下間頼秀

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下間 頼秀(しもつま らいしゅう、生年不詳 - 天文8年3月20日1539年4月18日)は、戦国時代武将で、本願寺坊官下間頼玄の長男で頼盛の兄。官位は筑前守、法名は実恵、実英。

本願寺第10世法主証如の後見人で外祖父蓮淳に接近、享禄元年(1528年)に加賀に赴き超勝寺実顕(蓮淳の婿)と共に所領の横領で加賀の賀州三ヶ寺(松岡寺光教寺本泉寺)と対立、享禄4年(1531年)の大小一揆で大一揆に属して賀州三ヶ寺ら小一揆を壊滅させた。畿内で本願寺と細川晴元が衝突、天文の錯乱山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻り、一揆を率いて細川軍と戦うが、天文4年(1535年)に証如が晴元と和平を結ぶと主戦派として失脚、本願寺を退去した。天文8年(1539年)、近江で証如の刺客に暗殺された。

頼秀の追放及び暗殺は、天文の錯乱の責任を取らせるための処分とされている。その後弟の頼盛も暗殺、代わって和平派として活動した叔父の下間頼慶の系統が本願寺坊官として台頭した。

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