京七宝

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花鳥文花瓶 並河靖之

京七宝(きょうしっぽう)


ここでは、古来の遺例の総称としての京七宝について記載する。

歴史[編集]

京七宝の製作過程

京都七宝(京七宝)が作られた痕跡は、桃山期から江戸時代初期以降に数多く見られるようになる。 たとえば、堀川油小路金工嘉長は、小堀遠州により登用されて桂離宮の引手などを手がけたといわれている[1]。遠州は、大徳寺龍光院密庵席(みったんせき)、孤篷庵の忘筌席などに見られる草庵書院を融合した茶室の様式を取り入れた。書院造りのもつ固さ厳しさを、低い天井や、釘隠七宝を使うなどしてやわらげた。また、戸袋の引手などにも七宝を取り入れ棚まわりを装飾した。この頃の七宝装飾として、桂離宮の新御殿の桂棚の引手や、狩野探幽が水墨画を描いた松琴亭の二の間戸袋を飾る巻貝形七宝引手などがよく知られている。 次に、秀吉家康お抱えの七宝師であった平田彦四朗道仁が、独特の透明感のある釉薬を用いて、武家や公家屋敷の釘隠、刀のなど身の回りの品の装飾を手がけている。 修学院離宮曼殊院門跡西本願寺などの七宝遺例もこの頃のものである。

京都で七宝器が使われた記録は、さらに室町時代以前まで遡る。幕府の唐物目ききであった能阿弥相阿弥等は七宝器を座敷飾りに推挙しており、東山殿御会所(銀閣寺の前身)の座敷飾などで七宝が使われた[2]。しかし、特に戦国時代侘びさびを尊んだ利休の茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に広く受け入れられるようになったのは、琳派の時代を迎えてからのことであった。

江戸中期に入ると基準作となるような七宝違例は極めて少なくなるが、角屋の「緞子の間」、「青貝の間」などの七宝装飾が今日も見ることができる。たとえば、上述の青貝の間には真鍮植線により、白、緑、青、黄、黒の釉薬を施した銅製花文入籠目形の七宝引手が岸駒(1756~1839)の描いたに取り付けられている。この頃には、象嵌七宝に加えて、江戸初期にはまだ少なかった有線七宝も次第に多くなり、多彩な七宝が作られるようになる。しかし、この頃の七宝器は、銘のない水滴香炉引手釘隠など、建物から容易に取り外し持ち出すことができるものが多く、製作年を確認できる違例はほとんど無くなっていく。

江戸期以前には、京都で七宝は『ビードロ座』『七寶流し』『七寶瑠璃』などと呼ばれていた[3]。 あるいは平田彦四朗道仁の一門の作は『平田七宝』と呼ばれており、五条坂の金工、高槻某の手がけた七宝は高槻七宝と呼ばれるなど、七宝師一門の名で呼ばれていたようである [4]


ワグネル博士顕彰碑、京都市左京区岡崎公園

明治に入ると、東京奠都や武士の時代の終焉により、武家屋敷などの装飾を手がけてきた古来の七宝家は大きな打撃を受ける。江戸時代から7代続いたといわれる高槻七宝文久~明治元年(1861年1868年)の頃途絶えたといわれる[5]。 一方で、国は外貨獲得の手段として工芸品の製造を奨励、七宝は輸出産業として尾張を中心に日本各地の生産地で急速に発展する。京都においては、新興の事業者のみならず伝統ある陶工や金工も独自の技法を考案し生産を手掛けた。そして、京都舎密局に招いたドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネルが透明釉薬を開発し、それまでの不透明の釉薬は泥七宝と呼ばれるようになる。ワグネルは、内国勧業博の全般を指導しており、1877年の第一回報告書の中で、 愛知の品と比べ京都府の品の質の悪さを指摘している。さらに、京都府以外の品についても、フランスの博覧会に出品すれば評判を落とすことになると厳しく評した[6]。 ワグネルは1877年から1年間、ドイツ領事の委託を受けて七宝の研究を行ったといわれている。そして、翌1878年2月3日から3年間、京都府(槙村正直府知事)に雇われ、京都舎密局で七宝を含む工芸の化学的な技術の指導や講義を行った。現在も左京区岡崎公園で見ることができる顕彰碑は、このときのワグネルの功績を称えたものである。こうして得られた、新たな透明釉薬の技術を用いた並河靖之の活躍により、国際的にも評価される傑作が生み出される。

並河は有線七宝による金属の線を意匠の一環とすることで七宝独自の趣を引き出し、また、独自に開発した黒色透明釉薬(通称「ナミカワの黒」)で背景を漆黒に染めることにより、草木や蝶などの画の鮮やかな色彩を際立たせた。図案の多くは、中原哲泉によるもので、鳳凰などの画には、哲泉と馴染みのある京都の公家文化が反映されている[7]。 哲泉は、京都舎密局で1年間七宝技術を学び、自らも並河家と白川を挟んだ西側に工房を構え京七宝を手がけた。 この頃、靖之が工房を構えた、三条大橋から三条白川橋一帯には、明治7年まで並河が七宝を製作していた錦雲軒をはじめ、並河の成功をモデルとした20軒を越える七宝業者が軒を連ねた[8]

明治から大正時代にかけて、数多く生産された七宝器は、そのほとんどが外貨獲得の手段として海外に輸出されており、日本に残っている品は僅かである。清水三年坂美術館が海外から並河の作品を含めた明治期の工芸品を買い戻しており、並河靖之七宝記念館と並んで日本国内でまとまった量の作品を見られる数少ない場所になっている。

様式[編集]

明治初期の京七宝

京都で生産された七宝は伝統生を特徴とし、花鳥や風景など伝統的な図柄を落ち着いた色彩で用い、鎚金などの技術の精巧さに優れていると評される(フランシス・ブリンクリー(1841-1912))。対照的に、伝統的な図柄の枠内に留まり進歩が遅いとの批判もある(納富介次郎(1844-1918))。

江戸時代初期の京七宝は、離宮寺院などの建造物の中で引手釘隠といった装飾に用いられた。小堀遠州が手がけた建築でも、よく七宝が使われており、茶道の美学に基づく空間設計の一環をなした。この頃の、代表的な七宝遺例に桂離宮の桂棚引手がある。桂棚は技巧を極めた複雑な構成の棚であるが、その評価は桂離宮自体の見方によって左右されてきた。かつては、釘隠や引手の意匠は一つ一つ凝ったもので、桂棚こそが桂離宮を代表する意匠だと考えられた。ところが、ブルーノ・タウト以降に広まった簡素な桂離宮という見方においては、桂棚は装飾過多であり、簡素な桂離宮の美しさとは調和しないと評される。その後、昭和の大修理の頃になると、再び桂離宮を彩る華やかな技巧が肯定的に認識されるようになった[9]中国の七宝器に見られるような不透明な釉薬が用いられる一方で、平田七宝のように西洋の七宝器に見られるような透明感のある鮮やかな色彩も見ることができる。また、建造物だけでなく、刀の印籠水注香炉猪口など、様々な身の回りの品が七宝で装飾された。

明治初期の京七宝には、全面に有線が施されたものが見られる。特に渦巻状の文様や、唐草模様菱形文様アラベスク文様、円模様などがよく用いられており、初期の並河や芝田の作にも見られる。これは釉薬が剥がれ落ちるのを防ぐために、全面に有線を施した中国製七宝の影響を強く受けたものと考えられている。 また、明治末期から大正時代には、錦雲軒稲葉が花瓶シガレットケースコーヒーポットなど様々な七宝器を製造しているが、これらにも部分的に渦巻状の文様が見られる。

明治中期~末期には、並河靖之の技量が突出し、京七宝のみならず日本の七宝を代表するものとなる。靖之の作品は、オックスフォード大学オリバー・インピー博士とマルコム・フェアリー氏による論文の中で、大きく4期に分類されている。靖之の初期の品は他の初期の京七宝同様、渦巻きなどの文様が全面に施され、主に不透明な釉薬が用いられた。ただし、靖之の品は他の職人の品と比べれば植線が少なく渦巻きなどの文様の間がより離れている。明治10年前後には作風が大きく変化し、京都舎密局でのゴットフリート・ワグネルとの出会いが靖之に影響を与えたことは疑う余地がない[10]。 また、並河自身の創意工夫も記録に残っており、並河は明治9年に茶金石を入れる手法を考案している。 第二期の壺では、花鳥などの古風なモチーフが手の込んだ巻軸模様で囲まれており、上下にも同様の複雑な縁取りが施されるようになる。このような作風は明治28年の第四回内国博覧会頃まで見られる。その第四回内国博覧会で一等を与えられた作品は、靖之の第三期の作品の最初の1つである。伝統的な題材から絵画的な意匠への脱出、そして欠陥のない完璧な黒色釉の背景が讃えられた。第三期の作風は明治28年から明治36年頃まで続き、この間に絵画的な図案を取り囲む巻軸模様は排除され、以降はほとんど施されなくなる。これにより、図案はより絵画的になり、全体の主な部分を占めるようになる。また、植線はより繊細になり、しかも重要性を増して、装飾の必要要素としてだけでなく、装飾の一部として使われるまでに到る。明治36年の第五回内国博覧会頃には靖之は七宝界の頂点に立つ名人として、思うままに製作することが可能となり、最後の作風が始まる。明治36年以降の作品は、植線をのように表現して、七宝というより水墨画のような意匠を用いている。

一方で、京都では明治時代に入ってからも古来の不透明な釉薬(泥七宝[11])を用いた江戸風の七宝も作られた。伝統的に茶道具や仏具の素地を製作してきた金工技術との関係も深い。明治20年代から各種博覧会に七宝製品の出品者として名前が登場する吉田安兵衛は、慶応元年(1865年)創業の京都の金工であり、その作品は鋳造銅器の文様の窪みに釉薬をほどこした象嵌七宝であった。また、第四回内国博覧会で京都の七宝家としては最高の有効三等賞を受賞した片岡榮助は、素地の製作が特に優れており、かつては鎚金を本職としていた。片岡は1891年の創業であったが、第五回内国博にも出品し褒状を受賞している。京都には片岡のような鎚工が多く存在しており、その活躍は、京七宝製品を特徴付ける複雑な素地や高度な植線技法をもたらした。

隣接分野[編集]

錦光山の粟田焼陶器(1870-1920)

京都では七宝の隣接分野である鋳金鎚金彫金象嵌陶器などが盛んであり、これら隣接領域と職人や技術の交換が行われることにより、京七宝の基盤が築かれた。 伝統的には、素地となる金属胎の加工において、鋳金のような金工の技の一環で七宝器が作られたが、明治期には非金属の陶器とも密接な関係を示しており、京都の七宝産業の中心となった地域、堀池町、今小路町、土井之内町、分木町、西海子町、大井手町など、白川橋から東大路通に挟まれた三条通の南北に広がる地域は、その東に広がる、清水焼と並ぶ京都の二大陶器である粟田焼(京焼)生産地と隣接した地域であった。 粟田の陶業者の多くが陶胎七宝と呼ばれる陶器を胎に用いた七宝に取り組んでおり、後に錦雲軒を並河らにゆずる錦雲軒尾崎久兵衛も陶業者の一人である。他にも、六代錦光山宗兵衛(1822-1884)、十四代安田源七、北村長兵衛らが陶胎七宝を手がけている。粟田での隆盛に乗じて清水の陶工も生産に乗り出しているが、やがてワグネルの改良釉薬による銅胎七宝の生産が増加するに従い、陶胎七宝は生産されなくなった[12]

京都の七宝遺例所在地[編集]

関連重要文化財[編集]

  • 花雲形文鍔 (伝平田道仁作 桃山時代)
  • 孤篷庵 忘筌席 (四ツ唐釻形釘隠 江戸時代)

関連国宝[編集]

  • 竜光院 密庵席 (唐花唐草形釘隠他 江戸時代)
  • 西本願寺 黒書院及び伝廊 (桔梗形釘隠他 江戸時代)

関連施設[編集]


作例[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 鈴木則夫, 榊原悟, 『日本の七宝』マリア書房
  • 森 秀人, 『七宝文化史』 近藤出版社
  • 吉田光邦, 中原 顕二, 『中原哲泉 京七宝文様集』淡交社
  • 村田理如, 『京七宝 並河靖之作品集』 淡交社
  • 畑智子, 『京都文化博物館研究紀要 朱雀 第21集「研究ノート 並河靖之と近代七宝研究の現在」』 京都文化財団
  • 稲賀繁美編, 『伝統工藝再考 京のうちそと』恩文閣出版
  • ハーバート・G・ポンティング, 長岡祥三訳 『英国人写真家のみた明治日本 この世の楽園・日本』 講談社
  • ナセル・D・ハリリ, 『ナセル・D・ハリリ・コレクション 海を渡った日本の美術 第3巻 七宝篇』 同朋舎出版

脚注[編集]

  1. ^ 京七宝 並河靖之作品集 淡交社, p.136
  2. ^ 『君台観左右帳記』、『御飾書』より
  3. ^ 京都金属工芸協同組合公式サイトより
  4. ^ 京七宝の呼び名は、中原哲泉の画集などに見られ、明治時代以降に定着したと推測される。哲泉の下画や並河靖之の七宝の銘に「大日本京都並河造」、「京都並河」、「京都七宝」など、京都の地名が見られるようになる。おそらく、七宝の生産地が京都から武州加賀近江、と増えていく中で、各地域で自然に地域名が使われるようになったものと推測される。なお、並河靖之七宝記念館による学術研究などの中においては、並河を中心とした明治期の七宝を「京都七宝」としている。
  5. ^ 「工芸品意匠の沿革」京都七宝の概要, 明治33年
  6. ^ 『中原哲泉 京七宝文様集』淡交社, p.13
  7. ^ 後には荒木寛畝による下画も見られる。
  8. ^ 京七宝 並河靖之作品集 淡交社, p.140
  9. ^ 井上章一『つくられた桂離宮神話』 弘文堂
  10. ^ ナセル・D・ハリリ, 『ナセル・D・ハリリ・コレクション 海を渡った日本の美術 第1巻 論文篇』 同朋舎出版, アヴィタービレ論文「ゴットフリート・ワグネル」
  11. ^ 平田派など、日本では古来から透明感のある七宝器も作られていたため、ワグネル以前の七宝を全て泥七宝と呼ぶことには異論も見られる。
  12. ^ 陶胎七宝は、尾張で製造された磁器を胎とした七宝器とともに陶磁胎七宝とも呼ばれている

外部リンク[編集]