下間氏

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下間氏(しもつまし)は摂津源氏を自称する一族であり、代々本願寺坊官を務めてきた家柄で地下家である。戦国時代一向一揆の指導者として活躍したものが一族に多い。なお加賀一向一揆の指導者の1人下間蓮崇は、蓮如から姓を下賜されたものであり、本姓も異なる。

下間氏の初代とされる源宗重源頼政の玄孫である。承久元年(1219年)、同族の源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれると、宗重も連座して処刑される事となった。だが、たまたま通りかかった親鸞が処刑する事の非を説いたため、親鸞が宗重を出家させる事を条件に助命された。宗重は親鸞に深く感謝してその弟子となって東国での伝道に随従する。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時にこれを記念して宗重は「下妻」を名乗り、これが変化して「下間」になったのだという。

織田信長石山本願寺11世法主顕如が衝突した石山合戦では主に下間頼廉下間頼龍下間仲孝らが顕如に従って織田軍と戦った。顕如の死後、東本願寺西本願寺に分裂すると下間氏一族もまた分裂することとなり、頼廉の刑部卿家、仲孝の少進家、下間頼芸の宮内卿家が西本願寺に仕えた。頼龍・頼広父子は東本願寺に仕えたが、頼龍の死後、頼広は出奔して親族の池田輝政を頼り、のち池田姓を名乗り池田重利と改名した。池田氏の重臣としての扱いを受けていたが、池田氏に従軍した大坂の陣の戦功により徳川家康から摂津尼崎藩1万石を与えられ、独立大名待遇となった。本家格である池田氏の転封に伴い播磨鵤藩のち新宮藩1万石に移動した。重利から五代後に池田家から養子を迎え、この系譜の下間氏の血統は途絶えている。

系譜[編集]

関連項目[編集]