丹後ちりめん

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丹後ちりめんで一般的な後染め織物の布地。生糸で反物を織りあげてから精錬・染色する。
丹後ちりめんで一般的な後染め織物の布地。
西陣織の帯などに使用される先染め織物の布地。生糸を精練・染色してから織り上げる。

丹後ちりめん(たんごちりめん)は、京都府北部丹後地方で生産される絹織物の総称。丹後地方の地場産業であり、主な産地は京丹後市与謝郡与謝野町。丹後地方は2017年現在、日本国内の約1/3の絹糸を消費し、国内で流通する和服地の6~7割を生産する日本最大の絹織物産地であるが、職人の平均年齢は65歳を超えており、後継者不足が課題となっている[1][2]

特徴[編集]

1mあたり3,000回程度の強い撚りをかけた緯糸(よこいと)を使って織ることにより、生地の前面にシボと呼ばれる凹凸が生まれる。シボはシワを防ぎ、絹の持つ光沢を鈍く抑え、一般の絹織物には出せないしなやかな肌触りや染めつけの良さを作りだす[1]。その性質上から縮むという欠点があったが、昭和30年代以後には縮みにくい縮緬の研究が進んだ[3]。白生地のまま京都市・室町の問屋、西陣に出荷されることが多く、丹後外で染色や縫製がなされて製品とされることが多い。

丹後ちりめんの技法は、絹織物だけでなく、レーヨンやポリエステルなどの化繊素材にも応用されている。

種類[編集]

丹後ちりめんの1種「古代縮緬」の布地
丹後ちりめんの繻子織の布地(染色後)
丹後ちりめんの絽織りの布地(正絹) 草木染などに適する。

技法による種類[編集]

  • 変わり無地ちりめん ……1957年(昭和32年)に開発された。湿度の影響を受けやすい一般的な縮緬の欠点である縮みを軽減し、シワができにくくした縮緬。緯糸に、強撚糸に他の撚糸や生糸を絡ませるなどして1本にした「変わり撚糸」を用いる。糸の撚りのちがいによる縮みや左右の変わり撚りの戻りによって、織物全体が縮む率を軽減させている。
  • 一越ちりめん ……伝統的な丹後ちりめんで、シボが美しく、柔らかい風合いを醸し出す縮緬。経糸に平糸を用い、緯糸に右撚りの強撚糸と左撚りの強撚糸を1本ずつ交互に織り込む。
  • 古代ちりめん ……一越ちりめんよりシボが大きく、色無地などに使用される縮緬。古代の白生地に似た風合いのためこう呼ばれるが、シボが大きいことから「鬼シボちりめん」ともいう。緯糸に右撚りの強撚糸と左撚りの強撚糸を2本ずつ交互に織り込むことから、「二越ちりめん」ともいう。
  • 紋綸子ちりめん ……綾織りの表と裏を使いわけて紋様を出した縮緬で、重目のものは訪問着などの高級着になり、軽目のものは襦袢地に使用される。
  • 紋意匠ちりめん ……よこ糸を二重にすることで、地紋の変化と深みを表現した縮緬。染め上げると立体感があり、無地染めやぼかし染めに人気がある。1968年(昭和48年)頃に主流となり、その後、他の縮緬に人気を奪われるが、2017年現在ふたたび、丹後ちりめんの大半はこの紋意匠ちりめんが占めている。
  • 縫取ちりめん ……生地に金糸や銀糸、ラメ糸、漆糸などの装飾糸を使いわけて、模様を織りだした華やかな縮緬。打掛や振袖など、とくに豪華な和装に使われる。
  • 駒綸子ちりめん ……1962年(昭和37年)に開発された。経糸に駒糸とよばれる強撚諸撚糸を用いる。織りで表現される地紋を活かした染め着物の生地で、光沢があり、シャリッとした風合いが持ち味。全盛を極めたのは1964年(昭和39年)頃だが、現在もファンが多い。
  • 五枚朱子ちりめん ……表面に綺麗な光沢をもつ縮緬で、華やかな中振袖や付下げなどに使われる。1985年(昭和60年)頃に流行した。
  • 朱子意匠ちりめん ……紋意匠と五枚朱子の特徴を併せ持つ縮緬で、染め付きが良い厚めの生地。
  • 絽・紗ちりめん ……シースルーで通気性に優れたの夏向きの生地。生糸100%で織られる。
  • 金通しちりめん ……縮緬地に金糸を織り込んだもの。丹後ちりめんは染色性に優れるものの、金糸は染まらずそのままの光沢を放つ。
  • 銀通しちりめん ……縮緬に銀糸を織り込んだもの。

このほか、変わり撚糸を用いて織られた古代ちりめん「変わり古代ちりめん[注 1]」、「銀無地ちりめん[注 2]」、「綸光ちりめん[注 3]」など、技法の組み合わせにより多様な種類がある[3]

丹後ちりめんの浴用タオルの布地。シボ部分の横糸に絹糸を使用し、経糸にポリエステル糸を使用している。[4]

素材による種類[編集]

  • ポリエステルちりめん ……豊かなドレープが美しく、シワになりにくいうえに速乾性を備えているので、洋装のほか、旅装などに重宝される。
  • シルク現代ちりめん ……和装で培われた丹後ちりめんの撚りの技法を活かし、軽くしなやかにしあげた現代的な絹織物。
  • 複合素材 ……丹後ちりめんの伝統的な技法を用いながら、異なる素材との組合せによって多様な表情を見せる、用途にあわせた実用性や、織り手独自の風合いを実現した先進的な生地。

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特殊加工[編集]

  • インフルエンザウイルス不活性化加工 ……京都府のECO-EVER特許加工「繊維構造物の抗ウイルス加工法」(特許第4832573号)を用いて製品化した、抗菌・制菌・消臭機能をもつ丹後ちりめん製品。素材による差はあるが、もっとも効果があったポリエステル/綿素材では、鳥インフルエンザウイルスH5N2型が99.95パーセント不活性化して感染を予防することが京都府立医科大学免疫学及び一般財団法人カケンテストセンターの実験で確認されている。シルク素材の抗ウイルス実験では、加工後新品で90.7パーセント不活性化の効果が確認された。同様の条件で、レーヨンは98.69パーセント、ポリエステルで99.22パーセントと、いずれも高い抗菌作用が確認されている[7]。また、A型インフルエンザウイルス、黄色ブドウ球菌肺炎桿菌等も不活性化することが確認されているほか、酢酸ガス濃度を94.3パーセント低下させる消臭効果も確認されている。なお、人体には無害な加工技術であるといわれている。
対象 条件 加工後新品 50回洗濯 500回摩擦
鳥インフルエンザH5N2型 5分間静置 99.95パーセント減少 99.99パーセント以上減少 99.73パーセント減少
対象 条件 未加工 加工後 10回洗濯
黄色ブドウ球菌 18時間培養 4.4→7.2(増加) 4.1→1.3(減少) 4.3→2.3(減少)
肺炎桿菌 18時間培養 4.4→7.6(増加) 4.2→1.9(減少) 4.1→3.8(減少)

(「綿素材での抗ウイルス等効果試験結果」丹後織物工業組合中央加工場データ提供、丹後ちりめん歴史館館内掲示資料より)

過去の丹後ちりめん[編集]

  • 綿ちりめん ……開国を機に、海外に生糸が輸出され国内価格が高騰したのと同時に、外国から安価な綿糸が大量に輸入されるようになった時代の変化を受けて、1867年慶応3年)に口大野村(現・京丹後市大宮町口大野)のちりめん商人・蒲田善兵衛が考案した。経糸に生糸、緯糸に綿糸を用いたもので、安価なことで販路を得、明治期前半から順調に販路を拡大・増加していったが、大正期前半の粗製濫造によって姿を消した。
  • 絹紡ちりめん ……1886年(明治19年)、島津村(現・京丹後市網野町島津)の足達祐左衛門が開発した。経糸に生糸、緯糸に死繭の糸やくず生糸を紡績した糸を使用する。生糸と紡績糸と半量ずつ撚り合わせて緯糸とした「半紡ちりめん」と、緯糸に紡績糸のみを使用した「丸紡ちりめん」の2種類が作られた。安価な縮緬として消費者に支持され、明治期後半から大正期前半にかけて丹後ちりめんの主流となった。
  • (旭織) ……1893年(明治26年)、加悦町加悦(現・与謝野町加悦)の梅田利助の名で特許登録[注 4]されている実用織物。撚らない糸を織り込んで凹凸を演出する「ちりめん風の」織物で、強撚糸を用いていないので厳密にはちりめんではないが、安価で量産できることから幅広い用途でこの時代に大きな需要があった。
  • 絽ちりめん ……1905年(明治38年)、加悦町加悦奥(現・与謝野町加悦奥)の細井三郎助が開発した。搦織(からみおり)、または捩織(もじりおり)と呼ばれる技法で、経糸1本にさらに1本の糸をからませた2本1組の糸を用い、緯糸1本または数本ごとに位置を変えることで絡み目によって緯糸方向に透き間を作って織り上げる。昭和初期まで流行し、現在も夏物のちりめんとして製織されている。
  • 縫取ちりめん ……1925年(大正14年)、野田川町三河内(現・与謝野町三河内)の加藤忠治が開発した。京都で考案された精錬にも耐える金糸や銀糸などの装飾糸を用いて、模様を縫い取りした豪奢な縮緬で戦前及び昭和のバブル期に流行した。丹後ちりめんの高級品というイメージを決定づけたちりめんで、現在も製織されている。

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歴史[編集]

発祥[編集]

丹後地方は、古来「弁当忘れても傘忘れるな」と言い継がれるほど雨や雪の多い湿潤な気候(「うらにし」という)で、乾燥すると糸が切れやすくなる絹織物の生産に適していた[9] 。内陸部では少なくとも奈良時代からの生産が行われており、正倉院には丹後国竹野郡(現在の京丹後市弥栄町)に住む車部鯨(くるまべのくじら)という人物から朝廷に納められた(あしぎぬ)が残されている[10]。さらに南北朝時代の『庭訓往来』に記された丹後精好(たんごせいごう)、江戸時代初期には撰糸(せんじ)などが製織され、名産となっていたことが『毛吹草』や『日本鹿子』等の記述で確認することができる[11]。織物業は農業とともに、長く丹後の人々の生活を支えてきた[10][12]

丹後地方に縮緬の技術が導入されたのは、1720年享保5年)から1722年(享保7年)にかけてである[13]。「丹後精好」は高品質な絹織物であったとされるが、江戸時代に京都の西陣でお召ちりめんが誕生すると、「田舎ちりめん」と呼ばれて売れなくなった。さらに1680年1681年延宝8年・9年)や1717年(享保2年)の凶作飢饉が重なり、丹後地方の人々の生活は極限まで困窮した。延宝の大飢饉(1680~1681年)では、牛3,000頭のうち1,870頭が死に、14,816名が餓死したと伝えられている。[14]。打開策として機業復興を願い、当時一世を風靡していた縮緬製織に目が向けられたのは当然の帰結であったが、多くの産業技術が各々の産地で秘匿されていた時代であったので、その道は険しかった。

そこで、峰山絹屋佐平治1719年享保4年)に禅定寺(京丹後市)聖観世音菩薩に断食祈願をし、京都の西陣の織屋に奉公人として入り込むと、お召ちりめんの製織技術を秘かに探った。一度は失敗するが、再び西陣に出向いて糸崎屋に奉公しながら独自に調査・研究を重ね、ついに1720年(享保5年)、故郷に縮緬技術を持ち帰ることに成功する。その技術は、当時、門外不出とされていた撚糸技術で、糸撚り車の保管されていた土蔵に忍び込んで体得したものであったと伝えられる[14][15]。禅定寺には、絹屋佐平治が最初に織ったちりめんとされる「縮(ちぢ)み布」が奉納され、現在も保管されている。

まったくの同時期、加悦谷では、京都と丹後を行き来する中間問屋であった後野(うしろの)村の木綿屋六右衛門も機業復興をめざし、日頃から懇意にしていた西陣の織屋に秘かにちりめん技法の伝授を依頼、加悦村の手米屋小右衛門と三河内(みごち)村の山本屋佐兵衛を西陣に送って4年かけて技術を習得させ、1722年(享保7年)、故郷に持ち帰らせた[16][13][17]。3人の郷里である加悦谷の上四ケ所と呼ばれる地方(加悦村・後野村・算所村・三河内村)には山林等がなく、農耕も十分にはできない風土であったため、この地方の農民は古代から絹屋なみに紬や精好などの機業で生計を支えていたのである[注 5]。小右衛門と佐兵衛が修行に出ている間、木綿屋六右衛門は彼らの家族の生活すべての面倒をみたと伝えられる[18]。与謝野町のちりめん街道にある杉本家住宅の前には「縮緬発祥之地」として、手米屋小右衛門の功績をたたえる石碑が置かれている。

絹屋佐平治とあわせて、この4人を丹後ちりめんの創業者として、現在もその功績が語り継がれている。

江戸時代[編集]

1726年(享保11年)に、京御池中保利町の吉野屋自治右衛門から峰山の絹屋衆にあてられた「請合状之事」。問屋販売を請け負ったことや、代銀は滞りなく渡していること、2人の保証人などについて説明している。丹後ちりめんの商取引に関する文書としては、現存する最も古いものである。(丹後織物工業組合所蔵)
1840年(天保11年)に発表された「諸国産物大数望」

絹屋佐平治、手米屋小右衛門、山本屋佐兵衛が習得した技術は惜しみなく公開され、瞬く間に丹後一円に伝承された。丹後地方には、当時すでに紬などの製織技術の蓄積があったことも助けとなり、峰山では1726年(享保11年)、加悦谷では1728年(享保13年)には京都に取引問屋をもつに至った[18]。技術導入からわずか6年後の「請合状之事」には、京都で5軒の問屋が丹後ちりめんの販売を請け負っていたことが記されている[19]

一方、京都では、1730年(享保15年)6月の大火で西陣の織機の約半数が焼失したことにより織物が品薄となり、需要に対する供給減の追い風を受けた丹後や桐生などの新興縮緬産地は大きく発展した[16]。後年の丹後の機業の基盤は、この時期に築かれたと考えられている。京の市場に比較的近いという地理的条件も幸いした。当時、丹後ちりめんの流通を支えたのは、背板や天秤かごを使って重さ60キログラムにもなる縮緬を、丹後から京都に運び続けた「ちりめん飛脚」である。屈強な男たちが重い荷を抱えて大江山を越える姿が行列をなしていたという。往路はちりめんを担いで3日かけて京に行き、復路は大金を抱えて2日で帰った、と、民謡に唄われている。

丹後ちりめんは、やがて、縮緬の主産地であった西陣を脅かす存在にまで成長したため、西陣は再三、幕府に対して地方絹の流通量制限を願い出ている。西陣の訴えを受けて、1744年延喜元年)には丹後は36,000反まで、桐生は9,000反までに出荷量を制限された。さらには、許可制の導入や寛政の改革における全国的な倹約奨励で、従来の京都絹問屋が閉鎖されるなど大きな打撃を受けた[19]りもするが、峰山藩では藩内で製織された縮緬を一手に集めて「反別検査」という独自の品質保証制度を設け、販売は合格品だけに限って品質を保証し、問屋を定めて新たに堺など大阪方面への販路拡大を図るなどして乗り切った。この反別検査制は、丹後ちりめん機業史上で最初の製品検査制度である。後述する宮津領内の闇機による粗製濫造品で被害をうけていた1820年文政3年)には、峰山藩のほか、周辺地域の宮津藩や天領・久美浜の機屋も連携し、口大野村京丹後市大宮町)に「三領分大会所」と呼ばれる機屋の統一組織を作るなどして対抗した[20]。1830年代に行われた天保の改革では問屋制が全面廃止され、縮緬機も停止されて、丹後ちりめん産業は深刻な影響を受けるが、峰山藩は京都に呉服所を設け、再び京都での販売に着手している。また、宮津藩も宮津御用場を京都に設けて対抗した。

1840年天保11年)の「諸国産物大数望」では「西の小結」と記録されるほどに販路を拡大し、織物では京羽二重と並び最上位に記された。また、天保年間の越後屋(のちの三越)京本店における地方絹の入荷量を分析した松本四郎の論文によると、丹後ちりめんはその半数を超え、全国トップを争う織物となっていたことが記されている[21]

峰山藩(峰山)の動向[編集]

丹後ちりめんの創織は、わずか1万石余の弱小藩であった峰山藩には、渡りに船だった。峰山藩の藩主であった京極氏は絹屋佐平治を高く評価し、1730年(享保15年)、一介の小機屋にすぎなかった佐平治を森田治良兵衛と改名させ、名字帯刀を許し、「お召、ちりめん、縮緬屋」ののれんと屋号を与えて厚遇した。領民には「縮緬職業の儀は当所第一の業柄」として、積極的に縮緬機業を習い伝えるように奨励し、抜け売りや地売り、闇取引などを禁止し、藩自ら生産や品質を管理運営して、縮緬製織を振興した。このため、峰山藩では縮緬の品質が向上・維持され、1789年天明9年)に刊行された『絹布重宝記』でも、高く評価されている[22]

宮津藩(加悦谷)の動向[編集]

機業を保護・奨励した峰山藩と異なり、他領も含めて7万石の宮津藩に属する加悦谷地方の丹後ちりめんは苦難の道をたどった。宮津藩主の青山氏は、機業を行う農民に対して、「農耕を怠っている」として圧力をかけ続け、創織後28年目の1749年寛延2年)には、機業停止の弾圧を行った。前述のとおり自然条件から農耕だけでは暮らしが維持できない算所村を中心に、加悦谷の農民達は、逃散も辞さない構えで藩と交渉を重ね、年貢の不足は縮緬の代銀で納入すると申し出てなんとか機業を続けられることになったが、その代償として過酷な「機方運上」を取り立てられることとなった[23]1759年宝暦9年)、青山氏から本荘氏6万石へと藩主が代わっても方針は変わらず、農民の暮らしを絞り続けた。1762年(宝暦12年)には許可を得たもの以外は縮緬を織ってはならないとする「機株」制度を設け、1775年安永4年)には機数改めが行われて一機あたり40匁が課税された[20]。なかでも本荘氏の5代目藩主、1808年文化5年)に25歳で家督を継いだ本荘宗発は、田舎大名としては異例の出世街道を突き進んだが[注 6]、その陰には莫大な賄賂献金があったといわれており、宮津藩の財政は火の車だった。そのため、「六公四民」とよばれる米の収穫高の6割を年貢として納めさせる元々の公租年貢に加え、「お講」「頼母子(たのもし)」「お頼み銀」と次々に税を課し、ときに先納を命じた。さらに1821年(文政4年)には莫大な献金の必要が生じたことから、領内を国勢調査し1人1日銭2文の人頭税「万人講」を徴収した[24]

加悦谷の農民が重税にあえぐ一方で、藩権力と結びついた岩滝村(現・与謝野町岩滝)や宮津城下の10以上の有力商人が無制限に闇機をつくり、それまで機方のなかった村にまで闇機をはやらせて粗製濫造し、寛政の改革後の品不足の中でそれらの悪質なちりめんを売りさばいて富を築いていた。1822年文政5年)12月に勃発した丹後地方では史上最大規模の百姓一揆、いわゆる文政一揆は、このような宮津藩の圧政と、藩権力と結びついた商人への怒りが背景にある[25]。文政一揆では、闇機業・闇売買を行っていた商人のことごとくが打ちこわしにあった。

文政一揆は農民側の完全勝利で終結し、暴政は収まったが、農を第一とする宮津藩の方針はその後も変わることなく、明治維新を迎える。この影響は大きく、後述する昭和の最盛期に入っても、京極氏によって保護されていた京丹後地域のちりめん業者の多くが専門業者であったのに対し、加悦谷のちりめん業者は農業などなんらかの兼業者が多く、機の台数もわずか数台の零細企業であるなど、後々まで尾を引いている。

明治・大正時代[編集]

海外とのかかわり[編集]

明治維新により旧規が撤廃されると、織物に使われる生糸は重要な輸出品となった。さらには織物自体も海外向けの品が珍重されるようになった。明治末期から大正期にかけて作成された織物見本帖「橋立」には、外国向けの様々な織物が含まれており、海外販売を意識した製織が行われていたことがうかがえる。

1871年(明治4年)の廃藩置県豊岡県が誕生すると、大野右仲県権参事は丹後縮緬を県の特産品として手厚く保護した。明治新政府が国を挙げて参加した1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会では、出展品を検討するため各府県に一品の報告が求められ、そのうちの織物に関する報告を集めた「織物集説[26]」によると、豊岡県では中郡峰山産と、宮津近傍産の縮緬について報告しており、峰山産の縮緬の質が良いとされ、博覧会にも出品されて、賞を受けている。1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会でも、峰山産の縮緬が出品された[27] [13]。さらに、1900年(明治33年)パリ万国博覧会では、口大野村の鵜飼源右衛門が銅賞を受賞したほか、浜見利七、小林新七、加畑万助、尾藤広吉、塩見徳三、小林忠七、尾藤直蔵、江原徳右衛門の8名が入賞して、出品した丹後ちりめんはフランスで完売した[28]。鵜飼のちりめんには、その後にフランスの商社から注文が入り、「仏蘭西ちりめん」と呼ばれるようになったと伝えられているが、仔細は不明である[29]。また、シカゴ万国博覧会でも、丹後ちりめんは多数の受賞者を輩出した[30]

ジャカード織りの丹後ちりめんの布地(精錬後・染色前)
ジャカード織りの丹後ちりめんの布地(染色後)
ジャカード織機で使用される紋紙(パンチカード)の一種

明治期には技術革新もすすみ、1894年(明治27年)には丹後地方最大のちりめん工場となる西山第一工場(西山機業場)が稼働した。1900年(明治33年)にはジャカードが普及し、紋紙を使用する技術が導入された。1904年(明治37年)には、西山第二工場、第三工場が増設され、ドイツのオットー社製の発動機とスイス製の力織機が導入され、丹後地方ではじめての動力による縮緬製織がスタートした[31]

国内での評価[編集]

1903年(明治36年)大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に出展された多数の織物のうちの504種類を納める実用社の『第5回内国勧業博覧会紀念染色鑑』には、丹後で製織された「旭織」(第65号)、「輸出向薄縮緬」(第66号)、「丹後縮緬」(第68号)[注 7]、「紋織絹縮」(第69号)[注 8]の4点が紹介されており、その産地は加悦谷・峰山・岩屋(旧野田川町岩屋地区)となっている。この時の博覧会では、三河内の坂根精一が特許を取得している「千代鹿の子」も出品され、一等を受賞している[32]

明治-大正期の課題[編集]

織り上げたばかりで精錬していない丹後ちりめん(ジャカード織り)の布地。セリシンや糊などの不純物が付着しており、ゴワゴワとやや硬い手触りがする。これらを洗い流し、灰汁で4時間煮沸すると撚りが戻り、シボのある美しく柔らかい縮緬となる。

開国の流れを受けて躍進する丹後ちりめんであったが、原料である生糸が輸出優先で生産されていたために不足して高騰し、国内消費を目的に量産された丹後ちりめんは、生糸のくずやくず繭を原料とする紡績絹糸や、旭織のように撚らない糸を緯糸とする、ちりめんのようにみえる織物、絹糸以外に綿糸も用いた綿ちりめんなど、安価な織物を生産する粗製濫造傾向に陥ることにもなっていた[33]。また、1876年(明治9年)に豊岡県が廃止されて丹後地方が京都府の一部となると、府は膝元の西陣機業をひきたてるため、丹後地方の機業の進出を抑制する「丹後職工引立仮規則」を定め、丹後ちりめん業界の自由な活動は規制された[34]。そのうえ、1882年(明治15年)頃から登場した仲買業者によって、とくに不足していた生糸を使用した本ちりめんは、生地を精錬加工せずに京都に出荷するようになったため、京都で精錬後にキズがあった場合すべて丹後側の「難もの」として戻され、大きな損失を生んだ。なかには、精錬後にはじめて見つかる織難を悪用し、欠陥がなくてもあったと称して問屋が値引きや返品を迫る例もあった。一方で丹後の縮緬業者のほうでも、重いほうが値が高くなることから、出荷する精錬前の縮緬に砂糖水をかけたり、生糸に糊をつけるなどの不正増量が横行した。

ちりめんを半製品状態で出荷することの不利を指摘し、丹後機業の自立を促したのは、1914年大正3年)に丹後地方を視察した農商務省の岡実商工局長である[35]。これを受けて翌1915年(大正4年)、残っていた精錬業者を中心に丹後縮緬国練期成同盟会が結成され、粗製濫造や不正な増量などを是正し品質を保証するべく、丹後で精錬まですませてから出荷する手立てが講じられた。西陣は政友会を通じて執拗にこれを阻止しようとし、また丹後の縮緬業者のほうでも精錬後のちりめんは貯蔵が困難であることや、京都からの大量取引や見込み買いがなくなることへの危惧から反対する者もいた[36][注 9]が、ついに1921年(大正10年)、与謝郡・中郡・竹野郡の組合が合併して丹後縮緬同業組合(現・丹後織物工業組合)が発足した。1928年昭和3年)には丹後一帯で5か所の精錬工場と倉庫を建設、丹後地方で精錬する「国練」を実施し、組合が検品したうえで出荷することが可能になった[37][38][39]

昭和時代[編集]

戦前[編集]

1927年(昭和2年)3月7日の北丹後地震では7~8割[注 10]の織機が破壊された。この地震では同時に発生した火災による被害がとりわけ大きく、職人の多くが被災し、ちりめんや原料の生糸が焼ける被害を受けた。なかでも丹後ちりめん発祥の地・峰山町の被害は甚大で、9割以上の家屋が焼失し、町民の2割以上にあたる約1,000人が死亡した。丹後機業はもはや再起不能と噂されたが、同年末には機数5,880台、年間生産価格3,400万円と、震災前を上回る規模にまで復興した[40]。政府による復興資金の融資や補助金のほか、ちりめんが好況だったために銀行や京都の問屋も資金援助を惜しまなかったことが復興を援けた[41]1928年(昭和3年)には、国練検査制度が、1933年(昭和8年)には押印制度が開始され、絹織物の高級ブランドとしての地位が確立された[41]

1930年(昭和5年)から京都府織物指導所(現、京都府織物・機械金属振興センター)が作成した「試織品見本帳」からは、黄金時代を迎えた丹後ちりめんの盛華ぶりを、婚礼衣装などからうかがうことができる[36]1929年(昭和4年)には世界大恐慌が生じ、日本も昭和恐慌の時代を迎えていたが、アメリカへの輸出で支えられていた生糸の価格が暴落したことでコストダウンが計られ、北丹後地震後に新型織機を導入できていたことが功を奏し、大衆へと購買層を広げた丹後ちりめんは飛ぶように売れた[42]1934年(昭和9年)2月の見本帳には、「内地婦人洋装ガ加速度ニ増加シツ、アリ」と記載され、和装以外の織物も模索されていたことがうかがわれる。同年7月の見本帳には、和装のコート用の布地として毛織物より縮緬が好まれるようになってきていることや、防寒よりも装飾が重視されて重いものは好まれないこと、縫取ちりめんに金糸を用いるのは大阪では好まれるが京都では好まれない、など、産地で製品化が図られていた様子を垣間見ることができる[43]

戦中[編集]

1937年(昭和12年)に太平洋戦争が勃発すると、翌年には金糸や金箔が使用禁止となり、1940年(昭和15年)から7月には「奢侈品等製造販売制限規制」により当時の丹後ちりめんで主流だった縫取縮緬などを生産・販売することができなくなった。翌1941年(昭和16年)12月には、生糸は配給制になり、国が定めた規格品以外の製造が禁止された。さらに、1942年(昭和17年)11月から金属供出令による織機の供出がはじまり、終戦までに丹後地方全体で力織機の約6割が失われた[44]。生糸の配給や指定生産は戦後も続き、本格的に復興するのは昭和30年代に入ってからとなった[36]

1938年(昭和13年)から2~4カ月おきに作られてきた「試織品見本帳」は、1943年(昭和18年)3月を最後にいったん途絶え、戦後再開するまでおよそ3年半の空白が生じている。この頃の丹後縮緬工業組合の機関紙「丹後縮緬」には、生活必需織物を考案する記事が増え、組合名称も「丹後縮緬工業組合」から、「丹後織物工業組合」へと改称している。この時期に試織された「服地」見本が京都府織物・機械金属振興センターに残されているが、従来は毛糸を材料とするサージを絹糸で製織した「絹サージ」など、生き残りをかけた丹後ちりめん業者の試行錯誤を垣間見ることができる[45]

戦後[編集]

1946年(昭和21年)10月、再び作られるようになった「試織品見本帳」は、「輸出向高級ワイシャツ地」からはじまる。以後、垣間見えるところでは、1948年(昭和23年)頃から輸出向けの縮緬が増えてゆき、戦前と同じく洋装や輸出向けの生産が行われたことがわかる。1946年(昭和21年)10月に発表された「養蚕復興五カ年計画」と「繊維産業再建五カ年計画」を受けて、フラットクレープやデシンクレープが織られ、これらが米国において「丹後クレープ」と呼ばれて好評を博したことによるもので、一時は輸出用織物の3割を占めた。しかし、求められた少品種大量生産は、零細企業の多い丹後地方の生産体制には合わず、1949年(昭和24年)に生糸や絹織物への統制が撤廃されると、再び西陣の先染織物を中心とした国内向け絹織物の生産へと回帰していく。

昭和30年代半ば頃からの高度経済成長期、普段着の洋装化に伴い、着物は晴れ着やフォーマルといった高級品のみとなっていく。高級絹織物として活路を見出した丹後ちりめんは、婚礼調度品の振袖や訪問着、喪服など、着物生地の必需品としてもてはやされた。この頃の学校行事には、ほとんどの母親が色無地に黒羽織を重ね着した装いで出席した。丹後ちりめんは、最盛期には、ガチャっと一織りすれば万単位で儲かるという意味で「ガチャマン」と呼ばれ、1973年(昭和48年)には919万7000反余を生産して頂点に達した。経糸に駒糸を用い、緯糸を二重にして地紋の変化をねらった「紋意匠ちりめん」が全盛の時代である[46]。その後は和装需要の減少、韓国や中国で織られた安価な縮緬等の輸入増加とともに徐々に生産量が落ち込み、2001年平成13年)頃には100万反を切り、2009年(平成21年)には50万反を切り、2014年(平成26年)には32万1千反余まで減少した[47]

平成時代以降[編集]

2005年(平成17年)、丹後ちりめんを含む丹後の織物は「丹後テキスタイル」として、ジャパンブランド育成支援事業に採択され、再び海外市場への挑戦をはじめている。丹後ちりめんの技術は和装だけでなく洋服の生地やスカーフ等の小物、インテリア等にも活用されている。素材の開発もすすみ、摩擦に強いハイパーシルク加工やポリエステル縮緬の開発など多様な分野に展開されるようになった。京丹後市では、植物などを原料とし、地中で還元されるバイオフロント糸を使用する織物開発にも補助を行っている。2010年(平成22年)11月14日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)で、出席した各国首脳の夫人らが着用したコシノヒロコ意匠のガウンドレスは、バイオフロント糸と絹糸に撚糸技術を施して製織した丹後ちりめんである[48][49]

一方で、いまや希少な技となった伝統の藤織りや、近年誕生した特殊技法を用いる螺鈿織りの織物も、世界最大の繊維見本市「プルミエール・ビジョン」の「メゾン・デクセプション(匠の技)」に招待されるなど注目されている[50]2017年1月のパリ・オートクチュール・コレクションでは、フランスの有力ブランド「ON AURA TOUT VU(オノラトゥヴュ)」が丹後産の素材で制作したドレスを発表し、次回もフランスのブランドによって丹後地方の企業8社の織物が採用された[51][52]

民俗[編集]

養蚕[編集]

ちりめんの原材料である生糸を得るための養蚕は、かつて、丹後地方の農家にとってきわめて重要な収入源で、大正時代には「カイコサンを飼わなんだら、百円札がおがめなかった」と言われた。蚕を飼う部屋を蚕室(さんしつ)といい、母屋の座敷がこれにあてられた。飼育期は地域により差があるものの、春は5月上~中旬から、夏は7月下旬から、秋は9月中旬からの年3回で、蛾が卵を産み付けた種紙を購入し、それを孵化させるところから、繭を得るまでに1カ月余りを要した。蚕は病気にかかりやすく、安定した収量を見込めるものではなかったので、養蚕の間は、家中の畳をあげていっぱいに蚕棚をつくり、人は夜でも蚕の世話をしながら、蚕棚の間で寝たという。なお、蚕の飼育はおもに女性の仕事とされた[53]

繭から生糸をとるには、熱湯で繭を煮て、繭の糸口6~8個を座繰で1本の生糸にした。これを木の小枠に巻き取り、さらに大枠に再度巻き返して綛にした[54]。屋内で大量の熱湯を沸かすため、養蚕を行う農家の天井は、現代の一般的な住居の2~2.5階分に相当する高さがあった。

信仰[編集]

養蚕農家の減少に伴い、1935年(昭和10年)頃から徐々に行われなくなったが、丹後地方には養蚕にまつわる様々な信仰がある。

  • 予祝行事
  • ネズミ除け信仰
  • 養蚕の神への参拝
  • 縮緬奉納

なお、機業にまつわる祭事は現在も行われており、4月下旬の土日[注 11]に与謝野町全域(三河内地区を除く)で行われる「加悦谷祭」、5月3・4日に三河内地区で行われる「三河内曳山祭[注 12]」は、いずれも織物・機業の祖神とされる「天羽槌雄命(アメノハヅチオノミコト)」を祭神とする倭文神社(しどりじんじゃ)の祭礼行事である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1987年(昭和62年)頃に流行した。
  2. ^ 1982年(昭和57年)頃に流行した。
  3. ^ 1985年(昭和60年)頃に流行した。
  4. ^ 特許第貮〇壹八號 あさひ織
  5. ^ 「機方文書」1666年(寛文6年)
  6. ^ 27歳で桜田御門勤番役に就任、38歳で寺社奉行になり、11代将軍徳川家斉にとりいって44歳で大阪城代、47歳で京都所司代、1835年天保6年)には52歳で老中になった。
  7. ^ この頃国内向けに流行していた、紡績絹糸を生糸に混ぜて織られた「絹紡縮緬」だった。「別赤縮緬」ともよばれる。
  8. ^ 地紋と金糸織が経緯に織られた高度な技術を要する丹後ちりめん。
  9. ^ 反対の背景には、国練制度導入を推進した丹後縮緬同業者組合の津原武組合長が民政党であったことによる政治的対立や、これまで重量をごまかす不正を行っていた縮緬業者の反発があったとみられる。
  10. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、22頁によれば壊滅した機台は80%以上の5,596台中4,518台が破損
  11. ^ 昭和の頃は毎年4月24・25日に行われ小中学校も休校になったが、現在は住民の日常生活への影響を考慮し、4月末の土日に行うことになっている。
  12. ^ 日本遺産「丹後ちりめん回廊」の構成文化財のひとつとされる。

脚注[編集]

  1. ^ a b 松岡憲司編『地域産業とネットワーク 京都府北部を中心として』 新評論、2010年、82頁
  2. ^ 文化庁. “日本遺産ポータルサイト「丹後ちりめん回廊」” (日本語). 2018年2月20日閲覧。
  3. ^ a b 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、26頁
  4. ^ 丹後ちりめん浴用タオル地”. 2018年3月21日閲覧。
  5. ^ 丹後ちりめんの種類”. 2018年2月24日閲覧。
  6. ^ 与謝野町観光協会「Do:e(ドーエ)」2017.vol.2 丹後ちりめん特集、5-6頁
  7. ^ 丹後ちりめん歴史館館内掲示資料より。
  8. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、25頁
  9. ^ 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、123頁
  10. ^ a b 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、6頁
  11. ^ 京丹後市史編さん委員会『図説京丹後市の歴史』京丹後市役所、2016年、159頁
  12. ^ 丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国物語 丹後は日本のふるさと』2013年、72頁
  13. ^ a b c 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、12頁
  14. ^ a b 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、22頁。
  15. ^ 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、124頁。
  16. ^ a b 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、7頁
  17. ^ ちりめん街道”. 2018年2月23日閲覧。
  18. ^ a b 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』三省堂、1970年、23頁
  19. ^ a b 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、15頁
  20. ^ a b 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、17頁
  21. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、7頁・122頁
  22. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、122頁
  23. ^ 宮津藩の丹後縮緬機業政策について (PDF)”. 足立政男. 2018年3月13日閲覧。
  24. ^ 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、19-20頁
  25. ^ 八木康敞『丹後ちりめん物語―「うらにし」の風土と人間』三省堂、1970年、24-34頁
  26. ^ 国立国会図書館デジタルアーカイブ『織物集説』”. 2018年3月19日閲覧。
  27. ^ 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、11頁
  28. ^ 京丹後市史編さん委員会『図説京丹後市の歴史』 京丹後市役所、2016年、161頁
  29. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、126頁
  30. ^ 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、18頁。
  31. ^ 与謝野町観光協会「Do:e(ドーエ)」2017.vol.2 丹後ちりめん特集、4頁
  32. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、124頁
  33. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、18頁
  34. ^ 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、10頁
  35. ^ 京丹後市史編さん委員会『図説京丹後市の歴史』京丹後市役所、2016年、163-164頁
  36. ^ a b c 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、22頁。
  37. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、20頁
  38. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、8頁
  39. ^ 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』1970年、三省堂、10-11頁
  40. ^ 京都新聞 2011年3月17日(金)
  41. ^ a b 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、24頁
  42. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、130-131頁
  43. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、132頁
  44. ^ 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、25頁
  45. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、133頁
  46. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、135頁
  47. ^ 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、83頁
  48. ^ 「ガウンドレス」でファーストレディ外交”. 2018年3月19日閲覧。
  49. ^ 京丹後市史編さん委員会『図説京丹後市の歴史』 京丹後市役所、2016年、166頁
  50. ^ 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年、8頁
  51. ^ “プレスリリース パリコレで採用されるなど、今、世界が注目する「丹後テキスタイル」。その魅力を伝える『丹後ちりめん回廊 日本遺産認定記念 丹後が伝える「技」と「魅力」展』を京都高島屋で開催。”. 毎日新聞. (2000年1月1日). https://mainichi.jp/articles/20171026/pls/00m/020/255000c 2018年4月20日閲覧。 
  52. ^ “丹後織物のパリコレドレス見て 京都で企画展、職人の実演も”. 京都新聞. (2017年11月1日). http://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20171101000030 2018年4月20日閲覧。 
  53. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、38頁
  54. ^ 『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、28頁

参考文献[編集]

  • 野村隆夫『丹後=ちりめん誌』 日本放送出版協会、1978年、236頁
  • 丹後織物協同組合『丹後ちりめん』 丹後織物協同組合、1978年、23頁
  • 京都府立丹後郷土資料館『特別展図録20 丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、49頁
  • 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、247頁
  • 松岡憲司編『地域産業とネットワーク 京都府北部を中心として』 新評論、2010年、262頁
  • 京丹後市史編さん委員会『図説京丹後市の歴史』 京丹後市役所、2016年、157-166頁。
  • 与謝野町観光協会 『Do:e【ドーエ】 丹後ちりめん特集』2017年、vol.2、1-10頁。
  • 八木 康敞『丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間』三省堂、1970年
  • 丹後展企画委員会『日本のふるさと 大丹後展』京丹後市教育委員会、2015年

外部リンク[編集]

関連項目[編集]