金刀比羅神社 (京丹後市)
| 金刀比羅神社 | |
|---|---|
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| 所在地 | 京都府京丹後市峰山町泉1165-2 |
| 位置 |
北緯35度37分15秒 東経135度3分42秒座標: 北緯35度37分15秒 東経135度3分42秒 |
| 主祭神 | 大物主神 |
| 社格等 | 府社 |
| 創建 | 1811年( 文化8年) |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 例祭 | 10月10日 |
| 主な神事 | 春季・夏季・秋季金比羅大祭(例祭) |
| 地図 |
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金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)は京都府京丹後市峰山町にある神社、府社。文化8年(1811年)峯山藩7代目藩主であった京極高備の命により創建された。家内安全、商売繁昌、交通安全、開運厄除、大漁満足、海上安全、学業成就、病気平癒、安産などの神徳を有し、丹後一円から信仰を集め、地元では親しみを込めて「丹後のこんぴらさん」と呼ばれる[1]。
目次
祭神[編集]
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- 大物主神(おおものぬしのかみ)
歴史[編集]
通史[編集]
京丹後市峰山町の金刀比羅神社は、文化8年(1811年)峯山藩7代藩主京極高備の命によって創建された。京極高備は、讃岐の金毘羅権現の霊威感応が迅速で、たびたび効験を深く感じたことにより、分霊を峯山に勧請することを望み、文化7年(1810年)3月、昌峯山増長院の僧・尊光に相談した[要出典]。金毘羅権現は日本一社として、分宮をしない掟があったが、当時の金毘羅権現別当であった金光院が、尊光と共に高野山で学んだ旧知の仲であったことや、高備の同族である多度津藩の京極家の縁もあり、分宮が認められた[要出典]。翌文化8年(1811年)2月19日に金毘羅宮で棟上式が行われ、四国へ代参していた峯山藩番頭渡辺但見俊猛によって、2月23日に御神体が当地に遷宮された。
当時の社殿は、 昭和2年(1927年)3月7日に丹後半島を襲った北丹後地震により、全壊し失われた。現在の社殿は昭和8年(1933年)に再建された[2]。
北丹後地震について
- マグニチュード7と推定される北丹後地震では、峰山町は壊滅状態となり、金刀比羅神社も社殿を始め殆どの建造物が壊滅的な被害を受けた。そこで、府営の仮神殿に御神体を安泰。阿里山の檜材を得て昭和4年(1929年)から復興造営に着手した[要出典]。本殿・拝殿・斎館などの主要な建物は昭和5年(1930年)に再建され、昭和8年(1933年)にはひと通り修復を終えた。約6000坪の境内に、約180段の石段、本殿、拝殿の整備・復旧させるための低利資金は、約14万円を要し[3]、多くが地元有志の寄付で賄われた。その時の寄付者の名が刻まれた芳名碑が石段脇に並んでいる。その中には(株)丹後商工銀行(現京都銀行の前身[4]:京都銀行峰山支店が丹後商工銀行本店)、吉忠商店(現吉忠)、丸紅商店(現丸紅)ミヨシ石鹸合名会社(現ミヨシ石鹸)など、丹後地方の地場産業であるちりめん産業と縁のあった企業の名がある。[5]
増長院との関係について
- 増長院の尊光と金毘羅宮の別当の松尾寺金光院は同じ真言宗であり、青年の頃に高野山大楽院の衆坊で共に学んだ間柄である事から[3]、分霊勧請の斡旋を依頼しやすい交友関係があった。分霊後、太政官告示による神仏分離がされるまで別当寺として支配に当たった。増長院には、金刀比羅神社に関する文献等があったとされるが2018年現在は廃寺となっている[要出典]。
多度津藩との関係について
- 讃岐丸亀藩6万2000石の領地である琴平は、2代藩主京極高豊の男子3人が早世したため家の断絶を恐れ、宗家を5男京極高或に継がせ、4男京極高通は1万石を分与された[要出典]。その時に金毘羅宮のある象頭山(琴平山)が丸亀藩の支藩である多度津藩の領地となり、4代藩主京極高賢の代に峰山に分霊された。
年表[編集]
- 文化8年(1811年) 峯山7代藩主京極高備の命によって創建される。
- 文政13年(1830年) 木島神社が木嶋坐天照御魂神社の養蚕神社より分霊される。
- 文政13年(1830年) 2層塔の鐘楼が完成した年と考えられる[3]。
- 天保3年(1832年) 木島神社に狛猫が献納される。
- 安政2年(1855年) アメリカ船が浦賀沖に来て国内が騒がしくなったので3月9日から3日間、万民百穀の祈祷を行う[3]。
- 明治2年(1869年) 太政官の通達により仏式による仏像・仏具等の一切の取払いを命じられる。
- 明治2年(1869年) 神社号を琴平神社、又は金毘羅神社に変える様、峯山藩知事に申請し、琴平神社と定められる。それまでは金毘羅宮と呼ばれた。
- 明治4年(1871年) 金刀比羅神社と改号許可を受ける。この年、大神事(大祭)が行われる。
- 明治6年(1873年) 豊岡県より村社の指定を受ける。
- 明治14年(1881年) 丹後・但馬巡遊中の有栖川宮熾仁親王夫妻が昼食に立ち寄る[3]。
- 明治28年(1895年) 松方正義が鉄道路線視察のために巡行中、峰山に宿泊した時、ちょうど祭礼中であり屋台を見て悦に入ったと記録されている[6]。
- 明治29年(1896年) 東園基光が勅使として水害視察の為、近府県を巡視した際に社務所に宿泊する[6]。
- 大正8年(1919年) 府社に昇格。
- 昭和2年(1927年) 北丹後地震により壊滅的な被害を受ける。
- 昭和8年(1933年) 社殿が再建される。
境内[編集]
境内には、本殿、拝殿、神門、絵馬舎、手水舎、7つの末社、11対の狛犬(うち1対は狛猫、1対は石狐)、水盤、亀の池などがある[7]。
境内社(末社)[編集]
木島神社
- 祭神:保食命
佐々木神社
秋葉神社
稲荷神社
- 祭神:稲倉魂神
粟島神社
- 祭神:少彦名命
亀の池[編集]
- 石橋の掛かる池には多くの亀が飼われている。社務所にて50円で亀の餌が購入できる[10]。
祭礼[編集]
例祭[編集]
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- 春季大祭(4月9日、4月10日)
- 夏季大祭(7月9日、7月10日)
- 水無月祭(7月29日)川裾祭・大祓式
- 例祭(10月10日)
- 神輿渡御祭(毎年10月第2日曜日の前日)
- 新嘗祭・紅葉祭(11月最終日曜日)
御鎮座二百年記念礼祭[編集]
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催事[編集]
こんぴら手づくり市[編集]
「こんぴら手づくり市実行委員会」が主催し、2009年(平成21年)10月18日から1月2月を除く毎月1回(第3日曜日)に開催されてきた金刀比羅神社境内で行われる手づくり市で、通常は15から20の露店が並ぶ[12][13][14]。後述する第1回目のこまねこまつりでは、第70回目のこんぴら手づくり市にあわせて開催されたことにちなみ、境内には猫にちなんだ作品などを販売する露店が70店が並んだ[15][16]。以来、こまねこまつりの主要企画として、毎年まつりにあわせて大規模な出店を募っている[17]。第2回目のこまねこまつりでは80回目の手づくり市開催日であったことから80店舗の出展が予定されていたが、悪天候によるまつりの中止とともに順延となった[18]。
こんぴら手づくり市は開催回数を重ねるにつれ工夫され、雨天時には社務所や斎場を会場に室内で開催されるようになった[19]。内容は、手芸品、陶器や工芸、鞄、衣類、パン、野菜、鉢植えなど手づくりであればよいとされ[20]、ワンデイカフェやミニコンサート、占いなども行われる[19]。長く続けることを目標のひとつとして開催されている[19]。
こまねこまつり[編集]
金刀比羅神社の末社である木島神社には、全国的に見て珍しいとされる「狛猫」がある[21]。この「狛猫」にちなんで、2016年9月18日、「第1回こまねこまつり」が京丹後市の金刀比羅神社を中心に開催された[22]。
関係のある人物[編集]
岩国屋武助
吉村伊助
- 明治から昭和期の丹後地方の実業家。 北丹後地震で甚大な被害を被った金刀比羅神社の復興に尽力する[要出典]。
- 「峯山の宮つくる日にいきあひて 我さへ光るみ柱のもと」と金刀比羅神社に纏わる歌を詠む[3]。父、与謝野礼厳(大田垣蓮月らと交友があった歌人であり僧侶)が与謝野町温江出身である事から妻、与謝野晶子と度々、丹後を訪れている[要出典]。第12回衆議院議員総選挙にて初代加悦鉄道社長、初代丹後縮緬工業組合理事長(その時、吉村伊助が副理事長)と歴任し、丹後の発展の為に尽くした丹後織物中興の祖と言われる津原武と同選挙区で争うが得票数99票で落選する[要出典]。(津原武は2,939票を得票し当選[23]。)
- これまで、『峰山郷土史』等で高久は讃岐多度津藩主京極高庭の2男で峰山へ養子となり、日頃から信仰していた郷里の金毘羅大権現を迎えようと考えていたが、その現実を見ないで文化5年に(1808年)にこの世を去り、家督を継いだ京極高備がその意思を継いだと記されているが近年、その誤りが正される[要出典]。京極高庭は(初代京極高通の2男京極高昌の2代裔)分家の旗本であり、京極高長に男子が居なかった為に寛保元年(1741年)に養子に迎えられた。 京極高久は天明8年(1788年)より3年間、若年寄を務めた[要出典]。池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵の理解ある良き上司役として描かれている[要出典]。
交通アクセス[編集]
周辺情報[編集]
- 琴平新地
- 明治30年代に成立した、峰山の17軒の生糸縮緬問屋の頃からの花街。明治・大正・昭和・平成と縮緬織物産業と盛衰を供にしている[27]。
- カラシナ古墳
- 金刀比羅神社本殿の奥、愛宕山山頂にある愛宕神社の境内一体がカラシナ古墳である。忌部式土器の破片が多く掘り出され、うわぐすりを掛けられたものも見つかっている[3]
脚注[編集]
- ^ http://www.konpirasan.com
- ^ 『金刀比羅神社御鎮座二百年記念誌』金刀比羅神社二百年祭奉賛会、2012年、p.4
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『峰山郷土史 下巻』臨川書店、1964年
- ^ “銀行図書館 銀行変遷史データベース”. 一般社団法人 全国銀行協会. 2018年9月13日閲覧。
- ^ 『金刀比羅神社御鎮座二百年記念誌』金刀比羅神社二百年祭奉賛会、2012年、p.65、p66
- ^ a b (『金刀比羅神社二百年祭奉賛会』、2012年、p.4)
- ^ “ことひら20号 (PDF)”. 金刀比羅会. 2018年9月17日閲覧。
- ^ 京都新聞2011年2月22日
- ^ 木下幸吉『峯山旧記・御料所旧記』賢美閣 日本佛書センター、1979年
- ^ “御寶探訪取材 金刀比羅神社へ行ってきました!”. 月刊えふ. 2018年9月27日閲覧。
- ^ 丹後 峰山のこんぴらさん - 公式サイト
- ^ “ことひら13号2面 (PDF)”. 金刀比羅会. 2018年9月15日閲覧。
- ^ “『こんぴら手づくり市』公式ホームページ”. こんぴら手づくり市実行委員会. 2018年9月14日閲覧。
- ^ “こんぴら手づくり市スケジュール”. 2018年9月11日閲覧。
- ^ 塩田敏夫 (2016年9月19日). “こまねこまつり 猫の手借りて町再生 京都”. 毎日新聞 2018年9月10日閲覧。
- ^ “ことひら26号1-2面 (PDF)”. 金刀比羅会. 2018年9月15日閲覧。
- ^ “こんぴら手づくり市”. 2018年9月10日閲覧。
- ^ 「第2回こまねこまつり」チラシ、裏面
- ^ a b c “ことひら14号2面 (PDF)”. 金刀比羅会. 2018年9月15日閲覧。
- ^ “ことひら12号2面 (PDF)”. 金刀比羅会. 2018年9月15日閲覧。
- ^ 田中尚之『石工松助を語る』、2003年、p.32
- ^ 毎日新聞2016年9月19日 24面
- ^ 衆議院議員総選挙一覧. [大正4年] 上巻
- ^ 『まっぷる城崎・天橋立 湯村温泉・舞鶴』昭文社、2012年、87頁。
- ^ “峰山への経路”. 金刀比羅神社. 2018年9月27日閲覧。
- ^ “金刀比羅神社境内図”. 金刀比羅神社. 2018年9月27日閲覧。
- ^ 『わがまち峰山』峰山町・峰山町教育委員会、2004年、p.142
外部リンク[編集]
- こまねこまつり - 公式サイト
- 丹後 峰山のこんぴらさん - 公式サイト
- こんぴら手づくり市