三湖伝説

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三湖伝説(さんこでんせつ)は青森県岩手県秋田県にまたがる伝説。主に秋田県を中心として語り継がれている。異類婚姻譚変身譚見るなのタブーの類型のひとつ。各地にこの物語が残されているが、細部は異なっている。

物語の要約[編集]

八郎太郎と十和田湖誕生の伝説[編集]

十和田湖

鹿角郡の草木(くさぎ)村(現・秋田県鹿角市十和田草木地区)に八郎太郎(はちろうたろう)という名の若者が暮らしていた[† 1]。 八郎太郎はマタギをして生活していた。しかしある日仲間の掟を破り、仲間の分のイワナまで自分一人で食べてしまったところ、急に喉が渇き始め、33夜も川の水を飲み続け、いつしか33尺の竜へと変化していった。自分の身に起こった報いを知った八郎太郎は、十和田山頂に湖を作り、そこの主として住むようになった。この湖が十和田湖である。

南祖坊の誕生と修行[編集]

三戸郡の斗賀村(現・南部町)に善学という男が住んでいた。善学夫婦は子宝に恵まれなかったので、妻は斗賀の観音堂に七日間こもってやっと子宝を得ることができ、子を善正と名付け可愛がって育てた。善正が7歳になったとき、母が病気になり死の床に子を呼び寄せ「私は弥勒の出世を観音様に祈ってお前を生むことができた。このことだけは忘れないように」と言って死去した。善学は善正を出家させようと近くの七崎の永福寺の名僧に預け、善正は名を南祖坊(なんそのぼう)と改めた。南祖坊はある時、母の願いである熊野で修行をしようと、南祖坊を後継者にしようと考え反対する師匠に内緒で旅立った。南祖坊は13歳から76歳まで諸国で修行をし、熊野山へ33度参拝した。33回目の参拝のときに、7日間の徹夜の祈願をして、その結願の明け方、夢ともうつつとも言えない状態のところに、白髪の老人が枕元に立って「草鞋が切れ、杖が動かなくなったところでお前の願いは成就する」と言って消えた。目を覚ますと鉄の草鞋と杖がある。南祖坊は全国修行の旅に出かけ、巡り巡って故郷に帰り、いよいよ十和田山中に入った。故郷の赤倉岳、尽森、小国岳に登ったところ、ここに満々と水をたたえた湖があった。南祖坊の草鞋がばらばらになり、杖は動かなくなった。こここそ、熊野大権現のお告げの場所であると大喜びしていると、そこに大風と大波を立てて、八郎太郎が現れた。

八郎太郎と南祖坊の戦い(その1)、八郎潟誕生の伝説[編集]

南祖坊は八郎太郎に戦いを挑み、彼らは7日7晩戦った。南祖坊が法華の八巻を投げつけると、経の八万四千の文字が一本一本の剣になって八郎太郎に突き刺さる。こうして、八郎太郎は逃げ去った。静まりかえった湖面上に天の童子が現れ空中に浮かびながら「お前の難行苦行の結果、願いは達せられた。今こそ、その沼に入って弥勒の出世を得べし」と言うと、松の木の上に「十和田山正一位青龍権現」の文字がありありと映し出された。童子は「我こそは熊野山の使いなり」と言い、かき消すように失せた。南祖坊は大願成就と伏し拝んで湖にとび入り、潟の主になった。南祖坊が湖に入った場所がサンゴ打場で、八郎太郎の血で染まった岩が赤根崎という。南祖坊は十和田青龍権現として祀られることとなった。

八郎太郎は米代川を通って逃げ、途中七座山の辺で川を堰止め湖を作ろうとしたが、地元の7柱の神々の使いの白鼠に邪魔され、更に下流へと向かった。その際、白鼠を食べようとする猫を紐でつないでおいた地区が能代市二ツ井町小繋(こつなぎ)地区である[† 2][注釈 1][注釈 2]

日本海附近まで来て、ようやく湖を作る適地が見つかったので、その支障となる天瀬川(あませがわ)(現・秋田県山本郡三種町天瀬川)の老夫婦の家を訪ね、明朝鶏が鳴くと同時に洪水が来るから避難するようにと伝え、湖を作り始めた。しかし姥は逃げる途中で麻糸(糸巻きという話もある)を忘れてきたことに気づき取りに戻った。そのとき、鶏が鳴き夫婦は逃げ遅れたため、八郎太郎はそれぞれ別々の岸へと放り投げて助けた。夫は湖の東岸に、妻は北西岸に祀られている[† 3]。出来上がった湖が八郎潟である[† 4]

辰子と田沢湖誕生の伝説[編集]

仙北郡の神成村に辰子(たつこ)という名の娘が暮らしていた。

辰子は類い希な美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。辰子はその願いを胸に、観音菩薩に百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。そのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。

狂奔する辰子の姿は、いつの間にか竜へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、泉を広げて湖とし、そこの主として暮らすようになった。この湖が田沢湖である。

悲しむ辰子の母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入ると魚の姿をとった。これが田沢湖のクニマスの始まりという[† 5]

八郎太郎と南祖坊の戦い(その2)、八郎太郎と辰子[編集]

八郎太郎は、いつしか辰子に惹かれ、田沢湖へ毎冬通うようになった。辰子もその想いを受け容れたが、ある冬、辰子の元に南祖坊が立っていた。辰子を巡って再度戦った結果、今度は八郎太郎が勝ちを収めた。それ以来八郎太郎は冬になる度、辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主が半年の間いなくなる八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという[† 6][† 7]

人間に姿を変えた八郎太郎の旅の途中、彼を泊めた旅籠では夜の間彼の部屋を見てはならないと言い含められ、覗き見た宿は必ず不幸に合うと言われていた[1]

物語の起源[編集]

室町時代の1407年(応永14年)に玄棟によって成立した説話集の三国伝記には三湖伝説の元になったと思われる説話が記録されている。巻12第12話は次のような話である。

中頃、播州書写山の辺りに、釈難蔵という法華持者がいた。参詣すでに30度という熱心な熊野権現の信者だったが、生きながら弥勒の出生に会いたいと願い、3年間参籠して祈ったところ、千日目の夜「ただちに関東に下向して、常陸出羽との境にある言両の山に住むならば、弥勒の下生に値遇できるであろう」との夢告があった。さっそくその山に行くと、頂には円形で底知れない深さの池があった。その畔で『法華経』を読誦していると、年のころ18、9の女性が毎日現れて聴聞する。難蔵が不思議に思っていると、女は「私の住処に来て衆生のために法華を読誦して欲しい」という。難蔵が「私はここで弥勒の出生を待っているのだから、よそには行けない」と断ると、女は「私はこの池の主の竜女です。竜は一生の間に千仏の出生に会うほど長命な生き物、私と夫婦になって弥勒の下生を待ってはいかが」という。難蔵はなるほどと思案をめぐらし、女とともに池に住むことにした。ある日、女がいうには「この山の三里西にある奴可の山の池にいる八頭の大蛇が私を妻にしていて、1月の上15日は奴可の池に住み、下15日はこの池に来るので、もうやってくる頃です」と。難蔵は少しも怯まず、『法華経』8巻を頭上に置いた。すると、難蔵の姿はたちまち九頭竜と変じ、八頭の大蛇と食い合うこと七日七夜、ついに八頭の大蛇が負けて大海に入ろうとしたが、大きな松が生じて邪魔をしたため、威勢も尽きて小身となり、もとの奴可の池に入った。いまでも言両の池の側で耳を澄ますと、波の下に読経の声が聞こえるという。

「中頃」とは、そう遠くない昔のことで、「釈難蔵」は「南祖坊」に相当し、「八頭の大蛇」は「八郎太郎」に相当する。「言両の山」は常陸出羽の境にあるというが、常陸と出羽は境を接していない。菅江真澄は『いはてのやま』で、盛岡永福寺の僧侶南層が八郎太郎を追い出して主になった伝説を記しているが、「しかはあれど」と続いて『三国伝記』のこの話を詳述している。しかし真澄も言両の山の位置関係には納得できず、言両の山は「陸奥の国と出羽の国の境」にあったと書き換えた上で、陸奥と常陸を書き間違っていると念を押し、言両の山は十和田湖、奴可は「八ツ耕田」(八甲田)ではないかと推定している。後に真澄は秋田を漫遊した後で十和田湖に実際に行った時の記録『十曲湖』では「言両」を削除し「奴可」は「齶田」(秋田)の湖と書き改めている。この結果、最初の湖は名前を語らないことでかえって十和田湖であることと、後の湖は八郎潟であるとの考えを明確にしている[2]

十和田山青龍権現信仰[編集]

十和田湖はかつては信仰の湖であり、名の知れた霊地であった。南部藩八戸藩ではこれを十和田山と呼び、湖中の龍神十和田山青龍権現がその信仰の対象であった。この堂は神仏分離に際して神社になり、今は十和田神社として、祭神はヤマトタケルになっている。宝暦の頃、南部藩の社堂を記載した『御領分社堂』では「十和田青龍権現」として、大同2年(807年)に南蔵坊という僧が、八郎太郎を追い出して、青龍大権現として小社に祀られていると記載されている。青森市油川の熊野神社にある1559年(永禄2年)の棟札に「熊野山十二所権現勧請於十彎寺」とある「十彎寺」はこの社の前身と思われ、少なくとも16世紀にはこの社の歴史が遡ることができ、同時に熊野修験が関係を持つことを示している[3]

1727年(享保12年)の『津軽一統志』では「津軽と糠部の境糠壇の嶽に湖水有、十灣(とわだ)の沼と云ふ也、地神五代より始る也、數ヶ年に至って大同二年斗賀靈驗堂の宗徒南蔵坊と云法師、八龍を追出し十灣の沼に入る。今天文十五年まで及八百餘歳也」とある。『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764-1801年)には「相伝フ。往古永福寺ノ塔頭ニ南祖坊ナルモノアリ」として同じ話を簡略に説いている。『奥々風土記』(明治3-4年?)にもほぼ同じ記述がある。『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では、南祖は糠部の生まれで幼名を糠部丸と呼び、永福寺の僧とも額田岳熊野十滝寺の僧ともある。菅江真澄の『十曲湖』(文化4年、1807年)では、永福寺の僧とも三戸郡科町龍現寺(科は斗賀の、龍現寺は霊現堂の誤りであろう)のほとりにいた大満坊という修験が南蔵坊と名を改めたとしている。鹿角では、安達太良山の麓の出身という異説もあると説いている[4]

南部藩では南祖坊が実在の法印さまとして、上下の信仰を集めていた。『祐清私記』では「南部利直が寝ている姿を見ると、蛇身に見えた」という話の後に「南部利直の夢に南祖坊が現れ私は蛇身を免れるために貴公に生まれ変わったと告げる。利直がこのことを次衆に告げると、これを真実と考える者が多かった。利直が寛永年間に江戸で没したが、その時国元の東禅寺の大英和尚と江戸の金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らなく、相談したわけでもないのに、同じく南宗院殿の号を撰んだ。利直が南祖坊の生まれ変わりであることはこれによっても明らかである。利直の葬儀が三戸で行われた時、空がにわかにかき曇って大雨電雷した」と書いている。[注釈 3][5]

南部藩においては、三湖物語の一方の雄である八郎太郎は敵役にとどまっていて、物語の主役を南祖坊に譲っている[6]。南祖坊の物語は、奥羽地方の盲人たちによって琵琶や三味線などを伴奏として、いわゆる奥浄瑠璃などで神仏・社寺の縁起を説いた本地物の一つとして江戸時代に語られていた。天明(1781-1789年)の頃に、盛岡の本町にいた須磨都(すまいち)という座頭は十和田の本地を語り美声で名を知られていたという。奥浄瑠璃のほかに、南部の山伏や修験の徒がこれらの話を人々に語って聞かせていたのではないかと考えられる[7]

十和田の本地の記録は南部地方に数多く存在していたが、現在知られている十和田本地を『雨の神―信仰と伝説』では物語の形から3つに分類している。第一類は『十和田山本地由来[8]』や『十和田山由来記[9]』、『十和田山由来記[10]』『十和田山本地由来記[11][12]』、『十和田山本地[13][14]』、『十和田本地[15]』、『十和田山本地記録[16]』、『十和田山本地記録[17]』、『十曲潟本地記録[18][19]』などで、第ニ類は『十和田記[20]』や『十和田縁起[21]』、『十和田由来記[22][23][24][25]』、『十和田本地[16]』、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地[26]』、『奥州十和田山正一位大権現御本地[27]』、『十和田御縁起[28]』などで、第三類は『十和田山神教記[29]』、『十和田山神教記[30][31]』、『十和田神教記実秘録[16]』などである。これらは筆写年代がはっきりと分かっている最も古いものは、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』の1801年(寛政16年)である[32][注釈 4]

十和田の本地の記録における各書の記述の違い[33]
書名 『十和田山由来記』(第一類) 『十和田記』(第ニ類) 『十和田山神教記』(第三類)
筆者年代 不明 文政12年(1829年 万延元年(1860年
書出年代 貞和年間(1345-1350年) 天長元年(824年)頃 正延(?)元年
南祖坊の名前(幼名) 南宗坊(熊之進) 南祖坊(善正) 南祖法師(南祖丸)
南祖坊の出生地 七崎村 斗賀村 斗賀村
南祖坊の父 戸渡五郎左衛門 善学 藤原宗善
母の祈願所 熊野大権現 斗賀の観音堂 再現堂観音
母の懐妊の奇端 胎内に法華経の入る夢 夢に白蛇を呑む 夢に白髪の老人が金の扇子を授ける
南祖坊の師匠 永福寺月躰法印 永福寺月法院 永福寺住主
恋愛と結婚 お豊と婚約 豊姫、玉靏、八郎の妻の浅野、お福
南祖坊の恋敵 伊東勝弥 大領
父の家臣 篠崎八郎左衛門とその子八刀 斗賀の別当の藤原式部
出家の原因 童子が現れ出家を促す 母の遺言 二人の女性を愛し、困って
南祖坊の修行場 紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現
熊野権現からの使者 虚空蔵の化身で水精竜王にのる明星王子 天童子 白髪の老人
南祖坊の修行 全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う
南祖坊の依存経典 法華経 法華経 法華経
弥勒の出生 一応の目的 修行の全目的 一応の目的
南祖坊の入定 十和田湖に龍神となって 十和田湖に龍神となって 十和田湖に龍神となって
八郎太郎の名前 八の太郎 八郎太郎 八郎
八郎太郎の出生地 八戸の十日市 鹿角の草木村 斗賀付近
八郎太郎の父母 父は八太郎沼の大蛇、母は十日市のお藤 父は草木村急苗 不明
八郎太郎の変身 岩魚を食べて蛇身となる 岩魚を食べて蛇身となる 妻の浅野を奪った南祖坊を恨んで蛇身となる
戦いの様子 細部に渡って記述されている 簡単に記述されており、法華経の功徳によって敗れる 南祖坊の捨身行で悔い改める
八郎太郎の終着地 記述されていない 八郎潟に行き着くまでの物語がいくつも記述されている 八郎潟を棲家としたと示されるのみ

各地の八郎太郎伝説[編集]

十和田湖を追われた八郎太郎が新しいすみかを求めてあちこちを探し回った伝説は沢山ある。来万山を越え移動し、三戸岳の下滝川をせき止めて三戸郡を大潟にしようとしたが、長谷の観音や諏訪明神など沢山の神仏が攻撃してきたのであきらめた。故郷の鹿角の米代川の岩の脇をせきとめようとしたが、花輪の48の神仏が集宮神社で相談して、八郎太郎を攻撃した。八郎は男鹿半島まで逃げそこで小さな潟に住み、次第に大きくしたのが八郎潟である。八郎太郎は秋田で八竜大明神として祀られ、冬は田沢湖に春分まで住み、春になると八郎潟に戻ってきて氷が溶け漁ができるようになり、沿岸の人々は八郎太郎を祀るようになったという。秋田城下に御用商人の潟屋伊左衛門という者がいたが、八郎太郎が秋田に逃げてきたとき、八郎は八郎潟の近くに住んでいた潟屋邸に泊まった。夜更けになると八郎は自分の正体を証言し、「この辺を大潟にしようと思っています。近所の人にも教えて早く立ち退いて下さい。その後はみなさんをお守りしましょう」と言う。炉の中に火箸を立てて引き抜くと、水がこんこんと湧き出して来る。主人らは慌てて翌日から高い所に移った。その後、主人は潟屋を屋号にして秋田に住むと秋田の分限者として栄えた。潟屋は春秋の彼岸に八郎大明神の神霊が来ると言って注連縄を張って祭りをする。城下に再三の火災があっても潟屋だけは罹災しないという[34]

他に『八戸見聞録』(1942年、渡辺村男)には、八戸の蛍が崎を八郎潟崎と呼び、ここにある沼を八太郎沼(この沼は現在埋め立てられている)と言ったという伝説が記載されている。『津軽俗説集』(寛政年間、工藤白竜)では(北津軽郡)相内村には八の太郎という杣子(木こり)がいて、岩魚を一人でたべ異形となり、十三湖に入ろうとしたがカッパに追われ平川の淵に入ろうとしたが、またもカッパに追われ、最後には八郎潟で安住したという伝説が記載されている。『新撰陸奥国説』では、目屋沢に八郎と呼ばれる杣人がいて、あるとき一匹の魚を食い、川の水を飲み干すと、全身に鱗が生えた。十和田こそが我が住処とそこに行くと、南蔵坊が住んでいて入ることができない。そのため剣が鼻(大鰐)に来て、大堤を築こうとすると、温泉に野丑と山丑という兄弟がいて、彼らが大日如来に祈願すると両人角を得て丑となり、八郎に突進し秋田に追い出した。八郎がせき止めようとした木材はそのまま石になったという伝説が記載されている[35]

八郎太郎が新天地を求めようとした場所はこの他にも北上川の高水寺付近(岩手県紫波町)で権現に止められて花輪に移った話もある。また、新井田川の上流の島守盆地で、地主神や虚空蔵や諸神仏に追われたが、八郎太郎がモッコで土を運んだところが、一モッコ、二モッコとして地名に残っているとされる。また、階上岳をひっぱって住処を作ろうとしてひっくり返った所が浜名だという。馬渕川を赤石沢と竜の口の間に三戸の城山を担いで来たが、諏訪の神に止められた話もあり、轟木のトンネル付近のくぼみは八郎の足跡だという。また三戸郡倉石村のはなれ森は、八郎太郎が十和田湖に行く途中に五戸川の水をせき止めて沼にしようとしてモッコで担いだ跡で、山上に薬師堂があるという。中津軽郡相馬村の鉢呑沢の炭焼の八郎が、作沢川を止めて住もうとしたが、不動明王に止められて秋田に移ったという話も残されている[20]

魚を食べて蛇になった伝説も各地に残されている。山形県西田川郡温海町では、八郎太郎は越沢の生まれてあったが、岩魚を食べた結果、大蛇となって大雨を降らせ八郎潟に行き、その主になったとも言われている[36]。戸部正直の『奥羽永慶軍記』(元禄11年、1698年)では、八郎潟がまだ山林であったころ、八郎というキコリが沢辺で魚を捕って大蛇になりここを潟となして、主になったとされている。岡見知愛の『柞山峯之嵐』(延享元年、1744年)ではそれと同じく八郎潟単独で語られている。工藤白龍の『津軽風俗選』後拾遺(寛政7年、1795年)では八郎は十三潟に入ろうとして河伯(河の神)に追われ、八郎潟に安住したとされる。内田邦彦の『津軽口碑集』(昭和4年、1929年)に引く話も、十和田湖や南祖坊の話は出てこない[37]

津軽の十和田さま[編集]

『新撰陸奥国誌』(天正年間、1573年-1592年)には、黒石市沖浦の貴船神社には十和田に入ろうとした南祖坊が先に八竜が居たのでこの神社に来たという伝説が語られている[20]小舘衷三の研究によれば、青森県下では十和田さまと言われる社が数多く、その祭神は龍神であり、干ばつ時には雨乞いをする場合が多かった。ただ、現在は公には貴船神社と称して祭神もそれに見合う神名になっているものもあるが、それは明治以降の改変である。例えば、大鰐町の貴船神社は旧名を十和田宮と呼び、現在でも単に十和田さまといえば津軽ではこの宮を指す。この宮は津軽の十和田さまの中では最も著名であるが、干ばつには鶴田町や浪岡町などの遠方からこの社に雨乞いに来た。また、藩政期には藩命によってこの社で雨乞いが行われた。黒石市の青荷沢の十和田さまも貴船神社になっているが、『貴船神社由来伝記』では晴雨を祈願する社として、南祖坊が龍神となってこの社の池に入った話を伝えている。青森市西田沢の山中にある十渡明神宮も竜神を祀る十和田さまの一つであるが、雨乞いでは社の前で盆の踊りをした。このように津軽地方では十和田さまを雨の神とされた。しかし、本家の青龍権現や南部地方で十和田さまを雨の神としての祀る事例はなく明確な信仰の違いがある。なお、津軽の十和田さまには必ず池があり、そこで散供打ちの行事が伴っていて、池や沼、時には水たまりを十和田さまと呼ぶこともある[38]

十和田湖休屋に置かれた十湾寺南部藩は外からの勢力に対し保護し、十和田湖周辺には他勢力を寄せ付けなかった。そのため、出羽(津軽?)の山伏ははるか御鼻部山から参拝して戻るしかなかった[39]明治時代初期に初めて休屋を開拓した栗山新兵衛の目的は、南部藩と犬猿の仲であった津軽藩に対する国境警備のための屯田開発が最大の理由であった[40]十湾寺への参拝者は江戸時代には南部藩領の全域からが主になっていたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩奥州市)からの参拝者もいた。しかし、津軽藩秋田藩からの参拝者は記録されていない[41]

秋田の八郎太郎伝説[編集]

八郎潟周辺では八郎太郎が広く信仰されていた。

三倉鼻の岩屋にも、乙殿権現の祠と並んで祀られている。南秋田郡八郎潟町の一日市、夜叉袋、浦横、五城目、山本郡琴丘町などの広い地域から村人が酒肴持参で来て、酒盛りをしながら雨を祈った。肴は必ず鶏肉であったばかりではなく、鶏の生首を持参し、宴が盛になると岩屋の壁にその血をなすりつける。八郎は鶏が大嫌いであったから、こうして彼を怒らせ嵐を招いて雨を降らせようとした。八郎が鶏を嫌いなのは、八倉山(七座山?)の麓で川をせき止めようとしたときに、いくら築いても夜明けになって鶏が鳴くと堰が崩れてしまったからだという。このため琴丘町天瀬川や八竜町芦崎では戦前まで鶏を飼わなかった[42]。また、三倉鼻には鬢水(びんすい)入れという井戸の近くに龍神祠があって、天瀬川の人たちが11月20日を龍神の日と呼んで祭りをしている[43]

八郎潟は八龍湖とも呼ばれ、湖そのものが八龍の宮とされた。以下に八郎を祀った神社を挙げる。男鹿市船越の八郎神社(八龍大権現)は、潟周辺の八郎社としては最も大きいものである。1847年(弘化4年)に京都の吉田家から位を下された、神社として崇めるようになったので、それまでは小祠であったのだろう。南秋田郡八郎潟町一日市の八龍神社(八大龍王)ではこの地の漁師が講を作り、毎日2日の縁日に当人の家で講を務める、1月2日には潟端(馬場、目川、川口)の八郎潟に講員が参拝して、潟の仕事は一切休んで漁具にも神酒を供えて豊漁を祈った。南秋田郡昭和町野村の八郎神社では雨乞いが行われたこともある。1967年から始まった八郎祭りでは作り物の龍の「八郎龍」を男子が「辰子龍」を女子が担ぎ奉納する。他に、天瀬川には八龍大権現が、鯉川には八郎神社が、山谷には山神社境内に八郎神社が、鹿渡には龍神堂が(松庵寺境内にあって、男鹿市小浜の原田氏の先祖が海中から拾い上げた龍神をこの寺の和尚が貰い受けて祀ったもの。付近の漁師が龍神講をつくり祭っている)、八竜町安戸と追泊、芦崎、若美町鵜木(稲荷神社境内)、五明光(稲荷神社境内)、宮沢(眺光寺境内)、野石(八幡社境内)、八ツ面、福米沢(熊野神社境内)には八郎祠がある。八竜町富岡と久米岡には八郎神社がある[44]

南部や津軽では三湖物語は南祖坊と八郎太郎の物語に終始しているが、秋田ではこの物語に続いて田沢湖のタツ子との関わりが語られている。例えば、南部藩の松井道円が著したとされる『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では八郎は出羽国比内郡を潟としそこに棲み、仙北郡生(保)内の潟(田沢湖)にも棲家があり、一年おきに両湖を往復すると記述するが、この書ではタツ子の話はでてこない。それに対して、岡見知愛の『柞山峯之嵐1744年ではタツ子の名前は出てこないが、田沢湖には八郎の妻神が棲んでいるとしている。それに対して、秋田叢書に収録されている『三倉鼻略縁記』(安政5年、1858年)では、八郎太郎が八郎潟を作る際に出会った老夫婦がいた三倉鼻の伝説と一緒にタツ子の物語が語られている。三倉鼻とは、今の南秋田郡八郎潟町山本郡三種町の境にある突兀とした山で、西側は八郎潟に突き出していた。現状は鉄路や国道で二分されているが、かつては険路で旅人は山越えに苦労した。老夫婦は、夫が南秋田郡八郎潟町の夫健現ノ宮、妻が山本郡三種町の姥御前大明神として祀られているが、これは出雲のアシナヅチ・テナヅチとの関連性が語られている。秋田の伝説では、八郎太郎の生まれは鹿角の草木村であるとするものが多いが、『三倉鼻略縁記』では「八郎」の生まれを南部八戸糠塚村としている。また、ヒロインのタツ子は「龍子」と記載されていて、「南蔵坊」が八郎を破り、八郎が敗走し、老夫婦を助け八郎潟を作り、そして龍子の元に通うまでの物語が、三倉鼻の峠にあった茶屋の主人が旅人に語る形で表されている[45]

ほとんど同じ内容の書が田沢湖町の高橋氏が所蔵していた『三倉鼻由来』(明治2年、1869年)である。これらの書は幕末安政期に秋田の寺子屋の教本として使われていた。この書と『三倉鼻略縁記』はそれぞれ一部欠字があって、それぞれ比較することで補うことができる。『三倉鼻由来』の最大の特徴はタツ子の名前である。『三倉鼻由来』ではそれが「靏子(つるこ)」になっており、明治2年の写本ではあるが、元はより古い時代に書かれた書物であることがわかる[46]

秋田の寺子屋の教本として秋田県立図書館には上記2書と同じ内容の『三倉鼻名所記』という書が保管されている。この書は漢字に全てふりがながふられており、最後のページにはことわざが3つ記載されていることからも、元は寺子屋の教本として使われていたことが分かる[47]

田沢湖の辰子伝説[編集]

田沢湖町院内金ヶ澤の常光坊の娘に金靏子という娘がいた。今日一般には、田沢湖のヒロインは辰子(タツ子)と呼ばれている。これは、金靏子(鶴子)が16-17歳の若さを保つために、龍と化して田沢湖の主になったことが語り継がれているうちに龍子に変化したものと考えられる[46]

辰子姫の名前の変遷
執筆者 文献  名前
1735年(享保20年) 佐藤六兵衛 (田沢)潟縁起 金が沢常光坊ノ娘、カメツルコ
1735年(享保20年) 佐藤利兵衛 田沢鳩留尊仏菩薩縁記[48] 亀靏
1769年(明和6年) 富永茅斎 田子神祠 益戸滄洲先生配亭記 タツ子
1798年(寛政10年) 人見蕉雨 黒甜瑣語(こくてんさご) 神成沢の常厳坊が女、鶴子
1823年(文政7年) 佐竹義文 養老紀行 金鶴といえる麗人
1824年(文政8年) 菅江真澄 月の出羽路[49] 楂湖(うききのかた)の金鶴子
1858年(安政5年) 三倉鼻略縁記[45] 龍子
1869年(明治2年) 三倉鼻由来[46] 靏子
1877年(明治13年) 石井忠行 伊豆園茶話[50] 神鳴沢の百姓三之允の娘(又は、石神と言う所の)神鶴子
1911年(明治44年) 千葉源之助 田沢湖案内 院内村神成沢の三之丞家の一人娘辰子(一説には常光坊の娘鶴亀、又は金鶴)

田沢湖伝説の最も古いものを残している亨保時代の『田沢鳩留尊仏菩薩縁記』には、八郎太郎の逢瀬や三湖伝説が一連のものであることは語られていない。そして、その関連を付けたのは武藤鉄城は修験者や熊野の語り部であるとしている。『三倉鼻略縁記』では八郎太郎との関連が語られている。

辰子の名前の変遷については、武藤鉄城は「その湖がタッコ潟と称されたことから、女主人公のタッ子が生まれたものであると考えている。そしてタッコ潟の語源は湖畔の田子ノ木部落の名に出たものであり、更にその田子ノ木なる地名は『タッコフ』即ち『水辺に円錐形の小山がある所』を意味する石器時代民話から出たものと解釈している」としている。それ以前には、「金鶴子」や「亀鶴子」とされていた。その証拠に湖水唯一の吐口である潟尻川付近の近江八景の浮見堂湖中にある御宮の祭神は京都から「金鶴姫之命」(金鶴子様)と命名されたご本尊があるからである[51]

実際の事件との関わり[編集]

この三湖伝説は、実際に起きた自然災害との関わりが指摘されている[52]915年十和田湖にあった火山は2000年来最大とも言われる大噴火を起こす。この噴火によってもたらされた噴火降下物は各地で堆積し、自然のダムを造った。ダムは周囲を水浸しにしながらも最終的に決壊し、各地で大洪水を起こす。秋田県北秋田市胡桃館遺跡もこの時の洪水によって地下に埋まった遺跡である[53]。そして、まさにこの被害を受けた地区に八郎太郎の伝説が残っているのである[54]

たとえば、南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶なものであるとする表現があるが、これが十和田湖火山の噴火の様子を記述しているという人もいる。また、七座山の伝説に残っている「白鼠」は火山降下物が堆積し流れ下るシラス洪水なのではないかと指摘されている[54]

このことは、1966年平山次郎市川賢一によって「1000年前のシラス洪水」という論文で発表されている[55][注釈 5]。また、『荷上場郷土誌』[56](石井修太郎、明治45年)でも、三湖伝説は十和田湖火山の噴火によるものであると指摘している。火山から流れた土砂が「白土」という灰白土で、米代川沿岸に限りこの白土があることを指摘しており、噴火後数百年間米代川が白濁し、その伝説がだんぶり長者伝説として残されたのではないかとした。さらに、米代川沿岸から白土の流出によって、家具や陶器、大木が出土することも証拠とした。ただ、この本では火山灰の元は八幡平からではないかとしている。

早川由紀夫『十和田湖の成立ちと平安時代に起こった大噴火』(1997年4月、NAID 10026659981)では、915年の大噴火の根拠は『扶桑略記』に「7月5日の朝日が月のようだったので人々は不思議に思った。13日になって出羽の国から、灰が降って2積もった、桑の葉が各地で枯れとの報告があった」(はいずれも宣明暦)という記録としている。下流の胡桃館遺跡に、902年の年輪を持つ杉材が火山灰におおわれていることも根拠としている。また、火山灰が十和田火山の西側や南側に流れているのは、やませによるものとしている。また「八郎太郎ものがたり」はこの時の噴火の模様をあらわしたものとしている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 江戸時代のこの地区の古文書に次のような記載がある。1817年6月の洪水で小ヶ田から埋没家屋が出土した。埋没家屋が破損せず障子の板に墨で描いた牡丹の絵があるなど、そのままの形で出てきたことから、これは地震や山崩れではなく、七座神社の縁起にある「大同2年(807年)六月二十一日、潟の八郎という異人が七倉山の所で米代川をせき止め、鷹巣盆地は三年にわたって水底となった」より、この埋没家屋が出来たという説を紹介し、今まで埋没家屋が出たのは34軒だとしている。(長崎七左衛門「文化十四年丑六月洪水記録」・「秋田の古文書研究 (1)古代の謎 『埋没家屋』」に収録)
  2. ^ 小ヶ田から出土した埋没家屋を元に、三湖伝説や地形の変化を考察した江戸時代の人がいた。黒沢(二階堂)道形による『秋田千年瓦』がそれで、秋田叢書 第9巻に収録されている。
  3. ^ 南祖坊に関する伝説は、仙台藩では『平泉雑記』(安永2年、1773年)に中尊寺の鎮守白山宮の傍らにあった老杉の「姥杉」は南祖坊の手植えであると伝わっており、蛇身になって十和田沼に入った話も記されている。津軽藩では、乳井村では田植え始めに、餅や赤飯をギボシの葉に包み、箸とともに自在鈎に結びつける風習があるが、南祖坊がこうすれば干ばつの憂いがないと教えてくれ、盆の間に松明を焚く風習と共に南祖坊の関連が語られている。乳井神社の社掌の先祖は南蔵坊であるとし、隣村の薬師堂村の鎮守熊野神社は坂上田村麻呂の命令で南蔵坊がこの社を創設したのが起源とされる
  4. ^ 菅江真澄が『いわてのやま』(1788年)で、この物語を記録する時より後の記録であり、『十曲湖』(1807年)より6年前の記録である。
  5. ^ 1966年4月号の地質ニュースに掲載されている。データはPDF化されて地質調査総合センターのサイトに現在置かれている(リンク PDF)。

注釈(付随する伝承)[編集]

  1. ^ 八郎太郎は八之太郎、八郎というものがある、出生地については青森県では中津軽郡目屋沢(『新撰陸奥国誌』(天正年間、1573年-1592年))、黒石市山形(『津軽口碑集』(昭和4年、1929年))、北津軽郡相内村(『津軽俗説集』(寛政年間))、岩手県では和賀郡の鬼柳県(現金ケ崎町駒ケ岳の南南西の山中にある八郎沼という沼に最初住んでいたとする『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764年-1801年))、北岩手郡寺田村(太田只雄『岩手の伝説』)、秋田県では鹿角郡大湯村草木(菅江真澄『十曲湖』(1807年))、山形県では西田川郡温海町越沢(戸川安章『羽前の伝説』(1975年))などがある。
  2. ^ 鹿角市十和田地区では、男神山と女神山の間をぬうように流れる米代川をせき止めようと、八郎太郎は近くの茂谷山をひもを使って動かし、男神山と女神山の間をせき止め鹿角に自らのすみかを作ろうとした。鹿角の42人の神々はこれを知って驚き、大湯の西の方に集まって評定した。大湯環状列石の北西にある集宮(あつみや)神社はこのときに神々が集まった場所とされる。神々は八郎太郎へ石のつぶてをぶつけることに決め、石を切り出すために花輪福士の日向屋敷にいた12人の鍛冶に金槌、ツルハシ、鏨などを沢山作らせ、牛に集宮まで運ばせた。途中あまり重たいので血を吐いて死ぬ牛がおり、そこは乳牛(チウシ)と現在呼ばれている。これに気づいた八郎太郎は、すみかをつくることをあきらめて茂谷山の中腹にかけた綱をほどいたが、その跡は現在も段になって残って見えるとされる。
  3. ^ 八郎潟北西岸に祀られている妻は三種町芦崎の姥御前神社の祭神、夫は八郎潟町の「夫殿の岩窟」(おとどののいわや)の祭神である。夫殿の岩窟は現在国道7号線からも見ることができる大きな岩穴で、大昔ここが海岸だった時代の波の穴と言われている。また、縄文時代には住居としても使われている。また、芦崎地区では夫婦別れの原因となった鶏を不吉なものとして忌み嫌い、他の地区に行っても卵も食べない人が多かったが、敗戦のショックからその風習も廃れていったという。芦崎の地名は八郎太郎の「足の先」から名付けられたとも言われる。八郎潟が作られた日時は大同2年二月二十四日とされ、鷹巣盆地の日時と矛盾するが、水神系の祭日が二月二十四日に多く、大同2年は天台宗の慈覚大師伝承や坂上田村麻呂伝承によく使われる年号で、「物事の起きた年」という意味合いであるとする人もいる。(「東北復興」2013年9月16日 第16号、2面)
  4. ^ 八郎太郎には、男鹿半島の一の目潟の女神に惚れ、一の目潟に棲もうとした伝説もある。しかし男鹿真山神社の神職で弓の名人であった、武内弥五郎に片目を射られ撤退したという(『辰子姫と八郎太郎 伝説の田沢湖』、1965年、p.20-22)。また、一ノ目潟の龍女に八郎太郎は通っていたが、龍女は我が家が八郎に奪われることを恐れ、北浦の社家紀真康に八郎を射殺して欲しいと頼んだ。真康の射た矢は投げ返され、彼の左目を潰した。そのためこの家の主人は以後7代まで片目で、また湖を舟で渡ることは禁忌であった。しかし、この時の約束でこの家から一ノ目潟に雨を請えば必ず験しがあったという。真康の家は紀丹後正と称し、代々真山の赤神神社の社家であった。(『絹篩』巻3、『秋田風土記』北浦村の条、『雨の神―信仰と伝説』p.242)という話もある
  5. ^ 後に八郎太郎が辰子と暮らすようになった時、噂を聞きつけた南祖坊が再び八郎太郎へ戦いを挑んだ際、辰子がクニマスを南祖坊へ投げつけ、松明に戻ったクニマスにより南祖坊が火傷を負い、撤退した話が伝わっている。また、八郎太郎が、田沢湖の辰子姫のもとへ通ったとき、湖に落としてしまった松明がクニマスになったという話もある。(『上小阿仁の民俗』、東洋大学民俗研究会、1979年、p.435)
  6. ^ 辰子と田沢湖に暮らす以前から、八郎潟が冬になると凍ってしまう事から凍る事の無い一の目潟の女神に一緒に住むことを申し込むがかなわず、渡り鳥から自分と同じく竜となってしまった辰子の存在を知り、辰子に求愛する民話もある(『秋田民話集』、1966年、p.23-25)。
  7. ^ 秋田県仙北市の潟尻集落の神明堂では、毎年夜を徹した宴会を開く。これは、八郎太郎が湖に飛び込む音を聞くと死ぬため、聞かないようにするためという(『羽後の伝説』、1976年、p.49-50)。

出典[編集]

  1. ^ 『秋田民俗』、1977年、p.25
  2. ^ 『修験の道 三国伝記の世界』、池上洵一、1999年、以文社、p.425-432
  3. ^ 高谷 1984, p. 174-175.
  4. ^ 高谷 1984, p. 184-185.
  5. ^ 高谷 1984, p. 185-187.
  6. ^ 高谷 1984, p. 218.
  7. ^ 高谷 1984, p. 202-208.
  8. ^ 岩手県立図書館
  9. ^ 盛岡市永福寺蔵、青森県市史 民俗編 「資料南部」、2001年、青森県史編さん民俗部会、p.767-780
  10. ^ 八戸市立図書館蔵、『雨の神 信仰と伝説』に収録
  11. ^ 岩手大学図書館旧宮崎文庫所蔵『十和田山本地由来記』の翻刻(一)
  12. ^ 岩手大学図書館旧宮崎文庫所蔵『十和田山本地由来記』の翻刻(二)
  13. ^ 慶應義塾図書館蔵
  14. ^ 『慶應義塾大学図書館蔵『十和田山本地』翻刻・解題』、須田学、『日本文学研究』2003-2005年 収録
  15. ^ 『盛岡短期大学研究報告』6の「十和田本地について」(伊藤博夫)で覆刻
  16. ^ a b c 『十和田雑纂』(大正14年 十和田保勝会)収録
  17. ^ 鹿角市立図書館複写蔵
  18. ^ 鹿角市立図書館複写蔵
  19. ^ 『第三期 新秋田叢書 第15巻』、新秋田叢書編集委員会編、歴史図書社、1972年、p.143-180
  20. ^ a b c 小舘 1976.
  21. ^ 八戸市立図書館複写蔵
  22. ^ 『十和田湖・八甲田山』資料編(1965年 東奥日報)付属
  23. ^ 『北方古傅』(東京大学資料編纂所蔵)収録
  24. ^ 十和田由来記
  25. ^ 『私訳 十和田由来記』、高瀬博、1981年
  26. ^ 『十和田湖町所蔵 古文書類解説編』で覆刻
  27. ^ 『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』とほぼ同文、十和田湖町所蔵
  28. ^ 十和田湖町所蔵
  29. ^ 『名川の郷土誌一』(昭和37年 名川公民館)で覆刻
  30. ^ 『十和田湖八甲田山』(東奥日報社 昭和49年)で覆刻
  31. ^ 『私訳 十和田山神教記』、高瀬博、1981年
  32. ^ 高谷 1984, p. 187-202.
  33. ^ 小舘 1976, p. 191-193.
  34. ^ 小舘 1976, p. 4-14.
  35. ^ 小舘 1976, p. 19-21.
  36. ^ 高谷 1984, p. 222.
  37. ^ 高谷 1984, p. 227-228.
  38. ^ 高谷 1984, p. 177-178.
  39. ^ 『新十和田物語 神秘の湖に憑かれた人びと』、鳥谷部陽之助、彩流社、1983年、p.14
  40. ^ 『十和田湖開発碑誌』、1970年、栗山小八郎、p.225
  41. ^ 「秋田民俗」第43号 秋田県民俗学会 十和田湖のトワダ信仰と伝説 -「三湖伝説」「三湖物語」論の限界と可能性-、村中健大、2017年、p.52
  42. ^ 菅江真澄『雄鹿の春風』(1810年)、『菅江真澄全集 第4巻』、内田武志 宮本常一、1973年、未來社、絵図(812) 解説には「鶏が泣けば犠牲にするのを止めて虚しく帰ってくるのが習わしである」と書いている
  43. ^ 高谷 1984, p. 232-233.
  44. ^ 高谷 1984, p. 233-235.
  45. ^ a b 『新秋田叢書 第3期』第15巻、新秋田叢書編集委員会、1979年、p.225-239
  46. ^ a b c タツ子伝説と三倉鼻由来考 『北方風土』第10号、1985年、p.55-61
  47. ^ 『三倉鼻名所記』、1868年(慶応4年)
  48. ^ 第三期 新秋田叢書 第12巻 収録、p.10-p.12(解題)、p.261-268(本文)、昭和51年
  49. ^ 『菅江真澄全集 第8巻』、内田武志 宮本常一、1979年、未來社、p.193 仙北郡22 玉池明神に同じような物語が語られていたことを記している
  50. ^ 『伊豆園茶話 7の巻』、石井忠行、新秋田叢書(8)、p.69
  51. ^ 『武藤鉄城研究』、稲雄次、無明舎出版、1993年、p.120-125
  52. ^ 天災と日本人』、158-159頁。
  53. ^ 「国指定文化財等データベース」秋田県胡桃館遺跡出土品 詳細解説
  54. ^ a b 天災と日本人』、159頁。
  55. ^ 天災と日本人』、159-160頁。
  56. ^ 『秋林・田口文書』収録、二ツ井町史編纂委員会、1997年、p.702-721

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]