七宝焼き

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花鳥文花瓶 並河靖之
安藤重兵衛率いる安藤七宝作。1910年ごろ

七宝焼き(しっぽうやき、英語: enamel)とは、金属工芸の一種で伝統工芸技法のひとつ。金属を素地にした焼物ともいえる。青銅などの金属素地に、釉薬(ゆうやく)を摂氏800度前後の高温で焼成することによって、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施す。日本語の七宝焼の名称の由来には、宝石を材料にして作られるためという説と、桃山時代前後に法華経の七宝ほどに美しい焼き物であるとしてつけられたという説がある。英語圏ではenamelと呼称されるが、有線七宝については「区切りをつける」という意味のフランス語由来のCloisonnéが用いられている。鉄に釉薬を施したものを日本国内では主に琺瑯(ほうろう)と呼び、中国では琺瑯(ほうろう/読み:ファーラン)という。

紀元前のエジプトを起源とされ中近東[1]で技法が生まれ、シルクロードを通って、中国に伝わり、さらに日本にも伝わったというのが通説である。日本においては明治時代の一時期に爆発的に技術が発展し欧米に盛んに輸出された。特に京都の並河靖之、東京の濤川惣助、尾張の七宝家らの作品が非常に高い評価を得て高額で取引されたが、社会情勢の変化により急速にその技術は失われた。ブローチペンダントなどの比較的小さな装身具から巨大なまで、さまざまな作品が作られる。大きなものには専用のが必要になるが、小さなものなら家庭用の電気炉や、電子レンジを用いたマイクロウェーブキルンでも作成できるため、現在では趣味として楽しむ人も多い。七宝焼きの釉薬は二酸化ケイ素を主成分とする鉱物資源から製作されたフリットを砂状、粉末状にしたものを使用することが多い。砂状、微粉末にした釉薬は、と糊(フノリなど)を合わせて、または、ペースト状にしたものを使うことが多い。

七宝の用途[編集]

工芸品[編集]

 香炉印籠

勲章[編集]

 菊花章桐花章旭日章瑞宝章文化勲章宝冠章

アクセサリー[編集]

 ブローチ、ペンダント、イヤリング、ネックレス、指輪、チョーカー、ループタイ、カフス、タイピン、帯留め、バッジ、、

室内装飾[編集]

 家具、取手、燭台、額、釘隠し、、

壁面装飾[編集]

 屋内/屋外壁材、タイル材、看板、表札、、

照明器具[編集]

 シャンデリア、スタンド、屋外照明、ペンダント照明、、  

その他[編集]

 時計、宗教器具(ロザリオ)、玉座、自動車装飾(カーエンブレム)、電子機器装飾(エンブレム、マウス)、、

日本の七宝[編集]

日本へは中近東からシルクロードを経てもたらされたと考えられている[2]。日本最古のものは奈良県明日香村の牽牛子塚古墳より出土した「七宝亀甲形座金具」であり、奈良時代には正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)、平安時代には平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶(かん)がある[3]。その後、室町時代になると多くの七宝に関する記録が残っており、桃山時代頃に七宝が日本各地で作られるようになったと推定される[4]

桃山末期から江戸時代初めには、小堀遠州により登用された嘉長桂離宮[5]曼殊院修学院離宮大徳寺の襖の引手や釘隠しを泥七宝で製作して京七宝を発展させた。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいたと伝えられている[6]。次に、京都の金工師、平田彦四朗道仁(どうにん)(1591-1646)が「花雲文七宝鐔」(つば)に代表される作品を残している[7]平田一派は江戸時代に幕府御抱え七宝師となり江戸で平田七宝として刀剣などの装飾を行った。平田派は1895(明治二十八)年に政府賞勲局の御用達として勲賞の製作に従事した11代目就之まで続いた。

江戸中期には京都で高槻七宝が7代続き、同じく京都の吉田屋がこの頃から明治時代まで七宝の製作を続けることになる[8]。また、加賀七宝近江七宝など京都以外でも独自の七宝が製作された。

幕末天保(1830-44)のころには尾張藩士の梶常吉(カジツネキチ)(1803-83)[9]が活躍、七宝焼と呼ばれる。梶はオランダ船が運んできた皿がすべて七宝であったことに興味を持ち、これを買い上げて研究し尾張七宝を創始、近代七宝の祖と称される[2][10]。そして、その弟子の塚本貝助(1828-97)や、無線七宝を考案し日本画の画面を七宝で再現した東京の濤川惣助(1847-1910)、有線七宝で日本画の筆致を生かした繊細な七宝を製作した京都の並河靖之(1845-1927)などが、明治初年来日したドイツ人学者のワグネル(1830-92)が開発した透明釉薬の技術を取り入れ七宝の技術は飛躍的に発展した[11]。そして、名古屋の安藤七宝の創始者である安藤重兵衛(1876-1953)や京都の錦雲軒稲葉の創始者である初代稲葉七穂(1851 - 1931)らにより盛況を呈した[12]

欧米で高い評価を受けた工芸品を外貨獲得の重要品とみなした明治政府は職人を支援し、万国博覧会などを通じて欧米へ盛んに輸出し、ジャポニズムブームの一翼を担った。職人も競って技を磨いたことから日本の七宝技術は劇的な進化を遂げ短期間で世界の最高峰となり、1880年から1910年の明治期日本の30年は七宝界の黄金期と呼ばれている[2][13]。その後、世界大戦勃発により需要がなくなり、この輸出産業は衰退していった[2]

西洋の七宝[編集]

擬クーフィー様式を施したリモージュ琺瑯のチボリウム, 1200年頃

西洋の七宝は紀元前から存在することが知られており、シャンルヴェの技法はケルト人の遺品に見られる。 その後、東ローマ帝国で洗練されたクロワゾネの技法が登場し、12世紀〜15世紀ごろまでにはフランスのリモージュパリなどの産地でロンドボス、バスタイユ、グリザイユといった様々な技法が見られるようになった。また、最高品質のシャンルヴェ製品がモサン地方英語版で生産された。


中国の七宝[編集]

明朝の七宝

中国大陸では、七宝のことを琺瑯と呼び、(1271〜1368年)の時代頃から盛んに製造されるようになり、中国渡来の品が日本にも入ってくるようになった。特に、続くの時代、景泰年間 (1450〜1457) に作られた掐糸琺瑯は評価が高く、現在でも中国の七宝を景泰藍と呼ぶ所以となっている。景泰藍は日本ではあまり例を見ない青銅を素地として用いていており、釉薬には日本の泥七宝に似た不透明な釉薬が用いられ、特に青(藍)の色が好まれた。また、青銅に施釉した釉薬が崩れ落ちないように細かな植線が全体にはり巡らされた。

清代(康煕・雍正・乾隆の三朝)においては、特に画琺瑯が発展したが、康熙時代にはヨーロッパの影響を強く受けた琺瑯器が製作されている。また、乾隆時代には各種技法が融合され、中国と西洋の装飾文様を合わせた琺瑯器も製作されている。


日本の七宝の技法[編集]

七宝の技法は釉薬や器胎の種類など材料の違いと、線付けの有無など製作方法の違いにより大別できる[14]

象嵌七宝[編集]

 胎を鋳造や彫るなどにより凹ませた部分に七宝を施す技法。凹面に直接釉薬を入れる方法と凹面と同じ形の胎に七宝を施しはめ込む方法などがある。江戸中期頃までの作品はこの手法を用いたものが多く見られる古来の技法。凹面の内部に有線を施すものもあるが、全く植線をせず金属の凹みに直接釉薬を入れたものに関しては西洋のシャンルヴェの技法に近い技法である。

有線七宝[編集]

菊紋楓枝文七宝瓶。安藤七宝の川出柴太郎による有線七宝

 リボン状の薄い金属線で模様をつける技法。象嵌七宝よりも細かい図柄を表現できるが、植線の手間のかかる手法である。日本では、古くは桂離宮松琴亭(1620〜1625に構築)の二の間戸袋の引手(銅製巻貝形を有線にして、不透明の白色や肌色釉を施したもの)に見られる技法である。有線七宝としては明治時代の並河靖之の作品の評価が高い。西洋のクロワゾネの技法の和訳と考えても差し支えないが、特に並河の作に見られる植線技術は西洋のクロワゾネと比べても卓越した技である。

無線七宝[編集]

双鳩図盆,濤川惣助の無線七宝

 七宝釉の間に金属線の仕切りをつけない技法。本格的な無線七宝は濤川惣助が考案したものである。無線七宝と言えば、よくこの「濤川惣助の作における無線七宝」を意味し、釉より低い高さの植線を行う『忍び針』、あるいは、焼く前に植線を抜き取る『抜き針』といった特殊な植線技法(有線七宝の一種と呼んでも差し支えない)なども駆使して、植線を見せない画を作り上げる技法の総称である。一方で、西洋のシャンルヴェやペイントエナメルのように、単に植線の無い七宝という意味では日本でも江戸時代にも見られ[15]、近年のフリット法(フリット釉を並べて焼き付けたもの)なども無線七宝の一種といえる。

金属胎七宝[編集]

 鉄、銅、銀、金などの金属を胎(土台となる素地のこと)として用いる通常の技法。

ガラス胎七宝[編集]

 ガラスを胎として用いる技法。金属胎を基本とする七宝の定義から外れた技法。大正時代名古屋の恒川愛三郎(1879〜1946)により発明されたが、当時は、わずかな試作品が作られただけであった。

陶磁胎七宝[編集]

 陶器・磁器の表面に有線七宝あるいは無線七宝を併用して釉薬を施したもの。明治前期に盛んであったが、製作後時を経るに従い表面に亀裂を生じる品があったり、銅胎七宝の発展に伴い、しだいに行われなくなった。磁胎七宝は、名古屋の吉田直重により発明されたと伝えられる。陶胎七宝は、京都の京焼清水焼の陶芸家らが手がけた。

透胎七宝[編集]

濤川惣助の銀製透胎七宝(1900, ウォルターズ美術館)

 胎の一部を切り透かしにして透明釉を施す、あるいは、銅胎の一部を切り透かしにして透明釉を施し、他の銅素地の部分には通常の七宝を施す技法。下地に彫金などを施すと、透けて、図案が浮き彫りされる。西洋のプリカジュールの技法の和名と考えて差し支えない。明治末期以降にはアールヌーヴォーなどの影響を受け、ルネ・ラリックに代表される宝飾作家が、当該技法を用いた宝飾品を製作した。日本の七宝家らも、この潮流に乗って透胎七宝や後述の省胎七宝を手がけており、ウォルターズ美術館には、濤川惣助の作といわれる銀製の透胎七宝が所蔵されている。

省胎七宝[編集]

安藤七宝店加藤耕三による省胎七宝

 銅胎に銀線で模様をつけ七宝釉を焼き付けた後、素地を酸で腐食させて表面の七宝部分だけを残す技法。フランスで十二世紀から十三世紀にかけて、よく使われた技法である。日本では明治後期にフランス製品を手本に、名古屋の安藤重兵衛川出柴太郎の協力のもとに完成させたという。日本では胎(素地)を溶かす技法を特に省胎七宝と呼び、透胎七宝と区別するが、このような技法の区別はヨーロッパやロシアではあまり見られない。

泥七宝[編集]

京都の泥七宝(1875-1880)

 泥七宝独特の釉薬(多くは不透明の釉薬)を用いて焼いた平安時代ないし桃山末期から見られる古来の技法。透明な釉薬は西洋では東ローマ時代から見られるが、東洋では不透明な釉薬を用いたものが多い。それら、ワグネルにより透明釉薬が発達する以前の七宝器や釉薬を、総じて泥七宝と呼ぶ。あるいは、日本では古来にも平田七宝のように透明感のある作もあるため、それらを区別して、単に泥七宝と呼ぶにふさわしい濁りのある釉薬を用いた作を泥七宝と呼ぶ場合もある。また、初期の尾張七宝の釉薬のことを泥七宝と呼ぶ場合や、京都では鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼んでおり[16]、その定義は定まっていない。

箔七宝[編集]

 銀箔金箔などの金属箔を使用した技法。銀箔や金箔の輝きを利用した技法である。表面に焼き付ける技法も含まれるが、主には、金属箔の上に釉薬を焼成した技法を指す。主素地(胎)と箔の間には一層の釉薬が焼き付けてあり、糊(のり)の役目も果たす。銀箔や金箔に描画的な表現を施さずそのまま焼き付け、その上に色釉薬で彩色することや、無色透明の釉薬を焼成し、その上に色釉薬などで描画や彩色を施す手法がある。銀箔を使用した技法を日本国内では銀張(銀貼)七宝と呼ばれることが多い。また、銀箔に凹凸をつけてから焼き付ける技法を銀張有線と呼ぶことがある。銀張有線は、有線七宝様な表現を銀箔に凹凸をつけることで可能にした技法として考案された。有線七宝と象嵌七宝を組み合わせた様な技法ともいえる。考案された当初は有線七宝様の作品を量産することも可能であったため多用された一面がある。現在となってはこの銀張有線技法も手間がかかることや、焼き付け時の温度に注意が必要なため、工房や作家も少なく伝統的技法のひとつである。

ジグソー七宝(糸鋸七宝)[編集]

 金属胎七宝のひとつとも見られるが、七宝の大作などを制作するために、基板となる金属板を糸鋸で数十から数百のパーツに切断し、裏表に七宝釉を焼成した後、表面の図案に合わせ、元の形に貼り合わせる技法。

西洋のエナメルの技法[編集]

以下では、主にヨーロッパのアンティーク・ジュエリーに見られるエナメルの技法について述べる。

ペイントエナメル (painted enamel)[編集]

ロンドボス・
エナメル

あらかじめ単色で焼き付けたエナメルを下地とし、その上に、筆を使ってさらにエナメル画を描き、焼き付ける技法。人物や植物を描いたミニアチュールが例として挙げられる。

ロンドボス (ronde bosse)[編集]

金などの立体像の表面全体に、エナメルを施す技法。ルネサンス期のジュエリーなどに多く例を見ることができる。

バスタイユ (basse taille)[編集]

バスタイユ
(ファベルジェ)

エナメルの半透性を生かし、土台の金属に刻まれた彫刻模様(ギヨシェ)を見せる技法。金属に施された彫刻が主眼となるので、使用されるエナメルは単色。ピーター・カール・ファベルジェの作品に、この技法を使用したものが多い。

シャンルヴェ (champlevé)[編集]

土台の金属を彫りこんで、できたくぼみをエナメルで埋めて装飾する技法。初期の頃は、輪郭線の部分をライン状に彫りこんでいた。技術の発達につれて、逆に、面になる部分を彫りこんでエナメルで装飾し、彫り残した金属部分を輪郭線とするようになった。

クロワゾネ (cloisonné)[編集]

クロワゾネ・
エナメル

土台となる金属の上に、さらに金属線を貼り付けて輪郭線を描き、できた枠内をエナメルで埋めて装飾する技法。シャンルヴェよりさらに細かい表現が可能になる。日本の有線七宝はここに属する。

プリカジュール (plique à jour)[編集]

薄い金属箔の上に、クロワゾネとほぼ同じ工程でエナメルを焼き付け、その後に薬品処理によって箔を取り除く技法。省胎七宝とも呼ばれる。金属枠のみによって支えられたエナメルは光を透過するので、ステンドグラスのような効果を得られる。アールヌーボー期のジュエリーに好んで使用された。美しいが非常に繊細で、衝撃に弱い。1997年の映画『タイタニック』に登場したヒロインの蝶のには、この技法が使用されていると思われる。

中国の琺瑯の技法[編集]

中国の琺瑯の技法は3つの技法に大別できる。

内填琺瑯[編集]

内填琺瑯(ないてんほうろう)は、シャンルヴェ、あるいは、象嵌七宝に相当する技法である。

掐糸琺瑯[編集]

掐糸琺瑯(こうしほうろう)は、クロワゾネ、あるいは、有線七宝に相当する技法である。

画琺瑯[編集]

画琺瑯(がほうろう)は、ペイントエナメル(描画七宝)に相当する技法である。

七宝にまつわる施設[編集]

七宝コレクション[編集]

日本の七宝の頂点とされる明治期の作品は輸出用に作られたため、名品のコレクションはほとんど海外にある。

七宝ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2006年6月に行われた早稲田大学の宇田教授らによるツタンカーメンの黄金の仮面の調査によれば、髭の部分の灰緑色の物質は長石や珪酸ナトリウムを主成分とする人工ガラスであり、七宝の釉薬に似た材料が用いられていたことが証明されている。(雑誌「金属」Vol.77 No.9〜12)
  2. ^ a b c d e f NHKBSプレミアム「極上美の饗宴」シリーズ世界が驚嘆したニッポン(2)「色彩の攻防七宝・飛躍の30年」2011年 11月 1日放送
  3. ^ 鳳凰堂の扉止め金具は、鳳凰堂の扉のある左右側面各一間、正面三間の下框に各二個ずつ、計十個が現存しており、その青緑色の物質がガラス質(七宝釉)であるかは、科学的な分析が必要である
  4. ^ 近世七宝で製作年を確認できている作例は、二条城二の丸御殿黒書院帳台構(ちょうだいがまえ)寛永三年(1626)など、江戸時代初期までしか遡れていない(『錺 − 建築装飾にみる金工技法4 金工芸術の精華』麓 和善)
  5. ^ 嘉長が引手を製作したと伝えられる松琴亭を含む茶屋、書院、庭園などの造営は、八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれ、八条宮家2代の智忠親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。
  6. ^ 京七宝 並河靖之作品集 淡交社, 七宝文化史 近藤出版社
  7. ^ 平田彦四朗道仁が朝鮮人から中国式七宝技術を学んだとするのが通説であるが、それ以前にも、豊臣秀吉が天正十五年(1587)築造した聚楽第に使用された釘隠しと伝えられる違例(夕顔文釘隠など)や、日本の金工師が堺の豪邸を七宝で飾る技量を持っていた記録が残っているなど日本で最初に七宝が作られた時期については定かでない(栗原信充『金工概略』,森 秀人『七宝文化史』近藤出版社)
  8. ^ 京都の三条大橋から三条白川橋一帯には20軒を越える七宝業者が軒を連ねていた。並河靖之もその中で七宝を学んだ(京七宝 並河靖之作品集 淡交社)
  9. ^ 1832年に七宝小盆を完成させた。
  10. ^ 梶常吉 カジツネキチデジタル大辞泉
  11. ^ 世界大百科事典12初版, 平凡社
  12. ^ 稲葉七穂「並河靖之氏に就て」
  13. ^ Japanese Cloisonné Victoria and Albert Museum
  14. ^ 「日本の七宝」マリア書房.
  15. ^ 五三桐形引手には象嵌七宝、有線七宝、無線七宝の三種の技法が見られる(日本の美術3 No.322 七宝、至文堂、1993)。
  16. ^ 雑誌「なごみ」1998年6月
  17. ^ 「驚きの明治工藝」展公式サイト

関連項目[編集]

外部リンク[編集]