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 『細川系図』では細川直俊も四條縄手で討死したとするが[9]、一次史料によれば実際はこの10年前、延元2年/建武4年(1337年)3月10日に大塚惟正らとの戦いで死亡している(『和田文書』所収『岸和田治氏軍忠状』[10])。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 博文館編輯局編 『校訂 太平記』 (21版) 博文館〈続帝国文庫 11〉、1913年。doi:10.11501/1885211NDLJP:1885211http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211 
  • 藤田精一 『楠氏研究』 (増訂四版) 積善館、1938年。doi:10.11501/1915593NDLJP:1915593http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593 
  • 新井孝重 『楠木正成』 吉川弘文館、2011年。ISBN 9784642080668 

関連項目[編集]