南部利直

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南部 利直
Nanbu Toshinao01.jpg
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正4年3月15日1576年4月13日
死没 寛永9年8月18日1632年10月1日
別名 彦九郎(通称
戒名 南宗院殿月渓晴公大居士
墓所 岩手県盛岡市の東禅寺
官位 従四位下、信濃
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀頼徳川家康秀忠家光
陸奥盛岡藩
氏族 南部氏
父母 南部信直泉山出雲の娘[1]・慈照院
正室蒲生氏郷の娘・源秀院
側室:山田九郎左衛門の妹・法源院
松子(花輪氏・慈徳院)
楽女(岩、閑、家老石井直弥の妹・香林院)
中野嘉兵衛の娘・仙寿院
家直政直重直利康重信利長直房、七姫(最上義俊正室のち藩士中野元慶室)、娘(北直愛室)、娘(東胤政室)
養子松前利広

南部 利直(なんぶ としなお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名南部氏第27代(盛岡南部家2代)当主。陸奥盛岡藩の初代藩主

生涯[編集]

天正4年(1576年)、第26代当主・南部信直長男[1]として三戸の田子城にて生まれる。天正18年(1590年)、前田利家烏帽子親として元服し、その際に利家から「利」の一字を授与されて利正と名乗り、後に利直に改名する[2][3]文禄4年(1595年)に従五位下・信濃守に叙任[1]

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後は父とともに五大老筆頭の徳川家康に近づいた。慶長4年(1599年)、父が死去したため、家督を継いで南部家の第27代当主となった[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍の家康は東北・北陸の大名に対し西軍の石田三成に通じた会津上杉景勝の征伐を命じ、利直は最上義光の後援として山形に出陣するが(慶長出羽合戦)、領土拡大を密かに謀った伊達政宗和賀忠親を煽動して和賀郡稗貫郡で一揆を起こしたため、帰国を許されて慶長6年(1601年)までに一揆を鎮圧した[1]岩崎一揆)。

以降は盛岡藩政の整備に着手し、白根金山西道金山をはじめとする鉱山開発から財政を安定させた。折から領内の産金が著しいこともあり財政に恵まれて近世的支配体制が進展する[1]元和元年(1615年)には盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の市民も盛岡に移した[1]。また、九戸政実の乱先例から家臣の多くを処罰、追放して独裁集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった。

慶長19年(1614年)には大坂冬の陣にも参陣し、江戸幕府との関係強化に努めた。寛永3年(1626年)に従四位下になる[1]

寛永9年(1632年)8月18日、江戸桜田屋敷で死去[1]。享年57。跡を三男重直が継いだ。後に重直が男子なくして没したため、盛岡藩は五男重信七男直房八戸藩祖)の間で分割されることになる。

脚注[編集]

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)P590
  2. ^ 熊谷隆次「「南部利直の初期黒印状について」(『岩手史学研究』85号、2002年)
  3. ^ 熊谷隆次「南部信直と『取次』前田利家-伏見作事板の賦課をめぐって-」(『地方史研究』305号、2003年)

参考文献[編集]

  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)ISBN 4-404-01752-9
  • 熊谷隆次「「南部利直の初期黒印状について」(『岩手史学研究』85号、2002年)
  • 熊谷隆次「南部信直と『取次』前田利家-伏見作事板の賦課をめぐって-」(『地方史研究』305号、2003年)