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望月 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
建造所 浦賀船渠
起工 1926年3月23日
進水 1927年4月28日
竣工 1927年10月31日(第33号駆逐艦)
沈没 1943年10月24日
除籍 1944年1月5日
要目(計画)
排水量 基準:1,315トン、常備:1,445トン
全長 102.72m
全幅 9.16m
吃水 2.92m
機関 ロ号艦本式缶4基
艦本式タービン2基
2軸、38,500馬力
速力 37.25ノット
航続距離 14ノットで4,500海里
燃料 重油450トン
乗員 154名
兵装 45口径三年式12cm単装砲4門
留式7.7mm機銃2挺
61cm3連装魚雷発射管2基6門
(八年式魚雷12本)
爆雷投射器
爆雷12個

望月(もちづき)は、日本海軍睦月型駆逐艦11番艦である[1][2]。艦名は満月の別称。1927年(昭和2年)10月に竣工した。 1943年(昭和18年)10月、ニューブリテン島で揚陸作戦中に空襲を受け沈没した。

艦歴

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建造から太平洋戦争緒戦まで

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1925年(大正15年)6月25日、大正12年度艦艇補充計画に基づき浦賀船渠で建造予定の一等駆逐艦に第33号駆逐艦の艦名が与えられた[3][4]1927年(昭和2年)10月31日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日、望月と改称された[1]1937年(昭和12年)からの支那事変で中支、南支方面に進出した。

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、望月は睦月如月弥生の睦月型4隻で第30駆逐隊を編制し、南洋部隊の第四艦隊・第六水雷戦隊に所属していた[5]。開戦直後の11日、第30駆逐隊は第六水雷戦隊と共にウェーク島攻略戦に参加した(編制はウェーク島の戦い参照[6])。陸上からの砲撃と空襲で疾風如月の駆逐艦2隻を喪失、作戦は失敗したが、望月に被害はなかった[7]。12月21日以降の第二次攻略作戦にも参加し、ウェーク島を占領した。

その後、第六水雷戦隊はラバウルラエサラモアブーゲンビル島の各攻略作戦に参加した。5月上旬の珊瑚海海戦ではポートモレスビー攻略部隊に参加した[8]。5月25日、卯月が第30駆逐隊に編入した[9][10]。第30駆逐隊は6月以降、ガダルカナル島設営作戦や船団護衛に従事した[11]。7月上旬、弥生と共に修理のため本土へ回航し、13日に佐世保港に帰港した[12]

ガダルカナル島の戦い

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7月10日、第六水雷戦隊が解隊された[10][13]。第30駆逐隊は10日に第二海上護衛部隊、14日からは新編された第八艦隊に配属された[14][15]。8月24日-25日の第二次ソロモン海戦では、沈没した空母龍驤艦載機で不時着した乗員の救助を行った[16]

9月11日、ニューギニア島ミルン湾で弥生が空襲を受け沈没した。駆逐艦磯風と共に乗員の救助活動に従事した。21日夜に磯風とラバウルを出撃し、22日にカッターボートの10名を収容した。同日深夜の救出は失敗したが25日夜に磯風と再出撃し、26日夜にノーマンビー島で弥生艦長以下乗組員83名を救助した[17][18]

10月5日、輸送船「愛国丸、報国丸、清澄丸」が東南アジアからソロモン諸島への陸軍輸送を実施することになり、「望月」は10月5日に船団と合流、6日ラバウルに到着した[19]。12日、「鳥海、望月」はラバウルを出撃、13日ショートランド泊地に到着した[20]。 10月14日、前夜の第三戦隊(戦艦金剛榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃に続いて重巡「鳥海、衣笠」も同飛行場基地に対し艦砲射撃を実施、「天霧、望月」は重巡2隻を護衛した[21][22]。 10月16-17日、軽巡洋艦3隻(川内由良龍田)と水雷戦隊部隊(秋月《四水戦旗艦》、朝雲村雨夕立春雨五月雨浦波敷波綾波有明白露時雨)によるガダルカナル島輸送作戦が実施された[23]。17日夜、軽巡戦隊はガ島エスペランス岬にて、水雷戦隊はタサファロング岬にて揚陸に成功。「鳥海、衣笠、天霧、望月」は掩護のためルンガ沖に進出し[24]、「天霧、望月」のみ飛行場への艦砲射撃を実施した[25]

11月上旬、「望月」は軽巡「天龍」及び第四水雷戦隊を基幹とする増援部隊と共同でガダルカナル島への輸送作戦を実施した[26]。甲増援隊(朝雲《第四水雷戦隊旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、白雪、暁、雷、天龍)は11月1日22時30分に、第一攻撃隊(衣笠《増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官旗艦》、川内、天霧、初雪)と乙増援隊(満潮、敷波、綾波、望月)は23時以降にショートランドを出撃、各艦に「白雪」触礁以外の損害はなかったものの、揚陸地点で波浪のため内火艇短艇を多数喪失、未揚陸物資を出した[27]。「望月」は大発動艇2隻を曳航して帰投している[28]

11月5日、甲増援隊(朝雲《旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、初雪、望月、天龍)はガ島輸送を実施、米軍魚雷艇や潜水艦の襲撃をかわして全艦無事に帰投した[29]。輸送作戦と並行して「初雪、望月」はガダルカナル島の蟻輸送大発動艇小発動艇部隊)基地撤収作戦にも従事した[30]

11月7-9日、第四水雷戦隊(臨時旗艦「天龍」)麾下の乙増援部隊(指揮官第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐:朝雲《旗艦》、村雨、夕立、春雨、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮、望月)はガダルカナル島輸送作戦を実施した[31][32]。「朝雲、望月」は警戒艦として行動する[33]。8日深夜、米軍魚雷艇複数隻が日本艦隊を雷撃、魚雷1本が「望月」に命中するが、不発だっため被害はなかった[34][35]

11月中旬、「望月」は第三次ソロモン海戦に輸送船団護衛艦として参加。増援部隊駆逐艦(早潮《第二水雷戦隊司令官田中頼三少将旗艦》、親潮黒潮海風江風涼風高波巻波長波、天霧、望月)は輸送船団11隻を護衛してガダルカナル島へ向かうが、空母「エンタープライズ」艦載機およびヘンダーソン基地航空隊やB-17重爆の反復攻撃を受ける[36]。「望月」は沈没船から乗組員1012名を救助したのち、被弾した「佐渡丸」を「天霧」と共に護衛してショートランド泊地へ戻った[37]。第三次ソロモン海戦は日本軍の敗北でおわり、ガダルカナル島の戦局は一挙に悪化した。「望月」は同海戦で損傷した軽巡洋艦「五十鈴」を護衛してトラックへ向かい、11月20日に到着した[38]。12月1日、「睦月、弥生」を喪失して「望月、卯月」の2隻になっていた第30駆逐隊は解隊された[39]

その頃、連合軍はニューギニア戦線で反撃に出ていた。11月16日にはパプアニューギニアの日本軍拠点ブナに上陸戦闘を敢行し、ブナ・ゴナの戦いが始まっている[40]。日本海軍はガダルカナル島方面に加えてニューギニア方面でも鼠輸送(駆逐艦輸送)を実施することになった。12月12日、重巡「熊野、鈴谷」と「望月」から成る支援隊はカビエンを出撃してアドミラルティ諸島へ進出、輸送隊(風雲、荒潮、磯波、電)に対し補給を実施した[41]。 12月18日-19日、「朝潮、望月」はフォン半島先端のフインシュへ陸戦隊の揚陸を実施[42]。帰途、爆撃を受け「望月」は戦死者40名以上を出した[43]。12月21日の段階で、東部ニューギニア方面護衛隊麾下の駆逐艦は「望月」のみとなった[44]

昭和18年の戦い

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1943年(昭和18年)1月9日、駆逐艦「望月」、水雷艇「」は輸送船「西阿丸」を護衛してニュージョージア島ムンダ輸送を実施した[45][46]。13日、「望月」は敷設艦「津軽」と共にサンタイサベル島レカタへの輸送を実施[47][46]。その際、座礁して損傷する[48]。何度も損傷した「望月」は2月に佐世保に帰港し、修理に従事する。

3月より再びラバウル方面で輸送任務に従事した。

3月15日に「ふろりだ丸」がアメリカ潜水艦の攻撃を受けて航行不能となると、「望月」は同船護衛のために派遣された[49]

3月28-29日、天霧と共に第12防空隊50名と糧食弾薬をレカタ基地へ輸送した[50]。30日、三日月、望月、卯月で第30駆逐隊が再編され、南東方面艦隊・第八艦隊・第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に所属した[51][52]。望月は第11航空戦隊、958空水偵部隊と共にビスマルク諸島方面航空部隊にも配属された[53]

4月2日-3日、「雪風、天霧、望月」はサンタイサベル島・レカタ基地輸送を実施した[54]。4月7日、「天霧、望月」でレカタ輸送を実施するがB-17重爆1機の攻撃で「天霧」が損傷した(死傷者10名)[54]。 4月29日-30日、「天霧、夕霧、望月」で呉鎮守府第七特別陸戦隊司令官勝野実少将や歩兵第23連隊230名、弾薬糧食等をレカタへ輸送した[55]。5月3日(第二回)、5月7日(第三回)、5月10日(第四回)と、この3隻で輸送作戦を実施した[55]。4月下旬〜5月上旬の月暗期輸送はこれで終了し、次の月暗期(レカタ方面6月末、コロンバンガラ方面7月末)まで物資の集積に努める[55]。4月下旬〜5月上旬のレカタ方面における輸送総量は、進出(陸軍820名、海軍306名)と後送(陸軍507名、海軍58名)及び燃料弾薬90トン・糧食150トンであったという[55]

5月下旬、月暗期となったため日本海軍は駆逐艦輸送を再開した[56]。5月28日と5月31日、「望月、天霧」はブイン〜レカタ輸送(二回の合計佐七特陸戦隊464名、物件220トン、燃料120缶)を実施した[56]。6月4日-5日、「天霧、望月、皐月」はラバウル〜ツルブ輸送を実施[57]。6月6日-7日、「長月、望月」によるツルブ輸送を実施[57]。並行して潜水艦による『モグラ輸送』が行われた[57]。6月27日-28日、「望月、皐月、夕凪」によるコロンバンガラ島輸送(陸兵900名、物資100トン)を実施した[56]。直後の6月30日、米軍はレンドバ島に上陸、ニュージョージア島の戦いがはじまる。

外南洋部隊水上部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官は、司令官直率部隊(秋月型駆逐艦/旗艦新月、望月、皐月、夕凪)、先行部隊(天霧初雪、長月、水無月、三日月)を指揮してラバウルやブインから出撃、レンドバ島西方海面に到達したが米艦隊と遭遇しなかった[58]。7月2日夜、秋山司令官は直率隊(新月《旗艦》、天霧、初雪、長月、皐月、望月)と陽動隊(軽巡夕張、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いてレンドバ島沖合に突入した[58]。だが米艦隊は出現せず、日付変更後に米軍魚雷艇と米軍機夜間空襲を受け、魚雷艇2隻を撃沈して撤収した[58]。その頃、米軍はニュージョージア島へ上陸を開始、日本軍はコロンバンガラ島への緊急輸送を企図する[58]。第一回輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡国三大佐:第22駆逐隊《長月、皐月》、新月、夕凪)と第二回輸送部隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第30駆逐隊《望月、三日月》)が編制されてブインを出撃するが、第一回輸送隊は米艦隊(巡洋艦4、駆逐艦4)と遭遇し駆逐艦1隻を撃沈、だが輸送作戦そのものは中止に至った[58]

7月5日、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は増援部隊全力によるコロンバンガラ島輸送を命じ、秋山三水戦司令官は新たに陽炎型駆逐艦2隻(浜風谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)を編制に加える[58]。秋山少将直率隊(新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)という部署であった[59]。同日夕刻、第三水雷戦隊はショートランド泊地を出撃、コロンバンガラ島到着直前の2348よりウォルデン・L・エインズワース少将率いる米艦隊(巡洋艦3、駆逐艦4)との夜間水上戦闘が勃発する(クラ湾夜戦[59]。「新月、涼風、谷風、天霧、初雪」が砲戦魚雷戦を展開する中、「望月」は大発動艇の曳索をスクリューに巻き込む事故を起こし、「浜風、三日月」から遅れてしまう[59]。7月6日午前3時、揚陸を終えた「望月」は単艦で帰途につくが、4時10分に米艦隊から砲撃を受け小破、魚雷1本を発射して戦場を離脱した[59]。本海戦で「新月」が沈没、「長月」が座礁放棄[59]。とくに「新月」沈没により全乗組員と秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は総員戦死[59]。他の駆逐艦も損傷した[60]。米軍は軽巡「ヘレナ」が沈没した。損傷した「初雪、望月」はラバウルへ後退し、15日まで応急修理を実施している[61]

増援部隊(第三水雷戦隊)は一時的に司令官不在となったため、重巡洋艦「鳥海」艦長有賀幸作大佐が代理に指揮をとる[62]。7月7日、伊集院松治大佐(前職戦艦金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官に任命され、10日に着任した[59]。しかし前述のように三水戦は参謀や司令部要員ごと全滅しており、そこで第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦「神通」)が増援部隊の指揮を執ることになった[63]。ところが7月12日夜のコロンバンガラ島沖海戦で「神通」は沈没し伊崎司令官および第二水雷戦隊司令部も全滅[63]。第七戦隊司令官西村祥治少将が当面の指揮を執ることになった。

一連のクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で日本軍は米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、コロンバンガラ島方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行う計画をたてる[63]。第七戦隊司令官西村少将を指揮官とし、主隊(熊野鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった[64]。「初雪、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港[65]。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなう[64]。7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける[63]。被弾した「初雪」は沈没、「皐月、水無月」が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した[66][64]。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、戦力を再編したのち18日に再出撃した[63]。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破、駆逐艦「清波夕暮」沈没という損害を受けて戦果はなかった[63]。増援部隊艦艇は一時ラバウルに後退し、修理をおこなう[67]

僚艦の三日月がツルブ輸送を実施中に座礁し、7月28日に空襲で沈没した。29日、望月と皐月の応急修理が完成した[67]。2隻は損傷した重巡熊野を護衛してラバウルを出発、トラックに向かった[68]。望月はサイパンを経由して8月15日に佐世保へ到着、修理に入った。9月21日に佐世保を出撃、トラック泊地を経由して29日にラバウルに戻り、引き続き護衛作戦に投入された[69]。10月7日-8日、天霧、皐月と共にスルミに、21日-22日は天霧とブカ島輸送を実施した[70]

沈没

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10月23日、ニューブリテン島ジャキノットに米軍上陸の情報があり、南東方面艦隊は望月と卯月に陸戦隊約100名の輸送を命じた。2隻は午後4時15分にラバウルを出撃したが、ジャキノットで揚陸中の24日午前0時20分に空襲を受けて望月が被弾、沈没した。乗員10名が戦死した。卯月は揚陸を断念し、望月の乗員を収容してラバウルに戻った[70][71]

米軍記録による沈没海域は 南緯5度42分 東経151度40分 / 南緯5.700度 東経151.667度 / -5.700; 151.6671944年(昭和19年)1月5日、帝国駆逐艦籍から除籍された[72]。艦名は海上自衛隊の護衛艦もちづきに継承された

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』260-261頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長

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  1. 岩原盛恵 中佐:1927年7月25日[73] -

艦長

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  1. 岩原盛恵 中佐:1927年10月31日 - 1928年12月10日
  2. 中田操 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日[74]
  3. 岡野慶三郎 少佐:1929年11月30日[74] - 1931年1月8日[75]
  4. (兼)勝野実 少佐:1931年1月8日[75] - 1931年4月1日[76]
  5. 加瀬三郎 少佐:1931年4月1日 - 1931年9月5日[77]
  6. (兼)勝野実 少佐:1931年9月5日 - 1931年12月1日
  7. 中川浩 少佐:1931年12月1日 - 1934年10月22日
  8. 戸村清 大尉:1934年10月22日[78] - 1936年1月6日[79]
  9. (兼)脇田喜一郎 少佐:1936年1月6日[79] - 1936年5月26日
  10. 成冨武光 少佐:1936年5月26日[80] - 1936年12月1日[81]
  11. 飛田健二郎 少佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日[82]
  12. 広瀬弘 少佐:1937年11月15日 - 1938年12月15日[83]
  13. 菅間良吉 少佐:1938年12月15日 - 1940年10月15日[84] ※「睦月」艦長兼務(1939年6月24日 - 11月1日)
  14. 寺内三郎 少佐:1940年10月15日 -
  15. 宮崎勇 少佐:1942年4月6日 -
  16. 生永邦雄 大尉:1942年12月30日 -
  17. 岩渕悟郎 大尉:1943年10月15日 -

脚注

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  1. ^ a b #達昭和3年6月pp.7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第三十三號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 望月(モチヅキ)トス』
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|睦月型|睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月』
  3. ^ #達大正15年6月p.23『第五十二號 艦艇製造費ヲ以テ大正十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス|大正十五年六月二十五日 海軍大臣財部彪|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 第三十三號驅逐艦』
  4. ^ #達大正15年6月p.24『第五十四號 艦艇類別等級表中驅逐艦一等ノ項「第三十二號」ノ下ニ「第三十三號」ヲ、「第三十四號」ノ下ニ「第三十五號、第四十號」ヲ加フ|大正十五年六月二十五日 海軍大臣財部彪』
  5. ^ #駆逐隊編制(昭和16年6月30日)p.3『第三十驅逐隊|睦月、如月、彌生、望月』
  6. ^ #S1612六水戦日誌(1)pp.32-33『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  7. ^ #S1612六水戦日誌(2)p.33『1640睦月|戦斗概要 一.敵ニ対シ各艦銃砲撃ヲ加ヘタルモ効果不明/二.敵機銃爆撃ヲウケタル回数 睦月1回弥生2回望月ナシ32号33号哨戒艇各2回/三.彼我状況睦月望月32号哨戒艇ナシ 弥生戦死1重傷7軽傷14 33号哨戒艇戦死2重傷3軽傷7/四.特陸ハ全部収容セシモ大発2隻ハ放棄セリ』
  8. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)268-269頁
  9. ^ #内令昭和17年5月(3)p.39『内令第九百三十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十三駆逐隊ノ項ヲ削ル|第二十九駆逐隊ノ項中「追風」ノ上ニ「夕月、」ヲ加フ|第三十駆逐隊ノ項中「望月」ノ下ニ「、卯月」ヲ加フ』
  10. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)44頁『第六水雷戦隊のSN作戦における活躍と同隊の解隊』
  11. ^ #S1705六水戦日誌(3)p.5『(3)望月彌生夕凪南洋部隊主隊ニ編入「トラック」「サイパン」「ラバウル」「ツラギ」方面ニ於テ海上護衛ニ従事』
  12. ^ #S1705六水戦日誌(3)p.49『(ハ)望月弥生夕凪 南洋部隊主隊ニ編入海上護衛ニ従事スルト共ニ望月弥生ハ修理ノ為佐世保ニ回航』-p.55『6日1200望月艦長(宛略)6日1530PSヲ経テ佐世保ニ向ケPT発13日午後入港ノ予定』
  13. ^ #S1705六水戦日誌(3)p.58『10日0500 6sd司令官(宛略)6sd機密第七三七番電 本職本日0500退隊夕張ヨリ将旗ヲ徹ス』
  14. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)pp.51-53『(ロ)自7月10日至7月14日『区分/第2海上護衛隊|艦(隊)名/夕張、第29駆逐隊(夕月、追風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)、能代丸、長運丸』『II編制ノ経過概要 7月中旬以降當隊ノ編制右ノ如ク改メラレ稍兵力ノ充実ヲ見ルモ第三十駆逐隊ハ當隊ノ任務ニ従事スルニ至ラズシテ當隊ヨリ除カレ、夕張、第二十九駆逐隊又「ソロモン」「ニューギニヤ」方面作戦ニ従事中ニシテ本月ハ當隊固有ノ護衛任務ニ服スル機会ナク、専ラ能代丸、長運丸ノ2艦ニ依リ當隊任務ヲ遂行セリ』
  15. ^ #S1709第八艦隊日誌(1)pp.6-8『(三)任務編制配備』
  16. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)564頁
  17. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)636頁
  18. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)pp.9-11『21日1930RR出撃磯風望月ヲシテ救出ニ向ハシメタルガ22日天候不良ニシテ上空哨戒機ノ発進ナカリシヲ以テ順延トシ偶前日味方戦闘機ガ「スルミ」沖ニテ発見セル漂流「カッター」ガ弥生ノモノナル算アリタルヲ以テ聖川丸水偵ト協力之ガ捜索ニ向ハシメタルニ右ハ弥生「カッター」ニシテ磯風ハ1300弥生連絡員10名ヲ収容、之ガ嚮導ノ下ニ在「ノルマンビー」島弥生乗員救助ニ向ヘリ』『25日2100RR発再度磯風望月ヲシテ之ガ救出ニ向ハシム。経過別図第三ノ通ニシテ艦長梶本少佐以下83名ノ救出ヲ了セリ。更ニ帰途同日1000頃「ウッドラーク」島北西方海面ニテ被弾沈没セル気象観測船恭海丸乗員ヲ捜索セシメタルモ何等消息ヲ得ル能ハズ27日1700RR帰着』
  19. ^ #戦史叢書83ガ島戦163頁
  20. ^ #戦史叢書83ガ島戦217頁
  21. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.42『外南洋部隊|10-13 10-14|増援部隊ハ輸送船(崎戸、九州、笹子、佐渡、南海及吾妻山丸)ヲ護衛RXNニ進撃ス 爾餘ノ外南洋部隊ハ右支援及敵艦艇撃滅ノ為出撃ス 3Sハ13日夜約1時間ニ亘リRXIノ砲撃ヲ行フ船団ハ途中敵機ノ連続爆撃ヲ受ケタルモ被害ナク14日2200「タサファロング」沖ニ入泊セリ 鳥海衣笠ハ14日夜「ルンガ」沖ニ突入RXIニ對シ艦砲射撃ヲ行フ』
  22. ^ #戦史叢書83ガ島戦218頁
  23. ^ #S1709四水戦詳報(5)pp.3-4,13『10月16日聯合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内由良龍田)、水雷戦隊(秋月、7dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』
  24. ^ #戦史叢書83ガ島戦225頁
  25. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『第二駆(d×2欠)天霧望月|10-17|RXIノ砲撃制圧ヲ行フ鳥海衣笠ハ増援部隊ノ間接護衛ニ任ズ』
  26. ^ #S1711四水戦日誌(1)pp.46-47『六日1820増援部隊指揮官(宛略)外南洋部隊増援部隊戦斗概報第六號 第十七軍総攻撃後ノ「ガダルカナル」ニ対スル當隊増援左ノ如シ 10月29日27dg(二隻欠)月明裡敵機ト交戦シツツ第十七軍参謀長海軍連絡参謀及弾薬七屯ヲ揚陸皈途魚雷艇ト交戦内二隻撃沈 11月2日4sd(由良d×3欠)天竜19dg(一隻欠)8dg(一隻欠)6dg(二隻欠)11dg(三隻欠)望月ヲ以テ陸兵400弾薬糧秣100屯ヲ輸送3sd(dg欠)衣笠天霧初雪ヲ以テ右増援部隊支援衣笠零式水偵一夜間偵察中敵艦爆三機ト交戦不時着行方不明 11月5日3sd(川内駆逐艦4欠)4sd(由良駆逐艦三隻欠)8dg(一隻欠)天竜望月ヲ以テ陸兵2400弾薬糧秣56屯ヲ輸送 蟻上陸取止ム基地撤収作業初雪望月ヲ以テ10月30日開始5日完了 11月6日増援部隊指揮官ノ任務ヲ2sd司令官ニ引継ヲ了ス』
  27. ^ #戦史叢書83ガ島戦346-348頁
  28. ^ #S1711四水戦日誌(1)p.31『二日2100望月(宛略)大発二隻(高射機関砲搭載)曳航皈途ニ付ク実速十七節』
  29. ^ #戦史叢書83ガ島戦348-349頁(参加した11dgを白雪とする場合もある)
  30. ^ #S1711四水戦日誌(1)p.8『外南洋部隊増援部隊挺身輸送隊 指揮官(将旗)4sd 兵力初雪望月 任務「ガ」島挺身輸送基地撤収五日右完了任務終了尓後右輸送ヲ取止メラル』
  31. ^ #S1711四水戦日誌(1)pp.8-9『11月6日外南洋部隊増援部隊乙増援隊 指揮官(将旗)4sd 兵力 4sd(由良峯雲夏雲五月雨有明欠)8dg(荒潮欠)天竜望月 任務 主トシテ弾薬糧食「ガ」島輸送 備考ZOB指揮官(将旗)2sd』
  32. ^ #S1711四水戦日誌(1)p.15『乙増援隊 六日二水戦司令官増援部隊指揮官トナリ編制ヲ変更セラレ(将旗)4sdハ乙増援隊指揮官トナリ七日将旗ヲ天竜ニ移揚九駆司令輸送隊(朝雲2dg(d×1欠)8dg(d×1))ヲ率ヰ主トシテ弾薬糧食及陸軍人員搭載七日2300RXE出撃八日1926「タサクアロング」着1944敵魚雷艇四隻ト交戦之ヲ撃攘シタル外敵ノ妨害ナク2245揚陸終了9日0945RXEニ帰着ス』
  33. ^ #戦史叢書83ガ島戦351頁
  34. ^ #S1711四水戦日誌(2)pp.8-9『九日2020(将旗)4sd(宛略)外南洋部隊乙増援隊戦斗概要 乙増援隊駆逐艦九隻(朝雲村雨夕立時雨白露夕暮朝潮満潮望月)ハ9dg司令指揮ノ下ニ11月7日2300ショートランド出撃8日午後敵機ニ発見セラレタルモ同夜「タサハロング」ニ予定揚陸ヲ完了9日1000無事ショートランドニ皈着セリ 本作戦行動中8日泊地進入直前「サボ」島南方ニ於テ敵魚雷艇四来襲望月ニ命中魚雷1アリシモ不爆浸水ナシ全力発揮差支ナシ皈途地点「ケヌネ三」ニ於テ夕立敵潜ノ魚雷(三本)ヲ受ケタルモ被害ナシ夕立白露爆雷攻撃(投射数41)気泡續イテ多量ノ油湧出シ尓後反響音ヲ得ズ効果確実ト認ム』
  35. ^ #戦史叢書83ガ島戦352頁
  36. ^ #戦史叢書83ガ島戦379頁『第二次輸送船団の被爆』
  37. ^ #戦史叢書83ガ島戦3480頁
  38. ^ #戦史叢書83ガ島戦414頁
  39. ^ #内令昭和17年12月(1)p.4『内令第二千二百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  40. ^ #戦史叢書83ガ島戦462頁『一 ブナ地区の戦闘』
  41. ^ #戦史叢書83ガ島戦447頁
  42. ^ #戦史叢書83ガ島戦450頁
  43. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.66『8dg(朝潮)望月|12-19|入泊前敵機ニ發セラレタルヲ以テ成功ノ算ナシト判断シ反轉セルモ命ニ依リ揚陸ヲ決行無事完了セリ 帰途望月ハ至近弾ニ依リ水線附近ニ破孔ヲ生ジ死者四〇数名ヲ出ス』
  44. ^ #戦史叢書83ガ島戦478頁
  45. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.25『望月鴻西阿丸|1-9|「ムンダ」輸送ヲ実施ス』
  46. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦516頁『兵力の増援』
  47. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.26『望月|1-13|輸送物件12防空隊ノ25粍機銃一箇小隊二連装四基照空隊約半数』
  48. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.34『1月13日望月(レガタ)湾外ノ暗礁ニ坐礁ス14日離洲』
  49. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』303ページ、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  50. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』
  51. ^ #内令昭和18年3月(3)p.47『内令第五百二十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十九驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||第三十驅逐隊|三日月、望月、卯月|』
  52. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後92-95頁『昭和十八年度帝国海軍戦時編制』
  53. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』
  54. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後132-133頁『中部ソロモン方面輸送』
  55. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後163-164頁
  56. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後188-191頁『中部ソロモン方面輸送』
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  58. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後226-227頁『各部隊の作戦』
  59. ^ a b c d e f g #戦史叢書96ガ島撤収後228-230頁
  60. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.15『(2)被害 新月沈没 長月坐礁後被爆大破 天霧初雪谷風中破 涼風望月小破』
  61. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.23『(イ)11dg(天霧、初雪)望月ハ5日、6日ノ「コロンバンガラ」沖戦斗ニ於テ損傷7日以後「ラバウル」ニ於テ応急修理ニ従事15日初雪望月完成ス』
  62. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.34『六(天候略)鳥海艦長増援部隊指揮官代理トナル』
  63. ^ a b c d e f #戦史叢書96ガ島撤収後237-238頁
  64. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後245-248頁『水上部隊の作戦』
  65. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.23『(ロ)11dg(初雪)望月17日夜決行予定ノ「コロンバンガラ」緊急輸送物件輸送ノ為16日1615「ラバウル」発17日0500「ブイン」着』
  66. ^ #S1807三水戦日誌(1)p.23『(ハ)17日.18日「ブイン」泊地対空戦斗 17日初雪望月入泊皐月ハ望月ヨリ水無月ハ初雪ヨリ夫々横付重油補給出撃準備中、0722ヨリ0741ニ至ル間敵大型機並ニ戦爆連合ノ大編隊来襲主トシテ泊地攻撃之ト交戦、初雪被弾約十個沈没、皐月水無月被爆小破、18日0715ヨリ戦爆連合約100機以上ノ「ブイン」泊地来襲ニ依リ望月小破、19日0800「ラバルウ」着、修理ニ従事』
  67. ^ a b #S1807三水戦日誌(1)p.24『(ホ)七月中旬以降22dg(皐月水無月)望月11dg(天霧)夕凪松風「ラバウル」ニ於テ應急修理ニ従事、22dg(皐月)望月29日、水無月夕凪30日、11dg(天霧)松風31日夫々完成』
  68. ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.14『(六)熊野ハ19日夜戦ニ於テ損傷シ修理ノ為機動部隊ニ復帰ヲ命ゼラレタルヲ以テ「ラボール」ニ於テ應急修理ノ上29日1300「ラボール」發駆逐艦皐月望月ノ護衛ヲ附シ「トラツク」ニ回航セシム』
  69. ^ #S1807三水戦日誌(2) pp.30-31『(一)麾下艦船部隊ノ行動』pp.47-31『(四)麾下並ニ一時指揮下ニ入ル艦船部隊ノ行動』
  70. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後329-333頁
  71. ^ #S1807三水戦日誌(4)p.67『(イ)望月 爆撃ヲ受ケ沈没 戦死 少尉1名(缶部指揮官)下士官兵9 重傷下士官兵3 軽傷下士官兵20』
  72. ^ #内令昭和19年1月(2)p.1『内令第四十九號 佐世保鎮守府在籍 軍艦川内 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 驅逐艦 初風 驅逐艦 早苗/佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 望月/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 涼波 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)昭和十九年一月五日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  73. ^ 『官報』第173号、昭和2年7月27日。
  74. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  75. ^ a b 『官報』第1206号、昭和6年1月9日。
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  82. ^ 海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  83. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  84. ^ 海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C13071995700『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿/ 巻1追録/第2類編制(1)』。 
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。 
    • Ref.C12070086600『大正15年達完/6月』。 
    • Ref.C12070089800『昭和3年達完/6月』。 
    • Ref.C12070162900『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(3)』。 
    • Ref.C12070165700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。 
    • Ref.C12070166700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年12月(1)』。 
    • Ref.C12070175600『昭和18年1月~4月 内令1巻/昭和18年2月(4)』。 
    • Ref.C12070176000『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年3月(3)』。 
    • Ref.C12070193800『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(1)』。 
    • Ref.C12070193900『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(2)』。 
    • Ref.C08030120000『昭和16年12月1日~昭和16年12月23日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社、1971年9月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社NF文庫、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。