岸和田治氏

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岸和田治氏
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
別名 弥五郎[1]
主君 楠木正成後醍醐天皇
氏族 和泉和田氏(本姓大中臣氏
兄弟 定智、快智
特記
事項
定智、快智が親族であることは確かだが、正確な続柄は不明。
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岸和田 治氏(きしみきた はるうじ[注釈 1]、14世紀前半)は、南北朝時代の武将。楠木正成の部下として湊川の戦いに参戦して生き残った後、南朝方の武将として活躍した。和泉国岸和田荘(現在の大阪府岸和田市)を開発した人物、もしくはその一族とされる。

生涯[編集]

岸和田市の名所五風荘はかつて岸和田と楠木正成の係わりを顕彰して南木荘と言われていた。ただし、時代的には治氏ではなく和田高家を念頭にしていたと思われる。

延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日)、楠木正成楠木氏の麾下として湊川の戦いに参戦し、神宮寺正房八木法達らと共に戦う(『和田文書』所収『岸和田弥五郎治氏軍忠状』延元二年三月日[1]、以下『岸和田軍忠状』と略す)。軍記物太平記』によれば、楠木党はこの戦で700騎から70騎余りにまで兵を減らし、そこからさらに正成・正季兄弟など多くの兵が自害しており[3]、軍記物のためこの数字をそのまま信用できるわけではないが、いずれにせよ治氏はそのように伝えられるほどの激戦を生き伸びた武士だった。

同年6月19日および30日、竹田河原・造道六条河原など京都周辺で戦う(『岸和田軍忠状』[1])。

同年8月1日、大塔若宮(興良親王)が山門を出て八幡山で数日間祈祷、これに供奉する(『岸和田軍忠状』[1])。

同年8月25日、木幡山阿弥陀峰で戦う(『岸和田軍忠状』[1])。

同年9月1日、足利方の畠山国清と戦うが、猛勢に押され、八木城(現在の岸和田市八木地区?)に籠城(『岸和田軍忠状』[1])。7日、天王寺から中院右少将(不明、右中将の中院定平か)と楠木一族の橋本正茂らが援軍に来たため、城中から撃って出て国清を挟み撃ちして撃破、さらに国清が蕎原城(大阪府貝塚市蕎原)に籠城したのでこれも落とし、国清を敗走させる(『岸和田軍忠状』[1])。

延元2年/建武4年(1337年)1月1日、河内国の中川次郎兵衛入道父子が生け捕りにされると、父子を護送する(『岸和田軍忠状』[1])。8日、和泉大鳥郡上神郷若松荘(現在の大阪府堺市南区若松台?)・玉井彦四郎入道の城・和田荘・菱木村などにある北朝方の敵の居住地を焼き払う(『岸和田軍忠状』[1])。26日、横山(現在の大阪府和泉市横山地区?)に向かい敵の居住地を焼き払う(『岸和田軍忠状』[1])。

同年3月2日、河内国古市郡(現在の大阪府羽曳野市周辺)に向かい、丹下三郎入道西念を野中寺の前で破り、逃げる敵を丹下城まで追い、城を焼き払う(『岸和田軍忠状』[1])。

同年3月10日、足利方が細川兵部少輔(細川氏春)と細川帯刀先生(細川直俊)を大将として攻めてきたため、和泉守護代大塚惟正の指揮のもと、平石源次郎八木法達らと共に、野中寺の東で防戦(『岸和田軍忠状』[1])。細川勢が逃げるところを藤井寺西、岡村北方面まで追う(『岸和田軍忠状』[1])。細川勢は軍を二分して南朝方を攻撃し、戦いは数刻続き、細川直俊が戦死するなどの激戦だったが、結局、藤井寺前の大路で南朝方が敗れて退散した(『岸和田軍忠状』[1])。

同年8月4日夜、宮里城の合戦で、巻尾寺の弁房らと共に戦い、国分寺前で武功をあげる(『和田文書』所収『和泉国岸和田弥五郎治氏軍忠状』延元二年十一月日[4]、以下『岸和田軍忠状 十一月日』と略す)。

同年9月26日から27日夜にかけて、大塚惟正・上卿弥次郎俊康のもと宮里城の攻城戦に参加(『岸和田軍忠状 十一月日』[4])。

同年10月13日、大塚正連のもと、巻尾寺に攻めてきた足利方と交戦し、15日には大塚正連・八木法達と共に敵軍を追い返し、さらに19日にも戦いがあった(『岸和田軍忠状 十一月日』[4])。

兄弟なのか子なのかは不明だが、岸和田定智(じょうち)と岸和田快智(かいち)という同族も上記の戦闘の一部に参戦しており、それらの軍忠状も現存している[4]

1337年の後どういった活動をしたのかは確実ではない。しかし、応永7年(1400年)9月に、足利義満が岸和田荘半分を石清水八幡宮へ寄進しているから(応永7年9月28日『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))、それまでには岸和田氏によって荘が開拓され、しかも室町幕府の手に落ちたのだと考えられる[5]

以上のように、歴戦の猛者にして南朝に一定の武功があった武将であることが一次史料から確実で、しかも大阪府の地域史に大きな影響を与えた可能性がある人物にもかかわらず、軍記物太平記』には一切登場しない。その上、岸和田という地名の語源についてすら、楠木正成の甥和田高家が元であるとする説が江戸時代以降に流布して[6]、手柄を取られてしまっている。山中吾郎らの調査の結果、和田高家説は陽翁の創作物『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年前後?)に端を発し、石橋直之泉州志』(元禄13年(1700年))がそれを真に受けて採用したことから広まった誤伝であると考えられている[6]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「岸和田」が当時なんと読まれていたのか不明であるが、彼の軍忠状が『和田文書』(みきたもんじょ)に含まれていることから、治氏は和田氏(みきたし)の出身であると考えられるため、本項では仮に「きしみきた はるうじ」とする。岸和田市の公式ページは「きしわだ はるうじ」としている[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 東京帝国文科大学史料編纂掛 1903.
  2. ^ 岸和田市 2009.
  3. ^ 長谷川 1996, p. 316.
  4. ^ a b c d 続群書類従完成会 1957, pp. 160–165.
  5. ^ 日本歴史地名大系 2006, 大阪府:岸和田市 > 岸和田村.
  6. ^ a b 辻 2015, pp. 75–78.

参考文献[編集]

  • 東京帝国文科大学史料編纂掛 「延元元年五月二十五日条 和田文書」 『大日本史料 第六編之三』 東京帝国大学、1903年、416–418頁。doi:10.11501/782841NDLJP:782841http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782841/235 
  • 続群書類従完成会編 「和田系図」 『続群書類従 第七輯下』 続群書類従完成会、1957年、129–165頁https://books.google.com/books?id=h4TOU2exzc8C 
  • 長谷川端編 『太平記』 2巻 小学館〈新編日本古典文学全集 55〉、1996年3月20日。ISBN 978-4096580554 
  • 『日本歴史地名大系』 平凡社、2006年。 
  • 辻 陽史「護持山朝光院天性寺所蔵『天性寺聖地蔵尊縁起』の成立過程-地蔵菩薩の利生譚から岸和田城史譚へ」、『國文學』99巻、関西大学国文学会 pp. 69–89 閲覧は自由
  • 岸和田治氏・定智・快智(きしわだはるうじ・じょうち・かいち) 生没年不詳(南北朝期)”. 岸和田市 (2009–03-03). 2019年4月15日閲覧。

外部リンク[編集]